第7章 再生問題を語る
(前にも一度招待されたことのある熱心なスピリチュアリストが再度招かれた。霊的なことに全く理解を示してくれない夫が重病の床にあって、今夫人はかつてない厳しい精神的試練に立たされているからだった。死の布陣に向かってシルバーバーチが語る)
今あなたが人生の最大の試練に立たされていることは私から改めて指摘するまでもないことと思います、しかしいかなる困難に取り囲まれていようと、あなたはきっと切り抜けていかれることでしょう。背後に控える力が実に強力だからです。決してあなたを見捨てるようなことはいたしません。
いかなる人生にも、赤裸々な現実に直面させられる時期が必ずあるものです。その時こそあなたの信念が確固たる知識の上に築かれていることを確認しなくてはなりません。
つまりその現実に直面することによって自分の存在価値を試され、いかに身近で切実な問題であろうと、それによってあなたがこれこそ実在であると信じているもの・・・絶対に裏切ることのない霊的原理から気をそらされることがない(迷わない)ことを立証させられているのです。
その点あなたは、こうした危機において砦となるべき知識へ導かれてその用意が出来ていたことは幸せと言うべきです。
ですから、あなたは決して首をうなだれてはなりません。表情と振る舞いによってあなたが霊的自由をもたらしてくれた真理をいささかも忘れていないことを示すように努力してください。
・・・子供達もこの逆境によく耐えてくれておりますが、それとは別の問題があるのです。末の子がスピリチュアリズムや心霊的なことにとても興味を抱いているのですが夫はまったく理解なく、私がその子にそれをやめさせようとしないことを咎めるのです。
夫にしてみれば自分の信仰とことごとく対立することばかりなので、そのことで心を痛めております。私はどちらの気持ちを優先させるべきか分からずに悩んでいるところです。
私は年輩の者の信仰よりも若者にとって必要性の方が大切であると考えます。
一方は地上生活のコースを殆ど終えた段階にあります。他方はこれからという段階であり、全コースが前途に横たわっております。これまでと同じように、あなたの才覚と臨機応変の知恵を探ってください。ただし、あなたの信じる霊的原理から外れた行為は絶対にしてはなりません。
自然に備わっている心霊的能力を抑え付けることが望ましいことでないことは、あなたも理解しておられるはずです。万一抑え付ける様なことをすれば、お子さんの全人的構造に歪みを生じさせることになります。自然に具わっているものを出させないようにするよりも、全人的健全さを身につけさせる方が好ましいことは言うまでもありません。是非そこのところは、あなたなりの才覚と知恵によって、これまでと同じように、ご主人の為にもなるよう工夫してみてください。
・・・その息子は再生と言うものを信じているらしいのです。しかし、今自分の父親が死に掛っているのを見て不安を抱いております。父親が死んで家族が別れ別れになった後、父親がどこかに再生してしまえば、果たしてうまく再会できるかどうか心配だと言うのです。
そういう心配はご無用です。再生するまでには永い永い年月を要することがあるからです。あなた方の世界の諺で私もなかなか良いことを言っていると思うものに〝橋のたもとに来るまでは橋を渡ってはいけない〟(余計な取り越し苦労をするな)と言うのがあります。
再生は確かにあるのですが、これにはいろんな要素が絡んでおります。その為にそれが理解できない人に説明することは容易ではありません。
私は再生が事実であることを、いささかの躊躇もなく断言します。ただ私は、全ての人が再生するとは言っておりません。私が言っているのは、人間の個性と言うのはそれ自体が独立した存在ではなくて、大きなダイヤモンドの無数の側面の一つにすぎないこと。
その側面が地上へ誕生して体験を積み、それによって得られる霊的成長をダイヤモンドに持ち帰って一段と光輝と輝きを増すことになると言うことです。
