第3章 霊の親族(アフィニティ)
(アフィニティと言う用語はいわゆる類魂(グループソール)よりも親和性の強い間柄に使用される──訳者)
第1節 二人の天使
一九一八年二月十一日 月曜日

では今夜もまた貴殿の精神をお借りして、前回私が〝歓送の儀〟ならびに〝顕現〟と呼んだところの行事を叙述してみたいと思います。この度の行事にはその両方がいっしょに取り行われたのです。

今しも中央大ホールには大聖殿の総監からの召集で第十一界の各地から晴れやかな面持ちの群集が列をなして集まっていました。が、面持は晴れやかでも、姿全体にどこか緊張感が漂っています。

というのも、彼らにはこれより厳粛な儀式が行われることが分かっており、この機会に自分の進歩を促進させるものを出来るかぎり摂取しておこうという心構えで来ているのです。

その儀式には神秘的かつサクラメント的な性格があり、吾々はその意味を理解し、意図されている恩恵のすべてを身に受けるべく、上層界より届けられる高き波長に合わせる修行を存分に積んでいるのです。

全員が集合した時、前回申し上げた天上の雲状のものを見上げたところ、その色彩が変化しつつあるのが分かりました。

私がそのホールへ入ったときは青い筋の入った黄金色をしていました。それが今は次々と入場する群集が携えてくる色調を吸収し融合していき、数が増えるにつれて色彩が変化し、そしてついに全員が集結した時は濃い深紅のビロードの色調となっていました。

地上の色彩の用語で説明すれば以上が精一杯です。実際にはその色彩の表情に上層界からの高度なエネルギーの影響が加わっており、すでに何かの顕現が行われる準備が出来ていることを窺わせておりました。

そう見ているうちに、その雲状のものからあたかも蒸溜されたエッセンスのようなものが霧状となって降下し、甘美な香気と囁きの音楽とともに個々の列席者にふりそそぎ、心に歓喜と安らぎの高まりを引き起こし、やがて吾々全員が完全なる融和状態へと導かれていきました。

その状態はあたかも細胞のすべてが一体となって一個の人体を構成しているごとくに、出席者全員がもはや個人としてでなく全体として一つの存在となっているのでした。それほどまで愛と目的とが親和性において一つになり切っていたのです。

やがて謁見の間へ通じる道路の前に一個の雲状の固まりが現われ、凝縮しつつ形体を整えはじめました。

さて私はこれより展開することを精一杯描写するつもりですが、貴殿によくよく留意しておいていただきたいのは、かりに貴殿がその通りを私と同じ界の者に語って聞かせたら、その人は確かにそういう現象があったことは認めても、言い落していること、用語の不適切さ等のために、実際に起きたものとは違うことを指摘するであろうと言うことです。

その雲状の固まりは表面は緑色で、内側に琥珀色の渦巻状の筋が入っており、それに青色の天蓋がかぶさっておりました。

それが休みなくうごめいており、やがてどっしりとしたパピリオン──濃い青紫色の天井と半透明の緑と琥珀色の柱をした館──の姿を見せました。半円形をした周囲に全部で七本の柱が並び、さらに表面玄関の両わきに二本見えます。

この二本は全体が濃紫色で、白の縁どりのある深紅の渦巻状の帯が巻いています。

パピリオン全体がその創造に携わる神霊の意念によって息づき、その構造から得も言われぬメロディの囁きが伝わってくるのが感じ取れました──聞くというよりは感じ取ったのです。こちらでは貴殿らのように聞くよりも感じ取る方がいっそう実感があるのです。

やがて天蓋の下、七本の柱のちょうど中央に当たる位置に一台の四輪馬車が出現しました。後部をこちらへ向けております。五頭の美しい馬が頭を上げ、その厳かなドラマに一役買っていることをさも喜ぶかのような仕草をするのが見えます。

肌はほのかな黄金色に輝き、たてがみと尾はそれより濃い黄金色をしております。見るからに美しく、胴を飾る繻子(サテン)の掛けものもパピリオンの色彩を反映してうっすらと輝いております。

