山上憶良 やまのうえのおくら 斉明六〜天平五頃(660-733?) 略伝

父母等は不詳。粟田氏の支族山上臣の出身。一説に、近江甲賀郡居住の粟田従属の百済系渡来氏族かともいう(中西進)。
大宝元年(701)正月、第七次遣唐使の少録に任命される。この時無位で、名は山於億良とある。同年九月、文武天皇の紀伊国行幸の時の作と思われるものに長意吉麻呂の「結松を見て哀咽歌」(万葉集2-143・144)があり、これに追和した憶良の歌がある(2-145)。
同二年六月、遣唐使船出航。十月頃、長安に入る。同四年頃、大唐にて本郷を憶う歌を詠む(1-63)。同年七月、遣唐使粟田真人らが帰国。憶良も同船か(または慶雲四年-707-帰国)。
和銅七年(714)正月、従五位下に叙され、霊亀二年(716)四月、伯耆守に任ぜられる。養老五年(721)には首皇子(後の聖武天皇)の侍講に任命され、退朝の後、東宮に侍す。一説に、この頃『類聚歌林』を編纂。神亀三年(726)、筑前守に任命され、筑紫に下向。同五年春までに大伴旅人が大宰府に着任し、以後、旅人を歌友として倭歌の制作に励む。天平二年(730)正月、旅人邸の梅花宴に出席。同三年末〜四年頃、上京。天平四年冬、「貧窮問答歌」を作る。同五年六月、「老身重病歌」を作り、序文として長大な「沈痾自哀文」を付す。同じ頃、「沈痾の時の歌」をなし、この時藤原八束が河辺東人を派遣し憶良を見舞わせたと左注にある。程なくして卒したか。行年七十四。
万葉収載歌は、数え方によってまちまちであるが、およそ八十首前後ある。勅撰集では新古今集に初出、入集計五首。

以下には、万葉集に収められている憶良の歌より五十五首を抜萃してほぼ年代順に並べた。カッコ内の数字は万葉集の巻数と旧国歌大観番号である。

 遣唐使時代 2首 筑前守時代 37首 晩年 16首 計55首

遣唐使時代

山上臣憶良、大唐に在る時に、本郷くにおもひて作る歌

いざ子ども早く日本やまとへ大伴の御津みつの浜松待ち恋ひぬらむ(1-63)

【通釈】さあ皆の者、早く日の本の大和の国へ帰ろう。難波の湊の浜松も我らの帰りを待ち焦がれていることだろう。

【語釈】◇大伴の御津 「大伴」は大伴氏のこと。かつて大伴氏が難波地方を管掌したゆえ、「大伴の」は「御津」を枕詞風に修飾する。「御津」は難波の港。遣唐使船の発着地。

【補記】憶良は大宝二年(702)から同四年(704)頃まで遣唐使として唐にいた。この頃憶良は四十代前半。新古今集に「いざこどもはや日の本へおほとものみつの浜松まちこひぬらん」と出ている。

【他出】綺語抄、五代集歌枕、古来風体抄、新古今集、定家八代抄、歌枕名寄、夫木和歌抄、井蛙抄

【主な派生歌】
暮れゆけばさしてぞ恋ふるひのもとのみつの浜松いつとわきける(藤原家隆)
大伴の御津のはま風ふきはらへ松とも見えじうづむ白雪(藤原定家[新拾遺])
待ち恋ひしむかしは今も忍ばれてかたみ久しきみつの浜松(藤原定家[新拾遺])
大伴の御津の浜風吹きはらへまつとも見えじうづむ白雪(藤原定家)
大伴の御津の浜松かすむなりはや日の本に春やきぬらん(宗尊親王[続古今])

山上臣憶良の追和する歌一首

翼なすあり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ(2-145)

【通釈】皇子の御魂は鳥のように空を往き来しては何度も結び松を見たであろうが、人が知らないだけで、松はそのことを知っているだろう。

【語釈】◇翼なす 原文は「鳥翔成」で、難訓。「つばさなす」の訓は賀茂真淵に拠る。「鳥のように」ほどの意か。◇あり通ひつつ (有間皇子の御霊は)何度も空を行き来しながら。

【補記】大宝元年(701)の紀伊行幸で詠まれた長意吉麻呂の結び松の歌「磐代の岸の松が枝結びけむ人は還りてまた見けむかも」に和した。「結び松」は有間皇子の故事に因む。遣唐使に任命される前後の作か。

筑前守時代

山上臣憶良、宴をまかる歌一首

憶良らは今はまからむ子泣くらむそれその母もを待つらむぞ(3-337)

【通釈】憶良どもは、もうこれで失礼致しましょう。家では子らが泣いているでしょう。ええ、その母も私どもの帰りを待っていることでしょう。

【補記】筑前守在任中の神亀五年(728)頃、大宰府での宴で詠まれた歌らしい。「憶良ら」は、「私憶良以下の者ども」ということで、宴に参加していた下僚たちを代表し、主人の旅人に辞去の歌を捧げたものか。以下、筑前守時代の歌。

日本挽歌一首

大君おほきみの とほ朝廷みかどと しらぬひ 筑紫つくしの国に 泣く子なす 慕ひ来まして 息だにも いまだ休めず 年月としつきも いまだあらねば 心ゆも 思はぬあひだに うちなびき やしぬれ 言はむすべ せむすべ知らに 石木いはきをも 問ひけ知らず 家ならば 形はあらむを 恨めしき いもみことの あれをばも いかにせよとか 鳰鳥にほどりの 二人並び 語らひし 心そむきて 家ざかりいます (5-794)

反歌(五首)

家に行きていかにかがせむ枕付く妻屋さぶしく思ほゆべしも(5-795)

 

しきよしかくのみからに慕ひし妹が心のすべもすべ無さ(5-796)

 

悔しかもかく知らませばあをによし国内くぬちことごと見せましものを(5-797)

 

妹が見しあふちの花は散りぬべし我が泣く涙いまだなくに(5-798)

 

大野山霧立ちわたる我が嘆く息嘯おきその風に霧立ちわたる(5-799)

