二宮忠八 人類初の有人飛行の夢

にのみやちゅうはち
二宮忠八

わが国初の飛行機発明者で、日本航空界の先駆者である二宮忠八(1866-1936) は、1901年(明治34)夏、京都府八幡町に移り住み飛行機の設計にとりくんでいました。
 忠八が日本航空界の先駆者といわれるのは、1891年(明治24)のこと、「カラス型飛行器」というゴム動力によるプロペラ式模型飛行機としては世界初の模型飛行機を発明した。さらに工夫を重ね、1893年(明治26)に人を乗せて飛べる「玉虫型飛行器」の模型を完成させましたが、動力部分は個人の努力と資金だけでは限界があり、陸軍上部に設計図を添え飛行機研究の採用を求める上申書を提出しました。しかし、夢物語と却下されてしまい、そこで独力で完成させることを決意した忠八は、大阪の製薬会社に入社し業績をあげながら資金を蓄え、故郷の愛媛県八幡浜と同じ地名の京都八幡の地に移り住み、飛行機研究に打ち込みました。
 1902年(明治35)には旧精米所を買い入れ、石油発動機つき飛行機の設計に取り込んでいましたが、1903年(明治36)に世界初の有人飛行実験の成功は、ライト兄弟によって先を越されてしまったのです。
 それ以後、忠八は飛行機の製作を断念しましたが、飛行機墜落の事故を聞く度に犠牲者の死を悲しみ、1925年(大正4)、自邸内に世界中の航空殉難者の霊を祀る日本初の航空関係神社「飛行神社」を建設しました。

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