続いてその馬車の中に現れたのは美しい女性の姿でした。吾々の方を向いておられ、私の目にはその美しさのすべてを見ることができました。見れば見るほど、ただただ美しいの一語に尽きます。全身が地上に存在しない色合いをしております。

琥珀色といってもよろしいが、同じ琥珀でもパピリオンの柱のそれとは感じが異なります。

もっと光輝が強く、もっと透明ですが、柱には見られない実在感と永続性を具えております。上腕部には紫の金属でできた腕輪(バンド)をつけ、手首のところにルビーの金属の輪が見えます。

頭部には白と黄色の筋の入った真っ赤な小さい帽子をつけておられ、髪はあたかも沈みかかった太陽の光を受けているような、オレンジ色の光沢をした茶褐色をしております。目は濃紫に青の混じった色をしておられます。

さて、そうしたお姿に見入っているうちに突如として私は天上界からお出ましになられたこの女神が・・・・いけません。

その方が吾々にいかなる意味を持つのか、本来の界においていかなるお立場にあるのかをお伝えしたいのですが、それを適確に言い表わす用語が思い当たりません。しばらく間を置かせてください。それからにしましょう。

では、こう綴ってください。母なる女王。処女性。一民族を懐に抱きつつ、進歩と善へ向けての力として、その民族の存在目的の成就へと導く守護神。

一方において惰眠をむさぼり進歩性を失える民族に啓示をもたらしてカツを入れ、騒乱の危険を冒してでも活動へとかきたて、他において、永遠の時がこのいっときに集約され、すべてが安寧の尊厳の中に融和し吸収され尽くしたかの感覚をすべての者に降り注ぐ。

すべてを曝しても恥じることなく、美への誘惑がことごとく聖(キヨ)さと哀れみと愛へ向かうところの、恐れることを知らぬ心と純粋性。

以上のものをひとまとめにして、これを〝女王〟という一語で表してみてください。その時のお姿から吾々が得たものをお伝えするにはそれが精一杯です。

さて、その女王が後ろを振り向いて一番近い二頭の馬に軽く手を触れられると、馬車はくるりと向きを変えて吾々の方へ向きました。

するとそこへホールの反対側の二階の回廊から一人の若者が降りてきて、中央の通路を通って馬車の近くで歩を止められました。そこで女王がにっこりと笑みを送ると、若者は後部から馬車に乗り、女王のそばに立ちました。

そのお二人が立ち並んでいる時の愛と聖なる憧憬の中の、得も言われぬ睦み合い──互いが己れの美を与え合って互いの麗しさを増しております。

──その若者の様子を述べていただけませんか。

若者は右に立たれる女王をそのまま男性としたようなものです。両者は互いに補足し合うもの、言わば〝対〟の存在です。ただし一つだけ異なるところがありました。

身にまとわれた衣装がわずかながら女王のそれより赤みがかっていたことです。それ以外にお二人を見分けるものはとくにありませんでした。

性別も身体上ではなく霊性に表われているだけでした。にもかかわらず、一方はあくまで女性であり、他方はあくまで男性でした。ですが、お二人には役割があります。

お二人は、これより、ある雄大な構想を持つ画期的な計画を推進する大役を仰せつかった一団の指揮者として参られたのです。

その計画の推進には卓越した才能と多大な力とを要するために、一団はそれまでに大聖堂を中心とした聖域において準備を整えてきたのでした。その計画というのはこうです。

現在ある天体上の生命がようやく〝知性〟が芽生えはじめる進化の階梯に到達していて、その生命を動物的段階からヒトの段階へと引き上げ、人類としての種を確立させるためにその天体へ赴くというものです。

人類といっても、現在の地上人類のタイプと同一のものとはならないでしょうが、大きく異なるものでもなく、本質においては同種です。

一団はその人類のこの画期的段階における進化を指導する仕事を引き受けることになっているわけです。計画のすべてを受け持つのではありません。

また今ただちに引き受けるのではありません。今回は彼らの前任者としてその天体を現在の段階にまで導いてきた〝創造の天使たち〟と初めて面会することになっております。彼らは時おり休息と指示を仰ぎに帰ってきます。

