第1節 人類の未来をのぞく
一九一九年二月十九日 水曜日
今夜貴殿とともにいるのは、一年前に王冠状の大ホールにおける儀式についての通信を送っていた霊団の者です。ご記憶と思いますが、あの時は貴殿のエネルギーの消耗が激しかったために中止のやむなきに至りました。
このたび再度あの時のテーマを取り上げて、今ここでその続きを述べたいと思います。
キリストと神への讃仰のために最初に玉座に近づいたのは人類を担当する天使群でした。
すると玉座の背後から使者が進み出て、幾つもの部門に大別されたその大群へ向けて言葉をかけられた。
天使とはいえその部門ごとに霊的発達程度はさまざまで、おのずから上下の差がありました。その部門の一つひとつに順々に声をかけて、これから先の進化へ向けて指導と激励の言葉をお与えになられたのでした。
以上が前回までの要約です。では儀式の次の段階に進みましょう。
創造の主宰霊たるキリストが坐す玉座のまわりに一群の霧状の雲が出現しました。その中で無数の色彩がヨコ糸とタテ糸のように交錯している様子は見るからに美しい光景でした。
やがてその雲の、玉座の真後ろになる辺りから光輝が扇状に放射され、高くそして幅広く伸びていきます。主はその中央の下方に位置しておられます。
その光は青と緑と琥珀色をしており、キリスト界の物的部門──地球や惑星や恒星をこれから構成していく基本成分から成る(天界の)現象界──から生産されるエネルギーが放散されているのでした。
やがてその雲状のものが活発な動きを見せながら凝縮してマントの形態を整えたのを見ると、色彩の配置も美事な調和関係をみせたものになっておりました。
それが恍惚たる風情(フゼイ)の中に座する主宰霊キリストに掛けられ身体にまとわれると、それがまた一段と美しく映えるのでした。全体の色調は青です。
深く濃い青ですが、それでいて明るいのです。縁どりは黄金色、その内側がボーダー(内ベリ)となっていて、それが舗道に広がり、上がり段にまで垂れております。
ボーダーの部分がとくに幅が広く、金と銀と緑の色調をしており、さらに内側へ向けて深紅と琥珀の二本の太い筋が走っております。時おり永い間隔を置いてその青のマントの上に逆さまになった王冠(そのわけをあとでオーエン氏自身が尋ねる──訳者)に似たものが現れます。
冠の縁にパールの襟飾りが付いており、それが幾種類もの色彩を放っております。パールグレー(淡灰色)ではなくて──何と言えばよいのでしょうか。
内部からの輝きがキリストの頭部のあたりに漂っております。といって、それによってお顔が霞むことなく、後光となってお顔を浮き出させておりました。
その後光に照らされた全体像を遠くより眺めると、お顔そのものがその光の出る〝核〟のように見えるのでした。しかし実際はそうではありません。
そう見えたというまでのことです。頭部には王冠はなく、ただ白と赤の冠帯が付けられており、それが頭髪を両耳のうしろで留めております。前にお話した〝祈りの冠帯〟にどこか似ておりました。
──このたびは色彩を細かく説明なさっておられますが、それぞれにどんな意味があるのでしょうか。
吾々の目に映った色彩はグループごとに実に美しく且つそれなりの意図のもとに配置されていたのですが、その意図を細かく説明することは不可能です。が、大体の意味を、それも貴殿に理解できる範囲で述べてみましょう。
後光のように広がっていた光輝は物質界を象徴し、それを背景としてキリストの姿を明確に映し出し、その慈悲深い側面を浮き上がらせる意図がありました。頭部の冠帯は地上の人類ならびにすでに地上を去って霊界入りした人類の洗練浄化された精髄の象徴でした。
──赤色と白色をしていたとおっしゃいましたが、それにも意味があったのでしょうか。
ありました。人類が強圧性と貪欲性と身勝手さの境涯から脱して、すべてが一体となって調和し融合して一つの無色の光としての存在となっていくことを赤から白への転換として象徴していたのです。
その光は完璧な白さをしていると同時に強烈な威力も秘めております。外部から見る者には冷ややかさと静けさをもった雪のような白さの帯として映じますが、
内部から見る者にはそれを構成している色調の一つひとつが識別され、その融和が生み出す輝きの中に温か味を感じ取ります。外側から見ると白い光は冷たく見えます。内側から見る者には愛と安らぎの輝きとして見えます。
──あなたもその内側へ入られたわけですか。
いいえ、完全に内側まで入ったことはありません。その神殿のほんの入口のところまでです。それも、勇気を奮いおこし、意念を総結集して、ようやくそこまで近づけたのでした。しかもその時一回きりで、それもお許しを得た上でのことでした。
自分で神殿の扉を開けたのではありません。創造界のキリストに仕える大天使のお一人が開けてくださったのでした。
私の背後へまわって、私があまりの美しさに失神しないように配慮してくださったのです。すなわち私の片方の肩の上から手を伸ばしてその方のマントで私の身体をおおい、扉をほんの少しだけ押し開けて、少しの間その状態を保ってくださいました。
かくして私は、目をかざされ身体を包みかくされた状態の中でその内側の光輝を見、そして感じ取ったのでした。それだけでも私は、キリストがその創造エネルギーを行使しつくし計画の全てを完了なされた暁に人類がどうなるかを十分に悟り知ることができました。
すなわち今はそのお顔を吾々低級なる霊の方へお向けになっておられる。吾々の背後には地上人類が控えている。吾々はその地上人類の前衛です。が、
