鹿持雅澄 かもちまさずみ 寛政三〜安政五(1791-1858) 通称:藤太 号:古義軒・山斎

寛政三年(1791)四月二十七日、土佐国土佐郡福井村に生まれる。柳村尉平(やぎむらじょうへい)維則の長子。母はさよ。生家は飛鳥井氏の支流で、新古今集の撰者飛鳥井雅経、新続古今集の撰者雅世を父祖に持つ名家である。しかし雅澄が生まれた頃には家運衰え、父尉平は一代限りの士格を有する白札軽格であった。
十五歳で母を失う。十七歳頃、儒者中村隆蔵に入門し朱子学を学ぶ。やがて賀茂真淵の弟子筋にあたる宮地仲枝の門に入り国学の手ほどきを受けるが、古典の研究はほぼ独学であった。またこの頃から地元の有志と交遊し、万葉調の長短歌を詠作する。殊に同郷の万葉調歌人大倉鷲夫とは相互に影響を受けたと思われる。生涯土佐の国を出ることはなかったが、江戸の国学者清水浜臣と文通によって親しく交際した。
文化十二年(1815)、父の代勤として初めて仕官。文政二年(1819)には土佐藩家老福岡家当主孝則の推挙により藩校教授官下役となる。書写校正の職に就き、藩校の蔵書を自由に閲覧できるようになって、雅澄の学問の進捗に大いに役立ったという。同年十二月、郷士武市半八正久の二女菊子(武市半平太の叔母にあたる)を妻に迎える。同四年には藩主一族に国学・歌学を講ずる役を仰せ付かり、その後も長く侍講を勤めた。同十一年、御証文蔵御番の役に就く。同十二年には本姓の鹿持姓に復し、名を源太より藤太(藤原太郎)に改めた。
天保七年(1836)、妻菊子を亡くし、追慕の歌を数多く詠む。以後、公務と老父・三男一女の世話に忙殺されながらも研究・著述を継続し、天保十五年には長年の功績を賞され藩主より金若干を賜った。弘化三年(1846)、特別の恩恵によって士格に列する栄を得る。この頃自邸の古義軒には雅澄を慕って藩中の若き有志が集い、その中にはのち勤王運動の志士として活躍する武市半平太・吉村寅太郎らもいた。安政初年頃、畢生の大著『万葉集古義』を脱稿。その後も倦むことなく推敲を続けたが、安政五年(1858年)八月十九日、六十八歳で死去した。家集『山斎集』七巻(うち二巻は文章編)がある(短歌の部は校注国歌大系十九に所載)。著書はほかに『南京遺響』『万葉集品物解』『土左日記地理辨』など。
『万葉集古義』は雅澄の生前上梓されることはなかったが、維新後、明治天皇の叡覧する所となり、御手許金が下賜されて明治十二年(1879)、宮内省より公刊の運びとなった。全巻完成は明治二十六年のことである。
以下には『山斎集』より十二首を抜萃した。

  2首  4首  1首  5首 計12首

夕春雨

春がすみ()らふ夕べの春雨に垣内(かきつ)の梅の散りか過ぎなむ

【通釈】春の霞でけぶっている夕方の春雨に、庭の梅は散り失せてはしまいか。

【補記】『山斎集』の排列からすると文化七年(1810)以前、すなわち二十歳以前の作。「霧らふ」「垣内」「散りか過ぎなむ」などは万葉集から学んだ語彙・表現であろうが、揺蕩(たゆた)うような王朝風の情緒も纏綿(てんめん)する。雅澄の資質であろう。

【参考歌】大伴坂上郎女「万葉集」巻八
沫雪のこの頃つぎてかく降らば梅の初花散りか過ぎなむ

夜落花

妹許(いもがり)と夜道を来れば()が乗れる馬の足掻に桜花散る

【通釈】愛しい女(ひと)のもとへと夜道を駆けて来ると、私の乗る馬の足掻きによって桜の花が散る。

【補記】「足掻(あがき)」は馬が前足で地面を掻くように進んでゆくこと。その震動の激しさが桜並木の花を次々に散らせてゆくとした。安政三年(1856)、六十六歳の作。晩年まで雅澄の創作力が衰えることはなかった。

【参考歌】作者不明「万葉集」巻十
妹がりと馬に鞍置きて生駒山うち越え来れば黄葉散りつつ

七夕琴 擬牽牛之意 文政六年七月七日、応女公子命作之

妹が家路近づくらしも天の川川瀬もさやに琴の音きこゆ

【通釈】織姫の家がいよいよ近くなったらしい。天の川の瀬音の中にもさやかに琴の音(ね)が聞える。

【補記】文政六年(1823)七月七日、藩主の姫君の命に応じ、牽牛の心になって詠んだ作。

為文政四年辛巳八月十五日夜月宴、応命預賦海月之題

月読の光を清みわたつみの手纏(たまき)の玉の乱れあへる見ゆ

【通釈】月読の光が非常に清らかなので、海神(わたつみ)の手に巻いた玉が乱れ混じり合う様が見える。

【補記】「月読(つくよみ)」「わたつみ」は、それぞれ月と海を神格化した呼び方。「わたつみの手纏の玉…」は海面に乱れて映ずる月光をこう言いなしたもの。月夜の海景を神話的な世界として描いた。