その間、一部の者が残留して仕事を続行し、休息を得た者は再びその天体へ赴いて、残留組と交替し、そうやって徐々に仕事を広げて生きつつありますが、他方では(今回の一団のように)この界または他の界において、次の新たな進化の段階を迎える時に備えて、さらに多くの天使からなる霊団を組織して鍛錬を積んでいるのです。

彼らはその天体が天界の虚空を旅しながら首尾よくモヤの状態から組織体へ、単なる組織体から生ける生命体へ、そして単なる生命体から知性を具えた存在へ──これを地上に擬(ナゾラ)えて言えば、動物的段階から人間的存在を経て神格を具えた存在へと進化していくのを陰から援助・促進するのです。

間もなく吾々の見送りを受ける一団は、これから最初の試練を受けることになります。

といって、いきなり創造に携わるのではなく──それはずっと先の話です──創造的大業の末端ともいうべき作業、すなわち、すでに創造された生命を別の形体へと発展させる仕事を割り当てられます。

それも、原理的には創造性を帯びておりますが、まったく新しい根源的な創造ではなく、低級な創造物の分野にかかわる仕事です。

ここで注目していただきたいのは、お二人が出現なさった時、順序としてまず女性の方が馬車の中に姿をお見せになり、それから男性が姿を見せたことです。

この王国においては女性原理が優位を占めているからです。が、お二人は並んでお立ちになり、肩を並べて歩まれます。

そこに謎が秘められているのです。つまり一方が主であり他方が従であるはずのお二人がなぜ等位の形で一体となることが出来るかということです。現実にそうなっているのです。しかし私からこれ以上話さないことにします。

あなた方ご自身でお考えいただくことにいたしましょう。理屈でなしに、真実性を直感していただけると思うのです。(章末にその謎を解くカギが出てくる──訳者)

いよいよその厳粛なる使命のために選ばれた霊団──遠く深い暗黒の虚空の最果てへ赴く霊団がやってまいりました。彼らが赴くところは霊質に代って物質が支配する世界です。

ああ、光明の天界より果てしなく濃密な暗黒の世界へ──環境はもとより、吾々と同じ根源を有する生命の火花を宿す身体も物質で出来ている奈落の底へと一気に下がって行くことが吾々にとっていかなることを意味するか、貴殿にはまず推し測ることはできないであろう。

かつて私も霊団を従えて同じような境涯へ赴いたのです。不思議といえば不思議、その私と霊団が今こうして物的身体に閉じ込められた貴殿に語りかけているとは。

もっとも、吾々の目には貴殿の霊的身体しか映じません。それに向けて語りかけているのです。が、可憐なるカスリーン嬢が彼女特有の不思議な魔力を駆使して吾々よりさらに踏み込み、直接貴殿の物的脳髄と接触してくれております。

さて今回はこれ以上述べることはありません。質問が幾つかおありのようですね。私にはそれが見て取れます。お書きになってください。次の機会にお答えしましょう。
アーネル †

訳者註──ここには記載されていないが、実際にはこのあと質問事項が箇条書きにしたことが四日後の次の通信の冒頭から窺われる。

第2節 双子の霊
一九一八年二月十五日 金曜日

──前回お話しくださった儀式のことは、あれでおしまいですか。まだお話しくださることがあるのでしたら、私の質問に対する答えはあとまわしにしてくださって結構です。そちらのご都合に合わせます。

どちらでも結構ですが、(前回のおしまいのところで)お書き留めになった質問の中に今ここでお答えしておいた方がよいものがあるようです。

──〝二人の天使は地上ではどこの民族に属していたか〟──この質問のことでしょうか。

それです。そのことに関連してまずご承知おき願いたいのは、あの二人の若い天使の誕生は実は太古にまで遡るということです。

あれほどの霊力と権威とを悠久の鍛錬と進化の過程を経ずして獲得し、それをあのような任務に行使するに至るという例はそう滅多にないことです。お二人は双子霊なのです(※)。

