第1章 測りがたき神慮
第1節 大聖堂への帰還
一九一八年一月二十一日 月曜日
これからは光明界へ向けての旅となります。例の〝光のかけ橋〟の下の谷の暗さは地上の夜の暗さであったと私が言えば、これまでいた暗黒界の都市の暗さの程度(ほど)がご想像いただけるであろう。
漆黒の闇は何も見えない暗さのことです。が、こちらにはそれよりさらに濃い闇が存在する。地上では闇はただ暗いだけのことですが、暗黒界の闇には実体があり、上層界からの保護を受けていない者にとっては、まさに恐怖なのです。
哀れにもその濃厚なる闇へと引き寄せられた者は、あたかも水に溺れるのにも似た窒息せんばかりの苦しみを覚えます。しかもそこには沈みゆく身を支えてくれる板切れ一枚ない。
苦しみの極みにやがて逆上と絶望が忍び寄り、冒涜の地獄を次から次へとさ迷い歩きながら、いつになっても、光明界へと向かうきっかけが己れの心一つに掛かっていることに気づかないのです。
さよう、その奥深き暗黒界の闇には確かに一種の濃度があるのです。ただし、そこに住む者には薄ぼんやりと見透す視力が具わっています。もっとも、それが何らかの恩恵をもたらすわけでもありません。
それどころか、その視力に映じるものは身の毛もよだつものや悪意に満ちたものばかりであり、それが彼らの苦しみを一段と辛辣なものにしていくのです。
彼らの中にはかつてこの地上に生活し地上社会で交わった者もいる。生まれながらにして邪悪だった者もいれば名声と地位を誇った者もいる。このようなことを述べるのは、死後の真相を貴殿を通じて地上の人々に伝えたいと思うからです。
と言うのも、地上には、絶対神は愛そのものであるが故に地獄は存在しないと論ずる者がいます。確かに神は愛そのものです。が、そう述べる者がどこまでその絶対愛を理解しているか──ほんの初歩的なものでしかない。
一方こうして貴殿に語りかけている吾々霊団の者はどうかと言えば、これまでの永き道程にもかかわらず未だに究極には到達できずにいます。
が、神がまさしく愛であるとの確信を抱くに十分なだけの──と言ってもまだ一かけらほどでしかないが──神の叡智(摂理)を理解することを得ております。完全なる理解はできません。
しかしこれまで得た知識が〝神は叡智において完全であり完全なる愛そのものである〟との信仰をますます拡大し、より確固たるものにしてくれたことは確かです。
──リーダーさん、お聞きしたいことがあります。いつでしたか、睡眠中に私も暗黒の地下の仕事場を訪れたことがあるのですが、そのことをあなたはご存知でしたか。もしご存知でしたら、私が訪れたのはあなたが奴隷を救出された鉱山と同じところだったのでしょうか。どこか似通ったところもありましたが、違うところもありました。
貴殿の睡眠中の体験のことは勿論よく存じております。と言うのも、こうして貴殿を使って通信を送る作業を準備するに当たって吾々は貴殿の生活について総合的に検討してあるのです。貴殿の扱い方に粗相があってはならないからです。
この種の仕事に抜擢される人間は、目的はそれぞれ違っていても、こちらで徹底的に調べ上げており、その生活ぶりは一つとして見落とされることがないものと思われて結構です。
さてご質問の件ですが、あの場所は例の都市から数マイルほど離れた位置にある別の鉱山で吾々がお話したボスの子分によって支配されております。そこは、ボスに対して反抗的態度をとった者が連れていかれるところで、そこで徹底的にしごかれながら、吾々が訪れた鉱山よりもさらに厳しい監視下で働かされています。
それに比べれば吾々が訪ねた鉱山の奴隷は挫折感が強いだけに誰かにすがりつこうとする傾向があり、その意味で割合自由にされているところがあるわけです。
貴殿が行かれた場所はその地域へ初めて送り込まれた者がいったん置かれるところで、それだけにまだそこでの仕打ちの残酷さの程度を知らず、そのしごき方も知らずにおります。
──動物がいましたが、あれは何の用があるのでしょう。
その者たちを威嚇し見張るように訓練してあるのです。
──でも動物がそんな地獄に落ちるようなことをしでかすはずがないし、そんな用事に使われるいわれもないと思うのですが・・・・
貴殿が見られた動物は一度も地上に生を享けたことのない動物たちです。地上に生を享けた動物は明るい界層へ向かいますが、あそこの動物たちは悪の勢力によって創造されたもので、彼らにはそこまでは創造できても、地上へ誕生させるほどの力はありません。
そこで暗黒界の環境を形成している成分によって形態だけは立派な動物の姿をしておりますが進化はせず、これからもずっとあのままです。
貴殿があの境涯で動物の存在を不審に思われたのも無理はありません。あの種の動物は地上の動物的生命の秩序の中に組み込まれていないのです。地上の動物種族の進化に関与できる能力を有するのは創造界においてもよほど高い界層まで到達した神霊に限られます。
以上、非地上的真理を地上の言語で述べてみましたが、ご理解いただけましたか。
── 一応わかりました。どうも。大へん謎めいた話で私には思いも寄らないことです。が、これは以後じっくり時間をかけて考えていけば、他の謎を解くカギにもなりそうです。
いかにも。そういう姿勢で取り組めばきっと役に立ちます。その際に次のことを念頭に置いていただきたい。
