第5章 造化の原理
第1節 スパイラルの原理
一九一八年三月十一日 月曜日

──創造的活動にたずさわる天使の大群とともに例の大学の大ホールで体験されたことや学ばれたことについて語っていただけませんか。

私が仲間の学徒とともに大学を見学することになってすぐさま気がついたことは、すべてが吾々の理解を促進する知識の収集に好都合に配置されていることでした。

すべてが整然と構成されているのです。巨大な造化の序列の間には向うの端が遠くかすんで見えるほどの長い巾広いもの(avenuesとあるが並木道、本通り、通路等の訳語しか見当たらない──訳者)で仕切られています。

と言っても、序列のどれ一つとして他から隔離されたものではないので、それはただの〝仕切り〟divisionではなく、横切って通るための〝路〟roadでもなく、実はそれ自体が両隣りを融和させる機能を具えた〝部門〟departmentなのです。

そこを見学しているうちに吾々は、創造活動において造化の天使が忠実に守っている基本原則が幾つかあることを知らされて感心しました。その原則は無機物にも植物にも動物にも本質的には同じものが適用されています。

しかし最も進化せる界層に顕現されている叡智と巧みさに満ちた豪華絢爛たる多様性も、原初においては単純な成分の結合に端を発し、永い進化の時を閲しながら単純なものから複雑なものへと発達し、ついに今日見るがごとき豪華な豊かさへと至っていることを思えば、その事実は当然のことと言えるでしょう。

私が言わんとすることを例を挙げて説明してみましょう。

その仕切りの一つを通って行くと、天体がいかにして誕生したかが分かるようになっていました。左側は神の思念が外部へ向けて振動し鼓動しつつ徐々に密度を増し、貴殿らのいうエーテルそのものとなっていく様子が分かるようになっていました。

それを見ると〝動き〟の本質が分かります。本質的には螺旋状(スパイラル)です。それが原子の外側を上昇して先端までくると、今度は同じくスパイラル状に、しかし今度は原子の内部を下降しはじめます(これが象徴的表現に過ぎないことをこの後述べている──訳者)

空間が狭いために小さなスパイラルでも上昇時よりもスピードを増します。そして猛烈なスピードで原子の底部から出ると再び上昇スパイラルとなりますが、スピードは少しゆるやかになり、上昇しきると再びスピードを増しながら内部を下向していきます。

原子は完全な円でなく、といって卵形でもなく、内部での絶え間ない動きの影響で長円形をしています。その推進力は外部からの動力作用で、もしその動力源をたどることができれば、きっと神の心に行き着くのではないかと私は考えています。

お気付きと思いますが、〝先端〟とか〝底部〟とか〝上昇〟とか〝下降〟という言い方は便宜上そう表現したまでのことです。エーテルの原子に上も下もありません。

さて、エーテルの原子を例に挙げたのは、これを他のさらに密度の高い成分へとたどっていくためのモデルとしていただくためです。たとえば地上の大気のガス物質を構成する原子にまでたどっても、やはり同じ運動をしております。

エーテルの原子の運動とまったく同じ循環運動をしております。細かい相違点はあります。

同じスパイラルでも細長い形もあれば扁平なのもあります。スピードの速いのもあれば遅いのもあります。いずれにせよ原子の内側と外側のスパイラル運動であることに変わりはありません。

鉱物の原子を見てもやはり同じ原理になっていることが分かります。また一つの原子について言えることは、原子の集合体についても言えます。たとえば太陽系の惑星の動きもスパイラルです。但し、惑星を構成する物質の鈍重さのせいで動きはずっとゆっくりしています。

同じことが衛星の運動にも言えます。さらに銀河系の恒星をめぐる惑星集団、さらに銀河の中心をめぐる恒星集団についても言えます。

ただし各原子の質量と密度の双方がスパイラル運動の速度に影響します。密度の高い原子から成る物質においては速度が遅くなります。しかしその場合でも原子の内部での速度の方が外部での速度より速いという原則は同じです。

内側の運動から外側の運動へと移る時は、動くのがおっくうそうな、ゆっくりとしたものになります。しかしあくまできちんと運動し、その運動は軸を中心としたスパイラルの形をとります。

月もいまだに軌道運動に関してその性則を維持しようとしています。地球を中心とするかつてのスパイラル運動をしようとしながら出来ずにいるかのごとく、みずからを持ち上げようとしては沈みます。地球も同じことを太陽の周りで行ってなっております。