それは支払うべき霊的借金とでも言うべき宿業(カルマ)を持った人が因果律の働きで戻ってくる場合もありますし、進化した高級霊が特定のグループ、時には特定の国家のために貢献する必要だからです。
これはとても複雑な問題です。私がダイヤモンドに例えているインディビジュアリティと言うものがあり、(厳密に言うと両者は異なる。その違いを8章で説明している―訳者)それは、たった一回の地上生活で発揮されるパーソナリティ(人物像)よりも遥かに大きなものであると言うことが理解できるようにならなければ、この問題は扱えません。
そのパーソナリティとインディビジュアリティとを混同している方が多い様です。一個のインディビジュアリティがいくつもの分霊を出して地上に沢山のパーソナリティを持つことが出来ます。
インディビジュアリティの物的表現ないしは顕現です。数は沢山ですが同じインディビジュアリティから出ているのです。
パーソナリティと言うのは仮面を意味するラテン語のパーソナからきた言葉で、物的身体にまつわる者を意味します。インディビジュアリティが五つの物的感覚を通して自我を表現するための道具であり、氷山に例えれば水面上に出ているほんの一部に過ぎません。
パーソナリティは地上でつけているマスクです。インディビジュアリティ、つまり本当の自我はめったに顔を出しません。(五感に邪魔されて)出そうにも出せないのです。死によって肉体から分離した時に自覚される大きな自我に比べると実にお粗末なものでしか表現しておりません。
このようにインディビジュアリティはパーソナリティよりは遥かに大きなものです。死後に生き続けるのはパーソナリティではありません。パーソナリティはインディビジュアリティによって投影された影にすぎません。
そのインディビジュアリティが肉体の死後、地上で発揮されなかった潜在的な可能性を少しずつ発揮していきます。
地上での特別な使命が託されている場合はインディビジュアリティの比較的大きい部分・・・多くの側面・・・がまとまって一個の肉体に宿ります。この場合にもダイヤモンドの光沢を増すための体験を積むと言う目的も兼ねているのです。
二人の人間がアフィニティ(霊的親族)であることがあります。別々の人間でありながら一個の魂の半分ずつなのです。地上でそういう関係の人と一諸になれた時は、物的な富では測れない豊かさがもたらされます。アフィニティは同じダイヤモンドを構成している部分的側面です。こう申し上げても理解できないでしょうが。こうした霊的な問題は言語による説明がとても難しいのです。
一つの大きな魂(インディビジュアリティ)があって、それにいくつもの部分的側面があります。それらが別々の時代にパーソナリティとして地上に生を受けます。が、寿命を終えて霊界へ戻ってきた時も一個のインディビジュアリティの側面であることには変わりません。
一つの家族が霊界へ来ても、自動的に合流するわけではありません。家族のメンバーが自然な霊的親和性を持っている場合のみ、それがあり得ます。親和性がなければ再会はあり得ません。霊的のレベルが違うからです。
夫婦の場合であれば、身体上の結婚だけでなく魂と精神においても結ばれていなければ、霊界での再会は不可能です。再会を決定づけるのは霊的親和性です。死後しばらくは血縁によるバイブレーションが残っていますが、それは永続性がありません。
霊は物質に勝ります。霊に関わるものは死後にも残り続けますが、物質に関わるものはそのうち消えます。お子さんにそのことをよく説明してあげないといけません。
なかなかうまく説明できないかもしれませんが、とにかく全ては不変の法則によって支配されているのです。その法則の根本にあるものは愛です。愛は大霊の表現です。神・創造主・どう呼ばれても結構です。
