大隈言道 おおくまことみち 寛政十〜慶応四(1798-1868) 号:池萍堂(ちひょうどう)・篠廼舎(ささのや)

筑前国福岡薬院町の裕福な商家に生まれる。父は茂助言朝。母は信国又左衛門光昌女。本姓は舎人親王の流れを汲む清原氏。通称、清助。
幼少期から二川相近に歌と書を学ぶ。早くに父を亡くし、やがて家業を継ぐが、三十九歳になる天保七年(1836)、和歌に専念するため家督を弟に譲り、那珂郡今泉村に隠棲して自宅を池萍(ちひょう)堂と号した。香川景樹に私淑しつつ独自の作風を志して歌作りに励む。天保十年(1839)四月、豊後日田の儒学者広瀬淡窓を訪ねて入門し、以後漢学を学ぶ。同十四年、妻を亡くす不幸に遭うが、弘化年間(1844〜1847)頃には歌人として名を知られるようになり、弟子も増えて、たびたび月次歌会などを催すようになった。安政四年(1857)、六十になる年、福岡を出て難波に移住し、中之島の寓居を観水居と号した(のち今橋・天満と転居)。大坂での歌集出版を目指して自作の歌の選出に着手し、文久三年(1863)三月、自撰家集『草径集』三巻を版行、大坂・江戸・京都で販売された。またこの間、熊谷直好中島広足八田知紀・佐佐木弘綱・萩原広道らと交流を持つ。晩年は中風を病んで福岡に帰郷し、慶応四年(1868)七月二十九日、池萍堂で死去した。七十一歳。福岡薬院の香正寺に葬られる。門弟に野村望東尼がいる。
きわめて多作で、生涯の作歌十万余首と伝わる。嘉永元年(1848)に家集『甲辰集(こうしんしゅう)』を編んだのを始め、『己酉集(きゆうしゅう)』『庚戌集(こうじゅつしゅう)』『辛亥集(しんがいしゅう)』『壬子集(じんししゅう)』と年々の集を編み続けた。遺著に家集『続草径集』、自筆稿本『大隈言道家集』(『戊午集(ぼごしゅう)』と『今橋集』から成る)、歌論『ひとりごち』『こぞのちり』などがある。
死後、長く世に埋もれていたが、明治三十一年、東京神田の古書店でたまたま『草径集』を手に取った佐佐木信綱はその新鮮な歌風に驚嘆、当時編纂中であった『続歌学全書』に『草径集』三巻を収め、以後広く世に知られるようになった。

「彼の歌風は、構想の洒脱軽妙、観察の微細であつて、かつ斬新奇抜、従来の歌人が詠み出でなかつた境地を自由によみこなし、総じて印象明瞭、生趣溌剌たるものがある。修辞上からいつても、用語の新しく自由であつたこと、好んで擬人法を用ゐて巧みであつたこと等、たしかに特色を有してゐた(佐佐木信綱『近世和歌史』)。

「古人は師なり、吾にはあらず。吾は天保の民なり、古人にはあらず。みだりに古人を執すれば、吾身何八何兵衛なることを忘る。(中略)善き歌よまむと欲せば、まづ心よりはじむべし。心を種としてわが歌を詠ずるに、全く似ざるを以て古人にちかしとす。古人によく似たるを以て古人に遠しとす」(大隈言道『ひとりごち』)。

【おすすめ関連書籍】

以下には『草径集』(続歌学全書八・校註国歌大系十九・岩波文庫・新編国歌大観九など)と『大隈言道全集』(歌文珍書保存会・日本古典全集・日本名著全集)より六十余首を抄出した。『草径集』から採った歌については、末尾に上中下の巻別と新編国歌大観番号を記した。

  15首  3首  13首  5首  28首 計64首

梅香

いづこにか咲けると見れど花もなしこころの香なる梅にやあるらむ(中486)

【通釈】どこに咲いているのかと見回すけれども、花などありはしない。梅と思ったのは心の香であるのだろうか。

【補記】誰しも覚えのあるような錯覚であろうが、和歌でこのように言った――心象としての梅の香を「こころの香」とずばり表現した――のは言道のこの歌が最初であろう。安政六年(1859)に難波で浄書した自撰家集『今橋集』下巻にも見える歌。五十代後半か六十歳頃の作と思われる。

帰雁

かへる雁帰りて春もさびしきに(わらは)のひろふ小田のこぼれ羽(上2)

【通釈】帰雁が北へ帰って、春も寂しくなった折柄、子供が田に落ちた雁の羽を拾っている。

【語釈】◇かへる雁(かり) 帰雁。春に北へ帰る雁。◇小田(をだ) 「小(を)」は特に意味のない接頭語。

【補記】雁の落とした羽を拾う童子の戯れに、それを眺める大人も寂寥を紛らしているようだ。帰雁という伝統的な主題に、清新な趣致を持ち込んだ。『今橋集』下巻にも見える歌。

春夢

まどろめば野をちかづけて枕べにあるここちする菫さわらび(上11)

【通釈】まどろむと、菫の花が咲き、早蕨が芽を出している野を、枕辺に近づけて、眼前にありありとしているような心地がする。

早蕨
早蕨 芽吹いて間もない蕨

【語釈】◇さわらび 早蕨。春、芽を出して間もない蕨。◇野をちかづけて 野の方から近づいて来るのでなく、自分のもとに野を引き寄せたような言い方をとったことで、野の草木に対する能動的な心情が出た。因みに『戊午集』巻二では「野べちかづきて」とあり、「野をちかづけて」は旧案として傍記している。『草径集』に収める時、もとに戻したのであろう。