完全な円運動ではなく、完全な平面上の円運動でもありません。地軸に対しても平面に対しても少しずつずれており、それで楕円運動となるのです。

以上のようにエーテルの原子、地球のガス物質、および地球そのものについて言えることは太陽ならびに銀河の世界についても言えます。その運動は巨大なスパイラルで、恒星とその惑星が楕円を描きながら動いております。

こうした情況を吾々はその巾広い通りの左側に見たのです。がその反対側には物的創造物の霊的側面を見ました。つまり両者は表裏一体の関係になっているのです。

そして吾々が位置している通りが両者を結びつける境界域となっているのです。地上生活から霊界へ入る時はそれに似た境界域を横切るのです。そしてやがてその〝部門〟から次の〝部門〟へと移行することになります。

横切る通りは言わば地球の人間と天界の人間とを隔てる境界ということになります。

──さっき述べられた原理すなわちスパイラル運動の原理の他にも何か観察されたのでしょうか。

しました。あの原理を紹介したのは説明が簡単であり、同時に基本的なものでもあるから・・・・いや多分基本的だから単純なのでしょう。

では、もう一つの原理を紹介しましょう。基本的段階を過ぎると複雑さを増し説明が困難となります。が、やってみましょう。

吾々が知ったことは造化の神々は先に述べたエーテルの原子よりさらに遡った全存在の始源近くにおいて造化に着手されているということです。またエーテルの進化を担当するのも太古より存在する偉大なる神々であるということです。

そこで吾々はずっと下がって材質の密度が運動を鈍らせるに至る段階における思念のバイブレーションを学習することになりました。

そしてまず知ったことは、吾々学徒にとって最も困難なことの一つは、正しく思惟し正しく意志を働かせることだということです。物質を創造していく上でまず第一にマスターしなければならないことはスパイラル状に思惟するということです。

これ以上の説明は私には出来ません。スパイラルに思惟する──これを習慣的に身につけるのは実に困難な業です。

しかし貴殿は別の原理を要求しておられる。それでは感覚的創造物──植物的生命の創造を観てみましょう。

例の〝通り〟の一つを進んでいくと片側に地球ならびに他の惑星上の植物的生命が展示され、反対側にその霊的裏面が展示されていました。

それを観察して知ったことは、植物界の一つ一つの種に類似したものが動物界にも存在するということでした。それにはれっきとした理由があります。

そしてそれは樹皮、枝、葉という外部へ顕現した部分よりもむしろ、その植物の魂に関連しております。が、それだけでなく、よく観察するとその外見と魂との関係にも動物と植物の関連性を垣間みることができます。

──どうもお話について行けないのですが・・・・もう少し説明していただけますか。

では、いったん動物と植物の対比から離れて、それからもう一度その話に戻ってきましょう。その方が分かりやすいでしょう。

天界はさまざまな発達段階の存在──権威において異なり、威力において異なり、性格において異なり、さらには各分野における能力において異なる存在がいます。

このことは途上に関しても言えることです。

従ってそれは動物界についても言えることであることがお分かりでしょう。動物は種類によって能力がさまざまです。それぞれに優れた能力を発揮する分野があります。性格的にそうなっているのです。馬は蛇よりも人間と仲良くなり易いですし、ハゲワシよりオウムの方が人間によく懐(なつ)きます。

さて先程述べかけた類似の原理は、大ていの場合さほど明確でないにしても、植物界と動物界にも存在することが分かります。たとえば植物の代表としてカシの木を、動物の代表として小鳥を例にとって考えてみましょう。

カシの木は種子(どんぐり)を作って地上に落とします。これが土に埋もれて大地で温められ、内部の生命が殻を破って外部へと顕現します。

実はそのどんぐりと小鳥は構造においても発生のメカニズムにおいても本質的にはまったく同じなのです。

この〝内部から外部へ〟という生命の営みは普遍的な法則であって、けっして敗れることはありません。それは又、現在の宇宙を生んだ根源的物質の奥深く遡っても同じです。エーテルの原子の説明を思い出してください。原子の最初の運動は内部に発します。

