第10章 質問に答える
・・・私がこれまでに会った人の中には、自分はスピリチュアリストであると言いながら相変わらず何かの既成宗教に属している人がいます。スピリチュアリズムを信じるようになったら、それまでの宗教は捨てるべきではないでしょうか。

私はそうした名称には拘りません。実はこの私自身が果たしてスピリチュアリストであるとの認証を頂いた訳ではないからです。ご自分のことをどうお呼びになるかではありません。大切なのは毎日をどう生きるかです。

いったい宗教とはいったい何なのでしょう。教会や礼拝堂や寺院へ通うことでしょうか。人間のこしらえた教義を受け入れることでしょうか。私はローマカトリック教徒ですとか、プロテスタントですとか、仏教徒ですとか、ユダヤ教徒ですと名乗ることでしょうか。

宗教とは宇宙の大霊すなわち神の御心に一歩でも近づくことになるような生き方をすることです。あなたの行為の中に神の御心が表現されることです。要するに宗教とは人の為になる行いをすることです。

もしも霊界との交信の事実を信じてその恩恵を受けている人が相変わらず神学的教義に拘り続けている時は、その人のことを気の毒に思ってあげることです。密かに祈りの気持ちを送ってあげることです。その人はまだ梯子の下の方、せいぜい中途までしか上がっていないからです。

精神が従順で感化されやすく、与えられた者は何でも吸収していく幼少時に教え込まれた教義を捨てることは容易ではありません。それがいつしか潜在意識の縦糸となり横糸となって、その深層を形成します。そうなると、自らその誤りに気付いて取り除くと言うことは、殆ど不可能に近いと思わないといけません。

ですから、我慢してあげることです。われわれだって、かつては間違った考えを抱いていたのを、その後の叡智の発達のお陰で捨て去ったことがあるではありませんか。所詮人間の誰一人として完全の極致まで到達した人はいないのです。それには永遠の時を必要とするのです。

我慢してあげるのです。議論しあってはいけません。議論からは何も生まれません。詩人が言っております。“議論しても、入ってきたのと同じドアから出ていくだけである〟と、(英国の詩人Edward Fitzgerald)

自分の宗教の教義より先が見えない人のことは辛抱強く見守ってあげなさい。時がたてばあなたの場合もそうであったように、きっと機が熟します。

・・・分けもなく塞ぎこんでいる人間が多いのですが、若者にいったい何が起きているのでしょうか。霊的に飢えているのでしょうか。

道を見失っているのです。彼ら若者は暴力の支配するこの時代に生を受けました。彼らの気持ちの中には大人は自分たちを裏切ったという考えがあります。また、従来の宗教では救いは得られないとも考えております。

・・・その考えは大人に責任を負わせ過ぎだとは思われませんか。誰しも自分なりの道がある筈です。

私はそうした若者の考えに賛成であると言っているのではありません。私は現代の若者の心理を説明しているだけです。いずれは彼らも先輩になるのです。

・・・体験と言うものは掛けがいのないものです。

苦々しい体験ほど薬になるのです。楽な体験は往々にして毒になるものです。サークルのメンバーの方なら私が何度も申し上げているのでよくご存じでしょうが、しくじると言うことの効用は、やり直しがきくと言うことです。

・・・(旧約聖書の天地創造の話を持ち出して)ある人たちはその創造活動に宇宙人が参加したと言っておりますが、いかがでしょうか。

申すまでもないことでしょうが、あなたは今、大気圏外から来た生物へ質問していらっしゃるのですよ。創世紀その他の話に惑わされてはいけません。あなたの理性に照らして受け入れ難いものは拒絶なさることです。要するにあなたがお知りになりたいのは、地球はどうして誕生したかと言う、その事実なのですから。

・・・その説が沢山あるのです。どれが事実なのか分からないのです。

生意気を言うようですが、私はそうした〝説〟を超えたものを手にしております。この問題に関しては少しばかり知識があるのです。地球は無窮の過去から存在し続けております。始まりも終りもありません。*バイブルにもイエスが言ったとされる名文句があります。〝アブラハムが生まれる前から私は存在している〟と。

(*これは最後に引用されているバイブルの文句から察せられるように、地球と言う惑星を物的天体としてではなく霊的存在として考えた上でのことである。地上の万物に霊が宿っているように、地球そのものにも霊が宿っている・・・と言うよりは地球の霊が顕現したのが生きとし生きるものであると考える方が順序であろう。日本の古神道ではその生成過程を寓話風に物語っている-訳者)