地球がまだ現在のような環境となっておらず、人類がまだこれからお二人が霊団を率いて赴く天体上の人種と同じ発達段階にあったころに地上で生活なされました。その段階の期間は随分永く続きました。その間にお二人は知性の黎明期を卒業し、それから霊界入りしました。

その時点から本格的な試練がはじまり、同じ人種の中でも格別に進歩性の高いお二人は、各種の天体を低いものから高いものへと遍歴しながら、最後は再び地上圏へ戻って来て、さらに進化を遂げられました。

そのころは地球も合理的思考の段階、ほぼ今日の人類と同じ発達段階に到達しておりました。(※Twin soulsシルバーバーチはこれを一つの霊の半分ずつが同時に物質界に誕生した場合のことで、典型的なアフィニティであるという──訳者)

──青銅器時代、それとも石器時代、どっちですか。

同じ人類でも今おっしゃった青銅器時代にある人種もいれば鉄器時代にある人種もおり、石器時代にある人種もいます。人類全体が同じ歩調で進化しているのではありません。そのくらいのことはご存知でしょう。今の質問は少し軽率です。

地上人類が知性的発達段階にあった時期──こう言えば一番正確でしょう。それは歴史的に言えばアトランティスよりもずっと前、あるいはレムリアと呼ばれている文明が登場するより前のことです(※)。

お二人は地上近くの界層まで降りて強力な霊力を身につけ、さらに知識も身につけ、もともと霊性の高いお方でしたから、一気に地球圏を卒業して惑星間の界層へと進まれ、さらには恒星間の界層へと進まれたものと想像されます(第一巻 六章 参照)。

と言うのも、敢えて断言しますが、それほどの使命を仰せつかる方が、自転・公転の運動と相互作用を続ける星雲の世界を統率する途方もない高級エネルギーに通暁していないはずはないからです。

(※アトランティス大陸もレムリア大陸も共に伝説上のものとする説があるが、実際に存在していたことがこれで知れる──訳者)

お二人が自分たちがアフィニティであることを悟ったのはそのあと霊界へ戻ってからのことで、霊的親和力によって自然に引き寄せられ、以来ずっと天界の階梯を向上し続けておられるのです。

──地球以外の惑星との接触はどういう形で行ったのでしょうか。再生したのでしょうか。

再生という用語は前生と同じ性質の身体にもう一度宿るということを意味するものと思われます。もしそうだとすれば、そして貴殿もそう了解してくださるならば、地球以外の天体上の身体や物質に順応させていく操作を〝再生〟と呼ぶのは適切ではありません。

というのは、身体を構成する物質が地上の人間のそれと非常に似通った天体もあるにはありますが、全く同じ素材で出来ている天体は二つとなく、全く異なるものもあります。

それ故、貴殿が今お考えになっているような操作を再生と呼ぶのは適切でないばかりか、よしんば惑星間宇宙を支配する法則と真っ向から対立するものではないにしても、物的界層の進化の促進のためにこの種の問題を担当している神霊から見れば、そう一概に片づけられる性質ものでないとして否定されることでしょう。

そうではなくて、お二人はこの太陽系だけでなく他の恒星へも地上の場合と同じように、今私が行っている方法で訪れたのです。

私はこの地上へ私の霊力の強化のために戻ってまいります。そして時には天体の創造と進化についての、より一層の叡智を求めて、同じ方法で他の天体を訪れます。が、物質的身体をまとうことは致しません。そういうことをしたら、かえって障害となるでしょう。

私が求めているのは内的生活、その世界の実相であり、それは内部から、つまり霊界からの方がよく判ります。物的世界のことはそこの物質を身にまとって生まれるよりも、今の霊としての立場から眺めた方がより多く学べるのです。