首をうなだれてはいけません。あなたはしっかりと導かれ援助を受けておられます。きっと乗切ることが出来ます。一瞬たりとも挫折の心配を抱いてはなりません。このたびの経験はあなたの霊性を強化し、前途に横たわる未来において大きな豊かさをもたらしてくれる貴重な教訓を植え付けてくれることでしょう。
私は地上の同志の方に気楽な人生、何の障害のない人生をお約束することが絶対に出来ません。私から言えることは障害も困難もその一つ一つが挑戦すべき目標だと言うことです。一つ克服するごとに、あなたは霊的に成長するのです。
地上の人間はいつかは死ななくてはなりません。物的身体を携えて永遠に生きると言うことは、自然法則上、不可能なことです。
無知と迷信から生まれる死の恐怖さえ克服すれば、地上の人間にとって死が暗闇から光明へ導いてくれる天使であり、地上で活用されることのなかった才覚と能力とを発揮する好機を与えてくれるものとして歓迎するようになることでしょう。
・・・霊(スピリット)と魂(ソウル)の違いについて教えて頂けませんか。スピリチュアリズムの中の七つの綱領の中で私達は死後の個性の存続を知っておりますが、次に生まれ変わる時、実際に再生するのは最初の霊の個性とは別のものでしょうか。
これはまた厄介な質問をしてくださいました。問題は用語にあります。言語を超えたものを説明する為の用語を見つけなければならないので厄介なのです。
魂と霊の違いがその好例です。使用する際にはどういう意味で使用するかを明確にしないといけません。ここでは単純に、魂とは無限なる宇宙の大霊から出た分子、粒子、神性と言うことにしましょう。そして霊とはその魂の媒質*です。
それが肉体から分離すると地上時代より遥かに自由自在に機能を発揮するようになります。肉体は物質でできています。それが霊の表現を制約しているのです。
(*現象界においてはこの二者が一体となって初めて存在できるもので、切り離すことが出来ない。日本語の類魂と言う言い方はその意味で当を得ているが、問題はその理解である。しかし厳密にいえば違いはあっても、実際にはシルバーバーチも置き換えて使用することが多い。
次元が異なるので、やむを得ないことであろう。それはちょうど太陽は厳密にいえば東から昇ってもいないし西に沈んでもいないが、地上から見る限りはそういう表現するよりほかに方法がないのと同じであろう。第二巻〝霊〟と〝魂〟についての解説参照)
それ故、あなた方は霊を携えた魂であり、それが肉体を通して自我を表現しているのです。パーソナリティというのはその肉体を携えた地上生活において表現されている側面のことでしかありません。それは本当の自我であるインディビジュアリティの極一部に過ぎません。肉体に包まれている為に存分に自我を発揮できないのです。
・・・次に生まれ変わるのはその地上生活で発揮したパーソナリティ(人物像)では無くて、その奥の霊または魂なのですね。
その通りです。前回の地上生活の時と同一人物がそっくり再生してくることはあり得ません。人物像は肉体の死と共に消滅します。それはインディビジュアリティの物的表現に過ぎません。
・・・私の考えでは、われわれは皆、かつてはもっと大きな意識を持っていたのを、今こうして地上に存在している間はそれを放棄し、死後霊界へ行ってからそれを取り戻すのだと理解しております。そう考えるといろんな疑問が解けるのです。
あなたは今歩んでいる道を地上に来る前に選択されたのです。その時はその大きな意識で自覚しておられたのです。それが肉体に宿り脳を通して意識するようになって曇らされているのです。脳の意識では潜在意識の深奥は探れないのです。
その誕生前の意識を目覚めさせるためには、その触媒となるべき危機的体験を積まねばなりません。いつかは明瞭に意識する日が来ます。
・・・地上へ誕生しようとするのは何か特別やりたいことがあるからでしょうか、それともより多くの知識を得る為でしょうか。