霊は無窮の過去から存在しております。ある時ひょんな時から創造されたのではありません。それが地球に宿り、数えきれないほどの年数をけみして、やっと生命として顕現し始めたのです。生命は霊であり、霊は生命です。永遠の過去から無限の可能性を秘めているのです。

その生命の誕生に大気圏外からの存在(*)が参加した事実はありません。内在していた生命力が無限の知性によって考案された進化の法則に従って顕現し、発達し、進化してきたのです。

(*天地創造についての質問に対する冒頭でシルバーバーチは自分のことを〝大気圏外から来た生物〟という冗談めいた表現をしているが、これはもちろん〝霊界からやってきた霊〟と言う意味で言っている。ここで言っているのは他の惑星からのいわゆる宇宙人の参加はなかったという意味であって、霊界からの働きかけは大々的に行われたものと想像される。生命の誕生はそれなくしては考えられないことで、今後の研究にまたれる面白く重大なテーマであろう―訳者)

・・・最近ではダーウィンの進化論がいろいろと批判を浴びております。ダーウィンはいろいろな事実を見落としているようです。

いかなる発達段階にあっても全知識を手にすることが出来ない以上、見落とされる事実があるのは仕方のないことです。完全のみが全知識を含むことになるのですが、その完全性はおろか霊界において誰一人として達成したものはいないのです。

進化について明言できることは、物的進化も精神的進化も霊的進化も、全て大自然の摂理によって営まれていると言うことです。

・・・私は人間が猿から進化したという説はあまり嬉しくないのですが・・・。

もしかしたら猿の方も嬉しく思っていないかもしれませんよ!。神の目から見れば猿は大切な存在である点では人間とまったく同等なのですから。

(シルバーバーチがイエスの偉大さを述べ、地上において開始した地球浄化の大事業も死後もずっと続けており、シルバーバーチ自身もイエスの指揮のもとで働いていることを述べると)

・・・イエスの名のもとに行われた数々の歴史上の行為を見るのは、イエスにとって心の痛む思いだったに相違ありません。

おっしゃる通りです。何度涙を流されたか知りません。もとよりそれはイエスの責任ではありません。スピリチュアリズムの七つの綱領の中には、各自が各自の行為に責任を持つとうたった条文があることをご存知でしょう。

・・・イエスはどういうお顔の方だったのでしょうか。

地上の画家が描いている肖像画とは似ていません。伝導時代に行動を共にした人達とよく似ておりました。もし似ていなかったら使命は果たせなかったでしょう。

(原文から受けるニュアンスとしてはズバリ容貌を述べるのを避けている節が窺える。それは多分、とかくイエスが神格化され、神々しくて近づきがたい存在だったように想像されがちなので、実際はいたって人間味を具えた、その意味で平凡なユダヤ人だったと言いたいのであろう)

・・・霊界通信によっては、宇宙的キリストと人間としてのキリストの二つの言い方をしているのがあります。同じ存在の二つの側面を言っているのでしょうか。

あなたは名称に惑わされています。まずイエスと言う人物がいました。その人物の性はキリストではありません。一方キリスト的生命力、つまり霊力が存在します。人間イエスとそのイエスを動かした霊力とを区別してお考えになればすべてがすっきりします。

・・・イエスが述べた正確な言葉を自動書記か何かで入手することは可能でしょうか。

何とも申せません。問題は当時イエスの言葉を記録した人物が一人もいなかったことです。ですから、それを伝えるには記憶に頼らなければならないわけですが、しかし、イエスの教えの肝心要は〝愛〟です。〝己を愛する如く隣人を愛せよ。汝に敵対する者にも優しくすべし〟です。

愛とは摂理(神の心)の通りに行うことです。人類の救済にとってこれ以上の必要なものがあるでしょうか。愛は霊性の最高の表現です。大霊からくださるのです。それを私たちがあなた方にお届けしているのです。

イエスの使命は霊的実在を証明して見せることでした。もしも今の時代にイエスが出現して二千年前と同じことを説いたら、果たして耳を傾ける人がいるかどうか、私はきわめて疑問に思います。

