大分県の玩具 |
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東側は瀬戸内海(周防灘、伊予灘)や豊後水道に面する一方、西側の内陸部は久住の山々に連なっている大分県。先ずは海岸を走る日豊本線に沿って、北から南へ各地を訪ねてみよう。北九州から中津を経て宇佐に至ると、そこには全国4万社余りある八幡宮の総本宮とされる宇佐八幡宮がある。はじめは国家の守護神として神鎮まったものの、天平時代には仏教色を受け入れ、境内に仏塔を建て、弥勒寺も建立して神仏習合の先駆をなした。その結果、平安遷都の頃には祭神・誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)も「八幡大菩薩」と称されるようになり、“仏の称号を持つ初めての神”となった(1)。写真奥は新旧の御神馬。八幡神は国土安泰と民の幸福のため、白馬を召して大空を飛翔したと伝えられ、境内では久しく御神馬が飼育されている。祭事には神の渡御の列にも加わる。手前はみくじ鳩(以前は張子製で現在は土鈴)と神鈴(魔除け鈴)。大きいほうの御神馬の高さ17㎝。(H28.1.3)

宇佐の隣町、豊後高田は藩政時代に島原藩の飛地であったので、長崎から凧作りが入って来て、凧揚げが盛んになった。この地方では奴凧のことを「よかんべえ」と呼ぶ。浄瑠璃に登場する奴、与勘平が語源とも云われる。明治10年頃できた凧なので、絵は西郷隆盛の軍服姿と云う(2)。このほかにもせみ凧や福助凧などがある。高さ66㎝。(H28.1.3)

大分県は“日本一の温泉県”で、源泉総数、湧出量とも全国一とのこと。中でも別府温泉は日本中の源泉の1割が集まっているといわれる。大勢の温泉客を見込んで、別府の観光土産品も多彩だが、木でこはどこの店頭でもみかける代表的なものである。九州探題であった大友氏が文禄・慶長の役で朝鮮に渡り、“天下大将軍・地下女将軍”(埼玉19)が魔除けのまじないであることを知って、真似て彫らせたのが始まりという。「大友人形」とも呼ばれる由縁である(3)。なぜか北米大陸のトーテムポールにも通じるところがある。丸型や扁平のものがあり、大小も様々である。大の高さ19㎝。(H28.1.3)

別府の特産品、竹細工の歴史は古く、種類も日常使いの竹製品から玩具、美術工芸品に至るまで多岐にわたっている。豆竹人形は、他所で見られる竹人形(茨城02、福井02、徳島02、島根17)とは異なり、極めて小さく、彩色を施した精巧な細工物である。鳥追いの高さ7㎝。(H28.1.3)

豊泉堂は、別府にあって土産物や縁起物を製作する一方、大分県の廃絶玩具も精力的に復元している店である。豊後面は別府近郊の特殊な土を使って焼いた小面で、能や舞楽、伎楽の面が精巧に再現されている。左より「野干(やかん)」。この面は日本では狐とされるが、南方熊楠は「野干」を“ジャッカル”として虎の項で図説している(4)。また、「癋見(べしみ)」は天狗の精を、「天神」は道真公の怨霊を、「崑崙八仙(こんろんはっせん)」は崑崙島に住む目出度い鳥を表す。右端の「顰(しかみ)」は憤怒を表す面で、“しかめっ面”の語源となった(5)。面は4.5㎝前後。(H28.1.3)

浜の市とは毎年9月14日に柞原(ゆすはら)八幡宮の放生会に合わせて開かれる市。座布団の形をした昔ながらの「志きし餅」や縁日玩具が売りだされ、そのうちの一つがこの首人形であった。大正末期に姿を消したが、それを惜しんで豊泉堂が復元した。土型に粘土を詰め、竹串を挿し込んで型から外し、乾燥し彩色する。顔も扁平なら裏面も平らなのが特徴である。裏面には「いろは」の符号が入れてあり、例えば下段右端の“大黒”ならば「れ」という具合。現在は全部で21種あるとのことである。首はそれぞれ5㎝前後。(H28.1.3)

栞には「俵を蔵へコロコロ出したり入れたり」とある。張子製の俵のなかには粘土の重りが入っており、割り竹を傾けると、重力の移動で面白い動きをしながら転がる。昔からあったとみえ、江戸中期の風俗帖にも「俵返り」や「俵ころばし」という名の玩具を売る人の姿が描かれている(6)。以前は大阪今宮戎にも「蔵入り」と呼ぶ、これとまったく同じ玩具があった。蔵の高さ8㎝。(H28.1.3)

天文18(1549)年に来日してから2年後のこと、フランシスコ・ザビエルが府内(大分市)を訪れ、豊後の国主・大友宗麟にキリスト教の布教を申し入れたところ、宗麟はこれを快諾した。以来、宗麟の保護のもと多くの宣教師が来住し、キリスト教は領内に浸透する。府内には教会はもちろんのこと、日本で初めての小学校、最高学府、病院や孤児院なども設置されたという。宗麟自身も後に洗礼を受け、キリシタン大名となる。この南蛮鈴は、当時の異国情緒あふれる府内の様子を偲ばせる土鈴である。高さ13㎝。(H28.1.3)