神亀五年七月二十一日、筑前国守山上憶良たてまつる。

【通釈】[長歌] 都から遠く離れた天皇の政庁へと、筑紫の国にまで、妻は、親を慕って泣く子のように後を追って来て、ほっと一息つく暇もなく、年月も幾らも経っていないのに、思いもかけず、ぐったりと床に臥してしまったので、私はどう言えば、どうすれば良いものか、手立ても分からずに、せめて石や木に何か言って心を晴らしたいが、異郷のこととてそれもできず…都の家に留まっていたなら、妻は美しい容貌のままであったろうに。心残りがされてならない妻の命(みこと)よ、私にどうしろというつもりなのか、かいつぶりのように二人仲良く並んで添い遂げようと語り合った心に背いて、その魂は家を離れてさまよっている。
[反歌一] 故郷の家に帰って、私はどうすればよいのだろう。妻と一緒に寝た離れ屋は、さぞや寂しく思われることだろうよ。
[反歌二] いとしいことよ。こんな結果になるだけだったのに、私を慕ってやって来た妻の心が、どうしようもなく切ないことよ。
[反歌三] 悔しいなあ。こうなると知っていたなら、筑紫の国じゅう隅から隅までを見せてやったものを。
[反歌四] 妻が毎年楽しみに見ていた奈良の家の楝の花はもう散ってしまったに違いない。私が泣いて流す涙はまだ乾かないのに。
[反歌五] 大野山に霧が湧き起こり、山をすっかり覆い隠す。私が吐く溜息の風によって、霧が山を覆い隠してしまう。

楝(栴檀)の花
楝の花

【語釈】[長歌] ◇大君の遠の朝廷 大宰府を指す。◇しらぬひ 「筑紫」の枕詞。掛かり方は未詳。「領(し)らぬ霊(ひ)」が「憑く」ということから同音の「筑紫」に掛かるとする説などがある。◇筑紫の国 筑前・筑後両国を言う。転じて九州の総称ともなる。◇石木をも問ひ放け知らず 「宣長云、とひさけはことゝひて思をはらしやる意なるべし」(萬葉集略解)。◇形はあらむを 「形あり」は「ちゃんとした姿である」「美貌である」意。◇妹の命 妻に対する敬称。妻を主語とする詞には「慕ひ来まして」「離りいます」など敬語表現が用いられている。
大野山
大野山 大宰府背後の四王子山
[反歌]◇枕付く 「妻屋」の枕詞。妻屋は新婚の夫婦のために建てられる離れ屋。
◇あをによし 「奈良」の枕詞だが、ここでは「国」の枕詞に転用している。◇国内 国の中。「国」を故郷の大和国と見る説もある。
◇楝 栴檀。初夏に芳香のある淡紫色の花を咲かせる。

【補記】題の「日本挽歌」は「日本語の文で書いた挽歌」の意であろう。神亀五年(728)、任地で正妻の大伴郎女を亡くした大宰帥大伴旅人に対し、下僚であった憶良が捧げた挽歌である(第四反歌から、旅人の妻は初夏までに亡くなったらしいことが判る。)長短歌一貫して旅人の立場に立って詠んでいる。反歌五首を連ねるのは未曾有の形式。

【他出】[反歌五] 五代集歌枕、袖中抄、歌枕名寄、夫木和歌抄

【主な派生歌】
[反歌三]
かからむとかねて知りせば越の海の有磯の波も見せましものを(大伴家持[万葉])
[反歌四]
妹が見し屋戸に花咲き時は経ぬ我が泣く涙いまだひなくに(大伴家持[万葉])
梅が枝の花も氷やとぢつらむ鶯の涙いまだひなくに(亀山院)
[反歌五]
大野山ふもとのうらは霧はれておきその風は月ぞさやけき(藤原信実)
そめしより散らまく惜しむ世の人のおきその霧や山かくすらむ(加藤枝直)
我が嘆くおきその霧もはれぬべし君が袖ふる心しるくば(本居宣長)
別れ惜しむおきその風に霧たたばせめてやすらへ天の河舟(村田春海)

まどへるこころかへさしむる歌一首 并せて序

或る人、父母を敬ふことを知りて侍養じやうを忘れ、妻子を顧みずして脱履だつしよりも軽しとす。みづから倍俗先生せむじやうなのる。意気は青雲の上に揚がるといへども、身体は猶塵俗の中に在り。未だ修行得道のひじりしるしあらず。けだしこれ山沢に亡命する民ならんか。所以このゆゑに、三綱さんかうを指し示し、更に五教を開き、おくるに歌を以てし、その惑ひをかへさしむ。その歌に曰く、

父母を 見れば貴し 妻子めこ見れば めぐしうつくし 世の中は かくぞことわり もち鳥の かからはしもよ ゆくへ知らねば 穿沓うけぐつを 脱きるごとく 踏みきて くちふ人は 石木いはきより 成りてし人か が名らさね あめへ行かば がまにまに つちならば 大君います この照らす 日月ひつきの下は 天雲あまくもの 向伏むかぶきはみ 蟾蜍たにぐくの さ渡るきはみ 聞こしす 国のまほらぞ かにかくに しきまにまに しかにはあらじか(5-800)

反歌

久かたの天道あまぢは遠し黙々なほなほに家に帰りてなりを為まさに(5-801)

【通釈】[長歌] 父母を見れば尊い。妻子を見れば可愛くいとおしい。世の中の道理はこうしたもの、黐(モチ)にかかった鳥のように家族への愛情は断ち切り難い。行末も分からぬ我等なのだから。穴のあいた靴を脱ぎ捨てるように父母や妻子を捨てて行くという人は、非情の石や木から生まれた人だろうか。あなたの名前をおっしゃい。天へ行ったなら、あなたの思いのままにするのもよかろうが、この地上ならば、大君がいらっしゃる。この太陽と月が照らす下は、雲の垂れる果てまで、ヒキガエルが這い回る地の果てまで、大君のお治めになるすぐれた国土なのだ。あれもこれもと思いのままにしようというのか、そうゆくものではあるまいよ。
[反歌] 天への道は遠い。大人しく、家に帰って家業に励みなさい。

【語釈】[序文] ◇侍養 孝養。父母の世話をすること。◇倍俗先生 紀州本に拠る。俗世に倍(そむ)く先生。西本願寺本等は「畏俗先生」。◇三綱 「君は臣の綱たり、父は子の綱たり、夫は妻の綱たり」(漢書谷永伝)。◇五教 「父は義、母は慈、兄は友、弟は恭、子は孝」(左伝文公)。◇惑ひを反さしむ 乱れた心を改めさせる。
[長歌] ◇めぐし 可愛い。いとおしい。◇もち鳥の とりもちにかかった鳥のように。◇かからはしもよ 「黐(モチ)にかゝれる鳥の如く立はなれがたく、親にかゝはりてのがれがたき理りをいふ」(萬葉集略解)。◇天雲の向伏す極み 天雲の垂れる果て。次の句と共に、祝詞の慣用句に見える表現。◇蟾蜍のさ渡る極み ヒキガエルが這って行く地の果てまで。