【補記】夢うつつの状態で、昼間に見た野辺の景色がよみがえり、枕のすぐそばに菫の花や早蕨があるような心地になっている。はかないものとして詠むのが常套であった「春の夢」を、まざまざとした快夢として詠んで新鮮。自筆歌稿をもとにした『大隈言道全集』では『戊午集』巻二に収められており、嘉永六年(1853)以後四年間、すなわち作者五十代後半の作。

【参考歌】藤原俊成「千載集」
過ぎぬるか夜半の寝ざめのほととぎす声は枕にある心ちして

春雨

春雨のこさめさびしみ(ひさご)さへふるに音せぬ夕ぐれの宿(上26)

【通釈】春雨のこまかな雨が音もなく降るのが寂しいので、瓢箪を振ってみるが、それさえ音を立てない夕暮の家よ。

【語釈】◇瓢 瓢箪。酒の容器に用いた。◇ふるに音せぬ 「ふる」は「降る」「振る」の掛詞。伝統主義的な詠風に異を唱えた言道であるが、掛詞はしばしば用いている。◇宿 すまい。和歌では自宅も旅宿も区別せず「宿」と呼んだ。

【補記】春雨の降る宿の閑寂を詠み、一見旧来の題詠の情趣に従っているかのようであるが、無聊の原因が何より酒の無いことであると、掛詞によって気づかせる。旧套を脱した風雅と言える。体言止めにより時間と場所を示して結んだのも巧いが、一首のまとめ方としてありきたりではある。嘉永三年(1850)、五十三歳の作。

【鑑賞】「この歌、必ずしも深い心境を出して居る訳ではないが、春雨の降る夕方の気分――それも初老に近い人のもつ気分――は、巧みに捉へられてゐる。この歌などが、言道の歌がもつ明るい気分を最も素直に出して居る佳作でないかと思ふ」(半田良平『新釈大隈言道歌集』)。

尋花

咲く花を尋ねてゆけばいつよりか去年(こぞ)()し道に道はなりきぬ(上36)

【通釈】咲く花を求めてゆくと、いつの間にか、歩いている道は去年来たのと同じ道になっていた。

【補記】去年の花見の記憶がありありとよみがえる瞬間を、極めて平淡な表現で言いおおせている。「道」という語を繰り返し用いているのは言道の意識的な手法。同語の反復は従来歌病(かへい)として忌まれたものであるが、彼の歌では効果を上げている場合が少なくない。前掲の歌でも「かへる雁帰りて」「春雨の小雨」など、その例である。『戊午集』巻二、五十代後半の作。

まどろめばよりそふ(ねや)の柱さへ花の一木(ひとき)のここちこそすれ(甲辰集)

【通釈】花見から家に帰り、臥処(ふしど)の柱に寄り添ってウトウトしていると、その柱さえ花咲く一本の樹のような心地がしてくるのだ。

【補記】『草径集』では「一木花」と題し、下句は「一木の花のもとごこちする」としている(上巻54)。「花のもとごこち」というような言い方は言道独特の圧縮表現であるが、少々無理があるように思え、ここでは『大隈言道全集』の『甲辰集』より採った。同集は嘉永元年(1848)の編、四十七歳から五十一歳までの五年間の作を集める。

里花

わがやどる竹の下道みち折れてむかへば花のおほむらの里(下771)

【通釈】私が宿をとっている所の竹林の下を通る道――その道を途中で折れて、まっすぐ行けば、桜の花が多い大村の里である。

【語釈】◇おほむらの里 今の長崎県大村市か。大村公園(玖島城跡)は現在桜の名所であるが、言道の当時はどうだったか不明。「おほ」に「多」の意を掛ける。

【補記】花見のために宿をとったのだろう。桜の名所の里へと向かう心の弾みが感じられる。「竹の下道」から「花のおほむらの里」へ、景の展開も清々しく想像される。

花見れば花にも我が身見られけり友となるべき姿をもせで(戊午集)

【通釈】桜の花を見ていると、私自身も花に見られているのだった。私の方は彼の友達になれるような姿をしていないけれども。

【補記】人も花に見られているのだと詠んだ歌は古くからあるが、そこからさらに花と自身との関係をめぐる内省へと心を屈折させた歌は未曾有であろう。このような歌を読むと、言道の多用した擬人法が決して歌作りのための便法でなく、彼の生得の気質に根差していたことが思われる。『戊午集』巻三、五十代後半の作。『草径集』には採られていない。

【参考歌】藤原道信「拾遺集」
朝顔を何はかなしと思ひけん人をも花はさこそ見るらめ

故郷花

故郷(ふるさと)の人にゆづりし家桜なほ我がものの心はなれず(中543)

【通釈】郷里の人に譲ってしまった家桜、あれは今なお私のものである気がして、いつまでもあの木から心が離れずにいる。

【補記】引き払った故郷の家屋敷に残して来た桜の木への愛着。『今橋集』下巻にも見え、五十代後半か六十歳頃の作と思われる。同集では第二句「人にゆづりし」が「人のになしし」となっている。

落花

目のまへにまだ散るべくはなけれどもうつろはしげに花は見えきぬ(中546)

【通釈】目の当たりにすると、まだ散りそうにはないけれども、何となく盛りが過ぎたように花は見えてきた。

【語釈】◇うつろはしげ 盛りが過ぎて花を散らせそうな気配。

【補記】「…しげ」「…がほ」などの言い方を、言道は自然詠に好んで用いた。常に山川草木鳥獣虫魚の「表情」を探っていたかに見える。安政六年(1859)に難波で清書した家集『今橋集』下巻にも見える歌。

