亀山院 かめやまのいん 建長元〜嘉元三(1249-1305) 諱:恒仁

後嵯峨天皇の第三皇子。母は西園寺実氏のむすめ大宮院。宗尊親王の異母弟。後深草天皇・月花門院の同母弟。皇后京極院佶子(左大臣洞院実雄女)との間に後宇多天皇を、新陽明門院位子(関白近衛基平女)との間に啓仁親王・継仁親王を、昭訓門院瑛子(西園寺実兼女)との間に恒明親王をもうけた。子はほかに良助法親王・道性・大覚寺統・持明院統略系図
建長元年(1249)五月二十七日、誕生し、同年八月親王宣下を蒙る。正嘉二年(1258)八月七日、立太子。翌正元元年に元服し、同年十一月二十六日、兄後深草天皇の譲位を受けて践祚。十二月二十八日、即位。以後十六年間皇位にあった。文永九年(1272)二月十七日、父後嵯峨院が崩じたが、院の遺志により後深草院は院政をとらず、亀山天皇の親政となった。文永十一年(1274)一月二十六日、後宇多天皇に譲位し、以後は院政を敷く(亀山院を新院、後深草院を本院と呼んだ)。これを不満とした後深草院は出家の意志を示したため、鎌倉幕府は後深草院の皇子熙仁親王(のちの伏見天皇)を皇太子に就けることで融和をはかった。これが皇統分裂――亀山院系統の大覚寺統と後深草院系統の持明院統との対立の発端となる。弘安四年(1281)、蒙古襲来に際し、伊勢神官へ敵国降伏を祈願するための勅使を派遣した。同九年(1286)、評定制の改革を断行するなど意欲的な政治をおこなうが、鎌倉幕府は弘安十年(1287)、後宇多天皇を廃して煕仁親王を即位させ、後深草院の院政が開始した。正応二年(1289)には伏見天皇の皇子胤仁親王(のち後伏見天皇)が立太子し、持明院統の皇統が確保された。同年九月七日、禅林寺において出家、法諱は金剛源。翌年の正応三年三月、内裏に武士数人が乱入し、伏見天皇の暗殺に失敗した末自害するという事件が起こる(浅原事件)。大覚寺統関与の噂があったが、亀山院は幕府に潔白を釈明し、事件は収拾した。晩年は南禅寺に住む。嘉元三年(1305)九月十五日、崩御。五十七歳。
建治二年(1276)七月、藤原為氏に勅撰集編纂を命じ、弘安元年(1278)十二月二十七日、『続拾遺集』として撰進させた。弘安元年(1278)の弘安百首、嘉元元年(1303)頃の嘉元百首などに出詠。続古今集初出。勅撰入集は計百六首。「亀山院御集」の名で伝わる御集は、二種の百首歌を中心として題詠歌を集成したもの。

南禅院庭園と亀山院納骨堂 京都市左京区

  2首  4首  2首  2首  3首 計13首

暁梅

あけやすきなごりぞをしき春の夜の夢より後の梅のにほひは(御集)

【通釈】明けやすい春の夜は、なごりが惜しまれる――夢から醒め、暁闇の中、なお夢うつつの心地で嗅いだ梅の匂いは。

弘長三年二月、亀山仙洞に行幸ありて、花契遐年といふことを講ぜられし時

たづねきてあかぬ心にまかせなば千とせや花の陰にすぐさん(続古今1861)

【通釈】ここ亀山殿に桜の花をたずねて参りまして、見飽きない心のままに任せましたなら、千年でも花の蔭で過ごしてしまうでしょう。

【補記】弘長三年(1263)二月十四日、亀山仙洞すなわち後嵯峨院の御所亀山殿に亀山天皇が行幸、その際催された歌会での作。当日の様子は『増鏡』「北野の雪」に詳しい。題の「花契遐年」は、「花、遐(はるか)なる年を契(ちぎ)る」と訓める。

初秋

あまつかぜ空にたちつつあらかねの土の色にぞ秋もみえける(嘉元百首)

【通釈】天を吹き渡る風が空にはっきりとあらわれる一方で、地上の土の色に秋のけはいが見える。

【補記】嘉元元年(1303)頃に詠まれた百首歌。「あらかねの」は「土」の枕詞。夏と秋では、土の色もおのずと異なる、という発見。

暮天聞雁といへるこころを

とほざかる声ばかりして夕ぐれの雲のいづくに雁のなくらん(続拾遺268)