計画完了の暁にはお顔を反対の方向へ向けられ、無数の霊を従えて父の玉座へと向かわれ、そこで真の意味で全存在と一体となられる。その時には冠帯の赤は白と融合し、白も少しは温みを増していることでしょう。
さて、貴殿の質問で私は話をそらせて冠帯について語ることになってしまいましたが、例の青いマントについては次のように述べておきましょう。
すなわち物質の精髄を背景としてキリストおよびマント、そして王座の姿かたちを浮き上がらせたこと。冠帯は現時点の地上人類とこれ以後の天界への向上の可能性とを融合せしめ、一方マントは全創造物が父より出でて外部へと進化する時に通過したキリストの身体をおおっていること。
そのマントの中に物質と有機体を動かし機能させ活力を賦与しているところの全エネルギーが融合している、といったところです。
その中には貴殿のご存知のものも幾つかあります。電気にエーテル。これは自動性はなくてもそれ自身のエネルギーを有しております。それから磁気。そして推進力に富んだ光線のエネルギー。
もっと高級なものもあります。それらすべてがキリストのマントの中で融合してお姿をおおいつつ、しかもお姿と玉座の輪郭を際立たせているのです。
──さかさまの王冠は何を意味しているのでしょうか。なぜさかさまになっているのでしょうか。
キリストは王冠の代りに例の赤と白の冠帯を付けておられました。そのうち冠帯が白一色となりキリストの純粋無垢の白さの中に融合してしまった時には王冠をお付けになられることでしょう。
その時マントが上げられ広げられ天界へ向けて浮上し、こんどはそのマントが反転してキリストとその王座の背景として広がり、それまでの光輝による模様はもはや見られなくなることでしょう。
又その時すなわち最終的な完成の暁に今一度お立ちになって総点検された時には、頭上と周囲に無数の王冠が、さかさまではなく正しい形で見られることでしょう。
デザインはさまざまでしょう。が、それぞれの在るべき位置にあって、以後キリストがその救える勇敢なる大軍の先頭に立って率いて行く、その栄光への方向を指し示すことでしょう。
訳者注──王冠がなぜさかさまについては答えられていないが、それはどうであれ、霊界の情景描写は次元が異なるので本来はまったく説明不可能のはずである。
アーネル霊も〝とても出来ない〟と再三ことわりつつも何とか描写しようとする。
すると当然、地上的なものに擬(なぞら)えて地上的な言語で表現しなければならない。しかもオーエンがキリスト教の概念しか持ち合わせていないために、その擬えるものも用語も従来のキリスト教の色彩を帯びることになる。
たとえば最後の部分で私が〝最終的な完成の暁〟とした部分はin that far Great Dayとなっていて、これを慣用的な訳語で表現すれば〝かの遠い未来の最後の審判日〟となるところである。が〝最後の審判日〟の真意が直訳的に誤解されている今日では、それをそのまま用いたのでは読者の混乱を招くので私なりの配慮をした。
マント、玉座等々についても地上のものと同じものを想像してはならないことは言うまでもないが、さりとて他に言い表しようがないので、そのまま用いた。
第2節 光沢のない王冠
一九一九年二月二十日 木曜日
やがて青色のマトンが気化するごとくに大気の中へ融け入ってしまいました。見ると主は相変わらず玉座の中に座しておられましたが、装束が変わっていました。
両肩には同じ青色をしたケープ(外衣)を掛けておられ、それが両わきまで下り、その内側には黄金の長下着を付けておられるのが見えました。
座しておられるためにそれが膝の下まで垂れていました。それが黄金色の混った緑色の幅の広いベルトで締められており、縁どりはルビー色でした。
冠帯は相変わらず頭部に付いていましたが、その内側には一群の星がきらめいて、それが主のまわりにさまざまな色彩を漂わせておりました。
主は右手に光沢のない白い王冠を持っておられます。主のまわりにあるもので光沢のないものとしては、それが唯一のものでした。それだけに一層吾々の目につくのでした。
やがて主が腰をお上げになり、その王冠をすぐ前のあがり段に置かれ、吾々の方へ向いてお立ちになりました。それから次のようなお言葉を述べられました。
「そなたたちはたった今、私の王国の中をのぞかれ、これより先のことをご覧になられた。が、そなたたちのごとくその内部の美しさを見ることを得ぬ者もいることを忘れてはならぬ。かの飛地にいる者たちは私のことを朧(おぼ)ろげにしか思うことができぬ。
まだ十分に意識が目覚めていないからである。ラメルよ、この者たちにこの遠く離れた者たちの現在の身の上と来るべき宿命について聞かせてあげよ」
すると、あがり段の両わきで静かに待機していた天使群の中のお一人が玉座のあがり段の一番下に立たれた。白装束をまとい、左肩から腰部へかけて銀のたすきを掛けておられました。
その方が主にうながされて語られたのですが、そのお声は一つの音声ではなく無数の和音(コード)でできているような響きがありました。
共鳴度が高く、まわりの空中に鳴り響き、上空高くあがって一つひとつの音がゴースの弦に触れて反響しているみたいでした。一つ又一つと空中の弦が音を響かせていき、やがて、あたかも無数のハーブがハーモニーを奏でるかの如くに、虚空全体が妙(たえ)なる震動に満ちるのでした。