すなわち宇宙を善と美のみの光で照らして考察すると、当然、悪は否定的な要素でしかないことになりますが、それを逆さまに考える──つまり反対の端から出発して善のみの生命の流れに逆らって進めていけば、暗黒界にも光明界の大天使や中天使や小天使に相当する強力な悪の存在がいるということです。但し一つだけ大きな相違点がある。それはこういうことです。
天界の進化の階梯を下から上へ登っていくと次第に崇高さを増し、ついには究極的存在に至ることになりますが、暗黒界においては完成の極致というものがない──絶対的存在はいないということです。
すべての点で言えることですが、この点においても暗黒界の勢力には完成というものがなく、神性に欠けるが故に秩序もない。もしそうでなかったら暗黒の勢力が光明の勢力と対等となり、そのうち光明界が侵略され、愛と美がその反対の憎と醜にとって代られ存在の場を失うことにもなりかねない。
そうなると最高神の目的が歪められ、宇宙の進化の道を踏み外し、脇道へ外れて遭難し、幾星霜を経るうちに大混乱が生じ、ついにはその目的を成就できずに終わることになるでしょう。
そこで、いかに暗黒の勢力が強力とはいえ全能ではないようにできているのです。全能は唯一絶対の宇宙神のみの大権なのです。
神は全知全能であるが故に、たとえ我が子が反逆して横道へ外れても、その我儘の程度を知悉(ちしつ)しているが故に、いずれは自らの意志により無条件に抵抗を止め、神の愛の絶対性を認めるに至るようにと、数世紀にも及ぶ放浪の旅をもお許しになるのです。
その時点において初めて宇宙の初めと終わりの謎が明確に理解され、神の叡智を悟るのです。
吾々が知り得た限りの神の御国──それとて程度は知れているが──について地上の言語で語れるのはこれまでです。吾々は吾々なりにもっと表現力に富む言語があるのですが・・・・地上の言語ではこれ以上は語れません。もっとも、貴殿の方にご質問があれば別ですが・・・・
──どうも。その件に関してはありません。
では今回はこれで一応終わりとしましょう。どうやらカスリーンが貴殿にひとこと告げたいことがあるようなので、吾々の固苦しい影響力を引き上げて彼女自身の心根(こころね)のやさしい思念にゆずることにしましょう。
彼女の魅力ある性格から出るものをそのまま言わせてあげたいのです。彼女は実に心優しい性格で、吾々の書記として辛抱強く頑張ってくれております。その献身的な協力に対して吾々は心から感謝いたしております。貴殿とはまた機会を得てお会いしましょう。
お寝すみなさい。神の明るき光が貴殿並びに教会の信者の方々とともにありますように。みなさんは自覚なさっている以上に光輝に包まれておられます。いつの日かそれを目の当たりにされる日も来ることでしょう。
訳者注──多分このあとすぐカスリーンからのメッセージがあったのであろう。それが載せられていないのは多分その内容がプライベートなものだったからであろう。
第2節 静寂の極致
一九一八年一月二十五日 金曜日
吾々はついに光の橋にたどり着きました。上り傾斜になっているその橋を暗黒側の端から登って光明界側の端まで来ると、そこでしばし休息して、それまでの仕事の成果を振り返っておりました。
そこへ吾々の界からの使者がやって来て、吾々の使命の進行過程での神庁における配慮の様子を語ってくれました。と言うのも、第十界を離れて以来このかた、神庁においては片時も吾々との霊的接触をゆるめることはなかったのです。
彼はその具体的な例として吾々が重大な事態に立ち至り火急の援助と導きを必要とした時に神庁において打たれた手段の幾つかを語ってくれました。
そのうちの幾つかは吾々にもその時点ではっきりと分かっていたものや何となく感づいていたものもありましたが、大部分はその時の抜きさしならぬ状態の中で全神経を集中していたために、外部から援助されている事実すら気づいておりませんでした。
それというのも、そうした暗黒界においてはその界層特有の環境条件に身体の波長を合わせるために、霊的な感覚がある程度制限されるのはやむを得ないことなのです。
その点は地上界に身を置く貴殿も同じです。たとえ吾々による手助けに気づかれなくても貴殿はいつも見守られており、必要な時には然るべき援助を授かっておられます。
さて途中の界でのことは省略して、一気に第十界に帰ってからの話に入りましょう。
第十界を取り囲むように連なる丘の上で吾々は一団の出迎えを受けました。みんな大喜びで吾々の帰還を待ちわびており、吾々の土産話を熱心に聞きたがりました。
そこで吾々はいっしょに歩を進めながらそれを語って聞かせているうちに、いよいよ〝聖なる山〟の大聖堂の前に広がる大平原にたどり着き、そこを通り抜けて〝聖なる山〟を登り、聖堂の袖廊(ポーチ)まで来ました。
そこから奥へ招き入れられ、中央の大ホールへ来て見ると、そこに大群集が集まっており、跪いて姿なき大霊への讃仰の祈りを捧げているところでした。吾々はそこを通り抜けて最後部で待機したのですが、吾々の動きに一瞥すらくれる者は一人もいませんでした。
地上の人間は真の静寂を知りません。地上には完全な静寂というものがないのです。音の無い場所というものがありません。第十界のあの大聖堂での讃仰の祈りの時はまさしく静寂そのもので、崇厳さと畏敬の念に満ちておりました。
かりに貴殿がはるか上空へ地上を離れれば、次第に地上の騒音から遠ざかることができるであろう。が、それでもなお空気との摩擦があり、微(かす)かとはいえ一種の音によって完全な静寂は破られるであろう。
さらに大気圏を離れても、惑星間の引力作用による潜在的な音の要素がエーテルに響いている。