子等を思ふ歌一首 并せて序

釋迦如来金口こむく、正に説きたまへらく、等しく衆生を思ふこと、羅睺羅らごらの如しと。また説きたまへらく、愛は子に過ぐること無しと。至極しごくの大聖すら、子をうつくしむ心有り。まして世間の蒼生あをひとぐさ、誰か子をうつくしまざらめや。

めば 子ども思ほゆ 栗めば ましてしのはゆ いづくより きたりしものぞ 眼交まなかひに もとなかかりて 安眠やすいさぬ(5-802)

反歌

しろかねくがねも玉も何せむにまされる宝子にしかめやも(5-803)

【通釈】[長歌] 瓜を食えば、子供にも食わせてやりたいと、子供のことが思われる。栗を食えば、まして偲ばれる。一体どこからやって来たものなのか。子供の面影が目の前にやたらとちらついて、夜もおちおち眠れない。
[反歌] 銀も金も真珠も、何になろうかね。大切な宝と言ったら、子にまさるものなどありはしない。

【語釈】[序文] ◇羅睺羅 釈迦が在俗時にもうけた子。◇蒼生 民。
[長歌] ◇いづくより来りしものぞ 「いかなる過去の宿縁にて、わが子とむまれこしものぞといふ心なり」(萬葉集代匠記)。

【主な派生歌】
白金も金も玉も天地の賜はる国ぞなにかなげかん(楫取魚彦)
銀も金も玉もよしゑやし飲みての後は欲しけくもなし(鹿持雅澄)
雉食へばましてしのばゆ再(ま)た娶りあかあかと冬も半裸のピカソ(塚本邦雄)

世間よのなかとどまり難きを哀しぶる歌一首 并せて序

集め易くはらひ難し、八大辛苦。遂げ難く尽し易し、百年の賞楽。古人の歎きし所、今また及ぶ。このゆゑに一章の歌を作り、以て二毛の歎きをのぞく。其の歌に曰く、

世の中の すべなきものは 年月は 流るるごとし 取りつつき 追ひ来るものは 百種ももくさに め寄り来たる 娘子をとめらが 娘子をとめさびすと 唐玉からたまを 手本たもとに巻かし 同輩子よちこらと 手たづさはりて 遊びけむ 時の盛りを 留みかね 過ぐしやりつれ みなわた かぐろき髪に いつの間か 霜の降りけむ なす おもての上に いづくゆか 皺か来たりし ますらをの 男さびすと 剣大刀つるぎたち 腰に取りき さつ弓を 握り持ちて 赤駒あかごまに 倭文鞍しつくらうち置き 這ひ乗りて 遊び歩きし 世の中や 常にありける 娘子をとめらが さす板戸を 押し開き い辿り寄りて 真玉手の 玉手さし交へ さ寝し夜の いくだもあらねば 手束杖たつかづゑ 腰にたがねて かけば 人にいとはえ かく行けば 人に憎まえ よしは かくのみならし 玉きはる 命惜しけど せむすべもなし(5-804)

反歌

常磐ときはなすかくしもがもと思へども世の事なれば留みかねつも(5-805)

神亀五年七月二十一日、嘉摩郡にて撰定。筑前国守山上憶良。

【通釈】[長歌] この世の中の、なす術もなく切ないことは、歳月が流れるように過ぎ去ること。ぴったりと追いかけて来るものは、老いの苦しみが、様々に我が身にふりかかって来ること。たとえば若い娘が、娘らしく振舞うというので、舶来の玉を手首に巻いて、同輩の仲間たちと手に手を取って遊び歩いただろう、そんな青春の盛りは留めようにも留められず、やがてその時が過ぎ去ってしまうと、黒々とした髪に、いつの間に霜が降りたのか、赤々とした顔の上に、どこから皺がやって来たのか、かつての美しさは急に衰えてしまう。勇ましい若者なら、男らしく振舞うというので、剣大刀を腰に帯びて、狩弓を手に握り持って、赤駒に倭文(しつ)の鞍を置き、身を伏せるように馬に乗って、狩をして廻った、そんな人生がいつまでも続くだろうか。娘たちが寝ておいでの小屋の板戸を押し開き、探り寄って、玉のような美しい腕を差し交わして寝た夜――そんな夜など幾らもなかったのに、いつの間にか杖を腰のあたりに握って歩くようになり、あちらへ行けば人に嫌われ、こちらに行けば人に憎まれて、老人というのは所詮こうしたものらしい。命は惜しいけれど、どうしようもない。
[反歌] 岩のように常住不変でありたいと思うけれども、世の理(ことわり)であるから、老いや死は留めようにも留めることはできないよ。

【語釈】[序文] ◇八大辛苦 『涅槃経』によれば、生苦・老苦・病苦・死苦・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦。◇二毛の歎き 黒髪に白髪のまじる歎き。
[長歌] ◇倭文鞍 倭文織(古くからの日本式の織り方)の布で作った鞍。◇手束杖 手で握る杖。◇腰にたがねて 「たがね」は「つかね」と同じで、握る意であろう。腰の辺りで杖を握って、の意。
[左注]◇嘉摩郡 福岡県山田市と嘉穂郡東部。◇撰定 「推敲して決定稿を作る意」(萬葉集釋注)。

【補記】「神亀五年…」の左注は800番歌以下に掛かり、「惑へる情を反さしむる歌」「子等を思ふ歌」「世間の住り難きを哀しぶる歌」を併せて嘉摩三部作と呼び慣わす。

山上臣憶良、鎮懐石を詠む歌一首 并せて短歌

筑前国怡土いと郡深江村子負原こふのはら、海にひたる丘の上に二つの石あり。大きなるは長さ一尺二寸六分、かくみ一尺八寸六分、重さ十八斤五両。小さきは長さ一尺一寸、かくみ一尺八寸、重さ十六斤十両。ともに楕円にして、かたちとりの子の如し。其の美好うるはしきこと、へてふベからず。いはゆる径尺けいせきたまこれなり。或は云く、此の二の石は肥前国彼杵郡平敷の石にして、うらに当りて取ると。深江の駅家うまやを去ること二十里ばかり、路頭に近く在り。公私の往来、馬より下りて跪拝をろがまざるは莫し。古老相伝へて曰く、いにしへ息長足日女の命、新羅の国を征討ことむけたまひし時、このふたつの石をもちて御袖の中に挿著さしはさみたまひて、以て鎮懐と為したまふと。実はこれ御裳の中なり。所以このゆゑに行人かうじん此の石を敬拝すといへり。すなはち歌を作りて曰く、