その震動の中にあって、この方のお言葉は少しも鮮明度が失われず、ますます調子を上げ、描写性が増し、その意味する事柄の本性との一体化を増し、ますます具体性と実質性に富み、あたかも無地のキャンパスに黒の絵の具で描きそれに色彩を加えるような感じでした。
したがってその言葉に生命がこもっており、ただの音声だけではありませんでした。
こう語られたのです──
「主の顕現がはるか彼方の栄光の境涯にのみ行われているかに思えたとて、それは一向にかまわぬこと。主は同時にここにも坐(ま)します。われらは主の子孫。主の生命の中に生きるものなればなり。
われらがその光乏しき土地の者にとりて主がわれらに対するが如く懸け離れて見えたとて、それもかまわぬこと。彼らはわれらの同胞であり、われらも彼らの同胞なればなり。
彼らが生命の在(あ)り処(か)を知らぬとて──それにより生きて、しかも道を見失ったとて、いささかもかまわぬこと。手探りでそれを求め、やっとその一かけらを手にする。しかし少なくともそのことにおいて彼らの努力は正しく、分からぬながらもわれらの方へ向けて両手を差しのべる。
それでも暗闇の中で彼らは転び、あるいは脇道へと迷い込む。向上の道が妨げられる。その中にあって少しでも先の見える者は何も見えずに迷える者が再び戻ってくるのを待ち、ゆっくりとした足取りで、しかし一団となりて、共に進む。
その道程がいかに長かろうと、それは一向にかまわぬこと。われらも彼らの到着を待ち、相互愛の中に大いなる祝福を得、互いに与え与えられつつ、手を取り合って向上しようぞ。
途中にて躓(ツマズ)こうと、われらへ向けて歩を進める彼らを待たん。あくまでも待ち続けん。あるいはわれらがキリストがかの昔、栄光の装束を脱ぎ棄てられ、みすぼらしく粗末な衣服をまとわれて、迷える子羊を求めて降りられ、地上に慰めの真理をもたらされたごとくに、われらも下界へ赴きて彼らを手引きしようぞ。
主をしてそうなさしめた力が最高界の力であったことは驚異なり。われらのこの宇宙よりさらに大なる規模の宇宙に舞う存在とて、謙虚なるその神の子に敬意を表し深く頭を垂れ給うた。
なんとなれば、すでに叡智に富める彼らですら、宇宙を創造させる力が愛に他ならぬこと──全宇宙が愛に満ち愛によりて構成されていることを改めて、また一段と深く、思い知らされることになったゆえである。
ゆえに、神がすべてを超越した存在であっても一向にかまわぬこと。われらにはその子キリストが坐(ま)しませばなり。
われらよりはるかに下界に神の子羊がいても一向にかまわぬこと。キリストはその子羊のもとにも赴かれたるなり。
彼らがたとえ手足は弱く視力はおぼろげであろうと一向にかまわぬ。キリストが彼らの力であり、道を大きく誤ることなく、あるいはまた完全に道を見失うことのなきよう、キリストが彼らの灯火(ランプ)となることであろう。
また、たとえ今はわれらが有難くも知ることを得たより高き光明界の存在を彼らが知らずとも、いつの日かわれらと共によろこびを分かち、われらも彼らとよろこびを分かつ日が到来しよう──いつの日かきっと。
が、はたしてわれらのうちの誰が、このたびの戦いのために差し向けられる力を背に、かの冠を引き受けるのであろう。自らの頭に置くことを申し出る者はどなたであろうか。それは光沢を欠き肩に重くのしかかることを覚悟せねばならぬが。
信念強固にして一途なる者はここに立ち、その冠を受け取るがよい。
今こそ光沢を欠くが、それは一向にかまわぬこと。いずれ大事業の完遂の暁には、内に秘められた光により燦然と輝くことであろう」
語り終ると一場を沈黙が支配しました。ただ音楽のみが、いかにも自ら志願する者が出るまで終わるのを渋るが如くに、物欲しげに優しく吾々のまわりに漂い続けるのでした。
その時です。誰一人として進み出てその大事業を買って出る者がいないとみて、キリスト自らが階段を下りてその冠を取り上げ、自らの頭に置かれたのです。
それは深く眉のすぐ上まで被さりました。それほど重いということを示しておりました。そうです、今もその冠はキリストの頭上にあります。しかし、かつて見られなかった光沢が少し見えはじめております。
そこで主が吾々にこう述べられました──
「さて友よ、そなたたちの中で私について来てくれる者はいるであろうか」
その御声に吾々全員が跪(ヒザマズ)き、主の祝祷を受けたのでした。
第3節 神々による廟議(びょうぎ)
一九一九年二月二十六日 水曜日
──その〝尊き大事業〟というのは何でしょうか。
(訳者注──前回の通信との間に一週間の空白があるのに、いかにもすぐ続いているような言い方をしているのは多分その前に前回の通信についての簡単なやり取りがあったか、それともオーエンがそのように書き改めたかのいずれかであろう)
それについてこれから述べようと思っていたところです。貴殿も今夜は書き留めることができます。この話題はここ何世紀かの出来ごとを理解していただく上で大切な意味をもっております。
まず注目していただきたいのは、その大事業は例の天使の塔で計画されたものではないということです。これまでお話した界層よりさらに高い境涯において幾世紀も前からもくろまれていたことでした。
いつの世紀においても、その頭初に神界において審議会が催されると聞いております。
まず過去が生み出す結果が計算されて披露されます。遠い過去のことは簡潔な図表の形で改めて披露され、比較的新しい世紀のことは詳しく披露されます。
