■RT−003■
錦江湾・太平洋 鹿児島→沖永良部島航路・沖永良部→与論島航路・与論島→過去島航路  大揺れ
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写真 関係写真がありませんので同じ写真ばかりですが・・・関西汽船別府航路開設90周年(2000.5.28)記念に作成された往時のくれない丸>のイラスト

1969年 春 十円玉を投げた、表がでた。南へ行こう!
●航海 錦江湾・太平洋
@往路 鹿児→沖永良部 照国郵船<高千穂丸>特等船室 夜行便
A往路 沖永良部→与論 船会社不詳<船名不詳>二等船室 夜行便
B復路 与論→鹿児島 照国郵船<高千穂丸>特等船室 夜行便
●付録
C途次 与論島百合ヶ浜巡りヒッチハイク?の小船

●旅程 臼杵二泊+鹿児島一泊+船中一泊+沖永良部一泊+船中半白民宿半白+与論二泊+船中二泊+臼杵?泊 12?or13?泊日
第一日目 京都→臼杵
第二日目 臼杵
第三日目 臼杵→鹿児島 城島観光ホテル
第四日目 鹿児島→ <高千穂丸>で
第五日目 →沖永良部 沖永良部島滞在
第六日目 沖永良部→ <船名不詳>の船で真夜中出港
第七日目 →与論 真夜中与論島到着 民宿半泊後予定していた旅館へ
第八日目 与論 与論島滞在 百合ヶ浜
第九日目 与論→ <高千穂丸>で
第十日目 → 終日太平洋航行
第十一日目→鹿児島→臼杵
第○日目 臼杵→京都

 

 ひとまず大分へ。そこから定まらない行き先を決めるために十円玉を投げて行く先を決めることにした。表が出れば日本の最南端、裏が出れば最北端。舞い上がった十円玉は地面に落ちて「10」の字が大きく記された表が出て最南端と決定。当時はまだ沖縄が変化されて居らずパスポート無しで行ける最南端の地は沖縄が遠望できる与論島であった。
 こうして決定した与論島を目指しての旅行は、まずは日豊線で西鹿児島へ向かう。とにかくホテルの予約も交通機関の予約ももちろん何もしていないからひとまず鹿児島に一泊するつもりで夕方までには西鹿児島に着くように特急列車に乗った。そして西鹿児島に到着後、電話でホテル探し、城山観光ホテル?とかを予約。その夜はとにかく落ちついた。翌日、船で行こうと言うことになり船便探し。昼前にホテルをチェックアウトしてとにかくタクシーに乗り港へ向かうことになった。
 車中で運転手氏に
「与論まで行きたいのだが何処かご存じの船会社はないか?」
 と尋ねると二つ返事で
「それなら照国郵船がいいのでは・・・。」
 で、急遽港へ行く予定を変更して照国郵船へ向かった。何だか古めかしいビルの前でタクシーは止まり
「ここがいいでしょう。照国郵船の本社ですよ。」
 と運転手氏の言葉にちょっと不安を抱きながらもそこで降りてビルの中へ入った。
 人気のない事務所らしいドアを開き声を掛けると中年の男性が現れ応接間へ通される。事情を話して与論まで行きたいと言えば非常に親切に何かと教えてくれる。聞くところによれば今夕に乗れば奄美群島の島々を経由して与論島まで行く便があるという。「少し船は小さいが特等室もありますよ。」との言葉に頷きながらあれこれ相談して今夕の船に乗り翌日沖永良部に一泊、次の日に与論へ渡り与論に三泊、そして鹿児島へ引き返すという日程を決めると係りの男性はご親切にも沖永良部と与論の宿までも手配してくれた。特等乗船券の料金は幾らだったか記憶にないが驚くほどの金額ではなかったことは確かである。宿については単に親切で電話までして予約を入れてくれただけで料金は確か沖永良部が国民宿舎で一泊1,000円前後、与論が島内では最高級?の旅館で一泊1,500円、何れも二食付きとのことであった。安さに驚いた記憶がある・・・。
 とにかく旅程が組めて一安心、その船<高千穂丸>の出港時刻までにはまだ三時間余りもあったので繁華街を散策して薩摩の趣を漂わせた郷土料理の店でゆっくりと早めの夕食で腹ごしらえをしてから港へ向かった。