太陽系を離れて別の太陽系との間の虚空まで行けば、幾百万光年の彼方の地球はもはや見ることも感知することもできず、殆どその存在は知られなくなることであろう。
しかしエーテルが存在する。たとえ貴殿の耳には何の音も届かなくても、エーテルを応接間に譬えれば空気はその控えの間のような存在であるから、音と隣り合わせていることになり、両者は言わば親戚関係にあることになる。
ところがこの第十界までくると、そのエーテルを十倍も精妙化したような大気が存在する。ここでの静寂はそれに浸る者への影響の観点から言えば消極的なものではなく、むしろ能動的な一つの存在を有している。
つまり音が無いという意味での静寂ではなく、静寂という実体があるのである。それも一種のバイブレーションをもつ存在である。
がその周波は極めて緻密で、音の皆無の状態と同じなのである。私にはこれ以上の説明はできかねます。肉体という鈍重な物質に宿っている貴殿には、吾々があの大ホールへ入った時に体験した状態は、その万分の一といえども想像できるものではありません。
最後部の座席で待機していると、前回吾々を見送って下さった方が中央の通路を通って近づいてこられ、私の手を取って祭壇へと案内してくださった。その祭壇は例の玉座のある拝謁の間にあり、吾々が暗黒界への使命を給わったのもその部屋でした。
使命を終えて再びその部屋へ戻ってきた時の吾々は、あの暗黒界での辛酸をなめさせられて、いささかやつれぎみでした。顔の表情から数々の闘争のあとが窺われました。
というのも、私が貴殿にお話したのはほんの一部であって、決してあれがすべてではなかったのです。善と悪との絶え間ない戦いをくぐり抜けてきた戦士のようなものでした。
しかしその傷あともシワもいずれは霊格の一部として融合し、一段と品格を高めてくれることでしょう。吾らが主イエスも身を持ってその模範を垂れ、聖なる美への道をお示しになられたのです。
実に、身にまとわれる衣にも犠牲の教訓が読み取れるほどの主の美しさは、地上の言語はおろか天界の言葉をもってしても、私には表現することはできません。
吾々一団は祭壇から少し離れた位置で足を止め、同じように跪いて存在の根源すなわち絶対神への祈りを捧げた。むろん絶対神は顕現の形でしかその姿をお見せになることはないし、それも滅多にあることではない。それもほとんどが主イエスの形態で現れる。
その理由は地上人類の一人として降誕されたその体験ゆえに、その段階での吾々にとってより交わりを得やすいからです。
やがて合図を感受して全員が頭を上げて祭壇へ目をやった。合図と言ってもただ吾が身の内と外にある存在感を感じ取ったにすぎない。見ると祭壇の左手に主のお姿があった。
主は二度と同じ姿をお見せになることはない。どこかに新らしいもの──吾々の心を捉え教訓を物語る何ものかを備えておられる。
その頭部の上方に七人の尊い天使のお姿が一列に並んで見える。腕で両手を交叉させ、立ったまま黙しておられる。目は閉じてはいないが、瞼が下がり主の少し後方の床へ目線を落としているようであった。
身には各種の色合いの混じったゴースの衣をまとっておられる。外から色づけしたものではない。意識的に表現するのでなしに、自然にその色合いが出ているのである。
地上にそれと同じ色合いを見つけることはできないが、そのほかにも地上のバイオレット、ゴールド、淡いクリムソン──ピンクとはちがいます。今の貴殿には理解できないでしょうが、そのうち分かります──それにブルー等々が混じっている。
ほぼそれに近いという程度ですが、実に美しいものです。ゴースの衣をまとっているとはいえ、身体そのものから出る美しさは譬えようもありません。
その至純さもまた譬えようもなく神々しく、それが衣に反映して放つ光輝は、それによって外から飾るのではなく、それがその存在の一部となり切って神々しさを引き立てている。
それぞれの頭部には光のベルトが輝いており、その生き生きとした様子は、心が讃仰へ、あるいは愛へ、あるいは慈悲心へと変わるごとに輝きが変化するほどでした。
七人の天使の心は完全なる調和と落着きを保っているために、僅かな心の動きでもすぐさま光のベルトに反応を示し、同時にブルーの衣を通してクリムソンのきらめきが、そしてバイオレットの衣を通してゴールドのきらめきが放たれるのでした。
祭壇のわきに立たれるキリストの容姿は七人の天使に比べて一段と鮮明度が強烈で、容貌の細部までよく見ることができました。頭部には二重の冠をつけておられる。一つの冠の内側にもう一つ見える。
外側の大きい方は紫色をしており、内側の小さい方はクリムソンの混じった白色をしている。その二つが幾本かの黄色の棒でつながれ、その間に実に可愛らしいサファイアの宝石が散りばめられ、冠全体から放たれる光輝が頭上で一つの固まりとなっています。
身体全体がきらめく銀色の光に包まれ、クリムソンパープル(深紅と紫の混じったもの)──この色は地上には存在しません──のマントを羽織っておられる。
胴体の中ほどに金属性のベルトを締めておられ、銀と銅の中間の色をしている。私はいま主の容姿を私に出来る限りに叙述しております。
時に地上の用語を妙な組み合わせで使わざるを得ませんが、それでも私の伝えたいこととは程遠いことばかりです。胸もとにはルビー首飾りがあり、それがマントを両肩のところで留めております。
右手に色彩豊かな棒状のアラバスター(石膏の一種)を持ち、その先端を祭壇にそっと置いている。左手は腰のあたりに当てがい、親指をベルトの中に入れておられる。