群鳥

さまざまの鳥おもしろき夕花にまたくははりぬ(ひは)の一むら(下819)

【通釈】さまざまの鳥が集まって面白い夕方の桜の花に、また鶸の一群が加わった。

【語釈】◇鶸 アトリ科ヒワ亜目に分類されるヒワの類。マヒワ・カワラヒワ・ベニヒワなどがあるが、単にヒワと言えば普通マヒワを指す。マヒワは胸などの毛が明るい黄色で目立つ。冬鳥。

【補記】夕映えする白い山桜に集まる、色とりどりの鳥。そこへさらに黄色鮮やかな鶸が加わって、ひとしおの彩を添えた。

晩鐘

いつよりか入相の鐘は鳴りつらむ心づきたる果ての一声(上64)

【通釈】いつから入相の鐘は鳴っていたのだろう。終りの一声になって初めて気づいたのだった。

【補記】「入相(いりあひ)の鐘」は日暮れに撞く寺の鐘。晩鐘とも。和歌では一日の暮を告げる悲しい響きとして、あるいは生のはかなさの象徴として詠むことが多かった(【参考歌】参照)が、掲出歌はそうした伝統的趣向を離れ、日常のふとした事柄として詠みつつ、なおある種の象徴性を漂わせる歌となっている。『草径集』の排列では春の歌群(桜の歌群の間)に置かれており、歌そのものに春という季節を示す要素はないが、春の夕暮の無聊を思いつつ読むべきところであろう。『戊午集』巻五、五十代後半の作。

【参考歌】寂然法師「新古今集」
今日すぎぬ命もしかとおどろかす入相の鐘の声ぞかなしき

流れくる花に浮びて(そば)えてはまた瀬をのぼる春の若鮎(上90)

【通釈】桜の花が流れて来る水面に浮かび上がり、花びらに戯れては、また瀬を泝ってゆく春の若鮎よ。

【語釈】◇若鮎 鮎の稚魚は海や河口付近で成長し、春に川を遡る。

【補記】言道の自讃歌。自筆歌稿に「新景かばかりはいできがたしかし」(新しい景、これほどの歌はなかなか出来ないものだ)と添え書きがある。若鮎の生命がぴちぴちと輝いている傑作。『戊午集』巻三、五十代後半の作。

山吹

山吹の一重に咲くを()でながら八重なる見れば八重ぞまされる(上100)

【通釈】山吹が一重に咲いたのを賞美しながらも、八重の花を見るとやはり八重の方がすばらしい。

八重山吹 鎌倉市二階堂にて
八重山吹

【語釈】◇山吹 晩春、黄色い花が盛りを迎える。一重の花が先んじて咲き、八重は少し遅れて咲く。色は後者の方が濃い。

【補記】古来和歌では一重よりも八重山吹の方が愛でられた。下記参考歌はその一例として挙げたものであるが、言道のは一重と八重を風流心から比較しているのでなく、平生の心のうつろいやすさを山吹の美しい花とのかかわりの中で肯定している歌である。全集では『甲辰集』に所載、四十七歳から五十一歳までの間の作。

【参考歌】藤原長能「詞花集」
一重だに飽かぬにほひをいとどしく八重かさなれる山吹の花

つばめ

大殿の高き軒端のつばくらめはるかに見れば今ぞ巣がくる(中568)

【通釈】大きな邸宅の高い軒端にいる燕は、遥かに見上げると、ちょうど今、盛んに泥や草を運んでは巣を掛けているのだ。

【語釈】◇大殿(おほとの) 高貴な人の住む大きな邸宅。宮殿を指すこともある。

【補記】言道の写生歌を代表する作としてしばしば引き合いに出される一首。『今橋集』下巻にも見える。

夏草

猫の子の首の鈴金(すずがね)かすかにも音のみしたる夏草のうち(上166)

【通釈】子猫の首にかけた鈴の音ばかりが、夏草の繁る中にかすかに聞こえた。

【語釈】◇鈴金 金属製の鈴。

【補記】丈高く繁った夏草に姿は隠れているが、聞き馴れた鈴の音から子猫が歩いていると知った。煩いものとして詠まれることの多かった夏草を、なんとも可憐な趣向の歌に生かしたものである。自筆歌稿をもとにした『大隈言道全集』では『戊午集』巻一に収められており、嘉永六年(1853)以後四年間の作。

すずみ

たそかれとわかずなりゆく橋のうへに声知る人のつどふ頃かな(上178)

【通釈】黄昏になり、誰が誰とも見分けがつかなくなってゆく橋の上で、声からそれと知れる人々が夕涼みに集まる頃であるよ。

【語釈】◇たそかれ 黄昏の語源「誰そ彼」を生かした掛詞。◇声知る人 声によって誰と判別できる人。近所の親しい人たちである。

【補記】橋の上は川風が通るため、夕涼みに絶好の場所。但し掲出歌は涼しさという感覚でなく、納涼という風俗に対する感興が一首の主題となっている。時代の風が偲ばれる歌である。全集では『甲辰集』に所載。

山梨子(やまなし)

深山(みやま)よりうつし植ゑにし山梨のましろき花ぞ夏はすずしき(下835)

【通釈】山奧から庭に移し植えた山梨の真白な花が、夏は涼しげである。

【語釈】◇山梨 バラ科の落葉高木。初夏、純白の花を咲かせる。実は梨に似るが、小さくて堅く、食用に適さない。花は平安時代から和歌に詠まれた。

【補記】深山の気(け)さえ庭に移したかのように清涼と咲く山梨の花。「山梨の花のそれのやうに簡素を極めた佳い歌である」(半田前掲書)。

蜻蛉

かげろふの(はね)づくろひも涼しきに(ちがや)が末をすぐる秋風(下861)