そこでは速度が加速され、運動量が集積されます。外部に出ると両方とも鈍ります。

同じルールが他の分野についても言えることが分かりました。創造界の神々が順守すべき幾つかの統一的原理が確立されているということです。

そのうちの一つが、まず外皮があってその内部の実がそれを突き破って顕現し、その有用性に似合っただけの喜びが見る者の目を楽しませるということであり、また一つは二つの性──能動的と受動的──であり、循環器系でいえば樹液と血液であり、呼吸器系で言えば毛穴と気孔であり、その他にもいろいろと共通の原理があります。

これ以上貴殿のエネルギーが続きそうにありません。これにて中止されたい。
アーネル †

訳者注──最後の部分がよく理解できないが、これは次の通信の冒頭でアーネル霊も指摘し、通信が正しく伝わっていないと言って、その補足説明を行っている。

しかし年代的にアーネル霊は中世の人間であり、オーエンは現代の人間であっても科学的には素人なので、内容の表現や用語に素人くささが出ている。

大巾な書き変えは許されないので原文のまま訳しておいたが、読者はその趣旨を読み取る程度にお読みいただきたい。

第2節 文明の発達におけるスパイラル
一九一八年三月十五日 金曜日

──今夜はどういう目的でいらしたのでしょうか。

例の顕現で学んだ教訓についての叙述を続けたいと思います。

──例の類似性についてのお話の最後の部分がよく理解できませんでした。私には今一つ要領を得ない感じがしました。私は正しく受け止めていたでしょうか。

結構でした。取り損ねられたのは応用についての部分です。あの時はすでに消耗が度を越していたようです。今夜はその補足を説明しようと思います。

さて、物的世界を支配する原理、すなわち物質の形態による外部への生命の顕現は霊的世界にも当てはまります。

まずスパイラルですが、これはそれ自体まさしく霊的世界に見られる原理の物的類似物と言えます。それは当然のことで、物的原子のすべてが意念の操作による産物だからです。その意念の大根源が神です。その神から湧き出た動的意念が中間の界層を整然たる順序をへて降下し、物質の中に究極の表現を見出しているのです。

したがって物的世界に見られるものは、そうした中間層を通過してきたエネルギーの産物なのです。前の例ではそのエネルギーがスパイラル運動によって発せられているのが分かります。

これは、もしそのエネルギーが流れる霊的界層においてもスパイラルの原理が働いているからこそであって、もしそうでなかったら有り得ないことです。ではどういう具合に働いているかを述べてみたいと思います。

実はヤシの葉状の王冠がそのスパイラルの原理の一つの象徴でした。スパイラル状に編まれておりましたし、例の顕現の中で王冠のまわりに集結した天使群も当然スパイラル状に整列しておりました。

それが彼らの仕事の象徴のようなもので、その位置の取り具合によって吾々に教訓を読み取らせる意図があったのです。

では次にこれを動物的生命の創造に見てみましょう。

そもそも〝感覚〟による動作が最初に見られるのは植物です。そしてそこにもスパイラルの原理がはっきりとした形で現れているのが分かります。

たとえば豆科の植物は他のつる科の植物もみなそうであるように、スパイラル状に伸びます。典型的なスパイラルを描くものもあれば、少し形の崩れたものもありますが・・・・

樹液の流れも幹を上昇しながら直線から曲線へ移行しようとする傾向を見せます。巻きひげによって登って行く植物も、ひげをスパイラル状に巻き付けて支えています。空中を遠く飛び散る種子も同じような曲線を描きながら地面へ落下します。

こうしたことは全てスパイラルの原理の働きの結果で、太陽から送られるバイブレーションが地上の植物にまで届くのにもそれが作用しています。つまり虚空を通過してくる際にはミニチュアの形でスパイラル運動が生じ、みずから天体の回転を真似ているのです。

さてこれを動物界に見てみると、やはり同じ原理が働いていることが分かります。たとえば、小鳥は空中を飛ぶのにも滑空するのにも決して一直線は描かずに曲線を描く傾向があり、長い距離を行くとやはりスパイラル運動をしていることが明らかになります。

同じことが海中の動物にも陸上の動物にも言えます。ただ、進化すると、高等なものほどそれが明確に認められなくなります。

自由意志が行使されるようになるからで、それが中心的原則から外れた行動を生むようになります。逆に自由意志が少なくなるほどその原則が明確に見られます。

例えばカタツムリの殻をご覧になればよく分かります。海の動物の殻にも同じものが数多く見られます。自由意志に代って本能が作用しているからです。

一方、人間に関して言えば、個々の人間の個性よりも各民族全体を指導する大精神(※)に関わる事象においてそれは顕著に見られます。たとえば文明は東から西へと進行し、幾度か地球を旋回しています。その地球は太陽を中心として動いている。

