●八幡の伝説 |
八幡市は、860年(貞観2年)に石清水八幡宮が男山に遷座して以来、 その門前町として栄えてきました。その八幡に今日まで口伝により面々と語り継がれてきた伝説を紹介しましょう。 |
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神應寺山門横にある五輪石塔は、高さは6.08m、幅2.44mに及ぶ日本最大である。石塔は、石清水八幡宮の宮寺だった旧極楽寺の境内に建立されたものであるが、寺は廃寺となって、この石塔だけが残った。石塔建立の起源や作者は不明だが、石塔にまつわる多くの言い伝えが残されている。 |
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ある日、仁和寺のお坊さんが石清水八幡宮を詣でようと八幡は男山の麓までやってきた。果たして、仁和寺の僧は無事本懐を遂げることができたのだろうか。兼好法師が著した「徒然草」の第52段、大いなる失敗の教訓を論じる |
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石清水八幡宮が所蔵する数多くの宝物の中にあって、きわだっているのが本殿に架かる黄金の樋。その大きさは長さ21.6メートル、外径0.6メートル、深さ0.21メートルで、厚さは実に3センチメートルもある。 |
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石清水八幡宮社殿は、細部にわたって桃山風の華麗な彫刻が多数施されている。とくに猿の彫刻は、そのすばらしさから生命が宿ることとなり、夜な夜な社殿を抜け出してはいたずらをしたという伝説を生んだ。 |
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安産を願って妊婦がお腹に巻く布を「岩田帯」というが、そのいわれが八幡市南東部の岩田に伝わっている。岩田帯は八幡が発祥の地だった。 |
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石清水八幡宮社務であった田中家の分家に当たる正法寺・志水宗清の娘亀女は徳川家康に嫁ぎ、尾張徳川家の祖、義直を産みました。そのため正法寺は江戸時代、隆盛を極めた。 |
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八幡市神應寺に天下の豪商、淀屋辰五郎のお墓がある。小さな墓石からは豪商の面影を見ることはできない。しかし、この墓石に刻まれた辰五郎の戒名から新たな謎が・・・ |
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わが国初の飛行機発明者で、日本航空界の先駆者である二宮忠八は、八幡町(現・八幡市)に移り住み飛行機の設計に取り組んだ。忠八が日本航空界の先駆者といわれるのは、明治24年、ゴム動力によるプロペラ式模型飛行機としては世界初の模型飛行機を発明をしたことによる。
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「洞ヶ峠(ほらがとうげ)を決め込む」といえば、日和見の代名詞となっていますが、その舞台となったのが国道1号が追加する八幡市の西部丘陵「洞ヶ峠」での逸話で、その人物が筒井順慶です。果たしてその真実は?
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常徳寺は、豊臣秀吉の帰依を受けて、下奈良に20石の寺領を賜ったという。ある日、秀吉が寺を訪れて茶を所望したところ、白湯を進上したので、「湯沢山茶久蓮寺(湯たくさん茶くれん寺)と言った。以来、それが寺号になったという。
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あるとき、宇治に住む公卿が男山付近から現れた光が空を照らしたのを見て、その原因を調べていくと川口村に至った。村の近くに池があり、夜中に池の中から光を発して・・
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巡検道をゆくと、下奈良へ至る手前300メートルほどのところに一本の石碑と小さな石仏がみえる。「獅子塚跡」という。「貞観12年(870)7月28日、釣り鐘に乗った獅子が降りてきたので、下奈良に住む都当之太夫が池から獅子を引き上げた。その行方は・・
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その昔、淀川に橋が架けられていた橋は出水のたびに流れてしまうので、ついにある男が人柱となった。この男の娘は父の死を深く嘆き悲しみ、ものを言わない人になった。それから歳月を重ね、あるとき、朽ちた橋の杭が水底から姿を現し・・。
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その知恵から生み出された資産は、「百万石の大名をしのぐ」といわれ、先物取引を数学的根拠により実践した先駆者として、海外にもその名を馳せている淀屋常安。八幡発祥のゴボウをウナギ(ドジョウともいう)で巻いた「八幡巻き」も、時代背景からみると、どうやら常安が考案したものらしい。 |
工事中!
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