チガヤ
茅(ちがや)

【通釈】とんぼが羽づくろいをするさまも涼しげなところに、秋風がちがやの先端を吹いて過ぎてゆく。

【語釈】◇かげろふ とんぼの古名。◇羽づくろひ 普通は鳥が嘴で以て羽をつくろうことを言う。とんぼの場合、脚の先で羽を伸ばすしぐさを言うのだろう。とんぼの擬人化ならぬ擬鳥化、この作者の発想の、そして詞遣いの自在さを思わせられる。◇茅 イネ科の多年草。野原などに群生する。夏、白い穂が出る。

【補記】夏の間に高く伸びたチガヤ。とんぼはその先端に羽を休めていたのだろう。薄い透明な羽がかすかに動くさまに涼感をおぼえていたところへ、通り過ぎる風はすっかり秋風であると知る。『戊午集』巻五、五十代後半の作。

初秋

きのふよりさらにも空の秋めきて色かはりこし日かげ月かげ(上232)

【通釈】昨日より今日はさらに空が秋めいて、日の光も月の光もおもむきが変わって来た。

【語釈】◇色 見た目の様子・感じ。色彩のみを意味するのではない。

【鑑賞】「取り出でてこれといふ程の作ではないが、捉へどころのないやうな季節の全局的変化を、兔も角これだけ纏まつた感をもつ歌としたのは、注目に値ひする。『いろ変りこし日かげ月かげ』といふ句も、あつさり詠み去つて居て、しかも印象の鮮やかなのがいゝ」(半田良平『新釈大隈言道歌集』)。

初秋

秋立ちて(もず)鳴く野べの静けさに萩のさかりはいつかとぞ思ふ(下862)

【通釈】立秋となって、もずが鳴くばかりの野辺の静けさに、萩の花の盛りはいつかと思うのである。

【語釈】◇鵙 百舌・百舌鳥とも書く。秋・冬、高い梢から鋭い鳴き声を響かせる。

【補記】蝉の声が止んだ初秋の頃はことさら「静けさ」を感じる季節である。鵙の鋭い鳴き声が一瞬その静寂を切り裂き、またもとに戻ると、静寂はひとしお深まる。その静けさの中で、やがて迎える萩の盛りをしみじみと楽しみに思い遣っている。

まめ

わりて見るたびにおもしろしいついつも並べるさまの同じさや豆(下869)

【通釈】割って見るたびに面白い。いつもいつも、並んでいる様子が同じ莢豆は。

【語釈】◇さや豆 莢に入った豆。

【補記】いつも違うから面白いのでなく、いつも同じだから面白いと言う。この「おもしろ」さの発見は面白い。

大路月

ただひとり夜ふけてゆけば行く月と我とのものぞ広き大路(おほぢ)(上256)

【通釈】たった独りで夜更けに歩いていると、空を渡ってゆく月と私と、二人だけのものであるよ、広い大路は。

【語釈】◇夜ふけてゆけば 夜が更けて歩いて行けば。◇行く月 空を行く月。動詞「行く」の重出は、この歌にあっては瑕瑾である。

【補記】街灯と車のライトでひっきりなしに照らされる現代の夜の「大路」では、もはや味わい得ない贅沢である。全集では『壬子集』に見え、嘉永五年(1852)、五十五歳の作。

独居月

かくれゐて我があと去らぬ影法師(かげぼふし)ゐならびてだに月を見よかし(上265)

【通釈】いつも私の背後に隠れつつ、去ることはない影法師よ。隠れてばかりいないで、時にはせめて並んで座ってでも月を見ろよ。

【語釈】◇かくれゐて 影は常に光の反対側にある。それゆえ「隠れ居て」と言っている。

【補記】月を独り眺める寂しさに、おのれの影に対して友のように呼びかけた。発想の少し似た歌に「春暮れて永き日さびし山彦も独りごちだに今日はせよかし」(中608)と山彦に呼びかけた歌がある。

【参考歌】西行「山家集」
もろともに影を並ぶる人もあれや月のもりくる笹の庵に

雨中出月

かきくらし雨はふれども嶺の月こころのうちに出づる頃かな(下910)

【通釈】空を暗くして雨は降るけれども、峰に隠れていた月が、心の中で昇る頃であるよ。

【補記】現実には雨雲に隠れている月を、心中に眺めている。『己酉集』では題「雨中思月」、第三句「月の影」。嘉永二年(1849)、五十二歳の作。

山寺

山寺の秋さびしらに仏達ただならびてもおはすばかりぞ(上284)

【通釈】山寺の秋を訪ねて見れば、仏たちが寂しげにただ並んでいらっしゃるばかりである。

【語釈】◇さびしら 寂しげなさま。「ら」は状態を表わす接尾語。古歌では「物わびしらに」(何となく侘しげに、の意)などと使われた。

【補記】『戊午集』巻五、五十代後半の作。

【参考歌】凡河内躬恒「躬恒集」
山ふかみ人にも見えぬ鈴虫は秋わびしらにいまぞ鳴くなる

きちかう

(わらは)どち(わろ)(たはぶ)れ一つだに咲けば摘み取るきちかうの花(上290)