そのせいでそのあたりのマントが片側へ広がっている。そのお姿の優美さは仁愛に満ちたお顔と完全に調和しておりました。
──そのお顔は地上の絵画に見る例のお顔と似ていますか。
似ていますが、ほんの少しだけです。ただし、主のお顔は顕現のつど、どこかが少しずつ異なっていることを知っておかれたい。本質的には少しも変わりません。この度もそのお顔から受けた印象は王者のそれでした。
悲哀(かなしみ)の人でありながら全体には王者の風格がみなぎっておりました。その中に吾々は神の御国に到達された方のしるしを読み取りました。
そこへ到達されるまでの葛藤の痕跡は、その成就とともに訪れるのどかさの中に吸収されつくしておりました。
貴殿は今その時の主のお顔に地上の肖像画に見えるようなあごひげが付いていただろうかと思っておられますが、私が見かけた限りでは、ありません。実は私は主があごひげを付けておられるのを見かけたことがないのです。
すでに五十回ないし六十回はご尊顔を拝しているのですが・・・・もっともそれは否定する理由にはなりません。主があごひげを付けてはならない理由はありません。
時にはお付けになって出られるのかもしれません。ただ私は見たことがないというまでです。それ以上のことは言えません。
さて吾々が主を見つめ、それから頭上の天使に目をやっていると、やおら主がお言葉を述べられた。貴殿にはその大ホールの全会衆へ向けて述べられたお言葉の意味は理解しかねるであろうから割愛するとして、いよいよ吾々帰還したばかりの十五人に向けてとくに語られたお言葉は──語るといっても貴殿らが語るのとは異なるのですが──およそ次のようなものでした。
「さて、暗黒の飛地より帰られたそなたたち。実はその後私も同じ土地へ赴いていたことを知られたい。
群より離れた彼の地の小羊たちには私の姿は幽かにしか、それも稀にしか見えないことであろうが、私は父がお造りになられた世界の最僻地までも赴き、そこから上層界へと向かいつつ、そなたたちと同じように彼の地の者たちに語りかけてきた。
数多くの者が私の声に目を覚まし、その顔を光明界へと向けてくれた。が、私に背を向けて暗黒界をさらに深く入り行く者もいた。彼らは私がそこに存在することそのことから受ける知覚に耐えかねたのである。
その時はことさらに私の影響力が増幅されていた。今もそのまま残っていることと思う。
そなたたちはそのとき私に背を向けた者たちがその後たどり着いた場所までは踏み込んでおられない。が、私は今なおその地で彼らと共にあり、いつの日かは彼らもこの地において私と共にあることになろう。
さて、私の忠実なる使者であるそなたたちは、よくぞ私の計画を推進なされた。私は私の本来の住処よりそなたたちの仕事ぶりを注視していた。名誉の負傷なくして帰ることを得なかったことであろう。
私も同じように傷を負いました。彼の地の者をこの光明界へと誘わんとするそなたたちの誠意ある意図は必ずしも妥当なる信任を得なかったが、それは私も同じである。
余計なお世話と言われたこともある。そなたたちは彼の荒涼たる大地に住める同胞の苦悶の様子を見て、さぞ心を痛めたことであろう。
そして又、時には、これで果たして神は父と呼ばれるべき存在であり得るのかとさえ思えたこともあろう。とくに彼らの苦しみを我が苦しみとして受けとめ我が身を滅ぼさんばかりになった時はなおのことだったであろう。しかし我が親愛なる使者に申し上げよう。
私も又、他のことと同様にこのたびのことにおいても、人間的苦悩の深奥を極める体験をさせられました。父が私から顔を背けられた時に私も暗黒の苦しみを味わったのです」
(訳者注──最後の一文は多分磔にされた時のことを指すのであろう。その直前イエスは窮地を救ってくれるよう父なる神に祈った──〝父よ、御心ならば、何とぞこの苦しみの杯を取り除き給え。が、どうぞ私の願いでなく御心のままになされんことを〟と。
そして有名な最後の一句〝エリ、エリ、レマ、サバクタニ〟──神よ、神よ、何ゆえに私を見捨て給うや──を唱えて息を引き取った)
主は静かに、穏やかに、そして抑揚の少ない調子で話されました。しかも話しておられるうちに、その目の表情がはるか遠くの眺望の中へ霧のごとく融け入るようにみえました。
それはあたかも今そうして話をされている最中も七人の神々しき天使と共に、そこの大聖堂にいるのではなく、彼の暗黒の地においてその土地の者たちと苦しみを共にされているごとく思えました。
しかしそのお言葉に苦の情感は感じられませんでした。感じたのは主みずから語られた邪悪への哀れみと支配力の尊厳でした。さて再び主のお言葉に戻って、私に可能なかぎり地上の言語に直してみましょう。
「そこで私はそなたたちが父の優しさと恩寵を求めて祈る際に身につけるべきものとして、このたびの旅と尽力と苦難のしるしを授けよう」
主が言われたのは新たに授かった宝石のことで、それが吾々の〝礼拝の冠帯(ダイアデム)〟に付け加えられたのです。主はそれから左手を高く上げられ、その手で、跪いている全会衆の頭上をゆっくりと円を画くように回され、そして最後の言葉を述べられました。
「私はこれにて去り、あとは私の代理の者が、そなたたちがこれより先この界において為すべき所用を申しつけることになろう。その仕事には私がいつでも援助すべく待機しているであろう。壮大なる計画のもとに行われる仕事だからです。