●往路 鹿児島→沖永良部
 夕方、確か五時前頃だったように思う。なま暖かい風がそよぎどんよりと雲が低く垂れ込めていて雲行きが怪しい。今更天候を心配してもしようがない。早めの夕食を済ませて港へ辿り着くと乗船予定の高千穂丸は岸壁に停泊していた。1,000トン程度の船でも間近では結構大きく見えるもので外海の様子など知る由もない小生としては期待に満ちて乗船時刻を待っていた。程なく乗船案内があって船上の人となる。百人余りが乗船したのであろうか混雑している様子はなく多くの人たちは甲板の下の二等船室へ。小生は特等室へ案内される。潜るような感じのドアを開いて中へはいると右手に二段ベッドが備えられ丸窓がひとつ海に向かって空いている。窓の下に小さなテーブルと椅子の三点セットが頑丈に固定されている。夕食は必要なときに言えば部屋まで運んでくれると言う。特等室とはいうもののトイレも風呂もない。まぁそれにしてもこの船では最上級の船室だなと妙に納得して落ちつくと早速甲板へ繰り出してみたくなった。ちょっと小雨のような気配。鹿児島湾は静かな海面に感じられた。小雨の中で甲板に居るのは小生の他には居ない。程なく汽笛を響かせた我が高千穂丸は堂々とゆっくりと岸壁を離れた。これなら大丈夫だなと勝手に納得して船室へ戻る。鹿児島湾を順調に航海する高千穂丸の特等船室でベッドに横たわること暫し・・・。ちょっと雨足が強くなってきたような感じで丸窓の外に水滴が走る。
 間もなく鹿児島湾を抜けるのだろうか・・・。船が少し揺れだしてきた。再び甲板へ出てみようと船室をでる。その前に二等船室を興味半分に覗いてみると乗船客はみんな横になって毛布を被っている。眠っているようでもあった。甲板へ出ると誰もいない。横殴りの雨が吹き付けてきて波が大きく揺れている。いや波に船が大きく揺れている・・・すわ大変だ。時既に遅しとはこのようなときのことを言うのであろう。大きく揺れる船の中をあちこち捕まりながらようやく船室に戻る頃には既に鹿児島湾を抜け出て居たようであった。
 二等船室の乗船客たちが既に毛布にくるまっていた謎が解けた。小生も急いでベッドに潜り込む。丸窓の外は吹き付ける雨を通してどんよりとした空が見えると次の瞬間には大波がうねる海面が一面に見える。つまり船は大きく左右に木の葉のようにローリングと前後へもピッチングを繰り返しながら進んでいた。
 その後の記憶は定かでない。ベッド脇に置いた荷物が音を立てながらベッドに当たったかと思えば転がって窓際の側壁にぶつかり他のゴミ箱か何かも同様に室内で大暴れ。小生はとにかくベッドから落ちないように竦むのがやっとの事であった。食事が必要なら運びますとのことであったが最早食事どころではない。暫くすると意識が朦朧として為す術もなく何時しか眠りについていたようであった。とにかく揺れに揺れていた。そして次に気付いたときには二十時間以上もの時が過ぎていて沖永良部島の和泊港に付いていた。どうして下船したのかも定かでない。体中がゆらゆらと揺れたまま国民宿舎へ辿り着くまでの道のりの様子すら記憶にない。それほどに体中が揺れていた。宿の部屋に通されてほっとして座敷に座っていてもまだまだ大揺れに揺れていた記憶だけが蘇る。その夜、食事をしたのだろうか、風呂に入ったのだろうか・・・。定かでない。とにかく揺れていた。(^^)
 ようやく落ち着きを取り戻したのは翌日の朝、朝食で起こされたときのことであった。お定まりの宿の朝食が無性に美味くてご飯をお代わりしながらもまだ揺れているような感じの中で南海の島の朝を迎えていた。身体はまだ揺れたままの感触を否めないままにちょっと宿の外をひとまわりしたものの再び部屋へ戻り横たわる。昼過ぎにはまた港へ行って与論へ向かう船に乗らなければならない。
 昼食をしたのかどうかも定かでない。ただ船は大幅に遅れていて夜にならなければ来ないと言う。それまで居てもいいと宿の人も親切なもの。超過料金などは要らないらしい。おおような物である。のどかそのもの・・・。夕方になって船は8時頃に入港するとのことを宿の人が教えてくれた。夕食を宿で済ませ港へ向かう。まだ雨模様。波も高い。