・・・間違った教えを携えて霊界入りする者が多すぎるとおっしゃいましたが、ヨハネの福音書にはイエスを信じることによって永遠の生命を授かると述べられています。

それは間違いです。人間は一人の例外もなく死後も生き続けるのです。何かの教義や信条、あるいはドグマを信じることによって永遠の生命を授かるのではなく、不変の自然法則によって生き続けるのです。

いま引用なさった文句は地上に多くの混乱の種をまき人類を分裂させてきた言葉の一つです。一冊の書物、それも宗教の書、聖なる書が、普通の書が起こそうにも起こせない程の流血の原因となってきたという事は、何と言う酷い矛盾でしょうか。

宗教の目的は人類を不変の霊的関係による同胞性において一体とならしめることにある筈です。

・・・イエスは本当に磔にされたのでしょうか。

そんな事について私の意見をご所望ですか。どうでもいいことではないでしょうか。大切なのはイエスが何を説いたかです。磔にされた時にどう言うことが起きたかは、いくら議論してもらちが明かないでしょう。私にもその立証は出来ません。

ですから、そのことについてはお応えしません。無意味に人を断罪するのは私の趣味ではないからです。それは私の使命ではありません。

(訳者注-イエスの処刑についてはいろんな説がある。一般には聖書の通りにその場で死亡して何日か後に蘇ったことになっているが、実は処刑されたのはイエスキリストという名の弟だったとか、完全に死亡して埋葬したが本当は死んでいなくて、生き返って国外へ逃げたとかの説がありそれぞれにもっともらしい論拠を揃えている。国外へ逃亡したという説にも、ローマへ行ったという説と日本へ来たという説、そして最近ではインドへ行ったという説があり、いずれの場合もかなりの高齢で他界したことになっている。

むろんシルバーバーチはそのことについての真実を知っている筈であるが、人間がとかくこだわる〝証拠〟となると何も提示できないからといって返答を断っている。むろんこれは言い訳であって、本心はやはり最後で述べている通り、自分が述べることによって右の諸説のどれかを、あるいは全部を否定することになるのを避けたのであろう。どうでもよいことだからである。シルバーバーチはイエスの出生についても死についても途中の実績についても、あまり深入りしたことをいっていない。使命ではないからであろう)


私の使命は人生の基本である霊的原理に関心を向けさせることです。人間はどうでもよいことに拘りすぎるように思います。イエスが本当に処刑されたかどうかは、あなたの魂の進化にとって何の関係もありません。

肝心なことに関心を向けなさい。あなたは今あなたなりの役割・・・人を助け霊性を開発し悟りを深める為のチャンスを提供してくれる、この地上と言う生活の場に来ていらっしゃるのです。火星にも人間の様な存在がいるのだろうかとか、一千年後に間違いなく復活するだろうかとか、そんなことを心配してはいけません。

大切なのは日常生活での身の処し方です。あなたなりの最善を尽くせばよいのです。それによって大霊とのより大きい調和が得られます。それは晴れやかさ、静けさ、安らぎ、自信と言う形をとります。神の心をわが心と心掛ける者すべてに必ず訪れるものです。

・・・人類はいつかは戦争のない平和な暮らしができるようになるのでしょうか。

これは難しい問題です。まず理解して頂かねばならないのは、神は人間に自由意思と言うものを授けられていると言うことです。自由意思のない操り人形にしても良かったのです。が、自由意思による選択の余地を与えられる事によって、人間も永遠の創造過程に参加する機会が持てるようになったのです。

人間は地上をエデンの園、楽園、天国にすることも出来れば、暗く荒涼とした、恐ろしい悪の園にすることも出来ます。そこに選択の余地が残されているのです。

戦争、暴力、貪欲、利己主義がはびこる物質中心の考え方をするからです。そういう考え方をするのは、これほど多くの宗教が存在しながら大半の人間が肉体が死ねば全ておしまいと思っているからです。

死後にも実感を伴った生活・・・地上生活の賞罰が清算される世界が存在すると言う事実が信じられず、地上生活が唯一の生活の場であると考えます。すると当然、物質がすべてなら今の内に思い切り欲望を満足させておこう、と言うことになります。それが戦争を生み、憎み合い、征服し合い、殺し合うことになります。

もっともこれは真相の一面を申し上げたまでです。有難いことに他方では、人間のわがままによる混乱を抑制する為の摂理も間違いなく働いております。その一環として私達は地上に霊的実在についての知識をもたらすための大事業に携わっているのです。