急いで着手してはなりません。が着手したら総力をあげて忍耐強く取り組み、知識と力とにおいてそなたたちに優る上層界の者による修正を必要とせぬよう、首尾よく仕上げてもらいたい。必要な時は私を呼ぶがよい。それなりの援助はいたそう。
が必要以上に求めてはならぬ。その仕事は下層界の向上のためであると同時に、そなたたち自身の向上のためでもある。
そのことを銘記して、これまでに身につけた力を精一杯駆使して成就されよ。ただ、しかし、私の援助を求めることを怠ったが為に支障をきたすことがあってはならぬ。
そなたたちの力にて見事に成し遂げるということの方が、いたずらに仕事を進行せしめることよりも大切である。何となれば、その仕事は私の父のためであり、そして私のためでもあるからである」
そう述べられてから祝福と祈りをこめて再び手を上げられ、非常にゆっくりとした口調で〝神ぞ在します〟と言われました。
そう述べているうちに主と七人の天使は本来の界へ戻るべくゆっくりと視界から姿を消され、吾々一同は静寂の中に残されました。
が、その静寂の中に主の存在感がなおも感じ取られ、その静寂に包まれて吾は、その静寂そのものが主の御声であり、吾々のために語りかけて下さっていることを知りました。
そうと気づいて吾々は一瞬ためらいを覚えましたが、ためらいつつも再びそれに耳を傾けて礼拝したのでした。
第3節 コロニーのその後
一九一八年一月二十八日 月曜日
かくして吾々の旅と使命はこれまで叙述したごとくにして終了しました。吾々の話について何かご質問があれば・・・・実はさきほどから貴殿の精神の中にいくつか質問が形成されつつあるのが見えるのです。今お答えしておいた方が都合がよいでしょう。
──ええ、二、三お尋ねしたいことがあります。まず第一は、前回の通信で〝礼拝の冠〟でしたか、何かそんな用語を使っておられましたが、あれはどんなものでしょう。
こちらの世界では情緒も思念も、何一つとして外部に形体をとって現われないものはありません。貴殿が身のまわりにご覧になる地上のものも、元はといえばすべて思念の表現体です。思念はことごとく、全生命の根源である究極の実在すなわち神に発しています。
現象界の思念はすべてその神という焦点へ向けて内向していきます。つまり、すべての思念の根源は神で、そこから発したものが再び神に回帰していくという、果てしない循環運動をしております。その途中の過程において思念の流れはさまざまな序列の権威、忠誠心、ないしは神との一体性を有する存在の精神的操作を経てゆく。
つまり大天使、中天使、小天使、そして普通のスピリットの影響を受けて、ある者は天国、あるものは地獄、あるものは星雲、あるものは太陽系、その他、民族、国家、動物、植物、要するに貴殿らが〝もの〟とよぶものすべてとなって顕現されている。
それらはみな個性を具えた存在による外部へ向けての思念操作によって生産され、その思念が同じ界に住む者ないしは連絡を取り合っている界の住民の感覚に反応する表現形態を取ります。
それのみではありません。あらゆる界層の想念は、地上であろうと地獄であろうと天国であろうと、それなりの能力を有する者には明瞭に感得することができます。
ですから、たとえば貴殿のすべての思念は吾々が住んでいる言わば天国の下層界においても、至聖至高の絶対神の心臓の鼓動の中に存在する実在界においても感識されているといっても決して過言ではありません。
荘厳をきわめる事柄においても、些細な事柄においても、原理は同じということです。かくして吾々の界層の一団が発する思念は、その大気の温度にも色合いにも反映します。
(地上的用語を用いていますが、それ以外に表現方法がないのです)それで一人物の性格と霊格は衣服の生地、形、色彩、身体の姿かたち、背丈、肌ざわり、身につけている宝石の色彩と光沢等々、さまざまな形で顕現されていることになります。
そういう次第で彼の地での使命を終えて帰ってきた時の吾々は以前には欠けていた性質を個性の中に吸収していたために、冠帯に宝石が一つ加えられていたのです。
主お一人の独断でおやりになったのではありません。こちらの世界ではすべてが厳正にして精密な理法の働きによって決定され、しかも神の恵みに溢れた形で実施されます。私があの頭飾りを〝礼拝の冠帯〟と呼んだのは、それがいつも目に見えているわけではなくて、吾々の思念が礼拝に集中している時にのみ目に映じるからです。
その時になると吾々の頭髪の上に形体を現わし、髪を束ねて耳の後ろで留めてくれるのです。それを飾っている数々の宝石は吾々に相応しいものとして選んで付けられたのではなくて、吾々が一界また一界と降りていきながら身につけた資質が自然に生み出したものです。
今それに加えてもう一つの宝石が、最終的使命を託されていた暗黒界での功績のしるしとして与えられたという次第です。
そうした宝石や珠玉に関しては、たとえ私には何とか意味だけは言葉に移し得ても、貴殿に理解していただけそうにないことが多々あります。
貴殿もいつの日かその美しさ、それが象徴しているもの、そしてそれに生命を賦与しているもの、さらにはその威力について知ることになるでしょうが、今はまだ無理です。一応この程度にさせていただいて、次の質問に移りましょうか。
──どうも。ではあなたが大勢の人を救出して小キリスト(とお呼びしたい方)に預けたというコロニーについて、何かお話しねがえませんか。
あの方を小キリストとお呼びになられて結構です。そうお呼びするに相応しい方ですから。