前世紀までの二、三年のことは全項目が披露されます。それらがその時点で地上で進行中の出来事との関連性において検討されます。それから同族惑星の聴聞会を催し、さらに地球と同族惑星とを一緒にした聴聞会を催します。
それから審議会が開かれ、来るべき世紀に適用された場合に他の天体の経綸に当たっている天使群の行動と調和するような行動計画に関する結論が下されます。悠揚せまらぬ雰囲気の中に行われるとのことです。
──〝同族惑星〟という用語について説明してください。
これは発達の程度においても進化の方向においても地球によく似通った惑星のことです。つまり地球によく似た自由意志に基づく経路をたどり、知性と霊性において現段階の地球にきわめて近い段階に達している天体のことです。
空間距離において地球にひじょうに近接していると同時に、知的ならびに霊的性向においても近いということです。
──その天体の名前をいくつか挙げていただけますか。
挙げようと思えば挙げられますが、やめておきます。誰でも知っていることを知ったかぶりをして・・・・などと言われるのはいやですから。
貴殿の精神の中にそれにピッタリの成句(フレーズ)が見えます──top lay to the gallery(大向うを喜ばせる、俗受けをねらう)。もっともそれだけが理由ではありません。同じ太陽域の中にありながら人間の肉眼に映じない天体もあるからです。
それもその中に数えないといけません。さらには太陽域の一番端にあって事実上は他の恒星の引力作用を受けていながら、程度においては地球と同族になるものも、少ないながら、あります。それから、太陽域の中──
──太陽系のことですか。
太陽系、そうです──その中にあってしかも成分が(肉眼に映じなくても)物質の範疇に入るものが二つあります。現在の地上の天文学ではまだ話題とされておりませんが、いずれ話題になるでしょう。しかしこんな予言はここでは関係ありません。
そうした審査結果がふるいに掛けられてから、言わば地球号の次の航海のための海図が用意され、ともづなが解かれて外洋へと船出します。
──それらの審議会においてキリストはいかなる位置を占めておられるのでしょうか。
それらではなくその単数形で書いてください。審議会はたった一つだけです。が会合は世紀ごとに催されます。出席者は絶対不同というわけではありませんが、変わるとしても二、三エオン(※)の間にわずかな変動があるだけです。
創造界の神格の高い天使ばかりです。その主宰霊がキリストというわけです。(※EON 地質学的時代区分の最大の期間で、億単位で数える──訳者)
──王(キング)ですか。
そう書いてはなりますまい。違います。その審議会が開かれる界層より下の界層においては王ですが、その審議会においては主宰霊です。これは私が得た知識から述べているにすぎません。実際に見たわけではなく、私および同じ界の仲間が上層界を通して得たものです。これでお分かりでしょうか。もっと話を進めましょうか。
──どうも有難うございました。私なりに分かったように思います。
それは結構なことです。そう聞いてうれしく思います。それというのも、私はもとより、私より幾らか上の界層の者でも、その審議会の実際の様子は象徴的にしか理解されていないのです。私も同じ手法でそれを貴殿に伝え、貴殿はそれに満足しておられる。結構に思います。
では先を続けさせていただきます。以上でお分かりのとおり、審議会の主宰霊たるキリストみずからが進んでその大事業を引き受けられたのです。
それは私と共にこの仕事に携わっている者たちの目から見れば、そうあってしかるべきことでした。すなわち、いかなる決断になるにせよ最後の責任を負うべき立場の者がみずから実践し目的を成就すべきであり、それをキリストがおやりになられたということです。
今日キリストはその任務を帯びて地上人類の真っ只中におられ、地球へ降下されたあと、すでにその半ばを成就されて、方向を上へ転じて父の古里へと向かわれています。
この程度のことで驚かれてはなりません。もっと細かいことをお話する予定でおります。
以上のことは雄牛に突きさした矢印と思ってください。抜き取らずにおきましょう。途中の多くの脇道にまぎれ込まずに無事ゴールへ導くための目印となるでしょう。
脇道にもいろいろと興味ぶかいことがあり、勉強にもなり美しくもあるのですが、今の吾々にはそれは関係ありません。私がお伝えしたいのは地球に関わる大事業のことです。他の天体への影響のことは脇へ置いて、地球のことに話題をしぼりましょう。
少なくとも地球を主体に話を進めましょう。ただ一つだけ例外があります。
貴殿は地球以外の天体について知りたがっておられる様子なので、そのうちの火星について述べておきましょう。最近この孤独な天体に多くの関心が寄せられて、科学者よりも一般市民の間で大変な関心の的となっております。そうですね?
──そうです。ま、そう言っても構わないでしょう。
その原因は反射作用にあります。まず火星の住民の方から働きかけがあったのです。地球へ向けて厖大な思念を送り、地球人類がそれに反応を示した──という程度を超えて、もっと深い関係にあります。
そうした相互関係が生じる原因は地球人類と火星人類との近親関係にあります。天文学者の中には火星の住民のことを親しみを込めて火星人(マーシャン)と呼んでいる人がいますが、火星人がそれを聞いたら可笑しく思うかも知れません。
吾々もちょっぴり苦笑をさそわれそうな愉快さを覚えます。火星人を研究している者は知性の点で地球人よりはるかに進んでいるように言います。そうでしょう?