しかし太陽の子午線は赤道に沿って直線上に走っているわけではなく、地球がどちらかに傾くたびに北に振れたり南に振れたりしている。

こうした地球の動きは太古における地球の動きの名残りであり、同じスパイラル運動が支配している星雲から誕生したことを示しております。こうして現在は顕著なスパイラル運動はしていないとはいえ、地球上の文明の進路が続けて二度同じコースをたどることは決してありません。

文明の波が前と同じ経線のところまで戻ってきた時には地球自身の両極は何度か──北極が南へ、南極が北へ──傾いております。かくして太陽からの地球へのエネルギーの放射の角度が変わると、文明の進路も変化します。

こうしてその文明は言うなれば地球にとっての〝新たな発見〟という形を取っていくわけです。

(幻の大陸と言われている)レムリアとアトランティスの位置についての憶測を考えていただけば、私の言わんとするところがお分かり頂けるでしょう。
(※地球の守護神のこと。これを人間的容姿を具えた神様のように想像してはならない。

地球の魂そのものであり、無形の霊的存在であり、前巻で述べた通り、これがキリストの地球的顕現である。人間はすべてその分霊を受けて生まれる。それを最も多くそして強力に体現したのがイエス・キリストということである──訳者)


それだけではありません。この原理は文明のたどるコースだけでなく文明の産物そのものをも支配しています。これは説明がさらに困難です。

こちらの世界ではそれを鮮明に認識することができます。と言うのも、人類の精神的活動の様子が地上より生き生きと見えるだけでなく、広範囲の年代のことを一度に見ることが出来るからです。

そういう次第で私は、人類の歩みが着実に上へ向いていること、しかしそれは巨大なスパイラルを描いていると明言することができます。

その意味を分かっていただくには、〝太陽の下に新しいものなし〟(旧約・伝道の書1・9)という言葉を思い出していただくのが一番良いでしょう。

これは文字通りの真理というわけではありませんが、ある程度は言い当てております。貴殿は、新しい発見が為されたあとでそれに似たものがすでに何千年も前に予測されていたということを聞かされたことがあるでしょう。

私は予測されていたという言い方は賛成できません。そうではなくて、このたびの新しい発見はそれに先立つ発見が為された時に科学が通過しつつあったスパイラル状の発達過程の位置のすぐ上の時期に当たるということです。

発明・発見のスパイラルはあくまでも上昇しながら旋回しているわけです。ですから発明・発見が〝新しい〟というのは、前回の旋回の時のものの新しい翻案という意味においてのみ言えることです。

──例を挙げていただけませんか。

エーテル分子(※)の人類の福祉のための活用がそのよい例といえるでしょう。この分野の科学は実にゆっくりとした段階で研究されてきたことにお気づきでしょう。

とりあえず〝燃焼〟の段階から始めてみましょう。燃焼によって固体が気化されました。次に、これによって熱を発生させることを知り、さらに熱によって生産した蒸気を利用することを知りました。

続いて同じ気化熱を蒸気を媒介とせずに利用することを知り、さらに微細なバイブレーションを活用することを知り、今日では急速に蒸気が電気へと変わりつつあります。

が、さらに次の段階への一歩がすでに踏み出されており、いわゆる無線の時代へ移行しつつあります。

(※エーテルの存在はかつてオリバー・ロッジなどが主張していたが今日の科学では否定される傾向にある。

がこの通信霊アーネルは第三巻でも明らかにその存在を認めた説明をしている。〝エーテル〟といい〝霊〟といい、地上の人間がそう呼ぶから霊の方でもそう呼んでいるまでのことで、科学が存在を認めようと認めまいと、あるいは、たとえ認めてそれをどう呼ぼうと、霊の方は存在の事実そのものを目の当たりにした上で語っているのであるから、

現在の科学理論でもって通信の内容の是非を論じるのは主客転倒であろう。なおこの一節は過去一世紀間の科学の発達を念頭に置いてお読みいただけば理解がいくであろう──訳者)