霊媒の活用によって人間が霊的天命を背負った霊的実在であることを証明することが出来ます。その天命を全うするも損なうも、日常生活における身の処し方一つに掛っております。因果律、すなわち種まきと刈り取りの摂理は絶対に狂いません。

善い行いをすればそれだけ幸せを味わいます。利己的な行いをすればそれだけ苦い思いをさせられます。摂理はごまかせません。死の床でいくら懺悔の言葉を述べても、すでに始動している因果律の働きを止められるものではありません。

こうした摂理を理解する人が増すにつれて戦争が減り、平和な地域が広がっていきます。これは一朝一夕(イッチョウイッセキ)に出来ることではありません。

私には以上のようなお答しか出来ません。自分の役目を果たすのです。自分なりの最善を尽くすのです。縁あって近づく人の力になってあげることです。親切に、寛容にそして慈悲の心をもって接するのです。機会さえあれば、どこでも人の為に役たつことを心掛けることです。それが世の中に貢献するゆえんとなります。

・・・時折味わう精神的苦悩は外部から来るのではなく、内部から湧いてくるのでしょうか。

どちらからでもあります。よく理解して頂きたいのは、地上生活は霊界の生活と違って両極性(相対性)からなっていることです。霊界では同じ発達段階の者が同じ界層で生活しておりますが、地上では様々な発達段階の者が混ざり合って生活しております。

と言うことは、対照的なものを見たり体験したりする機会が得られると言うことです。かくして光があれば闇があり、温かさがあれば冷たさがあることになります。そこに地上生活の存在価値があるのです。そうした両極の体験を通じて魂が真の自我に目覚めていくのです。

言いかえれば地上は学校です。そこでいろいろと学ぶことによって、いつかは住むことになる霊の世界での生活に必要な教訓を身につけるのです。苦悩を味わうと言うことは、その反対である喜びを味わえると言うことです。

たびたび申し上げておりますように、地上での出来事は正反対であると同時に相等しいと言うことがあります。つまり同じコインの表と裏の関係です。魂が自我に目覚めるのは様々な体験においてこそです。それは鋼を鍛える過程、あるいは原鉱を砕いて黄金を磨きだす工程と同じです。

・・・多くの人間の間で精神的革命とも言うべきものが進行しているのを感じます。これは霊界からの働きかけの当然の結果で、今それが現実化されつつあるのだと思います。

地上世界は今るつぼの中にあります。バイブルの中の説話のような善と悪との戦いがあります。富の神マモンの崇拝、あくなき貪欲と強欲と権力欲、高尚なものや霊的なものの抑圧・・・要するに私が地上のガンと呼んでいる利己主義が生み出す不幸があります。

それと同時に、世俗的な意味での宗教はその威力、影響力、指導力を失っております。いやしくも知性を具えた者には到底信じ難い教義に今なお忠誠心を尽くしているようでは、既成の宗教に背を向ける者がますます増えていくのは当然の成り行きです。

それに加えて、科学が間違った方向へ進みつつあります。果たして人類に益をもたらすのか、地球を破滅へ陥れるのではないかと思える、恐ろしいものを次々とこしらえております。人類は今まさに危機の十字路に立たされております。私達が総力を挙げて救済活動に乗り出したのもその為です。

それは平和と調和と親善と和合と協調を達成する唯一の方向を示して指導しているところです。その唯一の方向とは、地上の一人一人が霊的な一大家族の一員であり、その親にあたるのがあなた方の言う神、私の言う大霊であると言う認識です。

私達は何としてもこの仕事を成し遂げる覚悟です。此処にお集りの皆さんを始めとして、スピリチュアリズムの仕事に携わっている方はみな、霊的大軍勢の一翼を担っておられるのです。だからこそ試され鍛えられて、割り当てられたこの重大な仕事が万が一にも挫折のないようにしなければならないのです。

霊は物質に勝ります。物質の世界には霊力よりも強力な力は存在しません。例え時間は掛ってもかならず勝利を収めます。真理を手にした者は悲観主義も絶望も入る余地はありません。

神が人間の頭を身体の一番高い処におかれたのは、見上げることが出来るようにと言うことからです。見下ろすようにと言うことであったら足もとに頭が付いていることでしょう。

