かめじょ とくがわいえやす 亀女と徳川家康
しみずかめじょ
志水亀女(相応院)
天正元年(1573)〜寛永19年(1642)
石清水八幡宮社務であった田中家の分家に当たる正法寺・志水宗清の娘亀女は徳川家康に嫁ぎ、尾張徳川家の祖、義直を出産。このため、正法寺(挿し絵)は江戸時代、尾張藩の庇護を受け、隆盛を極めた。
亀女は、竹越定右衛門に嫁ぎ、息子、正信をもうけたが、夫と死別。天正17年(1589)、16歳で離婚し、息子とともに正法寺で暮らしていた。
あるとき、亀女が息子の正信をタライに入れて行水させていると、徳川家康の行列が通り、亀女はあわてて息子をタライに入れたまま運び去った。これを見た家康は、「この女性ならきっと強い子を産んでくれるに違いない」と見初めたという。こうして文禄3年(1594)、徳川家康(53歳)の側室として迎えられた亀女は、文禄4年(1595)に仙千代を出産(6歳で没)。慶長5年(1600)には、五郎太(後の義直)を産んだ。このとき、亀女27歳であった。
慶長15年(1610)、石清水八幡宮領を「検地令免許、守護不入」の地とする徳川家康の朱印状が石清水八幡宮に届けられた。これは、石清水八幡宮の権威によることも大きかったのですが、尾張藩の祖義直を産んだ亀女の働きによることが大きかったと考えられる。また、これを裏付けるように、慶長16年(1611)8月12日、亀女から石清水八幡宮社務三家へ書状が届けられ、そこには八幡宮社領が検地免除されたことを喜ぶとともに、そのお礼に八幡宮山上山下惣衆から家康に対し菖蒲革10枚が贈られたことに対するお礼の言葉が述べられている。これを初めとして、毎年正月に八幡宮社士惣中から年頭礼として菖蒲革3枚を献上するため、江戸へ参府されている。
亀女は家康の死後、「相応院」と名乗り、義直のいる名古屋城で暮らすことになる。晩年には、志水家菩提寺の正法寺に千両という大金を寄進し、本堂、大方丈、唐門を建立した。また、没後には遺言によって百両を寄進、その後も尾張藩の庇護を受け続けた。亀女の先夫の子、竹越正信は、尾張藩の家老職に就き、藩を盛り上げた。
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