──そうです。おっしゃる通りです。そう言ってます。
それは間違いです。火星人の方が地球人より進んでいる面もあります。しかし少なからぬ面において地球人より後れています。私も訪れてみたことがあるのです。
間違いありません。いずれ地上の科学もその点について正確に捉えることになるでしょう。その時はより誇りに思って然るべきでしょう。吾々がしばしば明言を控え余計なおしゃべりを慎むのはそのためです。同じ理由でここでも控えましょう。
──火星を訪れたことがあるとおっしゃいましたが・・・・
火星圏の者も吾々のところへ来たり地球を訪れたりしております。こうしたことを吾々は効率よく行っております。私は例の塔においてキリストの霊団に志願した一人です。
他にもいくつかの霊団が編成され、その後もさらに追加されました。幾百万とも知れぬ大軍のすべてが各自の役目について特訓を受けた者ばかりです。
その訓練に倣(なら)ってこんどはみずから組織した霊団を特訓します。各自に任務を与えます。
私にとっては地球以外の天体上の住民について、その現状と進歩の様子を知っておくことが任務の遂行上不可欠だったのです。大学を言うなれば次々と転校したのもそのためでした。とても勉強になりました。その一つが〝聖なる山〟の大聖堂であり、もう一つは〝五つの塔の大学〟であり、火星もその一つでした。
──あなたの任務は何だったのか、よろしかったら教えてください。
〝何だったのか〟と過去形をお使いになられました。私の任務は現在までつながっております。今夜、ここで、こうして貴殿と共にそれに携わっております。その進展のためのご援助に対してお礼申し上げます。
第4節 キリスト界
一九一九年二月二十七日 木曜日
──これまでお述べになったことは全て第十一界で起きたことと理解しております。そうですね、アーネルさん?
ザブディエル殿がお示しになった界層の数え方に従えばそうです。私には貴殿の質問なさりたいことの主旨が目に見えます。精神の中で半ば形を整えつつあります。取りあえずそれを処理してから私の用意した話に移ります。
すでにお話したとおり、この大事業の構想は第十一界で生まれたのではなく、はるかに上層の高級界です。キリスト界についてはすでに読まれたでしょう。
そこが実在界なのですが、語る人によってさまざまに理解されております。そもそも界層というのは内情も境界も、地上の思想的慣習によって厳密に区分けすることは不可能なのです。しかし語るとなるとどうしても区分けし分類せざるを得ません。
吾々も貴殿の理解を助ける意味でそうしているわけですが、普遍的なものでないことだけは承知しておいてください。吾々も絶対的と思っているわけではありません。
表面的な言いまわしの裏にあるものに注目してくだされば、数々の通信にもある種の共通したものがあることを発見されることでしょう。
界は七つあって七番目がキリスト界だと言う人がいます。それはそれで結構です。ザブディエル殿と私は第十一界までの話をしました。これまでの吾々の区切り方でいけばキリスト界は七の倍に一を加えた数となるでしょう。つまりこういうことです。
吾々の二つの界が七界説の一界に相当するわけです。七界説の人も第七界をキリストのいる界とせずに、キリストが支配する界層の最高界をキリスト界とすべきであると考えます。
吾々の数え方でいけば第十四界つまり七の倍の界が吾々第十一界の居住者にとって実感をもって感識できる最高の界です。
その界より上の界がどうなっているかについての情報を理解することができないのです。
そこで吾々は、キリストがその界における絶対的支配者である以上は、キリスト自身はそれよりもう一つ上の界の存在であらねばならないと考えるのです。その界のいずこにもキリストの存在しない場所は一かけらも無いのです。
ということは、もしもその界全体がキリストの霊の中に包まれているとするならば、キリストご自身はさらにその上にいらっしゃらねばならないことになります。
それで七界の倍に一界を加えるわけです。以上がこれまでに吾々が入手した情報に基づいて推理しうる限界です。そこで吾々はこう申し上げます。数字で言えばキリスト界は第十五界で、その中に下の十四界のすべてが包含される、と。
吾々に言えるのはそこまでで、その十五界がどうなっているのか、境界がどこにあるのかについても断言は控えます。よく分からないのです。
しかし限界がどこにあろうと──限界があるとした上での話ですが──それより下の界層を支配する者に霊力と権能とが授けられるのはその界からであることは間違いありません。そこが吾々の想像の限界です。そこから先は〝偉大なる未知〟の世界です。
ただ、あと一つだけ付け加えておきましょう。ここまで述べてもまだ用心を忘れていないと確信した上で申しましょう──私は知ったかぶりをしていい加減な憶測で申し上げないように常に用心しております。
それはこういうことです。私がお話した神々による廟議と同じものが各世紀ごとに召集されているということです。その際、受け入れる用意のある者のために啓示がなされる時期についての神々の議決は、地球の記録簿の中に記されております。
かくして物的宇宙(コスモス)の創造計画もその廟議において作製されていたわけです。
第5節 物質科学から霊的科学へ
一九一九年二月二十八日 金曜日
人類が目覚めのおそい永い惰眠を貪(むさぼ)る広大な寝室から出て活発な活動の夜明けへと進み、未来において到達すべき遠い界層をはじめて見つめた時にも、やはり神々による廟議は開かれていたのでした。
その会議の出席は多分、例のアトランティス大陸の消滅とそれよりずっと後の奮闘の時代──人類の潜在的偉大さの中から新たな要素がこれより先の進化の機構の中で発現していく産みの苦しみを見ていたことでしょう。