かけまくは あやにかしこし 足日女たらしひめ 神のみこと 韓国からくにを 向けたひらげて 御心みこころを しづめたまふと い取らして いはひたまひし 真玉なす 二つの石を 世の人に 示したまひて 万代よろづよに 言ひ継ぐがねと わたの底 沖つ深江ふかえの 海上うなかみの 子負こふの原に 御手みてづから 置かしたまひて かむながら かむさびいます 奇御魂くしみたま 今のをつつに 貴きろかも(5-813)

 

天地のともに久しく言ひ継げとこの奇御魂敷かしけらしも(5-814)

右の事伝へ言ふは、那珂郡伊知郷蓑島の人、建部牛麻呂なり。

【通釈】[長歌] 口に出して申し上げるのも憚られる、神功皇后様が、新羅の国を平らげて、御心をお鎮めになりたいと、手に取られ、祈願なさった、宝玉のような二つの石を、人々にお示しになり、万代まで語り継ぐようにと、深江の里の、海のほとりの子負の原に、ご自身の手でお置きになって以来、神として神々しく鎮座なさる、この不思議な霊威を持つ御魂の石は、今も目の前にあって、なんとも尊いことよ。
[短歌] 天地とともに永久に語り継げと、この不思議な霊石をここに据えて置かれたらしい。

【語釈】[序文] ◇怡土郡深江村子負原 福岡県糸島郡二丈町深江。子負原こぶがはら八幡社(鎮懐石八幡宮)には後世のものであるが鎮懐石を祀っている。◇径尺の璧 径が一尺ある玉石。◇肥前国彼杵郡平敷 不詳。肥前国彼杵郡は、今の長崎県東彼杵郡・西彼杵郡、および長崎市・大村市の一帯にあたる。◇鎮懐 歌には心を鎮めたとあるが、本当は胎中を鎮めて出産を延期させたことを言う。
[長歌] ◇韓国(からくに) 序文の新羅にあたる。◇海の底 沖つ深江 「海の底 沖」は「深江」の序詞。◇奇御魂 不可思議な霊威を持つ御魂。魂はまた玉でもあり、霊石の意にもなる。
[左注]◇那珂郡伊知郷蓑島 福岡市博多区美野島付近。◇建部牛麻呂 伝未詳。

【補記】この長短歌には題名・作者名の記載がない。万葉集の目録に「山上臣憶良詠鎮懐石歌一首并短謌」とあるのを、ここでは題として掲げた。

山上臣憶良の七夕しちせきの歌

牽牛ひこほしは 織女たなばたつめと 彦星は、織姫と、 天地あめつちの 別れし時ゆ いなむしろ 川に向き立ち 思ふそら 安からなくに 嘆くそら 安からなくに 青波あをなみに 望みは絶えぬ 白雲に 涙は尽きぬ かくのみや 息づきらむ かくのみや 恋ひつつあらむ さ塗りの 小舟をぶねもがも 玉巻きの 真櫂まかいもがも 朝凪に い掻き渡り 夕潮に い榜ぎ渡り 久かたの あまの川原に あま飛ぶや 領巾ひれ片敷き 真玉手またまでの 玉手さしへ あまたたび も寝てしかも 秋にあらずとも(8-1520)

反歌

風雲かぜくもは二つの岸に通へども我が遠妻のことぞ通はぬ(8-1521)

 

たぶてにも投げ越しつべき天の川隔てればかもあまたすべなき(8-1522)

右は、天平元年七月七日夜、憶良、天の河を仰ぎ観る。一に云く、帥の家の作。

【通釈】[長歌] 天地が分かれた大昔から、川を挟んで向かい立ち、思う心のうちは安らかでないのに、歎く心のうちは安らかでないのに、遥々と横たわる川の青波のために、向こう岸を眺めることもできない。遥かにたなびく白雲に遮られて、涙は涸れてしまった。「こんなふうに溜息を吐いてばかりでいようか。こんなふうに恋い焦がれてばかりいようか。赤く塗った舟でもあればなあ。玉を巻いた櫂でもあったらなあ。朝凪に水を掻いて渡り、夕潮に櫂を漕いで渡り、天の川の川原に織姫の領布を敷き、玉のような腕を差し交わして、幾晩も寝たいものだ。七夕の秋ばかりでなく」。
[反歌一] 風と雲は両岸の間を往き来するけれども、遠くにいる妻の便りは私のもとに通じない。
[反歌二] 小石でも投げれば向こう岸に届きそうな天の川。だがこの川が隔てているばかりに、全く逢う手立てもないのだ。

【語釈】[長歌] ◇いなむしろ 「川」の枕詞。かかり方未詳。◇思ふそら 思う心のうち。◇望みは絶えぬ 眺望は途絶えてしまう。◇天飛ぶや 「領布(ひれ)」の枕詞。領布がなびくさまは空を漂う雲を思わせるから、あるいは天女などは領布を用いて空を飛ぶと考えられたからか。◇領布 領巾とも。女子の装身具で、首に掛けて左右に長く垂らした布。

【補記】左注にある通り、天平元年(729)、天の川を仰ぎ見て作ったという歌。「帥の家」とは大宰帥大伴旅人の家。

大宰帥大伴卿の宅の宴の梅の花の歌

春さればまづ咲く屋戸の梅の花独り見つつや春日暮らさむ(5-818)

【通釈】春になれば真っ先に咲くわが家の梅の花――独り眺めて春の日を暮らすとしようか。

【補記】天平二年(730)一月十三日、旅人邸における梅花宴での作。参席者各人一首、計三十二首が披露された、そのうちの一首である。題詞は目録より補った。

【他出】家持集、新勅撰集

【主な派生歌】
春来れば宿にまづさく梅の花きみがちとせのかざしとぞみる(*紀貫之[古今])
香をとめて人も見に来ぬ梅の花待ちくらしつつ独りをるかな(壬生忠見)
春来ればまづ咲く宿の梅の花香をなつかしみ鶯ぞ鳴く(源実朝)
春来てはまづ咲く花の都ぞと思ひなしにも空ぞのどけき(*正徹)
春来ればまづ咲く梅にききそめて藤にもかかる鶯の声(大国隆正)

山上臣憶良の七夕の歌 (七首)

秋風の吹きにし日よりいつしかとが待ち恋ひし君ぞ来ませる(8-1523)

【通釈】秋風の吹き始めた日から、いつのことかと私が待ち遠しく思っていたあなたが、とうとう来てくださった。

【補記】織女が牽牛を迎える喜び。

【主な派生歌】よみ人しらず「古今集」
秋風の吹きにし日より久方の天の河原にたたぬ日はなし

 