(両方ともそうですが)それ以外にも何か奉仕的な仕事を行い、その中で神から授かった霊的資質を開発するための場合もあります。
・・・私にとって霊的知識こそ神からの授かりものです。
無限なる叡智を持つ神があなたに授けられたのです。
・・・ある書物に、我々は同時に二つの場所に生まれることが出来ると書いてありました。事実でしょうか。
私は真の自我であるダイヤモンドには無数の側面があり、それが様々な体験を持ち帰ってダイヤモンドの光沢を増す、という考えです。ダイヤモンド全体が一度に生まれてくることはありません。いかなる身体もインディビジュアリティの全てを宿すことは不可能だからです。
パーソナリティとインディビジュアリティの違いを理解しないといけません。パーソナリティと言うのは物的身体を通して顕現した地上だけの人物像です。インディビジュアリティと言うのは魂の全体像です。その全体像を地上で70年や80年、あるいは90年の間に発揮することは到底不可能です。
〝われわれ〟とおっしゃった同じダイヤモンドの仲間の別の側面が同時に地上へ誕生することはある得ることです。が全ては法則と秩序によって規制されております。その時期が来るまでは心配なさらぬことです。
もう一度生まれ変わりたいと言う願望を持つようになる人がいます。奉仕的活動をしたいと言う場合もあります。成し遂げたい仕事がある場合もあります。償わねばならないカルマ的な借金が残っている場合もあります。そういう人たちが地上へ再生するのです。
二度三度と繰り返す事もありますが、いずれの場合も再生してくるのは真の自我すなわちインディビジュアリティの側面の一つです。
再生したくないのであれば、何もこの暗いじめじめした陰鬱な世界へ戻ってくる必要はありません。真の自我に目覚めた人は再生してくる必要はありません。
・・・何故再生して来ない人がいるのでしょうか。そういう人はそれから先どうなるのでしょうか。
支払うべきカルマの負債もなく、やらねばならなない仕事もないからです。地上での用事がすっかり終わったと言うことです。もう地上へ戻ってきてすることがないのです。地上との一切の縁を切って、霊界での進化向上に専念することが出来ます。
・・・もう下層界へ降りることがないわけですね。ひたすら向上へ向けて進歩し下降することがないのですね。
進化は常に向上です。下降であれば退化となります。もっとも、進化は必ずしも直線的なものではありません。渦巻状(スパイラル)に同じことを繰り返しているようなもので、実際には着実に向上しています。
そこには因果律と言う自然の摂理が働いており、完全な公正が支配しています。人間の法律はごまかせますが、神の摂理はごまかせません。因果律が生み出すものには絶対的に従わねばなりません。あなたが心配なさる必要はありません。
ここでぜひ指摘しておきたいのは、地上の人間は再生と言うものを、今の自分にない一種の栄光に憧れる気持ちから信じている場合が多いと言うことです。人間界で言うところの〝劣等感〟(コンプレックス)です。現在の自分の身の上がいくら惨めでも、かつて前世では高貴な身の上だったのだと信じることによって慰めを得ようとするのです。
しかし再生とはそういうものではありません。(前世では〇〇という人物だったと言うのはナンセンスです。と別のところで述べている―訳者)自然の摂理によってきちんと公正が行きわたっております。必ずしも地上生活中にそうなるとは限りませんが。その場合は霊界において清算されます。そういうものなのです。
・・・霊界へ行ってからでもカルマの清算が出来るのでしょうか。
無論です。それが普通です。
・・・ではなぜ地上へ戻ってくるのでしょうか。
地上でしか支払えない借りがあるからです。地上の危機存亡の時にあたって何らかの貢献をしたいと言う願望から、再生の道を選ぶのです。みんな何らかの貢献をするために再生してくるのです。全てに計画があるのです。
・・・私だったらこの地上よりそちらで償いをしたいですね!