よろしい。ではお話しいたしましょう。あのとき私に同行した一団のうちの二、三名とともに、私はあのコロニーをその後数回にわたって訪ねております。小キリスト殿にそう約束してあったのです。そして彼が私の期待に背かずよくやってくれていることを知りました。まずその点をよく銘記しておかれたいのです。
私は彼の仕事ぶりに百パーセント満足しております。が、実はそれがある意味で彼にとっての試金石となりました。最終的には私が期待していた通りにならなかったからです。
そのコロニーを時おり訪問したり、私の名代として派遣した者から報告を聞いたりすることは私にとってきわめて興味ぶかいことです。最初に訪ねたとき市街はなかなか整然としておりました。しかし、その境涯で手に入れる材料ではやむを得ないのでしょうが、建物そのものが粗末で優美さに欠けておりました。
完全性に欠けているようでした。でも私は称賛と激励の言葉を述べ、さらに一層の計画の推進に邁進するように言い残して帰りました。
そうやって何度か訪ねているうちに私は、小キリスト殿──この呼び方では不便ですから名前を付けましょう。取りあえずバーナバス(※)と呼んでおきましょう──そのバーナバス殿が指導性を持った人物ではあっても指揮命令を下すタイプではないことが判ってきたのです。
彼の場合は愛によって説得するタイプでした。それはそれなりに影響力はありました。理解する者が増え、成長とともにその愛に応えることができるようになっていったからです。彼は叡智に富んだ人物ですが指揮統率力には欠けるのです。
そのうち彼自身もそのことに気づき始め、例の謙虚さから素直に、そして何の恥じらいもなく、それを認めることができました。
そういう次第で、内面的に深い問題や霊的なことがらに関しては彼が指導し、今も指導に当たっておりますが、組織全体の管理の面では、少しずつでしたが、例のキャプテンに譲っていきました。
この男は実に強力な個性の持ち主で、いつの日か光明界においてもきらびやかな存在、強力な指導者となって、果敢に大きな仕事を成し遂げていくことになるでしょう。なかなか豪胆な人物です。
(※Barnabasは聖書の使徒行伝4・36その他数か所でバルナバという呼び方で登場する人物と綴りが同じで〝慰めの子〟〝訓戒〟などの意味があるという。パウロの友人で使徒の一人に数えられており、断定はできないが、これが小キリストと同一人物であってもおかしくはない──訳者)
彼は徐々に住民たちの閉ざされた記憶の層から地上での曽ての自分の仕事で使用した技能(うで)を思い出させ、それを今の仕事に使用させていきました。
金細工人だった者、木細工人だった者、彫り師だった者、石工だった者、建築家だった者、画家だった者、音楽家だった者等、それぞれの仕事に従事させたのです。
私が訪ねる毎にその都市が秩序と外観に改善のあとが窺われ住民が一段と明るくなっておりました。そしてそれ以外にもう一つ別のことを発見しました。
私があの鉱山から彼らを連れ出してその土地へ来た当初、そこに見られた明りは精々薄明りといったところで、およそ〝光〟と言えるものではありませんでした。
ところが私が訪れる毎に一段と〝光〟と言えるものに近づいていき、可視性の度合いがその市街全体に行きわたり、さらに広がって周辺の土地一帯にも微光が射しておりました。これは一つにはバーナバス殿の地道な精神的指導の結果です。
と言うのも、各自に未来の正しい精神的方向づけをしたのは彼なのです。つまり愛の力によって強烈な霊的憧憬を抱かせ、それが真剣味を帯びるにつれてまず内部の光が増し、それが次第に外部へと放散されて、結果的にその土地の大気が明るさを増していったのです。
かくして二人はそれぞれの特質を発揮して忠実に協力し合いながら、これまで立派な仕事を為し遂げ、これからもなお為し遂げていくことでしょう。それは私にとって大いなるよろこびであると同時に、道を見失える魂を求めて私と共に暗黒の道なき道を分け入って苦を共にした霊団の者たちすべてにとっても喜びでした」
──周辺の土地にいる者は何も悪いことはしないのですか。
その問いに対してのみ答えれば「ノー」です。今はしなくなりました。しようとする様子もありません。が、心身とも弱り果て、とても敵と戦えない状態でそこへきた当初は大いに悩まされました。
その前に大事なことをお話しましょう。まずはじめに多分貴殿が不思議に思うであろうことをお話しましょう。貴殿はヨハネが(黙示録に)書いている十二の部族から一万二千人ずつ(計一四四、〇〇〇人)の者が救われた話を憶えておられるであろう。
さよう、吾々が救出した人数もそれと同じだったのです。なぜ、どうしてそうなったのかと聞かれることでしょう。それは、あの仕事を計画された上層界の方々が目論まれたことなのです。
吾々よりはるか高い世界のことなので、なぜかということは私にも分かりません。
ただ、これから先の永い進化の道程に関わることであることは確かです。いま貴殿は吾々の救出した数とヨハネの記録にある数字とが何か関係があるのだろうかと考えておられる。少なくとも明瞭な関係はありません。が、暗示的な意味はあります。
それは、あの集団の発達していく過程の中に具体化されていくことでしょう。そして、いずれ彼らは天界において新しい、そして自己充足の──どう言えば貴殿に分かっていただけようか──そういう領域を形成することでしょう。新しい界層ではありません。天界の中の新しい領域です。