●沖永良部から乗船する本船への艀
 桟橋に向かうと人々が集まっていた。同じ船に乗る人たちらしい、百人ぐらいが居た。真っ暗闇の桟橋に艀が浮かんでいる。乗船する船は大型船で海も荒れているので接岸できないから艀で沖に停泊している本船まで運ぶという。揺れに揺れる艀に乗せられうずくまること暫し、波が船腹にぶち当たる旅にビシャッと水飛沫が降り注ぎみんなから中びっしょり正に恐怖という言葉はこんな時のためにある言葉ではないかと思える光景。やがて艀は本船に横付けされた。大揺れに揺れる艀から見上げる巨大な船体。ああ、これで乗れると安心するのもつかの間、今度は大揺れに揺れる艀から本船に飛び乗れと言う。2mくらいはゆうに上下している。大きく上に持ち上がったところで本船から船員が手をさしのべているのでその手にすがって飛び乗るというのである。まさか・・・。しかしそれは真実であった。そうしなければ本船には乗り移れない。この凄まじい状況から逃れたい思いと恐怖感を交錯させながらとにかく必死で飛び移った。本船は<高千穂丸>とは比較にならないほどに大きかった。艀がまるで木の葉のように舞い散っていたのが嘘のように乗り移った本船は大きくゆっくりと揺れていた。濡れきった着衣を乾かすような余裕もなくタオルで拭き取るのがやっとでそのまま二等船室の大部屋へ。確か午後八時頃であったと思う。

●往路 沖永良部→与論
 夜八時頃の乗船で真夜中十二時前には与論へ到着する予定であった。とにかく濡れた身体を温めるかのように毛布にくるまっているうちに眠りについていた。幾時間が過ぎたのだろうか、目覚めてみると船は動いている様子がない。与論に着いたのだろうか・・・。それにしては何の案内もなかったはず。状況を知る由もなく、通りかかった船員に尋ねてみる。
 「今、ここは何処でしょうか? 与論に着いたのですか?」
 「まだ沖永良部だよ。これから牛を百頭積んでそれから出港する・・・。」
 「・・・。」
 ・・・絶句。時計を見ると午前0時過ぎ、乗船してから四時間を経過していた。まだ出港していない。与論までは一時間余りで着くはずなのに・・・。それから2時間近く経ってからようやく和泊を出港した本船は一時間余りで与論の茶花港に接岸した。暗闇の岸壁に出迎えの人が集まっていた。連絡バスも待ちかまえていた。ようやく目的地与論へ到着した安堵感に揺れる身体も少々元気さを帯びてきて意気揚々? とタラップを降りる。

●与論の第一夜の宿
 出迎えの人たちは旅館や民宿の人たちのようでそれぞれのお客さまを呼んでいる。小生の旅館は島一番の旅館のはずである。当然に出迎えに来ているだろうと呼ばれるのを待つが一向にその気配がない。下船客たちはみな次々と呼ばれて出迎えの人を囲んでいる。そしてバスに乗り込む。そしてやがてみんながバスに乗る。小生にお呼びはない、不安が過ぎる・・・。
 「お客さん、何処にお泊まりの予定ですか?」
 「ええ○○旅館ですけど・・・。」
 「ああ、あそこは今夜は駄目ですよ。お葬式でね・・・。とにかくうちへ来なさい。」
 何だかわけがわからないままにそのおじさんに着いて行く他はない。バスに乗り込み町中の停車場でみんな降ろされた。おじさんに着いておじさんの民宿へ行く。もうすぐ夜が明ける頃だ。とにかく案内されるままに辿り着いた民宿は平屋建てのまるでバラック。通された部屋は六畳くらいの和室。一方が押入で一方が隣の部屋に面した襖戸、他の二方は中程に透明ガラスの填った廊下に面した引き戸。寝具は押入から出して使えと言うことなので押入を明けると薄いウレタンマットと夏掛布団。それに汚れた枕。敷き布団はと尋ねるとマットだけだという・・・。じっとりと湿気ている。凄い宿に来たものだと後悔するものの今更どうすることもできずとにかく疲れに疲れてもいて意識が朦朧としているので仕方なくマットに横たわり寝込んでしまった。一寝入りして朝食に起こされた。小魚の干物を焼いたものと薄いみそ汁に漬け物の朝食。とにかく平らげておじさんに丁重にお礼を言って予約した旅館の場所を教えて貰いとにかく行ってみることにして駄目ならまた戻りますと宿賃を精算した。なんと500円、三十年余り前のこととは言え500円は安い。でも凄い宿だった。
 教えられた予約していた宿は岬の先端の眺めのいい場所にあった。こちらは一応旅館と言うことで一泊二食付きで1,500円島一番の高級旅館?(^^) 幸いにも今夜からは泊まれると宿の主人は昨夜のことを詫び迎え入れてくれた。一安心。