後者は同じ高き界層からの働きかけによって物質科学が発達したことです。人間はそれをもって人類が蓄積してきた叡智の最後を飾るものと考えました。
しかし、その程度の物的知識を掻き集めたくらいでおしまいになるものではありません。
大いなる進化は今なお続いているのです。目的成就の都市は地上にあるのではありません。はるか高遠の彼方にあるのです。
人間は今やっと谷を越え、その途中の小川で石ころを拾い集めてきたばかりです。こんどはそれを宝石細工人のもとへ持っていかねばなりません。そういう時期もいずれは到来します。細工人はそれを王冠を飾るにふさわしい輝きと美しさにあふれたものに磨き上げてくれることでしょう。しかし細工人はその低き谷間にはいません。
いま人類が登りかけている坂道にもいません。光をいっぱいに受けた温い高地にいるのです。そこには王とその廷臣の住む宮殿があります。しかし王自身は無数の廷臣を引きつれて遥か下界へ降りられ、再び地上をお歩きになっている。ただし、この度はそのお姿は(地上の人間には)見えません。
吾々はそのあとについて歩み、こうした形で貴殿にメッセージを送り、王より命じられた仕事の成就に勤しんでいるところです。
──では、アーネルさん、キリストは今も地上にいらっしゃり、あなたをはじめ大勢の方たちはそのキリストの命令を受けていると理解してよろしいでしょうか。
キリストからではないとしたら、ほかに誰から受けるのでしょう。今まさに進行中の大変な霊的勢力に目を向けて、判断を誤らぬようにしてください。
地上の科学は勝利に酔い痴れたものの、その後さらに飛躍してみれば、五感の世界だけの科学は根底より崩れ、物的尺度を超えた世界の科学へと突入してしまいました。皮肉にも物的科学万能主義がそこまで駆り立てたのです。
今やしるしと不思議(霊的現象のこと。ヨハネ4・48――訳者)がさまざまな形で語られ、かつてはひそひそ話の中で語られたものが熱弁をもって語られるようになりました。
周囲に目をやってごらんなさい。地上という大海の表面に吾々無数の霊が活発に活動しているその笑顔が映って見えることであろう。声こそ発しなくても確かに聞こえるであろう。姿こそ見えなくても、吾々の指先が水面にさざ波を立てているのが見えるであろう。
人間は吾々の存在が感じ取れないと言う。しかし吾々の存在は常に人間世界をおおい、人間のこしらえるパイ一つ一つに指を突っ込んでは悦に入っております。中のプラムをつまみ取るようなことはしません。
絶対にいたしません。むしろ吾々の味つけによって一段とおいしさを増しているはずです。
あるとき鋳掛屋(いかけや)がポーチで食事をしたあと、しろめ製の皿をテーブルに置き忘れたまま家に入って寝た。暗くなって一匹の年取ったネコが現われてその皿に残っていた肉を食べた。それからネコはおいしい肉の臭いの残る皿にのって、そこを寝ぐらにしようとした。
しろめの硬さのために寝心地が悪く、皿の中でぐるぐると向きを変えているうちに、その毛で皿はそれまでになくピカピカに光り輝いた。
翌朝、しろめの皿のことを思い出した鋳掛屋が飛び出してみると、朝日を受けてその皿が黄金のように輝いている。
「はて、不思議なことがあるもの・・・・」彼はつぶやいた。「肉は消えているのに皿は残っている。肉が消えたということは〝盗っ人〟のしわざということになるが、皿が残っていて、その上ピカピカに光っているところをみると、そいつは〝良き友〟に違いない。
しかし待てよ。そうだ。たぶんこういうことだろう──肉は自分が食べてしまっていたんだ。そして星のことかなんか、高尚なことを考えながら一杯やっているうちに、自分のジャーキン(皮製の短い上着)で磨いていたんだ」
──この寓話の中のネコがあなたというわけですね?
そのネコの毛一本ということです。ほんの一本にすぎず、それ以上のものではありません。
訳者注──この寓話の部分はなぜか文法上にも構文上にも乱れが見られ細かい部分が読み取れないので、大体のあらすじの訳に留めておいた。要するに人類は各分野での進歩・発展を誇るが、肝心なことは霊の世界からのインスピレーションによって知らないうちに指導され援助されているということであろう。
第6節 下層界の浄化活動
一九一九年三月三日 月曜日
大事業への参加を求められたあと私が最初に手がけたのは下層界の浄化活動でした。太古においては下層の三界(※)が地球と密接に関係しており、また指導もしておりました。その逆も言えます。すなわち地球のもつ影響力を下層界が摂り入れていったことも事実です。
これは当然のことです。なぜなら、そこの住民は地球からの渡来者であり、地球に近い界ほど直接的な影響力を受けていたわけです。
(※いわゆる〝四界説〟に従えば、〝幽界〟に相当すると考えてよいであろう──訳者)
死の港から上陸すると、ご承知のとおり、指導霊に手引きされて人生についてより明確な視野をもつように指導されます。そうすることによって地上時代の誤った考えが正され、新しい光が受け入れられ吸収されていきます。
しかしこの問題で貴殿にぜひ心に留めておいていただきたいのは、地上生活にせよ天界の生活にせよ、強圧的な規制によって縛ることは決してないということです。
自由意志の原則は神聖にして犯すべからざるものであり、間違いなく、そして普遍的に作用しております。実はこの要素、この絶対的な要素が存在していることによる一つの結果として、霊界入りした者の浄化の過程において、それに携わる者にもいつしかある程度の誤った認識が蔓延するようになったのです。
霊界に持ち込まれる誤った考えの大半は変質の過程をへて有益で価値ある要素に転換されていましたが、全部とはいきませんでした。
論理を寄せ付けず、あらゆる束縛を拒否するその自由意志の原理が、地上的な気まぐれな粒子の下層界への侵入を許し、それが大気中に漂うようになったのです。永い年月のうちにそれが蓄積しました。