秋の歌の中に

おしなべて月やひとへにやどるらん花の千種(ちくさ)の秋の白露(続後拾遺346)

【通釈】どこもかしこも月の光がひとしなみに宿っているのだろうか、さまざまな種類の花が咲き乱れる秋の野の白露に。

【補記】「ひとへ」と「ちぐさ」、すなわち「一」と「千」の対比。花の種類は多いが、月の光は一様に露に宿っている、という趣向。弘安百首。

【参考歌】藤原為氏「弘長百首」
色々にうつろはんとや宮城野の花のちくさの秋のしら露

紅葉をよませ給うける

もみぢ葉を今ひとしほとことづてむ時雨るる雲の末のやまかぜ(続拾遺361)

【通釈】紅葉を今ひとたび、いっそう鮮やかに染めてくれと、言伝てよう。時雨を降らした雲のあとに吹く山風よ。

【補記】時雨は紅葉の色を鮮やかにするとされたので、時雨雲を呼び戻してくれと風に呼び掛けた。「ひとしほ」は布を染料に一度浸すこと。「一層、ひときわ」の意にもなる。

冬の御歌の中に、野冬月といふ事をよませ給うける

さびしさは色も光もふけはてて枯野の霜に有明の月(新続古今640)

【通釈】夜は更け果て、草木の色も月の光も、寂しさはこれ以上ないほど深くなって――枯野に降りた霜に映る、有明の月。

【補記】「色も光も」は月の色・光であり、また枯野の草木の色でもある。亀山院御集収録の年代不明の「詠百首和歌」。

弘安元年百首歌めされけるついでに

いつしかと霜こそむすべをざさ原冬の日数の一夜ふた夜に(新続古今1769)

【通釈】いつの間にか霜が結んでいた、小笹原。冬になって日数はまだ一夜二夜しか経っていないのに。

【補記】「一夜ふた夜」の「よ」には「節(よ)」の意が掛かり、笹の縁語になる。

【参考歌】藤原定家「千載集」
冬きては一よふたよを玉ざさの葉わけの霜のところせきまで

恋の心をよませ給うける

海山のはても恋路と思ふにはあはれ心をいづちやらまし(続千載1247)

【通釈】海や山を越えてゆく遠路の果ても恋の道だと思うにつけ、ああ、心をどこへ遣って晴らせばよいのだろう。

【補記】「どこへ行っても恋の思いはついてくる」との思い。

暮秋別恋

とどまらぬならひありとはなぐさめて秋も別れぬきぬぎぬの空(御集)

【通釈】惜しんでも留まらぬ例があるのだと慰めて、悲しい秋の季節だが恋人と別れてきたよ、きぬぎぬの朝の空を。

【補記】「きぬぎぬ」は、共に一晩を過ごした恋人同士が明け方に別れること。秋との別れと恋人との別れを重ねて詠み、季節の去りゆく必然によって、人との別れを自らに納得させようとする。

山家の心を

さびしさも誰にかたらん山陰の夕日すくなき庭の松風(新後撰1362)

【通釈】この寂しさも、誰に語ろうか。山陰の、夕日がわずかしか射さない庭を吹き過ぎる松風……。

【補記】光を量でとらえる「夕日すくなき」は当時にあって新鮮な表現。

百首歌よませ給うける時、暁

しづかなるねざめ夜ぶかき暁の鐘よりつづく鳥のこゑごゑ(新後撰1353)

【通釈】静かな寝醒めの折の、まだ夜深く感じられる暁の鐘――それに続いて聞こえる、鳥の声々。

【補記】嘉元百首。新後撰集撰進のため後宇多院が命じた百首歌。

【参考歌】式子内親王「新古今集」
しづかなる暁ごとに見わたせばまだふかき夜の夢ぞかなしき

思ひ寝のおもふままなる夢の(うち)にさめてまさらぬうつつなりけり(嘉元百首)

【通釈】そのことを思いながら眠りにつき、思うままが実現される夢の中にあって、目覚めた後の現実は夢よりも褪せているのだった。

【参考歌】津守国冬「嘉元百首」「続後拾遺集」
思ひ寝の心のままに夢は見つうつつぞ歎くかひなかりける


公開日:平成14年09月29日