ところが実はこうした一連の発達は、完成の度合いこそ違え、現代の人間には殆ど神話の世界の話となっている遠い過去の文明の科学者によって為されたことがあるのです。

そしてさらに次の段階の発達も見えているのです。それは〝エーテルの活動〟に代わって〝精神の波動〟(※)の時代が来ているということです。

このことも実はすでに優れた先駆者の中にはその先見の明によって捉らえた人がいたのです。が、道徳的に十分に発達していない人間によって悪用されるといけないので、その発表を止められていたのです。

現代の人類でもまだ科学として与えられるにはもう少し霊的進化が必要でしょう。今の段階で与えられたら、益になるより害になる方が大きいでしょう。

(※エーテルの波動は言わば物的科学の原理ということであり、精神の波動は霊的科学の原理のことと解釈できるが、ただ最近見られる程度のもので超能力の威力を予測してはならない。まだまだ幼稚すぎるからである──訳者)

それは別として、現段階の科学の発達は、同じ分野に関して、前回の周期(サイクル)の時にストップしたままの段階よりはさらに発達することでしょう。

前回のサイクルにおいて科学の発達が下降しはじめ、それまでに成就されたものが霊界側に吸収されて、次のサイクルが巡ってきた時点で、それまでの休息の時代に霊界で担当の霊によってさらに弾みをつけられたものが、受け入れるだけの用意の出来た人類に授けられることになります。

霊界を内側と呼ぶならば地上界は外側ということになります。すでに述べたエーテル原子の動きと同じ原理が地上界に再現されていることになります。

この問題にはまだまだ奥があるのですが、それを貴殿が理解できるように言語で述べることは不可能です。

要するにこれまで説明してきた原理が今私が例を挙げたような力学においてだけでなく、政治においても、植物及び動物の〝種〟の育成においても、天文学においても、化学においても働いていると理解していただけば結構です。

──占星術と錬金術とは現代の天文学と化学との関係と同じ類似性をもつものだったのでしょうか。

それは違います。断じてそうではありません。

今夜の話は(人間の歴史の)世紀(センチュリー)を単位としたものではなくて(地球の歴史の)代(エオン)を単位としています。

占星術と錬金術はその二つの時代の科学の直接の生みの親であり、私のいう巨大なスパイラルの中の同じサイクルに属し、その距離はわずかしか離れておらず、すこし傾斜した同じ平面にあります。

私のいう類似物とは違いますが、ただ、化学については一言だけ付け加えておきたいことがあります。それで今夜はおしまいにしましょう。

化学というのは高級神霊が中心的大精神に発したバイブレーションが多様性と変異性とへ向けての流れを統御していく活動の中でも最も外的な表現であるということです。

すなわち神に発した生命の流れが霊の段階を通過して物質となって顕現する活動の中で、化学的物質が分化の過程によって細分化され、さらに分子となっていきます。

そして最低の次元に到達するとその衝動が今度は逆方向へ向かい、上方へ、内部へ、と進行します。分析化学に携わる人はその統一性から多様性へと向かう衝動に従っているわけです。

反対にそれを統合しようとする化学者はその流れに逆らっているわけですから、試行錯誤の多い、効率の悪い仕事に携わっていることになります。

多様性から統一性へと向かわせようとしているからです。言わば内部におけるコースがまだまだ外部へ向けてあくまでスパイラル状に行進を続けようとしているのに、その人だけは宇宙原子の一番外側のスパイラルで踵(きびす)を返してしまっているのです。

この通信は前回の通信と照らし合わせて検討してください。
アーネル †


第3節 二人三脚の原理
一九一八年三月二十二日 金曜日

今夜も例の顕現の場における宇宙創造に関する研究から得た原理をテーマとして述べてみたいと思います。

エネルギー作用におけるスパイラルの原理についてはすでに述べました。そこでもう一つ吾々が学んだ原理をお教えしましょう。

創造的生命のあらゆる部門においてその発展を司る者が必ず遭遇し適応しなければならないものに、潜在的な反抗的衝動があります。

その影響力が生ずるに至った始源をたどれば悠久の太古にさかのぼり、しかもそれは神の心を物質という形態での顕現を完遂させようとする天使群の努力の中から生じたものなのです。

当時──はるか太古のことですが──その完遂へ向けての道程に関して天使群の間で意見が二つに分かれました。時間をかけるべきと主張する側と早く仕上げるべきと主張する側です。と言っても真っ向から対立したわけではありません。

その考え方には共通した部分がいろいろとありました。が、不一致から生じた混乱によって今日人間が〝悪〟と呼ぶ要素が生まれたのです。今すべてが完成へ向けて進行していることは事実です。