人間の霊的解放の仕事に携わる者は試練と挑戦を受けなくてはなりません。それが霊的発達の不可欠の要素なのです。それ以外には方法がないのです。いずれ霊界へ来られて地上時代を振り返ってご覧になれば、苦しい体験ほど大切な意義を持っていたことを知って神に感謝なさることでしょう。

遠い昔から人間は地球の悲劇の予言を幾つもしてきました。地球の終末の日時まで告げているものもあります。そこへキリストが再臨して人類を救うと言うのがキリスト教の信仰のようですが、そういうことにはなりません。キリストは二千年前に地上での使命をきちんと終えています。

今は私の住んでいる同じ霊界においての使命に精励しておられます。それが今我々の携わっている霊的真理普及の活動の指揮・命令です。

地球が一夜の内に破滅することはありません。宇宙の大霊が無限の愛と叡智を持って摂理を案出し、それによって巨大なもの、微細なもの、複雑なもの、単純なものの区別なく、存在のあらゆる側面を経綸しているのです。

それは一歩一歩進化と言う形で働くのであって、大変革によって一挙に行われるのではありません。人間の力にも制限が加えられています。人間に出来ないことがあると言うことです。自由意思が与えられていますが、それにも限界があります。

・・・地球の将来はどうなるのか教えて頂けませんか。

たった一人の人間によっては無論のこと、何人の人が一緒になっても、地球を破壊する力は持てませんから、地球はこれからも永遠に存在し続けます。地球にもたらす害にも、それを引き起こす手段にも、地球の存在自体に終止符を打たせるほどの規模にはならないように一定の限界と言うものが設けられています。

怖がってはいけません。神の意思は必ず成就されるのです。将来への展望には自信と楽観と積極性をもって、ご自分の役目を果たすことに専念なさることです。恐怖心、心配、不安、こうした霊力の働きかけを止め無気力にさせるようものは、一切棄て去ってください。

私たちから要求するのはそれだけです。出来る限りのことをなさっていればよいのです。それ以上のことは出来るわけがないのですから。

明日はどうなるかを案じてはいけません。明日は、潜在する神性を開発し、人生を物質的・精神的・霊的に存分に楽しみ、周りに存在する素晴らしい霊的光輝をますます意識するようになる、その絶好の機会を告げてくれるものなのです。

・・・凶暴な犯罪は死刑制度によって解決できると思われますか。

そうした報復手段では何一つ解決できないでしょう。愛は摂理を成就することであると言います。いかなる手段にせよ、それによってその魂が救われることになるように工夫すべきであって、復讐心を抱かせてはなりません。

人を殺した奴だから殺してよいという理屈は許されません。国家による法的殺人では問題の解決にはなりません。暴力に暴力で対処することは善性、慈愛、優しい心を生み出すことになりません

処罰は矯正と救済を目的としたものであらねばなりません。何の用意も出来ていない魂を霊界へ送り込むことは問題を大きくするばかりです。地上においても霊界においても犯罪を減らすことにはなりません。それに、人間はとかく過ちを犯しがちなものであることも考慮してやらないといけません。

・・・そうした魂の病める霊を何故そちらの方で看護して、地上に人間を同じ道へ誘わないようにして頂けないでしょうか。

そう簡単にはいかないのです。未熟な霊が次から次へと地上から送り込まれてまいります。それは霊界にとって迷惑なことです。そこで地上の人間が地上にいる間に霊界の生活に備えてもらおうと、今、霊的真理の普及に全力を挙げているわけです。

一言でいえば、私達が地上へ戻ってきた目的はイエスが説いた愛の福音を説くことにあります。人間は互いに愛し合うべきであり、憎み合ったり復習し合ったりしてはいけません。

(刑事をしている人が初めてサークルに出席して質問した)

・・・職業柄、私は多くの人間が恐ろしい行為によってあたら生命を失っていくのを見てきました。そして、しばしば思ったことですが、そうした犯罪が二度と起きなくするために、そちらで復讐心に燃えている霊達を説得して頂けないものでしょうか。

残念ながらそういう人たちはみな自縛霊となっており、自らこしらえた牢獄に光が差し込むまでは大変な時間を要します。これは大変難しい問題でして、時間さえあればいろいろと敷衍(フエン)をお話しできるのですが、結論だけ申し上げれば、

彼らへの対処の仕方は報復ではなく矯正を目的としたもの、つまり、精神的リハビリテーションでなくてはならないと言うことです。やられたらやり返すのが公正ではありません。