●付録 与論島百合ヶ浜巡りヒッチハイク?の小船
 白い砂 澄み切った空 蒼い海 透き通る水 心清らか
 島内一巡のバスに乗り唯一? の景勝地百合ヶ浜へと生い茂る野草の間の道を抜けるとそこには白い砂の浜辺、澄み切った空、蒼い海が広がっていた。浜辺に細長い小舟が一艘、日焼けした老人が傍らにいた・・・。
 「こんにちわ。」
 「何処から来た・・・?」と問われたと思う。島の言葉はさっぱり分からない。まるで外国語だ。
 「・・・。」
 「あの浜が百合ヶ浜だ。この船で案内してやろう・・・。」
 とっさの言葉に返す言葉もなく頷く。
 老人は半ば砂浜に引き上げていた船を海へ押せと言う。必死で押すと船は波打ち際に滑り出して浮かんだ。この老人ひとりでどうして引き上げたのだろうと驚き。老人は浮かんだ船に小生を乗せると船尾の船外機を降ろしエンジンを掛ける。軽快なエンジンオンが響き小舟は動きだし沖に浮かぶ百合ヶ浜を目指す。程なく岸辺に着く。澄み切った海は覗くと全く深さを感じさせない。直ぐそこにテーブル珊瑚が綺麗に幾層にも棚を作っている。間を原色の色鮮やかな小魚が行き交い紫ウニが一面を占拠している。微笑む老人・・・。
 小生は船際から足を海に降ろした・・・。次の瞬間
 「ああっ・・・。」
 小生はどっぽりと海に落ちていた。(^^) 直ぐそこに海底が見えていたのに何と背丈を遙かに超えた深さ・・・老人は船上から見下ろして微笑むのみ。これが百合ヶ浜へ上陸の瞬間であった。一頻りこの世とは思えない絶景に浸りながら珊瑚礁と暫し戯れる。当時は与論島へなど行く人は殆どなく精々激しかった学生運動に疲れた活動家たちが潜伏している程度であった。
 非日常の別世界を独り占めして後、小舟で浜へ戻る。老人は今度は自分の家を案内してくれるという。琉球絣を織っているので見ろと・・・。余りの好意に甘えても言い物だろうかと悩みながら小生は500円札を取り出して老人に差し出す。恥ずかしそうにはにかみながらもそれを受け取ってくれた老人は熱帯樹の茂る道を案内して我が家へと誘ってくれた。
 椰子やパパイヤ、バナナ、ソテツなどが周りに生い茂る住まいはシュロ葺きだったのだろうか。珊瑚礁を積み上げた上に帽子のように屋根が被せられていた。二・三棟あったように思う。その中のひとつに招き入れてくれた。薄暗い室内には織機が置かれ琉球絣が半ば織り上げられていた。傍らに焼酎の一升瓶。
 「大変ですねこの織物・・・。」
 「いやいや焼酎飲みながら気が向いたときにやるから・・・。」
 「へぇ、そうなんですか。でも織り賃は高いのでしょうね?」
 そんなげすな質問をついついしてしまっても老人は動じる様子もなく
 「な〜に。焼酎二〜三本飲む間には織り上がる。だから織り賃は焼酎代だよ・・・。」
 と屈託はない。伝統美の世界を今に蘇らせる手仕事がこんなところで新発見というか認識というか正に驚きの極みだった。最南端の地での出会いに心温まるひとときに別れを告げたときは既に陽は西の空を染めていた。

●復路 与論→鹿児島
 与論からの帰路も再び高千穂丸。茶花港から乗船したのは確か夕方であったように記憶している。まだ海は少し荒れ模様のようであった。船室は特等? 記憶が定かでないが特別一等室だったのかも知れない。往路と同じ船室である。
 船中二泊の船旅であったはず。記憶が定かでないのだが、とにかく殆どベッドに潜り込んでいたような気がする。丸い船窓から外の様子を垣間見ることは度々なのだが何時も空が見えたかと思えば次の瞬間海面だけが視野に入るそんな大揺れで悩まされていた。朦朧として鹿児島港に辿り着き上陸したときには大きく地球が揺れ続けていた。
 確か食事はサービスであったはずだが・・・。まともに食事をした憶えがない。

●鹿児島上陸後
 鹿児島に降り立ち暫くして、はっと気づくと無性に空腹感を覚える。それもそはず・・・。船中数十時間、何も口にした憶えがなかった。内を食ったかは覚えていない、が、確かに港を後にして直ぐにどこかの食堂へ駆け込んだよう思う。思い切り食った、食った。そんな、記憶は間違いなくある。何を食ったのかは思い出せもしないのだが確かに食った。
 そして、西鹿児島駅から日豊本線に乗り帰途についた。車中でも確か駅弁を頬張っていたような気がする・・・。

 

■後日追記 2001年 秋 10月中旬
 この船旅の<高千穂丸>で乗船した特等? こそが、今にして思えば最上級船室初体験であった。

 

1963 S38 − 1996 H08
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思い出の船旅