徳島県の玩具
01. 阿波の首でこ(徳島市・鳴門市)
02. 阿波踊り竹人形(徳島市)
03. ヨイヤショ(徳島市)

04. 藍搗きお蔵(徳島市)
05. わんわん凧(鳴門市)



01. 阿波の首でこ(徳島市・鳴門市)



徳島県は高知県とともに南四国に分類されるが、四国山地にさえぎられているため、互いの往来は盛んではなかった。そのため、高知の文化が太平洋経由の影響を受けるのに対し、徳島の文化は近畿地方の影響を受けることになる。義太夫語りと三人遣いの人形芝居「阿波人形浄瑠璃」も、文楽を始め上方の影響を色濃く受けてはいる。しかし、もともとは農村の娯楽として生まれたので、寺社境内の野舞台(野掛け小屋)で演じられる極めて土俗的なものであった。舞台は薄暗く、観衆も大勢だったのだろう。人形が遠くからも見えるように、頭(かしら)は大きく作ってある。阿波の首でこは、阿波人形浄瑠璃に登場する木偶(でく)人形を土の首人形にしたもので、手捻りで頭部を作った後、竹ベらで細かな表情を巧みに刻む。左より太功記(たいこうき)の久吉(史実では秀吉)、傾城阿波の鳴門(けいせいあわのなると)の巡礼おつると母のお弓、熊谷陣屋の相模(直実の妻)。ほかに勧進帳や千本桜02など、あわせて50種類ほどあるという。久吉の高さ25p。(H27.9.24

02. 阿波踊り竹人形(徳島市)



阿波踊りの時期、鉦や太鼓、鼓に三味線、それに笛が加わった“ぞめき(騒き)”と“阿波よしこの節”(踊る阿呆に見る阿呆・・・の歌詞で知られる)で、真夏の徳島は大いに賑わう。阿波踊りの由来は、よしこの節の一節「阿波の殿様・蜂須賀さまが、今に残せし盆踊り」にもある通り、四国征伐の戦功を認められ、秀吉から阿波を与えられた蜂須賀家政が、天正151587)年の夏に徳島城の落成を祝って領民に無礼講を許したのが始まりといわれる。威勢のいい男踊り、たおやかで品のいい女踊りの様々なポーズを、細竹の小片を使って巧みに表現したのが阿波踊り竹人形である。高さ12p。(H27.9.24

03. ヨイヤショ(徳島市)



瀬戸内沿岸の各地で秋祭りに繰り出す太鼓台(布団太鼓台、布団山車)の一種である兵庫08香川17。担ぎ手の掛け声から、徳島ではヨイヤショ、あるいはサシマショと呼ばれている。市内の各神社に奉納される途中で、太鼓を敲く打児(うちこ)を乗せたまま空中に投げ上げたり、互いにもみ合ったり、拍子木と掛け合いをしたりする勇壮なものである。高さ7p。(H27.9.24

04. 藍搗きお蔵(徳島市)



江戸時代、蜂須賀公が専売品として藍(あい)造りを奨励した。阿波藩は独占を守るために、藍の製法をまったく秘密にしたという。その結果、藩の財政は大いに潤った。明治になっても全国の藍市場をほぼ独占していたが、20世紀に入ると輸入藍や化学染料に押されて生産も激減した。摘み取った藍(タデ科の植物)の葉は刻んでから発酵させ、さらに藍臼で搗(つ)いて藍玉にする。藍搗きお蔵は米搗き車和歌山01と同工異曲の玩具で、お蔵のモデルは藍玉を貯える白壁造りの土蔵“藍蔵”である。徳島市内では藍で賑わった時代の建物が戦災で失われたが、美馬市脇町では今も保存されており、「うだつの街並」として当時の面影を留めている。高さ9p。(H27.9.24

05.わんわん凧(鳴門市)



鳴門市の撫養(むや)地方は大凧揚げが名物で、その代表が楕円形の“わんわん凧”である。最大の凧では直径が24m、重さ580sにもなる。そのむかし、撫養にある蓮花寺再建の折、上棟式の余興に棟梁が丸凧を揚げたのが始まりとされる。わんわんという名前の由来は、上棟式で揚げた凧が供物を盛る丹塗りのお椀の形をしていたためとも、凧合戦の時に凧がわんわんとうなりを立てて揚がるためともいう。わんわん凧には地区ごとに80余りの絵柄があり、お椀の“元祖”わんわん凧は蓮花寺のある岡崎地区の凧。写真左は林崎地区の凧、右は南浜地区の凧である高さ75p。(H27.9.24

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