江戸落語-4
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江戸の食生活

第1回 お花見  
 落語『貧乏花見』 
 名物『玉子焼き』 
第2回 たけのこ
落語『たけのこ』
『竹の子料理 1 * 2 』
第3回 そば
落語『そば清』
『霙蕎麦(みぞれそば)』
第4回 豆腐
落語『酢豆腐』
『豆腐料理いろいろ』
第5回 うなぎ
落語『うなぎ屋』
真夏の風物詩
第6回 秋刀魚
落語『目黒の秋刀魚』
江戸の魚ごよみ
第7回 いわし
落語『猫久』
『 酢烹(すしに)』
第8回 大根
落語『たらちね』
『大根料理いろいろ』
第9回 さつま芋
落語『芋俵』
『甘藷百珍』

* 第4 回 *  豆腐  

第 4 回 落語『酢豆腐[上方版:ちりとてちん]』 へ飛びます。

 豆腐料理も一口に言ってもいろいろな種類がございますが、冬は湯豆腐。そして夏場は、なんといっても冷蔵庫から出した冷た〜い「冷奴(ひややっこ)」が頭に浮かびます(真っ白い姿が涼しそ〜)。奴の上にさらに様々な工夫を凝らして洋風・中華風にトッピングされるものもございます。お豆腐は江戸時代の昔もいろいろな料理法で食卓にのぼり、当時の落語にも豆腐のことが沢山でてきます。毎度の食事に欠かせない、大変に忙しい売れっ子だったのでございます。
今回は『酢豆腐』をご紹介するのですが、この噺、お豆腐好きの方にはゾッとさせてご免なさい。だからってお豆腐を嫌いにならないでくださいよ。
冷蔵庫のない、情報もない時代ならではのあわれな噺じゃ〜ございませんか。


豆腐の歴史
「その歴史は古く、紀元前百年以上も前に、漢の高祖の孫である准南(わいなん)国王の劉安によって発明されたと伝えられている。日本では、ようやく九州や本州の西南部で稲作が定着する弥生時代のはじまりであり、邪馬台国の女王卑弥呼は、まだ生まれていなかった。
豆腐がいつ頃日本に入ってきたかは不明であるが、大豆加工にかけては天才的な手腕を持つ民族であるから、唐納豆などとともにかなり早くからとり入れていたのではないだろうか。
動物性タンパク質を徹底的に排除してきた寺料理にとって、大豆タンパク質ほど優秀な代替品はないから、豆腐は、まず僧家日用の食べ料となった。
豆腐の文字は、南北朝後期から室町の初期、十四世紀後半に成立した『庭訓往来』の中に『御時の汁は豆腐羹・・・』と出てくる。豆腐羹というのは"とうふ汁"のことである。」(『たべもの江戸史』永山久夫著 新人物往来社)

『庭訓往来』---精進料理の文献として最古のものの一つであり、生活百科として長いこと多くの人々に読まれた。
精進料理(寺料理)の代表的な食品
大豆を加工した食品・豆腐・麩・こんにゃくが代表としてあげられ、その次として 納豆などがある。

「文安元年(1444年)刊の『下学集』飲食部にも"豆腐"のことが書いてある。
室町時代になると、和えものや汁ものに盛んに使用されるようになるが、豆腐料理の名前の初見は
『大草家料理書』で、『うどん豆腐』『あん豆腐』『とや豆腐』の三品の豆腐料理が記載されている。

うどん豆腐 --- 豆腐をうどんのように細く切って湯煮し、醤油にサンショウ、コショウなどを入れて食べる。
あん豆腐 --- 豆腐を二寸ばかりに切って湯煮し、皿に受けてくずだまりをかけ、ケシ、サンショウの粉、クルミの実を上に置く。
とや豆腐 --- 少しばかり水出しで煮て、サンショウの粉をふりかけて出す。