が、そのための活動の分野は無限といえるほど広大であり、当然それに要する期間は地上の年数で計算すれば無限といってもいいでしょう。

永遠の存在である神の目から見れば長いも短いもないのですが、川の流れと同じで、上から見下ろせば一つの流れであっても、これを始源からたどれば全体をカバーするに延々とした道のりとなります。

造化の進展におけるその多様性が現時点の地球意識が機能している外的界層にいかに顕現しているかは貴殿にもお分かりでしょう。

と言うのは、地球の表面には一方においては今なお発達途上にある才能の蓄積を生み、他方においては進化の大機構における目的に寄与して今や生命の質の向上によっていっそう入り組んだより敏感な媒体が必要となったために捨てられてしまった、かつての天使の叡智の試練の贈(タマモノ)があふれている──否、地球全体がそれによって構成されていると言えるほどだからです。

遠い太古の遺物にもそのことが言えますが、他方、発展せんとする衝動の強さにとって媒体が不適当であることが表面化し、窮屈となり、生命の鼓動が小さくなり、無力化し、ついにその系統の進化活動が停止するに至ったことを物語るものがあります。

現在化石として残っている巨大な哺乳動物や爬虫類は創造物としては高度の技術を要した素晴らしい産物でした。が、現時点から見るとお粗末で不格好な作品に見えます。

ただ見落としてならないのは、そうしたぎこちない創造物の中にも、今なお造化の過程にある生き生きとして進歩性に富む生命力の宿る神殿(媒体)の基礎を据える上で役に立ったものがあるということです。

そうした基礎工事に較べれば神殿のデザインがいかに改良されてきたかがお分かりになると思います。今貴殿らが立って眺めている階段の標高がいかに高いかもお分かりでしょう。

その位置からは、今日の地上の生命の基礎が据えられた時の地球と同じ段階にある新しい天体の造化に当たっている他の天使群の作業場が、はるか虚空の彼方に見晴らせるのです。

そこで私のいうもう一つの原理はこうです。発展というのは必ず二重のコースが並行して進みます。

一つはすでに述べた通りの統一性から多様性へ向けるコースですが、それと並行して必ず、その対であるところの霊的なものから物的なものへのコースが伴うということです。両者は常に並んで走る二人のランナーのようなものです。

一人は〝統一性から多様性へ〟のランナー、もう一人は〝霊から物質へ〟のランナーです。二人は常に同じペースで走らなければなりません。一方が他方を追い越すことは許されません。競争ではなく、同時にゴールインしなければならないのです。

ところが、その造化の大業にたずさわる者の中にタイミングの読みを間違えて、まだゴールの標識に至らないうちに外部への進展を止め、その創造的生命力をふたたび霊の方向へ向かわせる操作をした者がいたのです。

その標識とは地上の科学者が〝宇宙〟と呼んでいるところの、創造的活動の物質的表現のことです。実はそれが宇宙の全てではありません。

もっと奥深い次元での内的顕現の物質的側面に過ぎません。その背後には造化を司る天使群が控え、意念の活性化によって、銀河の世界の恒星の大艦隊が首尾よく物質の大海原を航海し、目指す港に到着すればくるりと向きを変えて帰路につけるように、たゆみなくその操作に当たっているのです。

しかし、帰路に着くといっても、来た時と同じ航路を逆戻りするのではありません。

と言うのは、疾風怒濤の荒波を乗り越えてきた航路において生命の多彩な表現の豊かさを身につけて、最初に船出した時はただの漕ぎ手と荷上げ人足に過ぎなかったのが今や一人ひとりが船長の資格を持ち、指導者としての霊格を身につけていますから、来た時よりはるかに陽光にあふれた航路を進むことになるのです。

さて私が先ほど混乱が生じたと申し上げたのは、その造化の天使群のうちの一部が目指す港への到着を待ちきれずに旋回しようと企てたことです。

艦隊はすでに悠久の時を閲しながら航海してきて、その大海のど真ん中で帆をいっぱいに膨らませたまま旋回しようというのです。疾風と怒涛の真っ只中です。

各船体が大きく揺れ、激突し合って今にも沈没しかけるものもありました。そこに至って彼らもやはり順風を受けて進むべきであることを思い知らされ、ふたたび当初の目的地へ向きを戻したのでした。