・・・私は阻止することこそ公正であると考えておりました。

しかし現実には報復が優先されているのがほとんどです。旧約聖書では〝目には目を歯には歯を〟でしたが、新約聖書ではイエスが隣人への愛を説いただけでなく、自分を憎む者をも愛せよ、と述べています。何事にも最後は動機が問題となります。動機さえ正しければ、全てが上手く収まります。

(代わってジャーナリストが質問する)

・・・霊界及び他の世界から人類へ向けて様々な警告が届けられております。ある者は原子力は悪であるから阻止せよと言い、またある者は人類の独善主義について警告しています。そうした警告めいた予言を総合的に検討して記事を書くようにとの依頼を受けているのですが、ご意見を承りたいのです。もしも何か特別に警告すべきことがありましたら明確に述べて頂きたいのですが・・・

私は原子力が悪だとは思いません。その使用法が邪悪になることはあり得ます。しかし反対に計り知れない恩恵をもたらすことも出来ます。そのカギを握るのは、その途方もないエネルギーを管理する、あるいは管理を誤るかもしれない立場にある人達です。

警告めいた予言の言ですが、霊界にカッサンドラ(ギリシア伝説の凶事の予言者)のような霊がいて、何か大変なことが地球に迫りつつあるということで大げさに嘆いているような図を想像してはなりません。

そんな単純なものではないのです。大霊は子等に一定限度内の自由意思を与えておられます。その自由意思による選択によって地上を光輝と美と豊かさに満ちたところにすることも出来れば〝生き地獄〟とすることも出来ます。その選択をするのがあなた方人間なのです。

科学技術の発達とともに途方もないエネルギーの存在が明らかにされて、それをいかなる目的に使用するかの責任が大きくなって参ります。正しい進化の方向を選ぶことになる唯一の道は、私の理解している限りでは、無限の神性を宿している子等がそれを出来るだけ多く発揮して地上世界を美しく飾り、大自然がその豊かな恩恵を実らせるようにする以外にありません。

それが人間が選択すべき唯一の道です。それを無視して富の神マモンを崇拝し、欲望に走り、利己的になり、他人のことはどうでもよいと考えるようになったら最後、自分の国だけでなく地球全体が闇黒と困難と悪と疫病と言う、自由意思の選択の誤りが生み出す結果で埋め尽くされることになります。

しかしそう申し上げながらも尚かつ私は、人間がいかに驚異的なエネルギーを手にしようと、それによって起こす破壊や荒廃を一定程度で食い止める無限の力には到底太刀打ちできないことを断言しておきます。地球全体を、あるいは宇宙そのものを完全に破壊する力は持てません。

・・・あくまでも神の持ち物と言うわけですね。

そうです、あくまでも大霊の持ちものであり、大霊が支配しなければならないのです。大霊は無限です。無限なる愛であり、無限なる叡智であり、全ての子等に、地上を天国となしてそこに共存するために手段を提供してくださるのです。それを受け取るか否かの選択は自由ですが・・・

自由だからいいのです。もしも人間が操り人形かロボットの様なものだったら人生は何の意味も持たない事になるでしょう。完成へ向けての進化も成長もありません。永遠の虚無の世界となってしまいます。それは神の意図するところではありません。

皆さん方のどなたよりも永き宇宙人生を送ってきた私は、神の完全が生み出した宇宙の見事な機構を畏れと驚嘆と敬意と感嘆もって眺めるようになりました。無限の知性が考案した摂理の働きを阻止できるものは何一つ存在しません。

人生の全ての相を支配している永遠の霊的真理を垣間見ると言う光栄に浴した者は、明日はどうなるかと言う不安を抱く必要は微塵もありません。驚異的な科学技術の発達、科学的業績は善にも悪にも使用できますが、いくら悪いことに使っても、それがもたらす破壊にも限界があります。

地球全体、及びそこに住む人類をもろとも破滅させてしまうほどの無制限、無束縛の自由が許されるわけではありません。

愛は憎しみに勝ります。霊は物質に勝ります。その宇宙最大の力は生命の大霊から出ているのです。無限の知性によって考案され、無限の叡智によって支配されている宇宙の摂理は、今住んでおられる世界が少しでも良い世界へ向けてゆっくりと着実に進歩するように配慮してあるのです。