天の川いと川波は立たねどもさもらひかたし近きこの瀬を(8-1524)

【通釈】天の川にひどく川波は立たないけれども、あなたに逢う機会をうかがうこともし難いのです、間近いこの瀬なのに。

【補記】牽牛が織女に対し、七夕の日しか逢いに来られない運命を歎いた。

 

袖振らば見もかはしつべく近けども渡るすべなし秋にしあらねば(8-1525)

【通釈】袖を振れば、お互い見交わすこともできるほど近いけれど、川を渡るすべがない。七夕の秋でないので。

【補記】これも牽牛の歌であろう。

 

玉かぎるほのかに見えて別れなばもとなや恋ひむ逢ふ時までは(8-1526)

天平二年七月八日夜、帥の家に集会ふ。

【通釈】ちらっとお逢いしただけで別れれば、むしょうに恋しく思うでしょう、再び逢える時までは。

【補記】「玉かぎる」は、玉が微光を放つ意で、「ほのかに」の枕詞。別れの際の織女の歌であろう。以上四首は、大宰帥大伴旅人邸に七夕の翌日集会しての作。

【参考歌】「万葉集」11-2394(人麻呂歌集)
朝影に我が身はなりぬ玉かきるほのかに見えて去にし子ゆゑに

 

牽牛ひこほしの妻迎へ船榜ぎらし天の川原に霧の立てるは(8-1527)

【通釈】彦星の妻を迎える船が漕ぎ出たらしい。天の川の川原に霧がかかっているのを見ると。

【補記】船の立てる水しぶきから霧が立ったと見なした。

【他出】家持集、玉葉集

【主な派生歌】
天の川浪たつなゆめ彦ぼしのつまむかへ舟岸によすなり(藤原基俊)
天の川うきつの波に彦星の妻むかへ舟いまやこぐらし(藤原敦仲[新勅撰])
天の川川音すみて彦星の妻迎へ舟まつや久しき(土御門院小宰相[新続古今])
天の川かはべの霧のふかき夜に妻むかへ舟いまか出づらし(花園院[新千載])
むかへ舟八十瀬をかけてこぎ出でぬと妻にはつげよ天の河風(下河辺長流)

 

霞立つ天の川原に君待つとい通ふほどにの裾濡れぬ(8-1528)

【通釈】霧の立ちこめる天の川の川原で、あなたを待って行きつ戻りつしていると、裳の裾が濡れてしまった。

【補記】織女の立場で詠む。

 

天の川浮津の波音なみと騒くなりが待つ君し舟出すらしも(8-1529)

【通釈】天の川の浮津の波音が騒がしい。私が待っているあの方が、今しも船出するらしい。

【補記】これも織女の立場で詠む。「浮津」は板を浮かべて作った船着場。

山上臣憶良、秋野の花を詠む歌二首

秋の野に咲きたる花をおよび折りかき数ふれば七種ななくさの花 其一(8-1537)

【通釈】秋の野に咲いた花を指折り数えれば、七種類の花があることよ。

【補記】季節別に歌を分類した万葉集巻八の「秋雑歌」中にある。次の一首と共に「秋の七草」の由来となった歌である。

【主な派生歌】
七草とかぞへし昔おもひいでて数へてぞみる秋の花野を(大国隆正)

 

萩の花をばなくず花なでしこの花 をみなへしまた藤袴ふぢばかま朝顔の花 其二(8-1538)

【語釈】◇をばな 尾花。穂の出た薄。◇朝顔の花 諸説ある。古くは木槿説が広く信じられたが、その後桔梗説も有力視され、また昼顔説、今日の朝顔と同一とする説などもある。

【補記】五七七五七七の旋頭歌。

【主な派生歌】
野べにいでて見れどもあかず萩が花をばな葛花いまさかりなり(藤原光俊)
せりなづなごぎやうはこべら仏のざすずなすずしろ是は七種(梵灯)
まとひあひて尾花くず花なでしこの花にもさける朝がほの花(大隈言道)

秋の七草

敢へて私懐をぶる歌三首

天ざかるひな五年いつとせ住まひつつ都のてぶり忘らえにけり(5-880)

【通釈】遠く離れた田舎に五年ずっと住み続けて、都の風俗をすっかり忘れてしまったことよ。

【補記】国守の任期は普通四年と定められていた。以下三首は、大伴旅人が大納言を拝命して帰京する際、憶良が個人的な思いを詠んで旅人に謹上した作。

【主な派生歌】
しなざかる越に五年住み住みて立ち別れまく惜しき宵かも(家持[万葉])
かへりこむ程もさだめぬ別れぢは都のてぶり思ひいでにせよ(藤原公実[千載])

 

かくのみや息づき居らむあら玉の来経きへゆく年の限り知らずて(5-881)

【通釈】こんなふうに溜息を吐いてばかりいるのだろうか。筑紫の国に留まったまま何年を送り迎えるのか、その限りを知らずに。

 

が主の御霊みたま賜ひて春さらば奈良の都に召上めさげ賜はね(5-882)

天平二年十二月六日、筑前国司山上憶良、謹みて上(たてまつ)る。

【通釈】あなた様のお心を懸けて下さって、春になったら、奈良の都に召し上げて下さいませ。

【補記】「吾が主」は旅人に対する敬称。

熊凝くまこりかはりて其の志を述ぶる歌につつしみて和する歌六首 并せて序

大伴君熊凝は、肥後ひのみちのしりの国益城ましきこほりの人なり。年十八歳。天平三年六月の十七日を以て、相撲使すまひのつかひ某国司それのくにのつかさ官位姓名の従人ともびとと為り、都に参向まゐのぼる。天にさきはひせず、路に在りてやまひ、即ち安藝あきの国佐伯さへきの郡高庭の駅うまやにて、身故みまかりぬ。臨終まからむとする時、長歎息おほなげきして曰く、「伝へ聞く、仮合けがふの身は滅び易く、泡沫の命はとどめ難しと。このゆゑに千聖すでに去り、百賢留まらず。いはむや凡愚のいやしき者、いかにして能く逃れ避らむ。但し、我が老親、ともに菴室に在りて、我を侍ちて日を過ぐさば、おのづから傷心の恨みあらむ。我を望みて時にたがはば、必ず喪明さうめいなみだを致さむ。哀しきかも我が父、痛きかも我が母。一身の死に向かふみちうれへず、ただ二親のます苦しびを悲しぶ。今日とこしへに別れなば、いづれの世にかまみゆることを得む」といふ。すなはち歌六首を作りてみまかりぬ。其の歌に曰く、