魂をそっとくるんでくれる霊的身体よりはるかに鈍重な器官を操作しなければならないという制約によって、霊的感覚がマヒしてしまうのです。

お二人の体験を私自身の体験を通してお答えしてみたのですが、これでお分かりいただけたでしょうか。

──どうも恐縮です。よく分かりました。

結構です。お気づきでしょうが、創造全体としては一つでも、崇高なる喜悦の境涯にまでも〝多様性〟が存在し、その究極の彼方において成就される〝統一性〟の中において初めて自我についての悟りに到達する。

それまでは神の時計の振子が永遠から永遠へと振り、その調べのリズムがダイナミックな創造の大オーケストラの演奏の中で完全に融合し全体がたった一つの節となってしまう。

その崇高なる境涯へ向けて一日一日を数えながら辿った来(こ)し方を振り返るごとに、それまでの道程が何と短いものであるかを痛感させられるものです。

私が今置かれているところもやはり学校のようなところです。この界へ上がり聖堂へ入ることでようやく卒業した試練の境涯から、ほんの一段階うえの学校の低学年生というところです。お二人の天使もここを通過されてさらに高い学校へと進級して行かれました。

そしてこのたびのように、かつてのご自分と同じ鍛錬の途上にある者の教師として、あるいは指導者として戻って来られるのです。

──お二人の名前を伺いたいと思っていたのですが・・・・

思ってはいたが前と同じように断られるのではないかと思って躊躇された・・・・のですね?さてさて、困りました。やはり(アルファベットで)書き表せる名前ではないのです。こうしましょう。貴殿の思いつくままの名前をおっしゃってみて下さい。それを差し当たってのお名前といたしましょう。

──これまた思いも寄らなかったことです。

いやいや、今お考えになって書いてくださればよろしい。本当の名前を知っていながらそれが書き表せない私よりも(何もご存知でない)貴殿が適当に付けてくださる方がいいでしょう。本当のお名前はアルファベットでは書こうにも書けないのです。さ、どう呼ばれますか。

──マリアとヨセフではいかがでしょう。

これはまた謎めいたことをなさいました。その謎は貴殿にはよくお判りにならないでしょうが、ま、その名前で結構です。いけないと言っているのではありません。

結構ですとも。お二人をお呼びするにふさわしい意味をもつ名前を歴史上に求めれば、それしかないでしょうから。その意味については述べないでおきます。〝聞く耳ある者は聞くべし〟(マルコ4・9)です。

ではその名前で話を進めましょう。マリアにヨセフ。貴殿はその順序で述べられました。その順序でまいりましょう。ぜひそうしてください。それにも意味があるのです。

──地上時代の名前や年代はとても伝えにくいようですね。そちらからの通信を受けている者には一様にそう感じられます。どうしてなのでしょう?

貴殿は少し問題を取り違えてますね。今おっしゃったのはかつての地上での名前と生活した時代のことでしょう。

──そうです。

そうでしょう。では名前のことからお話ししましょう。これは死後しばらくは記憶しています。しかしそのうち新しい名前をもらってそれをいつも使用するので、地上時代の名前は次第に使わなくなります。

すると記憶が薄れ、おぼろげとなり、ついにほとんど、ないしは完全に記憶が消滅してしまいます。地上に親族がいる間はさほどでもありませんが、全員がこちらへ来てしまうと、その傾向が促進されます。

やがて何世紀もの時の流れの中で他の血族との境界線がぼやけて混り合い、一つの血族だけのつながりも薄れて、最後は完全に消滅します。例外もあるにはあります。

が、それも僅かです。それと同時に少しずつ名前の綴りと発音の形態が変わっていき、そのうちまったく別の形態の名前になります。しかし何といっても進化に伴って地上圏との距離が大きくなるにつれて地上時代への関心が薄れていくことが最大の要因でしょう。