桔梗 鎌倉海蔵寺にて
桔梗の花

【通釈】子供たちが悪ふざけをして、一つでも咲けばすぐに摘み取ってしまう桔梗の花である。

【語釈】◇きちかう 桔梗。秋の七草の一つ。夏から秋にかけて青紫または白の花が咲く。

【補記】言道は子供の生態を好んで歌に詠んだ。ここに取り上げなかった歌では「答へする声おもしろみ山彦を限りもなしに呼ぶわらはかな」「いくばくの劣り勝りも見えぬ子の負へる負はるるあはれなるかな」「幼げもはやなくなれる童さへ背に負はるるや楽しかるらむ」など、可憐な歌が多いが、掲出歌のように子供の無邪気な残忍さも嫌わず歌にしている。そこが言道のユニークなところである。『戊午集』巻三、五十代後半の作。

市初雁

空せまく見ゆる市路(いちぢ)は見るたびに過ぎぬるあとの初雁の声(上297)

【通釈】道の両側に家が建ち並んでいるため空が狭く見える街路では、毎秋、初雁の声を聞いて見上げるたび、雁の列は既に通り過ぎてしまったあとである。

【語釈】◇初雁(はつかり) 秋、最初に渡って来る雁の群。

【補記】初物を慶んだ当時の人の心情として、初雁の姿を目にしたい思いは強かったのだろう。「見るたびに」とは毎年繰り返すこととしてこう言うのである。因みに言道は福岡の中心部の商家に生まれ育った都会っ子である。『戊午集』巻五、五十代後半の作。

山夕日

はてもなき山の裾野のすすき原とほくゆけるは夕日のみして(上298)

【通釈】どこまでも山の裾野を覆って続く芒原――歩いて行く人の影はひとつも見えず、遠くその果てまで至り着くものとては、今にも沈もうとしている夕日ばかりで…。

【語釈】◇はてもなき 「すすき原」に掛かる。

【補記】「とほくゆける」は夕日を旅人のように見なしての謂。擬人法は言道が執した技法であるが、この歌では太陽までも擬人化してしまったわけである。『大隈言道全集』では『壬子集』に収められている。嘉永五年(1852)の作。

閑居松子落

目のまへにひとつ落ちたる松の実のさらにも落ちず暮るる今日かな(上305)

【通釈】目の前で一つ地面に落ちた松毬(まつかさ)――それがもう一つ落ちるかと見守っていると、再び落ちることはなく、静かに暮れてゆく今日一日であるよ。

【語釈】◇松の実 ここでは松毬(松ぼくり)をこのように言っている。その中にある種子が成熟して放出されると、松毬は枯れて地上に落ちる。

【補記】松の下の庵で過ごす静かな日々にあっては、松毬が落ちるのも一つの事件なのであろう。松毬の落下は季節を問わないが、『草径集』では秋の歌群にあり、秋の夕暮として味わえば寂寥感はひとしおである。弘化元年(1844)から嘉永元年(1848)の間の作。因みに『草径集』中巻(591)には「閑居夕庭」の題で「これのみや今日はありつることならむ松の実一つ落ちし夕ぐれ」という同想の歌がある。

秋ふけて湊辺(みなとべ)寒くなりぬらむ蕎麦(そば)うりめぐるさ夜中の舟(今橋集)

【通釈】秋も更けて、湊のあたりは湊風が吹きつけ、寒くなったのだろう。夜中に舟が蕎麦を売り巡っている。

【補記】難波の港には客船に漕ぎ寄せて乗客に蕎麦等を売る小舟があったという。『草径集』では上巻309に見え、題「秋港」、第二句「みなとや寒くなりぬらむ」とする。『大隈言道全集』の『今橋集』の形がすぐれていると思われ、そちらから採った。同集は安政六年(1859)、難波で近作から選抜して成った言道の家集。

都時雨

東山のぼりも果てずまづ見れば都のしぐれ鳥羽にすぎゆく(上362)

【通釈】東山を登り切らないうちに一先ず都を眺めると、時雨は洛外の鳥羽へと通り過ぎてゆく。

【語釈】◇東山 京都賀茂川より東に連なる山々。◇しぐれ 時雨。晩秋から初冬にかけ、京都盆地などによく降る通り雨。晴れたり降ったりを目まぐるしく繰り返すことが多い。◇鳥羽(とば) 山城国の歌枕。京の南郊、いま京都市南区・伏見区に地名が残る。鳥羽田と呼ばれる広大な田地があった。

【補記】洛中の甍を濡らした後、洛外鳥羽の広々とした田地へと過ぎてゆく時雨。よく知られた京の地名が利いて、風雅な一首となった。言道には珍しいタイプの歌であるが、こうした歌も詠もうと思えば幾らも詠めたのだろう。『戊午集』巻五、五十代後半の作。

海時雨

海ひろき勝浦(かつら)の浦の沖にいでてふりはなちたる初時雨かな(上364)

【通釈】広々と海原のひろがる勝浦の浦の沖に出て、とうとう雨を解き放った、今年最初の時雨よ。

【語釈】◇海ひろき 海が広いのは当たり前であるが、ここは入江をなす「勝浦の浦」の狭さに対して、その沖の広さを強調して言っている。◇勝浦 福岡県玄海町・津谷崎町にわたる海岸。◇ふりはなちたる 振り放つように雨を降らせた。「ふり」は「降り」「振り」の掛詞。

【補記】言道は歌論書『ひとりごち』で「博多福岡にすみながら、その地を詠める歌当世少なきは何ぞ」と疑問を呈している。実情実感を重んじた彼は滅多に歌枕を詠まなかった代りに、親しんだ福岡の土地をしばしば歌に詠んだ。『戊午集』巻三、五十代後半の作。

【鑑賞】「これも初時雨を擬人化した歌である。しかしこゝの擬人化は、さう際立つて眼につかぬからいゝ。初句の『海広き』、第四句の『降りはなちたる』、何れも的確を極めて、それ以上に妥当な句があるべく思はれぬ。秀歌といつてよい」(半田良平『新釈大隈言道歌集』)。