うちひさす 宮へのぼると たらちしや 母が手離れ 常知らぬ 国の奥処おくかを 百重ももへ山 越えて過ぎゆき いつしかも 都を見むと 思ひつつ 語らひれど おのが身し いたはしければ 玉桙たまほこの 道の隈廻くまみに 草手折たをり 柴取り敷きて とこじもの うちい伏して 思ひつつ 嘆き伏せらく 国にあらば 父とり見まし 家にあらば 母とり見まし 世間よのなかは かくのみならし 犬じもの 道に伏してや 命過ぎなむ(5-886)

 

たらちしの母が目見ずておほほしくいづち向きてかが別るらむ(5-887)

 

常知らぬ道の長手を暗々くれくれといかにか行かむかりては無しに(5-888)

 

家にありて母が取り見ば慰むる心はあらまし死なば死ぬとも(5-889)

 

出でてきし日を数へつつ今日今日とを待たすらむ父母らはも(5-890)

 

一世ひとよにはふたたび見えぬ父母を置きてや長くが別れなむ(5-891)

【通釈】[長歌] 輝かしい都へ上るとて、母の手もとを離れ、見たこともない国の果てへと、幾重にも重なる山を越えて行き、いつになったら都が見られるのかと思いながら、連れの者と語り合っていたけれど、我が身の疲れがあまりにひどいので、道の曲がり角に、草を折り、柴を取って敷いて、寝床代りに倒れ伏して、嘆き臥しながら思うことには「故郷の国にあったなら、父が看病してくれたろう。家にいたなら、母が看病してくれたろう。人の世はこんなにもはかないだけのものらしい。犬のように道ばたに行き倒れて、私は命を終えるのだろうか」。
[短歌一] 母の顔を見ることもできず、ぼんやりとして不安なまま、私はいったいどっちの方角を向いてこの世から別れて行くのだろうか。
[短歌二] 見たこともない冥途の長い旅を、暗澹たる気持で、どうして行ったらよいのか。食糧も持たずに。
[短歌三] 家にいて母が看病してくれるなら、心の慰むこともあろうに。たとえ死ぬにしても。
[短歌四] 旅立ってからの日数をかぞえながら、今日か今日かと、私の帰りを待っている父さん母さんよ。
[短歌五] この世では二度と逢うことのない父と母を残して、とこしえに私はこの世から別れて行くのだろうか。

【語釈】[序文] ◇肥後の国益城の郡 熊本県上益城郡・下益城郡。◇相撲使 相撲部領使。宮中で七夕に催された相撲の節会のため、諸国から集められた相撲人を引率する官。◇安藝の国佐伯の郡高庭の駅家 広島県佐伯郡大野町高畑かという。◇喪明の泣 失明するほどの涙。
[長歌] ◇うちひさす 「宮」の枕詞。「全日(うつひ)が射し入る」の意とする説などがある。◇たらちしや 「母」の枕詞。「たら」は「垂る」または「足る」、「ち」は「乳」の意とも「霊」の意とも言う。◇玉桙の 「道」の枕詞。玉鉾(玉矛)は魔除けのため道に立てられた陽石のことかと言う。

【補記】麻田陽春が大伴熊凝の死を哀傷した作「国遠き道の長手をおほほしく今日や過ぎなむ言(こと)どひもなく」「朝露の消やすき我が身他国(ひとくに)に過ぎかてぬかも親の目を欲り」に和した歌。なお序文には「筑前国守山上憶良」の署名がある。

晩年

貧窮問答びんぐうもんだふの歌一首 并せて短歌

風まじり 雨降るの 雨まじり 雪降るは すべもなく 寒くしあれば 堅塩かたしほを 取りつづしろひ 糟湯かすゆ酒 うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 髭掻き撫でて あれをおきて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾あさぶすま 引きかがふり 布肩衣ぬのかたぎぬ ありのことごと 着へども 寒きすらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑゆらむ 妻子めこどもは ひて泣くらむ この時は いかにしつつか が世は渡る 天地あめつちは 広しといへど が為は くやなりぬる 日月ひつきは あかしといへど が為は 照りやたまはぬ 人皆か のみやしかる わくらばに 人とはあるを 人並に あれも作るを 綿も無き 布肩衣の 海松みるのごと わわさがれる かかふのみ 肩に打ち掛け 伏廬ふせいほの 曲廬まげいほの内に 直土ひたつちに わら解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子めこどもは あとの方に かくみ居て 憂へさまよひ かまどには 火気ほけ吹き立てず こしきには 蜘蛛くもの巣かきて 飯炊いひかしく ことも忘れて ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物を 端切ると 云へるが如く 笞杖しもと執る 里長さとをさが声は 寝屋処ねやどまで 来立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世の中の道(5-892)

 

世の中を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば(5-893)

山上憶良頓首謹上。

【通釈】[長歌] 風にまじって雨が降る夜、雨にまじって雪が降る夜は、どうしようもなく寒いので、堅塩をつまんで嘗めながら、糟湯酒をずるずる啜って、しきりと咳き込み、鼻をぐずぐず言わせて、ろくにありもしない髭を撫でさすって、俺ほど立派な人物はいるものかと、威張ってみるが、やっぱり寒いので、麻の布団をひっかぶり、布の袖無しをありったけ重ね着するけれども、それでも寒い夜だもの、私よりも貧しい人の父母はさぞやひもじく凍えているだろう。妻子たちは物をせがんで泣いていることだろう。こんな時は、どう工面しながらあなたはこの世をしのいでいるのか。
天地は広いというが、私にとっては狭くなるものか。日と月は明るいというが、私にとっては照ってくれぬのか。皆そうなのか、私だけそうなのか。運良く人と生まれたのに、人並に働いているのに、綿も入っていない布の袖無しの、海松(みる)のように破れて垂れたぼろだけを肩にかけて、ひしゃげた小屋の中、地べたにほぐした藁を敷いて、父母は枕の方に、妻や子は足の方に、身を寄せあって、不平をこぼしたり呻いたりして、竃には火の気もなく、甑には蜘蛛の巣がかかって、飯を炊くことも忘れて、ひいひい弱音を吐いていると、「ただでさえ短い物を、さらに加えて端をさらに切る」という諺どおりに、笞を持った里長の声は、寝屋にまで来てわめきたてている。こんなにも詮方ないものか、この世を生きる道とは。
[短歌] 人の世は辛い、生きているのは恥ずかしい。そう思うけれども、ここを捨ててどこかへ飛び去るわけにもゆかない。鳥ではないのだから。