さてご質問の件ですが、初めのうちは周辺の部族の者がやって来て、真面目に働いている者たちに侮辱的な言葉を吐き棄てては去っていくということを繰り返すので大いに困りました。彼らは別の部族にも通報するので、そういう嫌がらせがひんぱんになりました。
そのうち嫌がらせが当分なくなりました。が、キャプテンはかつての用心深さと才覚を取り戻していて、周辺の丘や見張所に見張番を置いて警戒させました。
そのうち分かったことは、周辺の部族が一団となって軍隊を組織し、あれやこれやと隊員たちの士気をあおるようなことをやりながら教練をしているということでした。こうした、言うなれば似非実在界ではよくあることなのです。
しかし、そうするうちにも吾々の救出した者たちは力と光輝とを増していき、いよいよ彼らが攻めてきた時にはどうにか撃退することができました。戦力と意志の総力をあげた長く列しい戦いでしたが、ついに撃退しました。
それは彼らが──奇妙で矛盾しているように聞こえるかもしれませんが──真実の戦いとなったら絶対に負けないだけのものをすでに身につけていたからです。
その最大の武器となったのは身体と大気から出る光輝でした。今なお暗黒の闇の中に浸っている敵にとってはそれが大変な苦痛なのです。その光輝の届く範囲に入った敵はコロニー全体のオーラの持つ進歩性に富んだ性質が苦痛に感じられ、身を悶えて叫び声を上げるのでした。
その後もそのコロニーは向上しつつあります。そして増加する光輝の強さに比例して少しずつその位置が光明界へと移動しております。
これは天界における霊的状態と場所との相互関係の原理に触れる事柄で、貴殿には理解が困難──否、不可能かも知れません。それでこれ以上は深いりしないことにします。
かくして敵はますます近づき難さを覚えるようになっていき、一方、コロニーの住民は敵が攻めてくる毎に危険に対する抵抗力が増していることを知るようになりました。敵が立ち往生する位置が次第に遠くになっていったのです。
こうして領域が広がってきたコロニーでは、小集団を周辺の土地に住まわせて農耕に従事させ、さらに植林と鉱石の採掘をさせました。鉱山の仕事の着手は最後になりました。
かつての苦しい記憶からみんながしり込みしたからです。しかし鋼鉄の必要性に迫られて、大胆で思い切りのいい男たちが掘り始めました。やり始めてみると、奴隷として働くのと自由の身で働くのとでは全く違うことが分かり、そのうち志願者にこと欠かなくなりました。
このように、善性の増加が住居と市街全体の光輝を増していきます。それが力となるのです。なぜなら光輝の増加は霊格の向上のしるしであり、それは霊的な力が増加したことを意味します。従って敵も彼らに対してまったく無力となっていくのです。
どうぞ貴殿もこの点によく注目してください。と言うのも、地上の巡礼の旅において敵に囲まれている者にとっても、この事実は有難いことに違いないからです。
その敵は地上の人間であっても霊であっても、いいですか、バーナバス殿のコロニーの周辺にいる敵と少しも変わらないのです。
コロニーが光明界へ近づくにつれて敵は遠く離れていき、下層の暗黒界に取り残されていくのです。
貴殿へ私より愛と祝福を。
第4節 バーナバスの民へ支援の祈りを
一九一八年二月一日 金曜日
カスリーンが貴殿に伝えたいことがあるようです。吾々は彼女の話が終わったあとにしましよう。
──ほう、カスリーンが?
そうです。私です。最近ザブディエル霊団との接触があって、あなたへの伝言を授かりましたので、そのことでお話したかったのです。霊団の方たちから何も心配することはないからそう伝えてほしいとのことです。
私たちが奥さんに通信を送っているときに霊団の方たちが近くに来てメッセージを伝えたことがありましたが、あなたはそれをザブディエル様ご自身から送られたのか、それとも霊団の一人がザブディエル様の名前で送ってきたのかと思っておられますが、あのときはザブディエル様が直々に──といっても霊団の方が付き添っておられましたが──お伝えになりました。霊団のメンバーの一人ではありません。
ご自身です。ザブディエル様はそのことを知ってほしく思っておられるのです。
──二、三日前の夜に出られた方が私の妻に、霊団の方たちはみなザブディエルというネームを付けているのを見たとおっしゃっていましたが、それはベルトにでも書かれていたのでしょうか。
そうです。はい。
──ザブディエル殿が霊団を率いておられることをその時まで知りませんでした。それで私はあの時に出られた方をザブディエル殿と勘違いしたのではないかと思ったわけです。と言うのは、霊はよく所属する霊団の指導者の名前を使用することがあると聞いていましたので・・・・
よくあることです。ちゃんとした規律のもとに行われる慣習です。ですが、あの時はザブディエル様ご自身が出られて話されたのです。
──ありがとう、カスリーン。おっしゃりたいことはそれだけですか。
そうです。どうぞリーダーさんへ質問なさってください。あなたが質問を用意されていることをご存知で、先ほどから待っておられます。
──分かりました。ではリーダーさん、まず最初に前回の話題に戻って次のことをお聞きしたいのです。救出された一四四、〇〇〇人によるコロニーがいずれ天界で新しい領域を形成するとおっしゃいましたが、そうなった時にあなたはどんな役目をなさるのでしょうか。
何らかの形で関与なさるであろうという感じを抱いているのですが、いかがですか?