聞時雨

思ふどち語らひやめて小夜中(さよなか)の時雨にのみも音せさせけり(下944)

【通釈】親しい友達同士、語り合うのをやめて、夜中に降り出した時雨に聞き入り、その間は雨にばかり音をさせたのであった。

【補記】趣深いものとされた時雨の音を、夜、しかも友人同士の楽しい語らいをやめて耳を傾けるという場面の仕立て方がすぐれている。「時雨にのみも音せさせけり」は妙な言い回しであるが、「聞きけり」などと言うのより「音」が際立つ言い方であろう。

寒灯

ただ一つのこるともしび火ながらも冬の夜更けて(かげ)ぞ寒けき(中706)

【通釈】一つだけ残った灯火は、火でありながらも、冬の夜が更けて見ると、その光は寒々としている。

【補記】難波で浄書した家集『今橋集』下巻にも見える歌。五十代後半か六十歳頃の作。

【参考歌】源通具「新古今集」
霜むすぶ袖のかたしきうちとけて寝ぬ夜の月の影ぞさむけき

起き出でてわが寝(ぬく)めの麻衾(あさぶすま)をしくもさます冬のあかつき(上437)

【通釈】起き出して、寝ている間暖めていた麻衾の温もりを、惜しいことにも冷ましてしまう冬の暁であるよ。

【語釈】◇麻衾 麻布で作った夜具。粗末な掛け布団。

【補記】誰しも感じるが、誰しも歌にならないと決めてかかってしまうような日常の些事を取り上げて彼は歌にした。その点では近代以後の写実派あるいは生活派歌人たちよりも徹底しているのではないだろうか。

泊船

窓に窓むかひあひたる大船の一夜どなりのなつかしげなる(上112)

【通釈】窓と窓が向かい合っている二艘の大船――たまたま一夜隣り合わせになった同士、親しげな感じがする。

【補記】港に停泊して、偶然向かい合わせになった船の窓。「なつかし」と感じるのは窓明りの向うにいる旅人を思えばこそなのだろうが、歌の上では単に窓が隣り合っていることを「なつかしげ」と言っている。そこが巧いところであり、歌を面白くしているところである。嘉永六年(1853)以後四年間の歌を集めた『戊午集』巻一。

旅中雨

ゆくゆくも時雨にぬれて見入るれば焚く火にあたる家もありけり(上476)

【通釈】時雨に濡れながらも歩き続け、人家の窓を見つけて覗き見ると、焚火にあたっている家もあるのだった。

【補記】冷たい雨に降られる旅人と、火を焚いて暖まる家庭との対照は、旅歌の趣向として常套の域であるが、「ゆくゆくも時雨にぬれて」など詞遣いのみごとさで生きた歌であろう。全集では『庚戌集』にある。嘉永三年(1850)、五十三歳の作。

風車

(いも)が背にねぶる(わらは)のうつつなき手にさへめぐる風車(かざぐるま)かな(上152)

【通釈】妻の背中で眠っている子の夢心地の手――その手に握られたまま、なおも廻り続けている風車よ。

【語釈】◇妹 上代の歌に由来する語で、妻あるいは恋人など特別に親しい関係にある女性に対する呼称。◇うつつなき 正気を失った。夢ごこちの。

【補記】言道の歌の中では最も有名な作であろう。駆けて遊んでいた時も、母の背でまどろんでいる時も、幼な子の手に握られて廻り続ける風車。それは無垢な童心の象徴にほかなるまい。ウトウトしながらも手から離さずにいるのは、風車が子にとってそれ程大切なものだからである。それが「うつつなき手にさへ」に籠められた余情である。

少女

今日見れば少女(をとめ)になりぬ去年(こぞ)までは一足しても飛びしならずや(上449)

【通釈】今日見ると、すっかり娘らしくなっていた。去年までは、片足で以て飛び跳ねていたではないか。

【語釈】◇一足しても飛びし 片足跳び、いわゆる「けんけん」遊びのことであろう。

【補記】全集では『庚戌集』にあり、嘉永三年(1850)、五十三歳の作(『今橋集』にも重出)。同じ頃の歌に「さかしらに笑ひ語らひおとなにも我なり顔の郷(さと)のをとめ子」があり、顔見知りの近所の少女に久しぶりに逢っての感慨であろう。

(くも)

松の間の夕日にひかるささがにの絶えぬと見えてつづく糸かな(上101)

【通釈】松の木から木へ渡された蜘蛛の糸――木の間を洩れる夕日に輝くその糸は、途中で切れてしまうかと見えて、続いている。

【語釈】◇ささがに 細蟹。蜘蛛の古名。

【参考歌】よみ人しらず「後撰集」
風ふけば絶えぬと見ゆる蜘蛛の網(い)もまた懸き継がで止むとやは聞く

【補記】全集では『戊午集』巻三に見える。五十代後半の作。

【鑑賞】「この歌は、自然に対する観察の微細な点から一般に推されて居るやうだが、それより寧ろ、その表現がいかにも気が利いて巧みなところがその長所である。殊に『さゝがにの――糸』の間に、『絶えぬと見えてつゞく』といふ古典的に洗練された句を挿入して、そこに何等の無理も感ぜしめなかつた点は、うまいものである」(半田良平『新釈大隈言道歌集』)。

(さる)

おのがゐる枝のゆらぎに身をはねてとほき(こずゑ)にわたる山狙(やまざる)(上134)

