通信「全交運文化」34号  1985年9月1日

    

命令と服従

 
 
 ただ単に、いま国鉄ではこんなにひどいことが行なわれています。と微に入り細を穿って訴えたとしてもどうにもならない。これは国鉄労働者だけの問題ではない、だから彼らを支援しようと言ってもらっても、問題の解決にはならない。むしろ、その文体の中で前提とされている共同性=たとえば「階級意識」などといわれたものが、自明として存在しているという考え方自体を疑ってしまった方がいいのだ。すなわち、「政府、自民党」あるいは「当局」と対峙している「我々労働者階級」とでもいうようなイメージをとりあえずすてたほうがいいのだ。
 たとえ現象面の強弱はあれ、国鉄の労働者も任意の会社の労働者も同質の「労・使」という関係の中にあるはずである。彼らや私たちをつらぬく本質的な共時性、すなわち目前の状況、を解体していくことによって、主体性としての「我々」を組成していくという方向こそがどうしても必要なのだ。それには、それぞれの「事件」の宣伝ではなく、その「事件」の普遍性をこそ抽出する作業につかなくてはならないだろう。 三月のダイヤ改正で導入された運転士の超勤前提勤務で全国的にかなりの過員が生れたが、東京の電車区、機関区では過員から何人かを特定のグループとして勤務形態を変え、乗務を一切させずペンキぬりや草むしりをさせ、あるいは一室にすしづめにしておくということが行なわれている。そのことによって月に五、六万円の手当の減収となる。当局はなぜその人を過員グループに指定したかについては、「勤務成績等による」と言うのみで、指定された本人が聞いても明らかにせず、当初の循環制という説明も自らふみにじり国労組合員だけを二ヵ月、三ヵ月と連続して指定している。彼らの示したいことは「我々に逆らうと減収になるぞ、言うことをきけ」ということと、組合差別による内部分裂の助長である。
 各分会は、区長への、家族を含めた抗議ハガキや全員が点呼時に「不当差別反対」を一言言う運動、政党や地域の組合へ働きかけ抗議集会などをとりくんだ。本部役員のオルグや全国からの檄も続々届いた。一人千円、二千円といった自然発生的なカンパ行動が取組まれている職場もある。
 自分が指定され減収になるのではないか、国労にいると差別されるのではないか、と個人個人にどんどんちぢこまっていく弱さを、差別自体を許さない怒りに転化しなくてはならない。やらなくてはならないことがまだいっぱいある。
 朝の呼名点呼を、○○さん、と呼ぶことを条件に昨年から行なってきた職場も含め、すべての職場で名前の呼びつけや、職名で、あるいは○○職員と呼ぶと一方的に変更し、返事を「ハイ」としない者については、「厳正な措置をとる」という警告書を配っている。出勤印を押し、目の前にその人がおりそれでもなおかつ、局の課長までがやってきて、返事をしなさい、返事をしないんですね、とまるで「ハイ」を言わせる調教のごとき状況は、別にSFの世界でなく、今、日本で行なわれていることである。まるっきり鉄道輸送の将来について当事者能力もなく、また責任をもとうともしない連中が、わずかに彼らに残された権限、職員の「管理」ということだけにいびつに熱中している。スターリン体制をささえたのは、日本の絶対天皇制をささえたのは、中堅の幹部だということを思い起せばいい。朝の体操はラジオ体操ではだめで、「国鉄体操」でなければならない。ワッペンをつけているのは、仕事が完全になされているかどうかに関係なく、組合活動に意識が行っているはずだから職務専念義務違反だ。どれもこれも、彼らの意志に従えということ、その内容ではなく、とにかく従うという形式を求めているのだ。しかし、これが「労・使」という関係の、対等云々という虚飾を取り去った真相なのであり、市民社会、自由や平等、民主主義の極限的姿なのだ。
 「従え」に対して「従わない」を対応させる限り、この権力が生れる一対の極性をもった空間を解体することはできない。
 しかし、こう考えることできる。もしワッペンをつけることが職務専念義務違反(すなわち当局の言うことをきいていない)だとしても、列車はきちんと動いている。ということは、当局のいうことをきくということと、列車の運行とは全く関係がないことになる。実際、ワッペン=職務専念義務違反の判決を出した裁判官がそれ以来、職務に専念していない国鉄は危ないから乗らなくなったとは聞いていない。このことは、管理者という者、正確にいえば、「労・使」という本質的には命令と服従の関係、を廃絶し、しかも仕事がきちんと行なわれている世界というのが構想できるということも意味している。すなわち。「労・使」というひとつの閉じた権力空間を解体していくには、「命令と服従」の空間に外部の概念を接触させることがひとつの方向である。(もうひとつは「権力」という空間の内在的解析であり、自己意識という形式そのものを問うという方向だ。)
 当局のいうことをきくきかないという問題設定をとりあえず離れ、たとえば、公共交通のあり方について論議することは、彼らの、「当局のいうことをきけ」という言説をゆらめかせる。なぜなら、彼らの言説には意志はあっても内容がないからである。彼らの存在自体、労使関係自体が、「仕事」にとっては余剰だからである。
 赤字、黒字という極性をもった空間=うちの会社が競争に負けてしまう、などという思考に対しても、仕事というのは人々の必要によって発生している、あるいは生産物の安全性などといった「外部」を導入することによって、その空間、思考を陳腐化し、それらを人間の意識の歴史的な一段階として封絶することができるだろう。
 直接的な力関係のかけ引き、と信じられているもの、政権をめぐるものまで含めて、ではなく、自分たちをみつめる思想だけが問題なのだ。
 
  
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