(話題が動物愛護の問題へと発展するとシルバーバーチがこう述べた)

悲しいかな、霊的発達の未熟さゆえに人間は、自分をいかしめている霊力が地球を共有している他の全ての生命全体を生かしめている霊力と同じであることに理解がいかないのです。動物も人間と同じく物的身体を具えた霊であることが理解できないのです。

われこそは万物の霊長であると信じているのであれば、それゆえにこそ動物に対する責務がある筈なのに、人間はそこが理解できないのです。上の者は下の者を手助けするのが当たり前です。しかるに現実は、罪もない動物に無用の残虐行為を情け容赦なく行っております。しかもそれは人間の健康増進の為と信じてのことなのですが、それは間違いであり、そういう手段から健康は得られません。

そうした邪悪で悪魔的でさえある実験を完全に阻止するためにも霊的真理の普及が急務なのですが、これは永い時間のかかる問題です。今自分達が行っていることが間違いであることに気づいて良心の呵責を覚えるようになるまで、霊性が発達するのを待たねばならないのです。

・・・何故動物は人間の手によって苦しめられねばならないのでしょうか。人間の霊的成長の試金石となる為に地上に置かれているのでしょうか。もっと高い進化の段階に達している別の天体へおかれていれば、そこの住民に可愛がられて霊的進化も促進できるはずですが・・・

それと同じ疑問が人間についても言えませんか。つまりなぜ人間は地上で同じ人間の手で苦しめられねばならないのかと言うことです。何故苦しむことのない、どこか別の世界へ置いてもらえないのでしょうか。
理解しなければならないのは、地上と言うところは予備校ないしトレーニングセンターであって、その目的は内部の神性を可能な限り発揮する機会を提供することである、と言うことです。

人間には、ある一定限度内での話ですが、自分の行為を決定する自由意思が与えられています。その自由選択の結果として地上あるいは霊界における進歩を促進もすれば阻止もするという、そういう体験の繰り返しの中で霊性が発達し、少しずつ不完全な部分を捨てていくことになるのです。

自由意思があると言うことは、その当然の可能性として、それを間違ったこと、愚かしいこと、報復的なことに使用する者もいると言うことになり、その結果として苦しむ人も出てくることになります。

もしも神が動物も人間も申し分ない状態であることを臨まれたならば、地上にもあるいは霊界にも存在していないでしょう。とっくに完全に頂上を極めていることでしょう。しかしそれはあり得ないことです。何故なら、完全とは永遠に続く過程のことだからです。

動物への虐待を阻止することには、いろいろとしなければならないことがあります。善の勢力と悪の勢力との戦い、真理を知った者と無知な者との戦いが延々と続いております。

また、動物にも地上で果たしている役割があること、人間が住む権利があるのと同じ意味において動物にも地上に住む権利があると言うことが、どうしても理解できい近視眼的な人種もいます。これからも戦いは続きます。が、真理は必ず勝利を収めます。

・・・人間とともに進化を続けている鳥類や魚類は次は何になるのか教えて頂けないでしょうか。それは、いわゆる〝精霊進化〟に属するのでしょうか。昆虫は次は何に進化していくのでしょうか。昆虫の中にはとても進化していて独自な複雑な〝文明〟すら持っているように思えるのが多くいますが・・・。

まず〝文明〟と言う用語はここでは適切ではないと思います。いかなる生活にせよ、文明とは社会及び生活様式に適応していくための手段のことです。

さてご質問の意味ですが、一羽の鳥がやがて一人の人間になっていくのかと言うことであれば、答えはノーです。精霊進化と言うのは妖精及びそれに類する存在に関わる自然生命の進化のことです。自然界の成長の中で果たす役割があるのです。

進化とは全生命に関わる自然法則の一環であって、それは神の愛の証しでもあります。低い次元から高い次元へ向けての不断の向上のことです。

進化の法則は全ての生命、すなわち昆虫類、鳥類、動物、そして人類の全てを包摂しています。それぞれに果たすべき役割があり、しかもお互いに関連しあっております。

孤立しているものは一つもありません。全体として完全な複合体を形成しているのです。あなた方人間も動物の進化に関連した法則と同じ法則によって支配されているのです。

その自然法則によって生活していれば、言いかえれば自然法則と調和していれば、あなたは天命を全うできると同時に他の生命の進化を助けることにもなります。各自が協調的要素としての役割を果たすように宇宙の全機構が出来上っているのです。