そうしてようやく目指す港へ着いた時は船体は傷つき、帆は破れ、くぐり抜けてきた嵐の跡がそこかしこに見られるのでした。

以上の物語の意味を説明しましょう。大海は無限絶対の心すなわち神が外部へ向けて顕現していく存在の場です。艦隊は神の命を受けて造化に当たる天使群によって創造された顕幽にまたがる宇宙です。

外部へ向けてのコースの目指す港は現在の地球が一部を占めている物的宇宙です。帰路のコースは貴殿らがいま向かいつつあるものです。

最も外部の地点まで辿り着き、そこの標識を今まさに折り返しつつあるところです。

今日地上に何かと不穏な状態が生じているのは、人類がその折り返し点に来ているから──不活Qoな物質の港から活Qoな外洋へと船出せんとしている、その旋回が原因です。

そのうち帆を風いっぱいに受けて無事帰路に着くことでしょう。そして士官も乗組員も上機嫌となり、艦隊が存在の場を波を切って進むにつれて、悠久の港に船出した母港へと近づきます。すでに光が射しはじめ神の微笑が見えるはるか遠い東の空に待ちうける歓待へ向けて進むにつれて、喜びと安らぎが次第に増していくのです。

──混乱が生じたのはいつ頃のことだったのでしょうか。つまり造化にたずさわる天使群が過ちを犯しはじめたのは進化のどの段階でのことだったのでしょうか。

私にもたどることができないほど遥か遠い昔のことでした。さらに言えば、地上の視点からすれば〝読み間違えた〟ように思えるかもしれませんが、実際には必ずしもそうではないのです。私は貴殿からは見えないところに位置しておりますが、進歩の程度からいえば、ほんの一歩先を歩んでいるだけです。

私およびここにいる私の仲間たちには、その〝間違えた〟と言っているものも、目指す港に着いてみれば現在の吾々が考えているものとは異なったものであるように思えるのです。

我々が〝悪〟だとか〝不完全〟だとか決めつけ、そう思い込んでいるものも、そこへ行き着けばまるでミニチュアの小島の岩に打ち寄せる小さな波のようなもの──無限なる大海の真っ只中の小さな一滴にすぎないのです。

その波が砕けて(大げさに)しぶきを上げているように思えます。が、落ちゆくところは母なる海であり、しょせん元の大海は増えてもいなければ減ってもいないのです。

吾々はその真っ只中の一点の島に当たって砕け散ったカップ一杯ほどの水でもって海の深さを測ってはならず、豊かなその懐の威厳を推し測ってもならないように、無限なるもののほんの一かけらを取り上げて神の偉大なる叡智に評価を下してはなりません。

あるとき一匹のアリが仲間に言いました。

「なあ、オレたちはアリマキよりは頭がいいんだよな。あいつらを働かせてオレたちが要るものを作らせてるんだから・・・・」

「そりゃあそうさ」と仲間は答えました。

ところがそこへアリ食いが現われて、そのアリたちの知恵も一瞬のうちに消えてしまいました。アリ食いは日なたで寝そべってこうつぶやきました。

「アリたちはあんなことを言ってやがったが、みろ、オレはその上を行ったじゃないか。だが、オレよりもっと大きな知恵をもったヤツがいるに違いないんだ・・・・」

人間がアリと同じような考えでいても、宇宙にはもっと大きい、そしてそれに似合った力を具えた存在がいるのです。そういう大きな存在はせっかちな結論は下しません。それを知恵が足りないからだと考えてはなりません。
アーネル †


第4節 通信の中断
一九一八年三月二十五日 月曜日

吾々がこれまでに述べたことは、言ってみれば神の衣の房べりに触れた程度にすぎません。その衣は神の光と美をおおい隠すと同時に、それを明かすこともします。

貴殿が精神をお貸しくだされば吾々はもう少し深入りできそうです。お伝えしたいことはいくらでもあります。貴殿の伝達能力の範囲で可能なかぎりのことをお話してみましょう。
そのことでお願いしておきたいのは、日常生活の身のまわりに生じる出来ごとの裏側に存在する神の意図を吾々が説き明かすのを、根気よく聞いていただきたいということです。霊界の者は人間の一人一人に生じる出来ごとに細かく通じております。

そこでこちらから手助けしようとするのですが、さまざまな障害のために見過さざるを得ないことがあります。吾々霊団の者としても、際限なく広がり何一つ行く手を遮るもののないエネルギーを秘めた生命の海の中にあっては、ほんの小さな存在にすぎません。