【語釈】[長歌] ◇堅塩 焼くなどして堅めた保存用の塩か。◇糟湯酒 酒糟を湯で溶かした飲物。◇びしびし 鼻をすする擬声語。◇布肩衣 麻や苧(からむし)で織った、肩や背を覆うだけの上衣。◇海松 浅い海の岩場に生える海藻の一種。食用とした。◇甑 米を蒸す土製の器。◇ぬえ鳥の 「のどよひ居る」の枕詞。ぬえ鳥はとらつぐみの古名。

【補記】題の「貧窮問答歌」とは、「貧窮」をめぐって二人の人物が問答したという形式の歌を意味する。但し「貧者」と「窮者」による問答の歌と解する説もある。この歌以下は筑前より帰京して以後の作。

【主な派生歌】
風まじり涙の雨のあめまじりかしらの雪のくるるとしかな(藤原惺窩)
世の中を思ひはてなば放ち鳥とびたちぬべき心ちこそすれ(*源俊頼)

好去好来かうきよかうらいの歌一首 反歌二首

神代かみよより 言ひ伝てらく そらみつ やまとの国は 皇神すめかみの いつくしき国 言霊ことたまの さきはふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人さはに 満ちてはあれども 高光たかひかる 日の朝廷みかど かむながら での盛りに あめの下 まをしたまひし 家の子と 選ひたまひて 勅旨おほみこと いただき持ちて もろこしの 遠き境に つかはされ まかりいませ 海原うなはらの にも沖にも かむづまり うしはきいます 諸々もろもろの 大御神おほみかみたち ふなに 導きまをし 天地あめつちの 大御神おほみかみたち やまとの 大国おほくに御魂みたま 久かたの あまのみ空ゆ 天翔あまかけり 見渡したまひ 事終り 帰らむ日には 又更に 大御神たち 船のに 御手みてうち掛けて 墨縄すみなはを へたるごとく あぢをかし 値嘉ちかの崎より 大伴の 御津の浜びに 直泊ただはてに 御船みふねてむ つつみなく さきくいまして 早帰りませ(5-894)

反歌

大伴の御津の松原かき掃きて我立ち待たむ早帰りませ(5-895)

 

難波津に御船泊てぬと聞こえ来ば紐解き放けて立ち走りせむ(5-896)

天平五年三月一日 良宅対面、献るは三日なり。
山上憶良 謹みて上る。
大唐大使卿の記室。

【通釈】[長歌] 神代から言い伝えられて来たことには、大和の国は皇祖神の霊威が強い国、言霊が活発に活動する国であると、語り継ぎ、言い継がれてきたのである。今の世の人も皆が皆、まのあたり見ている、知っている。大和の国には人がたくさん満ちているけれども、その中でも、日の御子が神の御心のままに、この上なく寵愛されて、天下の政治をお執りになった名門の子としてお選びになったので、あなたは天皇の御命令を奉じて、唐国の遠い境に派遣され、船出なさると、海原の岸にも沖にも、鎮座して海を支配しているもろもろの大御神たちは、船の舳先に立って先導申し上げ、天地の大御神たち、わけても大和の大国魂の神は、大空を飛び翔って照覧し給い、あなたが使命を終えて帰る日には、再び大御神たちが船の舳先に御手を懸けて、墨縄を引いたかのように、値嘉の崎から大伴の御津の浜辺に、一直線に御船は至り着くであろう。つつがなく、無事で早くお帰りなさいませ。
[反歌一] 大伴の御津の松原を掃き浄めて、私はそこに立って待っていましょう。早くお帰り下さい。
[反歌二] 難波の湊に御船が着いたと聞きましら、衣の紐を解いたままで、駆け付けましょう。

【語釈】[長歌] ◇そらみつ 「やまと」の枕詞◇高光る 「日の大朝廷」の枕詞◇倭の大国御魂 奈良県天理市の大和(おおやまと)神社の祭神。◇墨縄 大工道具の一種。木材に直線を引くための糸。◇あぢをかし 未詳。「値嘉」の枕詞らしい。◇値嘉 長崎県五島列島。

【補記】憶良宅に挨拶に訪れた遣唐大使多治比広成に贈った、往来の無事であることを祈る歌。

老身に病を重ね、年を経て辛苦くるしみ、また児等を思ふ歌七首 長一首 短六首

玉きはる うちの限りは たひらけく 安くもあらむを 事もなく なくもあらむを 世の中の けくつらけく いとのきて 痛ききずには 辛塩からしほを そそくちふがごとく ますますも 重き馬荷に 表荷うはに打つと 言ふことのごと 老いにてある が身の上に 病をと 加へてあれば 昼はも 嘆かひ暮らし よるはも 息づき明かし 年長く 病みしわたれば 月重ね うれへさまよひ ことことは 死ななとへど 五月蝿さばへなす さわく子どもを うつてては 死には知らず 見つつあれば 心は燃えぬ かにかくに 思ひわづらひ のみし泣かゆ(5-897)

反歌(六首)

慰むる心は無しに雲隠れ鳴きゆく鳥ののみし泣かゆ(5-898)

 

すべもなく苦しくあればで走りななとへど子等にさやりぬ(5-899)

 

富人とみひとの家の子どもの着る身なみくたし捨つらむ絹綿らはも(5-900)

 

荒布あらたへの布衣をだに着せかてにかくや嘆かむむすべを無み(5-901)

 

水沫みなわなす脆き命も栲縄たくなは千尋ちひろにもがと願ひ暮らしつ(5-902)

 

しつたまき数にもあらぬ身にはあれど千年ちとせにもがと思ほゆるかも(5-903)

天平五年六月三日よめり。

【通釈】[長歌] 大伴の御津の松原を掃き浄めて、私はそこに立って待っていましょう。早くお帰り下さい。この世に生きている限りは、平穏で安らかにありたいのに、無事で不幸もなくありたいのに、世の中の憂鬱で辛いことには、「とりわけ痛い傷に辛い塩をふりかける」という諺のように、「重い馬荷にいっそう上荷を積み重ねる」という諺のように、年老いてしまった我が身の上に、病気まで重なっているので、昼は昼じゅう歎いて過ごし、夜は夜じゅう溜息を吐いて明かし――そうやって長の年月病み続けてきたので、幾月も呻吟した挙句、いっそのこと死んでやろうと思うけれども、騒ぎ回る子供たちを捨てて死ぬことはできず、その子たちを見つめていれば、その将来を思い、何とかしてやりたいと心は燃え立ってくる。あれこれと思い悩み、声を上げて泣くばかりだ。
[反歌一] 心の慰むことは全く無くて、雲に隠れ鳴いて行く鳥のように、ただ声上げて泣くばかりだ。
[反歌二] どうしようもなく苦しいので、家を飛び出し、この世から逃げ去りたいと思うけれども、子供たちに妨げられてしまう。
[反歌三] 富んだ家の子供が着余して、腐らせて捨てる絹や綿の着物は、ああ。
[反歌四] 粗末な布の着物すら、なかなか着せてやることが出来ず、こうして嘆くのだろうか。どうする手立ても無くて。
[反歌五] あぶくのように脆い命も、千尋の長さであってほしいと願いながら、一日一日を送り過ごしている。
[反歌六] 物の数にも入らない我が身ではあるけれども、やはり千年でも生きられるなら生きたいと思われるのだ。