霊界でのその後の無数の体験をへるうちに、すっかり忘れ去られていきます。記録を調べればいつでも知ることはできます。が、その必要性も滅多に生ずるものではありません。

地上時代の年代が思い出しにくいのも似たような理由によります。吾々の関心は未来にありますので、この問題はさしあたっての仕事にとっても無意味です。

もう一つの事情として、地上時代のことが刻々と遠ざかり、一方では次々と新しい出来ごとがつながっていくために、今ただちに地上時代のことを拾い出してそれが地上の年代でいつだったかを特定するのはとても困難となります。

もっとも地上の人間からのそうした問い合わせに熱心に応じる霊がいるものでして、そうした霊にとっては簡単に知ることができます。

が吾々のように他に大切な用件があり、今という時間に生きている者にとっては、急に航行先の変更を命じられて回れ右をし、すでに波がおさまってしまった航行跡を引き返して、その中の一地点を探せと言われても困るのです。

その間も船は大波をけって猛スピードで前進しているのです。その大波の一つ一つが地上の一世紀にも相当すると思って下さい。そうすれば私の言わんとしていることが幾らかでもお分かり頂けるでしょう。

では今回はこの辺で打ち切って、次の機会に同じ話題を取り上げ、神の名代である二人の天使、マリアとヨセフについて今少し述べることにしましょう。
アーネル †


第3節 水子の霊の発育
一九一八年二月二十二日 金曜日

今夜お話することは多分貴殿には本題から外れているように思えるかも知れません。が地上で当たり前と思われている生活とは異なる要素を正しく理解する上で大切なことがらについて貴殿の認識を改めておく必要があるのでお話します。

それは、同じく地上から霊界へ誕生してくる者の中でも、地上で個的存在としての生活を一日も体験せずにやってくる、いわゆる死産児のことです。

そういう子共は眠ったままの状態でこちらへやって参ります。その子たちにとってのこちらでの最初の目覚めは、地上での誕生時と同じ過程であることは理解していただけるでしょう。

ただ、地上の空気を吸ったことが無く、光を見たこともなく、音を聞いたこともありません。要するに五感のどれ一つとして母胎内での自然な過程の中で準備してきた、その本来の形で使用されたことがありません。

従ってそれぞれの器官はほぼ完全に近い状態であっても完全に出来上がってはいません。その上、脳髄が五官からのメッセージを処理する操作をしたことがありません。

そういうわけで、死産児としてこちらへ来た子供は潜在的には地上的素質は具えてはいても、経験的にはそれが欠けています。ただ、たとえ数分間にせよ、あるいはそれ以下にせよ、実際に生きて地上に誕生したあと他界した子供はまた事情が異なります。

こういう次第ですから、死産児の霊の世話に当たる人たちが解決しなければならない問題はけっして小さいものではないのです。まずその霊が自然な発育をするように霊的感覚器官を発達させてやらねばなりません。

それから霊的脳髄にその器官からの情報を処理する訓練をさせてやらねばなりません。

数分間でも生きていた子の場合であれば脳と器官との連絡がわずかながらも出来ておりますから、その経験をその後の発達の土台として使用することができます。

が、死産児にはそれが欠けていますから、こちらの世界でそれをこしらえてやる必要があります。それが確立されさえすれば、あとは普通の子供と同じように、発育の段階を一つ一つ重ねていくだけとなります。

この段階での育児には、たとえ面倒でも、さまざまな手段が講じられます。たとえばその子供と地上の両親との間、とくに母親との間には特殊なつながりがあります。

そこで、出来るだけ母胎からの出産に似た体験をその子にさせて、その体験を通じて母胎からの肉体的分離つまり独立した個体となったという感触を味わわせます。

むろんこれは肉体では出来ませんから、子供の霊的身体と母親の霊的身体とを使って行います。これによって自然な出産がもたらすほどの密接な脳と器官との連絡関係が得られるわけではありませんが、一応、地上の親との関係は確率されます。そしてその時点からその子供は地上の母親とのつながりを保ち、可能な限り普通の子供と同じような発育をするよう配慮されます。

それでもやはり、地上に誕生した体験を持つ子供との間にある種の相違点がどうしてもあります。地上体験から得られるきびしさに欠けている面がある一方、地上体験のある子供よりも性格と考え方に霊性が見られます。