あのようにきちんとした数の者が選ばれて新しい領域を形成することになったことには意味があります。実は私自身はバーナバス殿にあずけたあと二度目に訪ねた時に初めてそれを知ったのです。
それ以来私も、いま貴殿が察しておられることが有り得ないことでもないと感じております。
まだ具体的なことは何も聞かされておりません。また貴殿の仰るような時期には至っておりませんので・・・・今あの都市の者たちが目指している光明に首尾よく融合できるようになるには、まだまだ準備が要ります。
その上、彼らの進歩はためらいながらの遅々としたものなのです。そうでないと丹念な注意と計画のもとに選ばれたあの人数の意味が崩れる恐れがあるのです。
というのは、万一進歩性の高い者から次々と独自の歩調で進歩していったら、全体の団結に分裂が生じ、みんなで申し合わせたことが無に帰すからです。
今も申した通り、私はあのコロニーについて何の指示も受けておりませんし、今後いかなるコースを辿るかも聞かされておりません。現在の進歩を見守るだけで満足し、そこに喜びを見出しているところです。
それ以外のことは吾々を指揮してくださっている神庁の方々の決定に俟つのみです。
しかし次のことだけは言えるかも知れません。まえに吾々霊団の数のことをお話しました。十五名でした。あのとき私は七の倍数にリーダーとしての私という言い方をしました。
それは六人ずつ二つの班になっていて各班に一人ずつ班長を加え、さらに全体を統率する者として私を加えれば、これで十五名となります。そういう見方でこの新しいコロニーを見ると興味がありそうです。実はそのコロニーの発端、少なくとも初期の発展には貴殿も寄与しておられます。その意味でも、その進歩ぶりに興味を持たれるに相違ありません。
──この私が寄与するなんて考えられませんが・・・・
でも、立派に寄与しておられます。貴殿はあの部族の様子がこちらから地上へ届けられた、その媒体です。心ある人々はそれを読まれて彼らの発展を祈り、善意の思いを寄せ、吾々援助者のことも思ってくださることでしょう。それが彼らの発展に寄与することになるのです。
──私はこれまで彼らのために祈ることなど思ってもみませんでした。
それは貴殿が吾々の指示で書いたことの現実味を理解するだけの時間的余裕がなかったからです。理解がいけば祈る気持ちになられるでしょう。そうでなかったら私は貴殿を見損なったことになります・・・・いや、ぜひ祈るようにお願いします。
──きっと祈ります。
そうです。祈るのです。そして貴殿がこちらへお出でになればご自分の目でその部族をご覧になり、貴殿のそうした祈りが彼らの力になっていることを知って、うれしく思われることでしょう。
彼らの進歩は遅々としていますから、貴殿がお出でになってからでも十分に間に合います(※)。ですから、彼らのために祈るのです。こちらでお会いになったとき貴殿に愛と感謝を捧げる人が少なくないはずです。それは気の毒な人への同情と同じです。
彼らが今まさにその状態にあるのです。〝バーナバスの民〟と呼んであげてください。そう心の中で念じてやってください。
(※ちなみにオーエン氏は一九三一年に他界している──訳者)
──あなたの民と考えても良いのではないですか。
それはいけません。私の民ではありません。貴殿は先走りしすぎます。いつかは私の民となるかも知れませんし、私もそう望んでおります。というのも、あの者たちは私にとって我が子、可愛い我が子も同然だからです。
言わば死者も同然の者の中から救い出した、いたいけない子供なのです。私にとって何を意味するかは貴殿の胸の中での想像にお任せします。
どうかバーナバス殿とキャプテンと同様に彼らのためにも祈り、そして愛念を送ってやっていただきたい。彼らはみな貴殿の同胞でもあるのです。そして吾々を通じて実質的なつながりを持っているのです。他の人々にも祈ってくださるようお願いしてください。
──私がうっかり見落としていたことを教えていただいて、お礼を申し上げます。
それに、吾々の話に出た他の人たちのためにも祈ってやっていただきたいのです。彼らも向上のための祈りと支援を大いに必要としております──お話したあの暗黒の都市のかつてのボスとその配下の者たちのことです。
地上の人でも、地獄にいる者のためにしてあげられることがあることを理解してくだされば、地上にまで及んでいる彼らによる禍(わざわい)を減らすことにもなるのです。
つまり、その気の毒な霊たちを少しでも光明へ近づけ、その苦しみを和らげてやることによって、地上へ大挙して押し寄せては霊的に同質の人間、ひいては人類全体の邪悪性を煽っている霊たちの数とその悪念を減らすことにもなるのです。
人間は上へ目をやって光明を求めて努力することはもとより結構なことです。が、下へ目を向けて、苦悶の淵にあえいでいる霊がその淵から脱け出るように手助けすることはそれ以上に徳のあることです。
思い出していただきたい。その昔、主みずからがそれを実践なさったのです。そして今日なお主の配下の者たちがなさっていることなのです。
神は、その昔、主に託して地上へもたらした恩寵を今なおふんだんに授けて下さっています。願わくば貴殿の霊と行為において、神が貴殿をその恩寵をもたらした主と一つになさしめ給わんことを祈るものです。
父の恩寵です。それをその子イエスに託して地上という暗黒の人間にもたらしたのです。そして今なお途絶えることなくもたらしてくださっているのです。
このことを篤と銘記していただきたい。そうすれば貴殿が授かったように他の人々にも授けずにはいられなくなることでしょう。そしてそれが貴殿の魂の安らぎと喜びとを増すことにもなるのです。