【語釈】[長歌] ◇玉きはる 「うち」の枕詞◇うち ウツツ(現)のウツの転。現世、この世。「内」で命の意とみる説もある。◇五月蝿なす 「騒く」の枕詞
[反歌]◇絹綿らはも 「はも」は、「絹綿ら」に対する強い執着をあらわす。◇栲縄の 「千尋」の枕詞◇しつたまき 倭文手巻。粗末な織物で作った手首の飾り。ここでは「数にもあらぬ」の枕詞

【補記】903の歌の脚注には「去る神亀二年に作る。但し類を以ての故に更に茲(ここ)に載す」とある。

【他出】[反歌一] 古今和歌六帖、玉葉集

【主な派生歌】[反歌六]
しづたまき数にもあらぬ身なれども恋はうとまぬ物にぞ有りける(待賢門院安藝)
山ふかみ寝覚めのともとしづたまき数にもあらぬすまひなれども(後鳥羽院)
しづたまき数にもあらぬ身なれどもつかへし道は忘れしもせず(藤原秀能[風雅])

男子をのこ名は古日ふるひを恋ふる歌三首 長一首 短二首

世の人の たふとび願ふ 七種ななくさの 宝もわれは 何せむに が中の 生まれでたる 白玉しらたまの が子古日ふるひは 明星あかぼしの 明くるあしたは しきたへの 床の去らず 立てれども れども 共にたはぶれ 夕星ゆふつづの 夕へになれば いざ寝よと 手をたづさはり 父母ちちははも うへはなさかり 三枝さきくさの 中にを寝むと うつくしく しが語らへば いつしかも 人と成り出でて しけくも けくも見むと 大船おほぶねの 思ひ頼むに 思はぬに 横しま風の にふふかに 覆ひ来たれば せむすべの たどきを知らに 白たへの たすきを掛け まそ鏡 手に取り持ちて あまつ神 あふみ 国つ神 伏してぬかつき かからずも かかりも 神のまにまにと 立ちあざり あれめど しましくも けくはなしに 漸々やくやくに かたちつくほり 朝なな 言ふことやみ 玉きはる 命絶えぬれ 立ち躍り 足すり叫び 伏しあふぎ 胸打ち嘆き 手に持たる あが子飛ばしつ 世の中の道(5-904)

反歌

若ければ道行き知らじまひはせむ下方したへの使負ひて通らせ(5-905)

 

布施置きてあれむあざむかずただ行きて天道あまぢ知らしめ(5-906)

【通釈】[長歌] 世の人々が珍重し欲しがる七種の宝も、我らにとっては何であろうか。我ら夫婦の間の、生まれ出た白玉のような我が子古日は、明けの明星輝く朝には、我らの寝床をいつまでも離れず、昼間立ち働いている時も座っている時も、まとわりついてはしゃぎ、宵の明星輝く夕方になれば、さあ寝ようと、手に手を取って、父さん母さんそばから離れないで、三人並んで自分は真ん中に寝ると、可愛らしく彼が言うので、早く一人前になって、良きにつけ悪しきにつけ、成長した姿を見たいと、頼もしく思っていたところ、思いもかけず、横合いから暴風が突然吹きかかって来たもので、なすすべも知らず、白い襷を懸け、鏡を手に持って、仰いで天の神を祈り、伏して国の神に額づき、治るか治らないか、ただもう神の御心のままにと、おろおろとして我らは祈ったけれども、ほんのしばらくも良くはならず、だんだんと顔かたちが痩せ衰え、朝が来るたびに口数が減り、とうとう息が絶えてしまったので、我が身は驚愕して飛び上がり、地団駄踏んで泣き叫び、地に伏しては天を仰ぎ、胸を叩いて嘆いたが、甲斐もなく、我が子をこの手から飛ばしてしまった。これが人の世の道なのか。
[反歌一] 幼いので旅の仕方も知らないでしょう。贈り物は我らがしましょう。ですから黄泉(よみ)の使いよ、我が子を背負ってお行き下さい。
[反歌二] 布施を捧げて私はお願い申し上げます。我が子を惑わすことなく、まっすぐに連れて行って、天への道を教えてやって下さい。

【語釈】[長歌] ◇七種の宝 仏法で珍重する七つの宝。◇明星の 「明くる朝」の枕詞◇夕星の 「夕」の枕詞◇三枝の 「中」の枕詞◇大船の 「思ひ頼む」の枕詞◇横しま風 横から吹きつける突風。思いがけぬ災(おそらく急病)の譬え。◇にふふかに 不詳。「俄に」の意か。◇かからずも かかりも かくあらずも、かくありも。「かく」は子の病んでいる状態を指すので、「治ろうと、治るまいと」程の意になる。◇つくほり 未詳。「くづほり」の誤写かとも言う。◇玉きはる 「命」の枕詞

【補記】巻五の最後に置かれた長短歌三首。作者名は記されていないが、左注に「作者未詳。但し、裁歌の体、山上の操に似たるを以て、この次(つぎて)に載す」旨ある。万葉集の編纂者は山上憶良の作風に似ていることを理由に巻五の憶良歌群の後に置いたのである。

山上臣憶良、沈痾やみこやる時の歌一首

をのこやも空しかるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして(6-978)

右の一首は、山上憶良臣が沈痾る時、藤原朝臣八束、河辺朝臣東人をして、疾める状(さま)を問はしむ。是に憶良臣、報(こた)ふる語已に畢(をは)り、須(しまら)く有りて涕(なみた)を拭(のご)ひ、悲しみ嘆きて此の歌を口吟(うた)ふ。

【通釈】男子たるもの、はるか後世にまで語り継ぐことになる功名を挙げずして、空しく一生を終えてよいものか。

【主な派生歌】
丈夫や命死ぬとも万代に名は朽ちめやも波頭迦志美思倍(はづかしみもへ)(楫取魚彦)


更新日:平成15年09月11日
最終更新日:平成21年04月30日