【通釈】自分が乗っている枝の揺れによって身体を跳ね飛ばして、別の梢に移った山猿よ。

【補記】山猿の一瞬の動きをみごとに捕えて、作者のデッサン力の確かさを感じさせる一首。『大隈言道全集』では『壬子集』に収められており、「筑後高良山にてよめる也」と自註がある。嘉永五年(1852)の作。

しぶしぶに馬鍬(まが)引く小田の特牛(ことひうし)打たれぬ先に歩めと思へど(上135)

【通釈】いやいやながら馬鍬を引いている田の特牛よ。打たれる前に歩んだら良いのにと、はらはら見守っているのだが。

【語釈】◇馬鍬(まが) まぐわとも。馬に引かせて土をならすための農具。◇特牛(ことひうし) 重荷を負う牡牛。万葉集に見える語。

(ふすま)さへいと重げなる老の身の()るがうへにも()る猫まかな(上224)

【通釈】掛け布団さえ大変重く感じる老いた我が身が寝ている上に乗って寝ている猫であるよ。

【語釈】◇猫ま 猫の古称。

【補記】全集の『甲辰集』に見え、四十七歳から五十一歳の間の作。

俎板(まないた)

かずしらぬ魚の命は板の上の刀の跡にしるしぬるかな(上351)

【通釈】数知れないほど多くの魚の命は、まな板の上の包丁の跡に印してあるのだな。

【鑑賞】「題材の新奇、着想の警抜、まことに驚くほかはない。俎板に刻まれた庖丁の跡の一つ一つに魚の命を憐れむ如きは、常人の到底思ひ及ばぬところである。その感受性の広く且つ深いことに感嘆せざるを得ない」(伊藤正雄『近世の和歌と国学』)。

大路

引きつれて大路いづなり馬車(うまぐるま)また馬車(うまぐるま)牛車(うしぐるま)(甲辰集)

【通釈】引き連れて大路を出てゆくよ。馬車の後にまた馬車、それから牛車、また牛。

【補記】最後の「牛」は牛車の略とも見えるが、車の続いたあと牛だけが一匹歩いて来る状景の方が、絵としては面白そうである。全集の『甲辰集』に見え、四十七歳から五十一歳の間の作。言道は『草径集』にこの歌を選んでいない。

紀津川に安治川(あぢがは)()る船の帆の行く方わかつ住吉の沖(中586)

【通釈】木津川に、また安治川にと入る船の帆が、それぞれの方向に別れてゆく住吉の沖よ。

【語釈】◇紀津川 木津川。淀川水系の下流における分流。大阪湾に注ぐ。◇安治川 淀川水系の支流。旧淀川とも。◇住吉の沖 今の大阪市住吉区あたりの沖。

【補記】帆船が住吉の沖までやって来ると、紀津川・安治川と二つの方向へ別れてゆく。海運に賑わった当時の大阪湾が髣髴する一首。視線を白い帆に集めたことで印象がより鮮明になった。

風ふけば空なる星も(ともしび)のうごくがごとくひかる夜半かな(中597)

【通釈】風が吹くと、空にある星も、灯火が動くかのようにちらちらと光る夜であるよ。

【補記】これも誰しも思いつきそうで、そうである故にこそ歌にはなりそうにない種類の題材。

海上眺望

手にだにもすゑて見るべき妹が島はるかに細く(をさ)なげにして(下827)

【通釈】手にさえも載せて見られそうな妹が島――遥か沖合に、細く幼げな様子で。

【語釈】◇妹(いも)が島 万葉集初出の歌枕。和歌山市加太の沖の友ヶ島かという。

【補記】「妹が島」という名から発想した歌で、大胆な擬人法に面白みを感じる。

水月

浮かべつつゆくとはなしに月のうへをただ過ぎにのみ過ぐる川水(下884)

【通釈】水面に浮かべたまま流れてゆくのではなしに、映った月の上をただ過ぎてゆくばかりの川の水よ。

【補記】子供の見るような眼でものを見ている。

海日

夕日かげ半ばも海に入る時ぞうねうね光る沖のさざなみ(下939)

【通釈】夕日が半分程も海に没した時――その時には、沖のさざ波がうねるように輝いている。

【語釈】◇うねうね光る 「うねうね」は高くなったり低くなったりしながら続いてゆくさま。

【補記】『大隈言道全集』では『壬子集』に収められている。嘉永五年(1852)の作。

人なげに目のまへをしもゆきかひて塵さへわれを(かろ)めつるかな(上337)

【通釈】まるで人を無視するかのように、目の前を往ったり来たりして、塵さえも私を軽んじていたのだった。

【補記】誰しも目の前の塵をうるさく感じるだろうが、塵に軽んじられているという感じ方は、たとえ滑稽味を狙っているとしても、何とも異常である。「旅人の道ゆく笠の上にさへ侮(あな)づらはしく居る蜻蛉(あきつ)かな」(中679)はトンボに侮られていると感じた歌。軽妙を装っているこの作者の心の暗部が覗けて見える思いがする。『己酉集』にも見え、嘉永二年(1849)、五十二歳の作。

世の中のわりなさ聞けば人知れず空手(むなで)ににぎる手のうちの汗(上442)

【通釈】世の中の道理の無さを聞くと、人知れず素手をきつく握り締め、手のひらのうちに汗が滲むのである。

【補記】幕末という激動の時代に生きた言道であるが、社会に対する心情や思想を詠んだ歌は稀であり、この点も当時の傑出した歌人にあって異例に属する。掲出歌の「汗」のうちに、時代に対する秘めた思いを辛うじて窺い知ることができよう。

顕微鏡

いたづらに我が身フルゴロオトガラス水に虫あることも知らずて(戊午集)