左の二つは臼杵(うすき)石仏土鈴で、古園(ふるぞの)石仏群の中尊・大日如来像(国宝)を象ったもの。筆者が訪れたころは頭部が下に安置された状態であったが、修復工事を経て平成5年から現在のように元の位置に戻された。臼杵には豊後紙雛(雛24)などもある。手前の地獄鈴は、明治期に別府血ノ池地獄の赤土を使って焼かれたのが始まりといわれる。「阿弥陀」の三文字を浮き出たせた土鈴で、鉄輪(かんなわ)温泉蒸け湯を開いた一遍上人が、経の一字一字を石に書いては地獄に投げ入れ、鳴動する灼熱地獄を鎮めたという伝説に基づく。右は高崎山の猿に因んだガラガラ猿鈴。高さ7.5㎝。(H28.1.3)

左から柞原八幡宮の鳩笛と柞笛。九州地方ではマンサク科の常緑喬木の“いすのき”を柞(ゆす)と呼ぶ。成虫が実から這い出た穴を吹くと、ヒュウヒュウと音がする(7)。椿笛のように実に穴を開け、中身を掻きだしても笛になるという。右はメジロ笛で高さ4㎝。いずれも別府で焼かれているもの。(H28.1.3)

宇目で喧嘩といえば、けんか独楽(木地31)が有名だが、これは唄による喧嘩である。栞には、「唄喧嘩は徳川時代から伝わる子守唄で、いまでも大分県の代表的な民謡として唄い継がれている。そのむかし、農繁期になると貧しい家の女子は他家に子守奉公に出され、日が暮れても解放されぬ辛さや、父母恋しさのやるせない気持ちを唄に託し、同じ境遇の子守どうしが集まって日々の鬱憤を晴らしたのが、この子守歌の起こり」とある。“送り”と“返し”からなる対話形式の歌詞が即興で繰り返され、文句の種が切れた方が喧嘩の負けとなる。高さ7㎝。(H28.1.3)

大分県は山間地にも数々の郷土玩具がある。九州北部を横断し久留米市(福岡県)と大分市とを結ぶ久大本線は、山合いを縫うように走る鉄道だが、その途中に北山田という駅がある。そこから歩いて小1時間ほどのところに作者を尋ねたのは40年前である。北山田のきじ車は、ほうの木を鉈一丁で仕上げ、輪切りの車輪を二つ付けた、白木のままの素朴なもの。歴史は詳らかでないそうだが、昔から子供たちは口に綱を付けて引いて遊んでいたという。形は他系統の“きじ馬”(福岡01)よりもさらに馬に見える。しかし、作者は“きじ車”と呼んでいた。高さ7㎝。(H28.1.3)

大宰府へ流された菅原道真公が、都からの討手を逃れて一軒の農家に救いを求めたところ、その家の老女が道真公に赤い湯文字(腰巻)を打ち掛け、危うく難を逃れることができた。老女の機転で助かった道真公は、自らの姿を刻んだ像を玖珠の地に残したので、里人はお宮を建てて末永く奉ったという。赤兵子(へこ)天神は、もともと玖珠町で作られていた手捻りの土人形だったが、短期間で廃絶し、今では別府の豊泉堂により復元されている。一方、小松女院だるまにも悲しい物語がある。やはり平安時代のこと、都から九州に左遷された清原正高を慕ってこの地まで来たヤンゴト無き姫君が、正高がすでに妻を娶ったことを知り、絶望のあまり滝に身を投げたという。このだるまも張子だったものを、豊泉堂が土人形で復元した。高さ7㎝。(H28.1.3)

久大本線の特急で別府から1時間。由布院は別府とは好対照をなす温泉地である。別府が古くからの温泉街の風情を色濃く残すのに対し、由布院は“今どきの”温泉リゾートで、オシャレなカフェやギャラリーも多く、街中を若者たちが闊歩している。土産物にも若者向けのグッズが多いが、なかには面白い郷土玩具もある。張子の河童面もその一つで、耶馬溪にある「青の洞門」で名高い禅海和尚が、由布院の寺で修行していた頃、白瀧川の河童が人々に禍をなすと聞いて河童封じの祈祷を行ったところ、二度と悪さをしなくなったという云い伝えによる。高さ20㎝。(H28.1.3)

九州の中央部、阿蘇山麓を横断する鉄道が熊本と大分を結ぶ豊肥本線。その途中にある豊後竹田は、北が久住の山並みに連なり、南は祖母山、西は大阿蘇の峰々に囲まれた静かな城下町である。岡城址は滝廉太郎の名曲「荒城の月」の舞台としても知られている。女だるまは、神功皇后にゆかりのある金沢(石川03)や松山(愛媛01)をはじめ、高知(高知04)など各所にあるが、その中でも竹田の女だるまはひときわ目立つ美人である。ある武家で、姑との間が上手くゆかず離縁された嫁が、一晩中雪の中に立ちつくして復縁を願い、その真心が夫にも通じて元の鞘に納まったという話に因む。元旦の未明、青年たちがこの女だるまを各戸に投げ入れ、投げ込まれた家では「めでたい福が来た」といって祝儀を包む習俗が大正期まで残っていたので、福女とも呼ばれる(7)。左の高さ15㎝。(H28.1.3)

地元のパン屋さんが、パンの製造過程で出る鶏卵の殻を廃物利用し、玉子人形を作っている。竹田では玉子人形を作る遊びがむかしからあったらしく、現在の作者も祖母に教わったという。写真は、岡城址で開かれる大名行列のお殿様(高さ9㎝)。各地にあった玉子人形(愛知15、福岡16)も今では姿を消し、竹田以外で残るのは宮城県の名取ぐらいだろう。(H28.1.3)
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