協調とは反対に自然に逆らった行為に出る者は、その逆らった対象だけでなく自分自身に対しても酷い仕打ちをすることになります。自然と協調するものは自然の発達を助けると同時に、自分自身の霊性の開発をも助長することになるのです。

・・・と言うことは、我々人類として特別の存在ではなく、大自然の進化の過程の一部にすぎないと言うことになるのでしょうか。

人類も生命の永遠の営みの一部に過ぎません。その中にあってもし人間が俺達は他の生命よりも特別に高等なのだと自負するのであれば、ちょうどあなた方が霊界の高級霊からの援助を求めるように、他の下等な生命を援助してやる義務がある筈です。

・・・動物の世界には〝高等な生命〟と言うものがあるのでしょうか。

ありません。それぞれの種にそれぞれの進化のコースが割りあてられているのです。生命として存在しているものは、霊であるからこそ存在出来ているのです。霊は生命であり、生命は霊です。それゆえ、生きとし生けるものすべてが・・・小鳥も魚も花も木も果実も、みな霊なのです。

高等とか下等とか言うのは、その無数の生命現象の中にあって、他の生命に比べた場合の進化の到達程度を言っているに過ぎません。人類は魚類いに比べれば高い発達段階にあるかも知れませんが、私達の世界の神庁に所属する神霊に比べれば低いことになります。

・・・動物保護運動がなかなか思うに任せません。むしろ悪化の一途をたどっているように思えます。

それは人間に自由意思が与えられていることから生じる当然の結果です。もしも何一つ問題がなく闘争もなく犠牲が強いられることもなく困難も生じなかったら、人間は進歩しません。

進歩は困難に遭遇した時に得られるのであって、気楽な生活の中では得られません。それぞれの魂が内在する力を引き出すための努力をするように何らかの試練の時に遭遇すると言うのが、進化における不可欠の過程の一つなのです。

進歩の速い面もあれば遅い面もあります。とにかく同じ地球を共有する他の全ての存在と仲良くすると言うことが人間の責務です。が、どっちへ転んだところで自然の摂理による埋め合わせがあります。動物が動物なりの進化のコースをたどるように配慮するのは人間の責務です。

それを怠れば、人間はそれなりの代償を払わねばなりません。動物に残酷な仕打ちをしている者は、いずれその行為の一つ一つに霊的代償を払わねばなりません。

悲しいかな、苦しめられるのは何時も罪のない側です。が、自然の摂理は曲げられません。殺人を犯せば殺した方はその償いをしなければなりませんし、殺された方にはその犠牲の埋め合わせがあります。埋め合わせの原理は間違いなく働きます。神は一人一人の人間にきちんと賞罰が計算されるように公正の原理を定めておられます。

・・・自然界では〝強い者〟が生き残っているように思えるのですが、そうなるとその原則は人間界や霊的なことにはどう適用されるのでしょうか。

相利共生(二種類の生物が相互に利益を得ながら生活すること)と言う言葉をお聞きになったことはありませんか。これが自然界の原則ではないでしょうか。互いに協力し合うことによって自然界がその目的を果たしていく、と言うのが基本原理ではないでしょうか。

樹木が大気中の炭酸ガスを吸収してそれを酸素にして排気する。それを人間が呼吸して生命を維持する。これが調和、協調、つまりは自然の力の働きではないでしょうか。

・・・私はとくに動物のことを念頭において質問したのですが・・・

有史以前の動物の中で現在まで生き残っているのはどの種類でしょうか。例えば象がいます。象は獰猛な動物だったでしょうか。そうではありません。草食動物であり他の動物を襲ったりしませんでした。なのに生き残っており、他の肉食動物は滅びています。どっちが〝強い者〟でしょうか。

あなたも庭をお持ちなのでご存じでしょうが、自然の摂理を大切にすれば立派な庭になり、摂理を無視すれば台無しになります。人間だけでなく動物に対しても情愛を向けないといけません。他の人間を搾取してはいけません。動物を搾取してはいけません。大自然を搾取してはいけません。

そういう心掛けで生きれば、人間だけでなく地上に生きている全ての存在が、宇宙最大の力、神によって考案された進化の法則の究極の目的である平和と秩序と調和を手にする上であなたも貢献していることになるのです。