落語の祖といわれる策伝和尚が、江戸初期に編んだ咄本『醒睡笑』に豆腐の笑話がのっている。・・・江戸の初期に辺鄙な村里にまで豆腐の行商人が入りこみ、どうやら商売になっているらしいことである。
八代将軍吉宗の豆腐好みは有名で、豆腐の味によって原料ダイズの産地を当てたという。
平賀源内の豆腐田楽好きは有名で、焼き方を研究した末、串が焦げない小型炉まで発明している。
幕末の頃になると、豆腐は庶民の食生活の中にとり入れられ、ぐっと身近なものになっていた。ちょっと開けた村なら、たいがい豆腐屋ぐらいはあったのである。」(『たべもの江戸史』永山久夫著 新人物往来社)

上方と江戸の豆腐
「上方の豆腐が柔らかくて味もよいのに対して、江戸のものは一般にかたくて味も劣った。特に、上方に現れた"絹漉し豆腐"は柔らかだった。絹漉しといっても、絹で漉すわけでなく、豆腐に圧力を加えて整形する時の重さの相違で、きめこまかさの表現である。
上方では並の豆腐でも、持ち運びには水の中に入れなければすぐにこわれてしまうが、江戸のものは水がなくても崩れる心配はなかった。硬さの違いである。
江戸にも絹漉しに匹敵する"汲豆腐"が出現したが、その柔らかさは上方の普通製なみで、こちらは注文がなければつくらなかった。京都では、豆腐を小ぶりに製し一丁以下は売らない。柔らかいから、大形にはできないのである。しかし、大阪では半丁でも売った。そこへ行くと江戸の豆腐は、男性的で形も大きい。豆腐をつくる箱は縦一尺八寸で横が九寸ぐらい。この箱から十丁または十一丁の豆腐をとった。」(『たべもの江戸史』永山久夫著 新人物往来社)

「上方きらいの馬琴は、豆腐は江戸の方がうまく、上方は「店構えが凝っているだけ」とけなしつけている。」(『図説江戸時代食生活事典』日本風俗史学会編・雄山閣出版 篠田統著)

江戸時代、料理本の紹介
『和漢精進新料理抄』
元禄十年(1697)刊行、精進料理が流行し、初めてだされた精進料理の専門書。

『 豆腐百珍』
天明二年(1782)刊行、十代将軍徳川家治の時代。
江戸時代の豆腐百品とその作り方が書かれた料理書。著者は醒狂道人、何必醇。
その頃、三十六歌仙をまねて豆腐を三十六通りに料理する『歌仙豆腐』といった遊びが流行し、豆腐料理もだんだん種類を増していった。かなり贅沢な食べ方が見られる。百珍ものの先駆けで、当時ベストセラーになった。グルメ嗜好の元祖ともいえる本である。

『 豆腐百珍続編』
天明三年(1783)刊行、十代将軍徳川家治の時代。「豆腐百珍」が好評につき、その第二弾がだされた。

『豆腐百珍続編 』の中には東海道の石部と草津の間の、目川村の田楽屋の絵が描かれている。『江戸料理百選』の装丁箱は、その挿絵を使用した。

この菜飯田楽は多くの紀行文に出てくる。江戸、浅草雷門前広小路にあった菜飯料理の店『目川』は目川村の菜飯を模しているとして有名である。

   ※『江戸料理百選』より。

 『江戸料理百選』の『豆腐料理いろいろ』をご参照ください! ← クリック


豆腐で有名な江戸の料理屋
江戸
「日野屋」「明石屋」は両国橋東詰めの盛り場、東両国広小路にあって、名物の泡雪豆腐で人気を得ていた店。泡雪茶め四郎の名で登場。
根岸の「笹の雪」。
吉原の「山屋」。
真崎稲荷の社寺境内の田楽屋。
浅草雷門前広小路の「目川」は田楽屋。

上方
京都祇園八坂神社正門前の祇園豆腐の「二軒茶屋」「中村楼」。
京都、南禅寺境内の湯豆腐。

 ※参考文献:『図説江戸時代食生活事典』篠田統編 日本風俗史学会編・雄山閣出版


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