それは深刻な割合にまでは増えませんでした。そしてそのまま自然の成り行きにまかせてもよい程度のものでした。が、その当時においては、それはまずいことだったのです。その理由はこうです。
当時の人類の発達の流れは下流へ、外部へ、物質へ、と向かっていました。それが神の意志でした。
すなわち神はご自身を物的形態の中に細かく顕現していくことを意図されたのです。ところがその方向が下へ向かっていたために勢いが加速され、地上から侵入してくる誤謬の要素が、それを受け入れ変質させていく霊的要素をしのぐほどになったのです。
そこで吾々が地上へ下降していくためには下層界を浄化する必要が生じました。地上への働きかけをさらに強化するための準備としてそれを行ったのです。
──なぜ〝さらに強化する〟のですか。
地球はそれらの界層からの働きかけを常に受けているのですが、それはその働きかけを強めるために行なった──つまり、輪をうまく転がして谷をぶじに下りきり、こんどは峰へ向けて勢いよく上昇させるに足るだけの弾みをつけることが目的でした。それはうまく行き、今その上昇過程が勢いよく始まっております。
結局吾々には樽の中のワインにゼラチン状の化合物の膜が果たすような役割を果たしたのです。知識欲にあふれ、一瞬の油断もなくがっちりと手を取り合った雲なす大軍がゆっくりと下降していくと、そうした不純な要素をことごとく圧倒して、地球へ向けて追い返しました。
それが過去幾代にもわたって続けられたのです(この場合の〝代〟は三分の一世紀──訳者)。間断なくそして刃向かう者なしの吾々の働きによって遠き天界と地上との間隔が縮まるにつれて、その不純要素が濃縮されていきました。
そしてそれが次第に地球を濃霧のごとく包みました。圧縮されていくその成分は場所を求めて狂乱状態となって押し合うのでした。
騒乱状態は吾々の軍勢がさらに地球圏へ接近するにつれて一段と激しくそして大きく広がり、次第に地上生活の中に混入し、ついにはエーテルの壁を突き破って激流のごとく侵入し、人間世界の組織の一部となっていきました。
見上げれば、その長期にわたって上昇し続けていた霧状の不純要素をきれいに取り除かれた天界が、その分だけ一段と明るさを増し美しくなっているのが分かりました。
下へ目をやればその取り除かれた不純なる霧が──いかがでしょう、この問題をまだ続ける必要がありましょうか。地上の人間でも見る目をもつ者ならば、吾々の働きかけが過去二、三世紀の間にとくに顕著になっているのを見て取ることができるでしょう。
今日もし当時の変動の中に吾々の働きを見抜けないという人がいれば、それはよほど血のめぐりの悪い人でしょう。
実はその恐ろしい勢力が大気層──地上の科学用語を拝借します──を突き破って侵入した時、吾々もまたすぐそのあとについてなだれ込んだのでした。そして今こうして地上という最前線にいたり、ついに占領したという次第です。
しかし、ああ、その戦いの長くかつ凄まじかったことといったらありませんでした。そうです。長く、そして凄まじく、時として恐ろしくさえありました。しかし人類の男性をよき戦友として、吾々は首尾よく勝利を得ました──女性もよき戦友であり、吾々はその気概を見て、よろこびの中にも驚嘆の念を禁じ得ませんでした。
そうでした。そうでした。地上の人類も大いに苦しい思いをされました。それだけにいっそう人類のことを愛(いとお)しく思うのです。しかし忘れないでいただきたい。
その戦いにおいて吾々が敵に深い痛手を負わせたからには、味方の方も少なからず、そして決して軽くない痛手を受けたのです。人類とともに吾々も大いなる苦しみを味わったということです。
そして人類の苦しむ姿を近くで目のあたりにするにつけ、吾々がともに苦しんだことをむしろ嬉しく思ったのです。吾々が地上の人々を助けたということが吾々のためにもなったということです。人類の窮状を見たことが吾々のために大いに役立ったのです。
──(第一次)世界大戦のことを言っておられるのですか。
そのクライマックスとしての大戦についてです。すでに述べた通り、吾々の戦いは過去何代にもわたって続けられ、次第にその勢いを募らせておりました。そのために多くの人が尊い犠牲となり、さまざまな局面が展開しました。
今そのすべてを細かく述べれば恐らく貴殿はそんなことまで・・・・と意外に思われることでしょう。少しだけ挙げれば、宗教的ならびに神学的分野、芸術分野、政治的ならびに民主主義の分野、科学の分野──戦争は過去一千年の間に大変な勢いで蔓延し、ほとんど全てのエネルギーを奪い取ってしまいました。
しかし吾々は勝利を収めました。そして今や太陽をいっぱいに受けた峰へ向けて天界の道を揃って歩んでおります。かの谷間は眼下に暗く横たわっております。
そこで吾々は杖をしっかりと手にして、顔を峰へ向けます。するとその遠い峰から微(かす)かな光が射し、それが戦争の傷跡も生々しい手足に当たると、その傷が花輪となって吾々の胸を飾り、腕輪となって手首を飾り、破れ汚れた衣服が美しい透かし細工のレースとなります。
何となれば吾々の傷は名誉の負傷であり、衣服がその武勲を物語っているからです。そして吾々の共通の偉大なるキャプテンが、その戦いの何たるかを理解し傷の何たるかもむろん理解しておられる、キリストにほかならないのです。
では私より祝福を。今夜の私はいささかの悲しみの情も感じませんが、私にとってその戦いはまだ沈黙の記憶とはなっておりません。
私の内部には今なお天界の鬨(かちどき)の声が上がることがあり、また当時の戦いを思い出して吾々の為にしたこと、またそれ以上に、吾々が目にしたこと、そして地上の人々のために流した涙のことを思い起こすと、思わず手を握りしめることすらあるのです。