選択の自由は与えられています。が、忘れないで頂きたいのは、その自由意思も相対的なものであることです。やりたくても出来ないことがあり、またどうしても選べないコースと言うのがあります。最終的にはあなたがそれまで到達した霊的進化の程度が次にとるべき手段を決定づけるからです。
(スイスからの招待客が質問する)
・・・地上へ再生するまで霊界で何年位、あるいは何世紀くらい待つのでしょうか。1060年という説があり、男性だったものは女性に生まれ変わると言うのですが。本当でしょうか。
その数字はどなたが計算されたのでしょうか。
・・・ある大学の講演で聞きました。
地上に戻ってくる人間がいることは事実です。再生してくるわけですが、それまでの間隔は別に一定の年数は決められているわけではなく、あくまでも一つの計算に基づいてそうなるのです。
カルマによる義務の遂行のために戻ってくる人もいれば、自発的に途上での貢献を目的として戻ってくる人もいます。男性として戻ってくるか女性として戻ってくるかは、格別に重大なことではありません。私達の世界には性別差別防止条例はありませんので!。
霊的進化の程度が唯一の基準です。男性であるか女性であるかは問題ではありません。大切なのはその人の行為です。
また男性と女性にはそれぞれに果たすべき役目があり、双方が一体となって完全な全体が出来上がるように、互いに補完し合うようになっているのです。互いにアフィニティであることを見つけ合うことがあるのはそのためです。そうなったら二度と別れ別れにはなりません。
・・・戻ってくることもあり、戻って来ないと言うこともあると言うことですね。
為すべき仕事があればそれをしに戻ってきます。仕事が未完のまま残されていればそれを仕上げに戻ってきます。全ては法則と秩序の問題です。ともかく地上で表現する自我は大きなインディビジュアリティのごく一部に過ぎません。
・・・前世を思い出すのに催眠術を使用するのがブームになっております。あのような体験で教訓が学べるものでしょうか。
学べることが皆無というわけではありませんが、そうした体験には、単に現在の自分が立派でないことから、潜在意識が立派でありたかった願望を描こうとする、一種の虚栄心の現れであることがあります。
別のケースとして、それにカルマが絡んでいる場合があり、過去世において大きな影響を及ぼした苦難または悲劇を現世で呼び戻し、それを意識することでカルマが消滅することがあります。
これは良い結果をもたらす例ですが、それがただの取りとめもない想像にすぎないことが多いのです。もう一つのケースとして、催眠状態における憑依霊の仕業である場合もあります。
・・・普通だったらとっくに死んでいる筈の患者が医術によって何カ月も生き続けている場合があるように思うのですが、こういう場合はどうなるのでしょうか。
死ぬべき時期がくれば、いかなる医師も生かし続けることは出来ません。
・・・でも、そう思えるケースが良くあります。例えば最近ではアメリカの少女の例があります。
その子の場合、意思が死期を伸ばしているという証拠は何処にあるでしょう。私が理解している限りでは、地上の医師はまだ死期について確定的なことは分かっておりません。正確な死の瞬間について論争が続いておるではありませんか。
死の過程は生命の糸(シルバーコード)が切れて霊体が肉体を離れた瞬間をもって終了します。その時初めて〝死んだ〟と言えるのです。いったんその分離がすすんだら最後、いかなる医師も肉体を蘇生させることは出来ません。
・・・催眠術による遡及によって過去世の証拠が得られるものでしょうか。実際にはただの霊の憑依ないしは支配に過ぎないでしょうか。
いわゆる遡及によって前世とコンタクトできるという事実は否定しません。しかし、必ずしもそうでないところに問題があるのです。それと言うのも、人間の精神には莫大な可能性が秘められており、地上の人間には到底その深奥まで掘り下げることは出来ないからです。
想像力もありますし、潜在的願望もありますし、霊によって憑依される可能性もあります。
こうした要素を全て考慮しなくてはなりません。催眠中に体外遊離(幽体離脱)が起きて、その間の一連の記憶が印象付けられることもあります。こうした場合は過去世を思い出していることには成りません。