しかし、成長とともに地上体験のある子供は霊性を身につけ、死産児は母親との繋がりを通じて、さらに成長してからは他の家族とのつながりを通じて、地上の知識を身につけていきますから、その相違点は次第に小さくなり、ついにはほぼ同等の友情関係まで持てるようになり、互いに自分に欠けているものを補い合えるようになります。

かくして一方は柔らかさを身につけ、他方は力強さを身につけ、一つの共同体の中で、有益であると同時に楽しい〝多様性〟の要素をもたらすことになります。

以上の話から貴殿も、地上の両親の責任が死後の世界の子孫にとっていかに大きいかがお分かりになるでしょう。死後の育児にとっても両親との接触が必要だからです。地上の血縁関係の人との接触の無い子供は正常な発育が得られない──他の何ものによっても補えない、欠落した要素があるのです。

かりに両親が邪悪な生活を送っている場合は、地上の時間にして何年もの間その両親に近づかないようにしておいて、そうした子供の保育に当たっている人たち(※)からみて大丈夫と思えるだけの体力と意志力と叡智を身につけるように指導する必要があります。

(※地上において子宝に恵まれず母胎本能が満たされないまま他界した女性であることがこのあとに出てくる──訳者)

ところが、子供が地上的影響力にさらされても安全という段階に至らないうちに、親の方が地上の寿命が尽きてこちらの世界へ来るというケースがよくあります。そうなった場合子供は祈りを頼りとするほかなくなります。

その場合の親にはもはや地上で乳房をふくませた子供に対する情愛は持ち合わせません。あるいは自分にそんな子がいたことすら知らないでしょう。

ですから、二人の間の絆は──かりに残っていても弱いものですが──子供が向上していくにつれてますます薄れていき、一方母親の方は浄化のための境涯へと下りて行きます。その浄化のための期間を終えて再び戻ってきた頃には、子供の方は既に母親の手の届かない高い境涯へと進化していることでしょう。

子供の方では母親を認識しております。そして母親の気付かないうちにもいろいろと援助しております。しかし親と子を結びつける本来の温かい情愛の絆は、向上進化を基調とした天界での通常の生活では存在しないし、有り得ないことになります。

この話を持ち出したのは、吾々から見ると地上にはこうした(水子の)問題において母性が持つ重責が余りに無視されているからです。

地上にて花開くことなく蕾のうちにむしり取られた、そうした優しい花は余りにも可憐であり、親を知らないことからくる物憂げな表情が歴然としているために、それを見る者は悲痛な思いをさせられるものです。

といって今その子供たちが不幸だと言っているのではありません。およそ不幸といえるものとは縁遠いものです。

ただ、さきも言った通り、他の何ものによっても補えない欠落した要素があり、これは地上で母性本能を満たされなかった女性が母親代わりに世話してあげても、ほんの部分的に補えるだけです。

そこで(永い永い進化の旅の中で)一方が他方の欠けているものを与え、また自分に欠けているものを受け取っていくということになるのです。その関係は見ていて実に美しいものです。

──お伺いしますが、このような話をなぜここに挿入されたのでしょうか。これまでの話題と何の関係もなさそうですが・・・・

それが実は、あるのです。
今お書きになった質問が貴殿の精神の中で形成されていくのが私には分かっておりました。そしていずれお聞きになるものと思っておりました。

今夜この話題を持ち出したことは、れっきとした意図がありました。こうしたことを知っていただかないことには、貴殿がマリアとヨセフと名付けられたあの女王とその配偶者についての理解は不可能だからです。

実は遠い昔、お二人は今夜お話したような関係にあったのです。それで初めにお二人の話をしておいたのです。お二人はついにあのような形で愛の絆を成就されたのです。
アーネル †

追伸──この十字のしるしに注目されたい。いろいろと大切な意味が込められていますが、その一つが〝両性の一体化〟です。ここではその意味で記しております。