【通釈】水の中に目には見えない虫がいることも知らないまま、むなしく我が身は古びてしまった。

【語釈】◇フルゴロオトガラス 顕微鏡。十六世紀末、オランダで発明されたという。言道はシーボルトに学んだ博多の医師百武萬里と親交があった縁から、顕微鏡に触れる機会があったものらしい。「古る」(経る)意を掛ける。

【補記】嘉永六年(1853)以後四年間の作を収めた『戊午集』、その第五巻に見える歌。五十代後半の作。『草径集』には採られていない。

いつしかと我がとりなれて後ろ手の老のすがたは(たれ)にならひし(上217)

【通釈】いつの間にか私は後ろ手を取る癖がついてしまって、そんな老人じみた恰好は、誰の真似をしたというのだろう。

【補記】「後ろ手」とは両手を後ろに廻し、腰のあたりで組むこと。近頃はあまり見かけないが、くたびれた時など、昔の老人はよくこのしぐさをしたようである(腰が曲がるとこの姿勢が楽なのであろう)。皆がそうするのを真似たわけでもないのに、ふと気づけば年寄り染みた習慣がついてしまっている。そこにも老いの感慨がある。『戊午集』巻二、五十代後半の作。

いつよりか(ひら)けながらの窓の(ふみ)風ばかりこそもてあそびけれ(上336)

【通釈】いつからか、開いたままになっている窓辺の書物――それを風ばかりが弄んでいる。

【補記】老いて目が弱くなり、書物にも遠ざかっているということであろう。嘉永六年(1853)以後四年間の歌を集めた『戊午集』巻一。五十代後半の作。

幽窓

木の間より夕日のかげのさす時ぞはじめて()かき松の間の窓(上341)

【通釈】木の間から夕日の光が射す時――その時初めて、松の間にある我が家の窓は明るくなるのである。

【補記】松の木陰に結んだ西向きの庵。昼なお暗く、夕日が射す頃にようやく明るくなるという。全集の『甲辰集』に見え、四十七歳から五十一歳の間の作。

今日もまた我が家に我が身かへりきぬ限りの門出(かどで)いまだ来ずして(上456)

【通釈】今日もまた自分の家に私は無事帰って来ることができた。最後の門出はいまだ来ないで。

【語釈】◇限りの門出 最後の旅立ち、すなわち死のこと。「門出」のもとの意味は家を出ること。

【補記】全集では『己酉集』に見える。嘉永二年(1849)、五十二歳の作。

ともすれば語らひどちのものがほに膝いだかれて眺めをぞする(上469)

【通釈】どうかすると、語り合う友達同士でもあるかのように、自然と膝を抱えてしまって、ぼんやり物思いに耽るのである。

【語釈】◇眺め 語源は「長目」。ひとところをじっと見つめたまま物思いに耽ること。

【補記】膝小僧を「語らひどち」と見た擬人法。詞遣いは現代の我々に馴染みにくいものを持っているが、心そのものは共感し得るものであろう。『戊午集』巻二、五十代後半の作。

埋火

つくづくと()ぶさ老いたる程を見てあたり憂げなる埋火の上(中700)

【通釈】つくづくと自分の手の年老いた様子を見て、埋み火の上に手をあてるのも憂鬱な気がする。

【語釈】◇手ぶさ 手。腕。

【補記】「埋火(うづみび)」は普通冬の主題。『草径集』でも冬歌に入れているが、ここでは老いの感慨を詠んだ歌として雑の部に収めた。

月夜帰路

山べより帰るわが身を送り来て開くれば(かど)を月も()りけり(下881)

【通釈】山から家に帰る我が身をずっと送って来てくれて、門を開けると、月も中に入って来るのだった。

【補記】山道を月が照らし、我が身を家まで送ってくれると見なすのは古歌に多い趣向。それに加えて、辿り着いた家の門の中にまで月明かりが入り込むと詠み、山のそばに住む身の孤独が余情となっている。

今はとてうち()る時は命さへわが身とともに伸ぶかとぞ思ふ(下889)

【通釈】さあ寝ようと横になる時は、身体を伸ばすと共に命さえも伸びるように思えるのだ。

【語釈】◇伸ぶ 寿命が延びる意と、命がのびのびとくつろいだ感じになる意とを掛けているのだろう。

思来世

(しな)たかきことも願はずまたの世はまた我が身にぞなりて来なまし(下968)

【通釈】身分が高いことも願わない。再び生まれ変わった世では、また同じ自分になって生まれて来たいものだ。

【語釈】◇来(き)なまし 出来ることなら、(同じ我が身に生まれて)来たいものである。「なまし」は、完了の助動詞「ぬ」の未然形「な」と、助動詞「まし」の結びついたもの。「まし」は現実にはあり得ない願望をあらわす。

春を待つ人にや見せむ(なだ)の浦の雪の中なる花さくら鯛(下971)

【通釈】春を待望する人に見せよう。灘の浦の雪降る中に花が咲いたような桜鯛を。

【語釈】◇灘 『草径集』の原文は「なた」で、兵庫の灘とも、福岡の奈多とも取れる。明石沖・玄海灘、いずれも桜鯛の名産地である。◇花さくら鯛 「さくら」に「咲く」意を掛ける。「さくら鯛」は桜の咲く頃に獲れる鯛。美味とされた。

【補記】『草径集』巻末歌。「集の最後を飾ってめでたい言葉で歌いおさめた。新風を待つ心ある人に、埋もれていたわが歌を提示するという強い自負がこめられている」(穴山健校注『草径集』)。


公開日:平成20年04月18日
最終更新日:平成20年05月20日

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