物質となって顕現している宇宙と、全存在の源であり、収穫の時期にはすべての稔りが取り入れられる大中心との因果関係については、すでにいくつか述べました。

ところで、吾々が例の王冠状の大ホールの中に立った時、大中心から流れくる強烈なエネルギーによる圧迫感を身辺に感じ取って、みな陶然となりました。

そこには静寂と威厳と美の中にことばがキリストとなって顕現していたのです。

ここのところによく注目してください。そのとき吾々はキリストの霊と、そのキリストを通して奥深き未知なる存在から流れ来たったものを目のあたりにしていたのです。

それはキリストを通して垣間みる以外には吾々にとってまったく未知の世界なのです。それが今キリストを通して吾々の同化吸収力を超えた重みとスケールをもって放射され、強烈なエネルギーの威圧を感じていたのです。

しかもキリストがすぐ目の前におられてその個性の内部と背後の光のいくばくかを吾々の教化と高揚とより完全なる喜びを味わわせるために放射されていることだけは確実に理解することができました。

キリストは例の創造活動の大展覧が周囲に展開し終るまで完全な静止状態のまま立っておられました。その様子はあたかも創造の驚異を吾々に展示せんがために全能力を最高に緊張させておられるようでした。

それが終り、雄大な展覧が完了すると、そこで一息入れられました。するとその背後に玉座が出現し、同時に玉座の背後に得も言われぬ美しい天使の姿が次々と出現し、礼拝の姿勢でじっとしています。

するとキリストがくるりと背をこちらへ向け、七つの階段を上がって玉座に腰かけられました。するとその上がり段の前に通路が現われ、それが伸びて人類を展示してある区画を取り囲むように位置する天使群のところまで来ました。

すると天使の群れはその通路を通って玉座の前まで足を運び、そこで全員が立ち止まり、視線を地面へ向けました。

するとその背後の人類の区画の方角から歌声が響いてきました。遠い遠い虚空の腹部から出てくる壮大なダイヤペーソン(音域の全てが一つになった音)のようなハミングで、あたかも天体と天体との間にハーブの弦を張ったのかと思われるほどの壮大さでした。

その低音のハミングの調和のとれた響きはキリストの前に整列した天使群の一体化を象徴しておりました。

そう見ていると、玉座の背後から一人の輝く大天使が現われ、キリストの右に立って、集結した天使群に語りかけました。

その言葉は吾々にも鮮明に聞き取ることができました。が、その間も遠き虚空の彼方から響いてくる歌声は止まず、その歌声の響く中でその大天使はキリストが全宇宙による愛を顕現されるために払われた犠牲が立証されたことを語って聞かされたのでした。

原著者注──この時点で私の霊力が尽き、それ以降(まる一年間)交信が途絶えた。霊力が尽きたのは牧師としての仕事と第一次大戦に関連した仕事による私の過労のせいである。この二つの足枷は私には大きすぎ、このように突然、通信がストップしてしまった。

(半月後の)四月十日の水曜日に妻がプランセットで通信していた中で父親にこう質問した。

「ジョージ(オーエン)との通信はなぜストップしたのでしょうか」

すると次のような返事が綴られた。

「説明しよう。あのころジョージは疲労がひどく、そのうえ夏も近づいていて、自分でも通信を中止したい気持になっていた。たしかに休息が必要な状態になっており、これで良くなるだろう。これで通信が終わってしまったと思ってはいけない」

訳者注──その疲労のせいと思われるが、この第五章の通信はこれまでになく読みづらく、従って訳しにくかった。

とくに最後の通信はオーエン自身のキリスト教的先入観がかなり混入しているのではないかと思われるふしがある。が、

かつてのナザレのイエスが死後その本来の霊的資質を取り戻し、地上経綸の主宰霊として大々的に活躍していることは、イムペレーターもシルバーバーチも異口同音に述べていることであり、本通信に出てくる〝キリストの顕現〟は、イムペレーターのいう〝高級神霊による讃仰の祈りのための会合〟、シルバーバーチのいう

〝指導霊ばかりの途方もない大集会〟などの催しにおいてもそのイエスが主宰していることを考え合わせると、民族・国家の違いによって大小さまざまな形はあるにしても、今なおひんぱんに行われているものと私は信じている。