【参考歌】作者不詳「万葉集」巻十五
(前略)わたつみの 手巻の玉を 家づとに 妹に遣らむと 拾ひ取り 袖には入れて(後略)

為同時月宴、応東殿君命、預詠湖月之題

夜さへに玉藻刈るべみ鳴門の()うづ潮白く月照りにけり

【通釈】夜でさえ海藻が刈れるようにと、鳴門の海では渦潮を白くさやかに見せて月が照っているのだった。

【補記】文政四年(1821)八月十五夜の月の宴の為に、「東殿君」(十代藩主山内豊策の子豊道か)の命に応じて預作した歌。因みに鳴門はワカメの名産地である。

為九月十三夜月宴、応大学君命、賦遊呑海亭看月之題

小簾(をす)巻きて呑めども飽かず(はらみ)()とわたる月の影浮べつつ

【通釈】簾を巻き上げて、いくら見ても見飽きないし、いくら呑んでも呑み飽きない。孕の海は、瀬戸を渡ってゆく月影をずっと浮かべて。

【補記】天保八年(1838)、雅澄四十八歳。「大学君」は藩校総裁山内大隅か。その命に応じ、「呑海亭に遊びて月を看る」の題で詠まれたもの。「孕の海」は高知市浦戸湾。

島 応内藤君初雪十景

海中(わたなか)にかがよひ立てり降りそむる今日のみ雪の真白(ましろ)玉島

【通釈】海のただ中で、きらきら光って揺れるように見える。初めて降った今日の雪に真っ白に覆われて、真珠のような玉島よ。

【補記】天保十五年(1844)。「内藤君」は不詳。「立てり」は「はっきり目に見える」意。「玉島」は浦戸湾に浮かぶ小島。

春海眺望 文政五年七月、門人土居高鞆死去、為四十九日追悼詠

見わたせば大海(おほうみ)の原に立つ霞奥かも知らに無き人思ほゆ

【通釈】見渡せば大海原に果も知れず立ち込める霞――どこまで奧深いことか、我ながら知れないほどに無き人が偲ばれる。

【補記】哀傷歌。

【参考歌】作者不詳「万葉集」巻十七
家にてもたゆたふ命波の上に浮きてし居れば奥処知らずも

同十一、窪津浦作

勇細(いすくはし)鯨寄り()と大海の磯もとどろに船ぞとよめる

【通釈】鯨が海岸に近づいて来たと、大海の磯も轟かすほど船がどよめいている。

【補記】天保五年(1834)十一月、窪津浦(土佐清水市窪津)での作。「いすくはし」は記紀歌謡にも見える「鯨」の枕詞。因みに窪津は今ホエール・ウォッチングの名所である。

【参考歌】笠女郎「万葉集」巻四
大海の磯もとどろによする波かしこき人に恋ひわたるかも

件家西有河、源出蜷川村、号蜷之河、仍詠此歌詞

茵花(つつじはな)にほへる妹が抑へ挿す小櫛(をぐし)の山は見れど飽かぬかも

【通釈】躑躅が咲き匂うように美しい妻が抑え挿す小櫛――その名を持つ小櫛山はいくら見ても飽きることがないよ。

【補記】文化十四年(1817)中秋八月、幡多郡に遊んだ時の嘱目詠七十首より。詞書の「件家」は上川口荘監の安光敬八家を指す。小櫛山は高知県幡多郡大方町上川口にある山。

【参考歌】柿本朝臣人麻呂之集歌「万葉集」巻十三
物思はず 道ゆくゆくも 青山を ふりさけみれば つつじ花 にほえをとめ さくら花 さかえをとめ(後略)
  作者不明「万葉集」巻十三
(前略)大和の 黄楊の小櫛を 押へ刺す うらぐはし子 それぞ我が妻

文政十年丁亥正月元日試筆歌(二首)

男盛(をざかり)の時来向かふと初春を待ち歓べる時もありしを

【通釈】男盛りの時がやって来るのだと、初春を喜んで待った時代もあったものを。

【補記】文政十年は雅澄三十七歳。

()が盛りくだつともよし吾妹子(わぎもこ)が玉の光儀(すがた)()りずありせば

【通釈】私の盛りの時は過ぎて下り坂になるとも良い。我が妻の美しい容姿が古びずにあったなら。

【補記】雅澄の妻は武市半八正久の娘、菊子。勤王の志士武市半平太の叔母にあたる。文政二年(1819)、二十二歳の時、七歳年上の雅澄に嫁ぎ、苦学の夫を助けて所謂内助の功を尽したが、天保七年(1836)、三十九歳で病没した。

【参考歌】大伴旅人「万葉集」巻五
我が盛りいたく降(くた)ちぬ雲に飛ぶ薬はむともまたをちめやも


公開日:平成16年06月12日
最終更新日:平成18年03月20日