・・・生れ変わる時は知り合いの霊の仲間ないしは高級霊団による指示と助力を受けると言うことを米国の心理学者が催眠術による遡及を通じて明らかにしているのですが、これについてどう思われますか。
地上で奉仕的な仕事に献身したいという自覚をもった霊は自発的に再生しますが、霊的真理に目覚めるまでに相当な期間を要することがあり、そうした霊の場合は守護霊や指導霊が手助けをします。
私はそうした問題については、いわゆる催眠術による遡及は頼りにならないと考えます。催眠術者は、せいぜい、前世とおぼしきものを引き出そうとしているに過ぎません。
・・・その米国の心理学者は被術者に再生する時に痛みとか恐怖心とかがなかったのかを聞いております。
催眠術の動機がいかに真面目であっても、催眠術による前世への遡及はよくよく用心して掛らないといけません。催眠術の基本は〝暗示性〟にあります。したがって施術者が述べていることは控えめに受け取らないといけません。被術者は必ずしも施術者の暗示通りに反応しているとは限らないからです。
訳者注―此処で催眠術がテーマとなっているが、基本的には霊能者や審神者(サニワ)についても言えることである。見当違いのことを大まじめにやっていることがあるので用心が肝要である。その弊害に陥らない為の最大の武器は、やはり、しっかりとした心霊学の知識である。
心霊学は霊的なことについての学問であるから、霊的なことに関わる人の全てが心得ておくべきものであるはずなのに、神道や仏教の当事者はもとよりのこと、霊能者、霊媒及びその審神者が基本的な知識すら持ち合わせていないことに呆れることがあるし、何と危険なことだろうと恐ろしさを覚えることすらある。
こうした事実を考慮して私は『霊訓』の続編である『インペレーター霊訓』の冒頭で霊的通信の入手経路について概略を述べておいた。またインペレーターの霊言及び自動書記通信の中には霊媒及び霊能者に対する忠言、特に邪霊・悪霊・いたずら霊の存在について言及しているものが多くみられので、ぜひ参考にして頂きたい。
見た眼に清潔そうに見えてもバイ菌がうようよしているように、平凡な日常生活の背後にバイ菌の様な霊がうようよしている。問題はそうした霊に操られた霊能者や霊媒が多すぎることである。それは最近の書店の心霊コーナーを見れば一目瞭然であろう。嘆かわしいことこの上ないが、これも凡人には測り知れない神の計画の一端なのかもしれないと思って諦めつつも、せめてそれが真実でないことを指摘することだけはすべきと言う考えから、あえて付言させていただいた。
ことのついでであるが、私が親しくしている米国人のスピリチュアリストに最近の米国の心霊事情を尋ねたところ、英国に比べて精神的なものよりも現象的なものが多く、しかもいかにも米国らしくスケールの大きい催しがあるが、いかがわしいものが多いので自分は久しくそういう催しに出席していないと言い、個人的には英国のスピリチュアリズムの方が性分に合っている、とのことだった。
その英国のサイキックニューズ紙の最新号(1987・8・22)で主筆のオーツセンが編集手帳のようなコラムの中で面白い話を持ち出して、それに厳しい批判を加えている。
あらましだけを拾って紹介すると、ある日オーツセンに電話で良い霊媒を紹介してほしいという依頼があった。分けを聞くと、エルビスプレスリーの十周忌の記念情事としてプレスリーの霊を呼び出すための〝国際的交霊会〟を催したいと言う。アメリカとオーストラリアの方はすでに話がついているがイギリスからも参加してもらいたいと言う。オーツセンは無論それを断ったと述べてから次のように警告している。
「正直言って私はジャーナリストやテレビ局からのこの種の依頼にうんざりしている。名前を呼べば簡単に出てきてしゃべって来てくれると思っているらしいが、霊との交信はそういう調子にはいかない。
いかなる霊媒も、こちらから霊を呼び出すことは出来ない。あくまで霊の方から親近性と愛を懸け橋として戻ってくるのである。依頼されればどんな霊でも呼び出してあげられると豪語する霊媒は今すぐ霊能養成会へ行って一からやり直すしかない」