もちろん吾々とて涙を流したのです。一度ならず流しました。何度も流しました。と言うのも、吾々には陣頭に立って指揮されるキリストのお姿が鮮明に見えても、人間の粗末な視力は霧が重くかかり、たとえ見えても、ほんの薄ぼんやりとしか見えませんでした。それがかえって吾々の哀れみの情を誘ったのでした。
しかしながら、自然にあふれ出る涙を通して、貴殿らの天晴れな戦いぶりを驚きと少なからぬ畏敬の念をもって眺めたものでした。よくぞ戦われました。
美事な戦いぶりでした。吾々は驚きのあまり立ちつくし、互いにこう言い合ったものでした──吾々と同じく地上の人たちも同じ王、同じキャプテンの兵士だったのだと。
そこですべての得心がいき、なおも涙を流しつつ喜び、それからキリストの方へ目をやりました。キリストは雄々しく指揮しておられました。そのお姿に吾々は貴殿らに代って讃仰の祈りを捧げたのでした。
第7節 人類の数をしのぐ天界の大軍
一九一九年三月五日 水曜日
これまでお話したことは天界の大事業について私が知り得たかぎり、そして私自身が体験したかぎりを叙述したものです。それを大ざっぱに申し上げたまでで、細かい点は申し上げておりません。
そこで私はこれより、吾々が地上へ向かって前進しそして到着するまでの途中でこの目で見た事柄をいくつかお伝えしようと思います。が、その前に申し上げておきたいことがあります。それは──
作戦活動としての吾々の下降は休みなく続けられ、またそれには抗し難い勢いがありました。一度も休まず、また前進への抵抗が止んだことも一度もありませんでした。
吾々霊団の団結が崩されたことも一度もありませんでした。下層界からのいかなる勢力も吾々の布陣を突破することはできませんでした。しかし個々の団員においては必ずしも確固不動とはいえませんでした。
地上の概念に従って地上の言語で表現すれば、隊員の中には救助の必要のある者も時おり出ました。救出されるとしばし本来の住処で休息すべく上層界へと運ぶか、それとも天界の自由な境涯においてもっと気楽で激しさの少ない探検に従事することになります。
それというのも、この度の大事業は地球だけに向けられたものではなく、地上に関係したことが占める度合は全体としてはきわめて小さいものでした。
吾々が参加した作戦計画の全体ですら、物的宇宙の遠い片隅の小さな一点にすぎませんでした。大切なのは(そうした物的規模ではなく)霊的意義だったのです。
すでに申し上げたとおり地上の情勢は地球よりかなり遠く離れた界層にも影響を及ぼしておりましたが、その勢いも次第に衰えはじめており、たとえその影響を感じても、一体それは何なのか、どこから来るのか分からずに困惑する者もいたほどです。
しかし他の惑星の住民はその原因を察知し、地球を困った存在と考えておりました。たしかに彼らは地球人類より霊的には進化しています。
ですから、この度の問題をもしも吾々のように嘗て地上に生活して地上の事情に通じている者が処理せずにいたら、恐らくそれらの惑星の者が手がけていたことでしょう。
霊的交信の技術を自在に使いこなすまでに進化している彼らはすでに審議会においてその問題を議題にしておりました。彼らの動機はきわめて純粋であり霊的に高度なものです。
しかし、手段は彼らが独自に考え出すものであり、それは多分、地球人類が理解できる性質のものではなかったでしょう。そのまま適用したら恐らく手荒らにすぎて、神も仏もあるものかといった観念を地球人に抱かせ、今こそ飛躍を必要とする時期に二世紀ばかり後戻りさせることになっていたでしょう。
過去二千年ばかりの間に地上人類を導き、今日なお導いている人々の苦難に心を痛められる時は、ぜひそのこともお考えになってください。
しかし、彼らもやがて、その問題をキリストみずからが引き受けられたとの情報がもたらされました。すると即座に彼らから、及ばずながらご援助いたしましょうとの申し出がありました。
キリストはそれを受け入れられ、言うなれば予備軍として使用することになりました。彼ら固有のエネルギーが霊力の流れにのって送られてきて吾々のエネルギーが補強されました。それで吾々は大いに威力を増し、その分だけ戦いが短くて済んだのでした。
これより細かいお話をしていく上においては、ぜひそうした事情を念頭においてください。これからの話は、過去の出来ごとの原因の観点から歴史を理解する上で参考になることでしょう。
将来人間はもっと裏側から歴史を研究するようになり、地上の進歩の途上におけるさまざまな表面上の出来ごとを、これまでとはもっと分かり易い形でつなぎ合わせることができるようになるでしょう。
人間が吾々霊的存在とその働きかけを軽く見くびっているのが不思議でなりません。と言うのは、人類は地球上に広く分布して生活しており、その大半はまだ無人のままです。全体からいうとまだまだきわめて少数です。それに引きかえ吾々は地球の全域を取り囲み、さらに吾々の背後には天界の上層界にまで幾重にも大軍が控えております。
それは大変な数であり、またその一人ひとりが地上のいかなる威力の持ち主よりも強烈な威力を秘めているのです。
ああ、いずれ黎明の光が訪れれば人類も吾々の存在に気づき、天界の光明と光輝を見出すことでしょう。そうなれば地球も虚空という名の草原をひとり運行(たび)する佗しさを味わわなくてすむでしょう。
あたりを見渡せば妖精が楽しげに戯れていることを知り、もはや孤独なる存在ではなく、甦れる無数の他界者と一体であり、彼らは遥か彼方の天体上──夜空に見えるものもあれば地上からは見えないものもありますが──の生活者と結びつけてくれていることを知るでしょう。
しかしそれは低き岸辺の船を外洋へと押し出し、天界へ向けて大いなる飛躍をするまでは望めないことでしょう。