相模 さがみ 生没年未詳

生年は長徳年間(995~999)か。父は不詳。母は能登守慶滋保章女(中古三十六歌仙伝)。『勅撰作者部類』は父を源頼光とするが、養父とみる説もある(『俊頼髄脳』『金葉集』には、但馬守だった源頼光が「相模母」と交わした連歌が載る)。『相模集』によれば、娘のあったことが知られる。
はじめ乙侍従(おとじじゅう)と称した。大江公資(きんより)が相模守だった時妻となり、相模の通称で呼ばれるようになる。寛仁四年(1020)、夫とともに相模国に下向。治安三年(1023)正月、箱根権現に百首歌を奉納したが、憂悶を訴える歌が多く、また子を願う歌をさかんに詠んでおり、結婚生活には不如意が多かったようである。果して同年相模から帰京した後、公資との仲は破綻を迎えたらしく、藤原定頼(さだより)などからたびたび求愛を受けている。のち公資は遠江守として赴任する際、別の女性を伴った。
やがて一条天皇の第一皇女である脩子内親王(996-1049)のもとに出仕し、歌人としての名声も高まり、長元八年(1035)の「関白左大臣頼通家歌合」、長久二年(1041)の「弘徽殿女御生子歌合」、永承四年(1049)・同六年の内裏歌合、永承五年(1050)の「前麗景殿女御延子歌絵合」「祐子内親王歌合」、天喜四年(1056)の「皇后宮寛子春秋歌合」など、多くの歌合に出詠。
和泉式部能因法師源経信ら歌人との幅広い交流をもった。また藤原範永ら和歌六人党の指導者的な立場にあった。永承四年(1049)脩子内親王の薨後は入道一品宮祐子内親王(1038-1105。後朱雀天皇の第三皇女)の女房として仕える。康平四年(1061)三月の「祐子内親王家名所歌合」への出詠を最後に消息は途絶える。
後拾遺集初出。勅撰入集は計百八首(金葉集は二度本で計算)。中古三十六歌仙の一人。『物思ふ女の集』と名付けられた自撰家集があったことが知られるが、現在残る家集『相模集』(『玉藻集』『思女集』などの異称がある)との関係は明らかでない。

  2首  5首  3首  3首 哀傷 2首  14首  7首 計36首

春歌とて

花ならぬなぐさめもなき山里に桜はしばし散らずもあらなむ(玉葉229)

【通釈】花以外、何の慰めもない山里なので、桜はもう少しの間散らずにいてほしい。

【補記】春、何らかの理由で都を離れ、山里に滞在しているという状況。「花ならぬなぐさめもなき」には、訪ねてくれる人もいない孤独感を暗示している。『相模集』では第二・三句「なぐさめぞなき山ざとの」。『相模集』巻末に近い歌群にある一首。

仲春

なにか思ふなにをか嘆く春の野に君よりほかに菫つませじ(相模集)

【通釈】何を思い煩うのです。何を歎くのです。春の野で、あなた以外の人に菫を摘ませたりしません。

【補記】自分自身を菫に譬え、男に対する一途な思いを強い調子で歌っている。治安三年(1023)、「はじめの春」から始めて四季歌と雑歌からなる百首歌。

正子内親王の、絵合し侍りける、かねの草子に書き付け侍りける

見わたせば波のしがらみかけてけり卯の花さける玉川の里(後拾遺175)

【通釈】見渡すと、いちめん白波の立つしがらみがかけ渡してあるようだよ、卯の花が咲くこの玉川の里は。

卯の花(ウツギ)
卯の花

【語釈】◇卯の花 ウツギ。初夏、純白の小さな花が群がり咲く。◇しがらみ 川などの流れを塞き止めるための柵。杙を打ち並べ、竹や木の枝を渡したもの。◇玉川の里 玉川と名の付く歌枕は諸国にあるが、卯の花と取り合わせて歌われるのは摂津三島の玉川。現高槻市の淀川の支流。

【補記】堰き止められた川に立つ細かな白波に、純白の卯の花を喩えた。永承五年(1050)四月二十六日、幼い正子内親王(後朱雀天皇皇女。1045~1114)のために母藤原延子が主催した絵合「前麗景殿女御歌合」に出詠した歌。「かねの草子」すなわち銀箔を張った冊子に書き付けたという。

【他出】前麗景殿女御歌合、相撲立詩歌合、後六々撰、古来風躰抄、詠歌大概、定家八代抄、詠歌一体、女房三十六人歌合

【主な派生歌】
卯の花の浪のしがらみかけそへて名にも越えたる玉川の里(藤原俊成[続後撰])
梅が枝に軒のしがらみかけてけり花の関守ささがにの糸(寂蓮)
まだきより波のしがらみかけてけり禊ぎ待つまの賀茂の河風(伏見院[新千載])
月の行く波のしがらみかけとめよ天の河原のみじか夜の空(後二条院[新拾遺])

題しらず

聞かでただ寝なましものをほととぎす中々なりや夜はの一こゑ(新古203)

【通釈】聞かずにそのまま寝てしまえばよかったのに。時鳥よ、中途半端であったよ、あの夜半の一声は。

【補記】声を聞いて、かえって寝つけなくなってしまったのである。

【参考歌】赤染衛門「後拾遺集」
やすらはで寝なましものをさ夜更けてかたぶくまでの月を見しかな

花橘をよめる

五月雨の空なつかしく匂ふかな花橘に風や吹くらむ(後拾遺214)

【通釈】五月雨(さみだれ)の降る空から、慕わしい香りがしてくることだよ。きっと橘の花に風が吹いているのだろう。

【語釈】◇五月雨 梅雨の頃の雨を言う。語源は、さ(稲の生育と関係のある接頭語)・水(み)・垂れ。◇なつかしく 慕わしく、好ましく。古今集の「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」によって、花橘の香は懐旧の念と結び付けられたが、「なつかし」を昔を懐かしむ心で用いるようになるのは中世以後なので、この歌も懐旧の念とは切り離して鑑賞すべきであろう。

【補記】第三句を「にほふなり」とする本もある。

【他出】新撰朗詠集、後六々撰、古来風体抄、定家八代抄

【主な派生歌】
夕暮はいづれの雲のなごりとて花たちばなに風の吹くらむ(*藤原定家[新古])
この頃の空なつかしき春風に世は梅が香のほかなかりけり(木下長嘯子)
五月雨の空なつかしく立花の匂ひをさそふ軒の夕風(田安宗武)

宇治前太政大臣家にて卅講ののち、歌合し侍りけるに五月雨をよめる

さみだれは美豆(みづ)御牧(みまき)のまこも草かりほすひまもあらじとぞ思ふ(後拾遺206)

【通釈】五月雨の頃は、美豆の御牧では真菰草が盛んに伸びる。けれども、刈り取って干す晴れ間もないだろう。

真菰 京都広沢池
真菰草

【語釈】◇美豆の御牧 山城国にあった皇室の牧場。今の京都市伏見区淀美豆町あたり。◇まこも草 真菰草。浅い水中に群生するイネ科の多年草。食用。馬の餌としたらしい。

【補記】長元八年(1035)五月十六日、太政大臣藤原頼通邸での法華三十講後の歌合(賀陽院水閣歌合)で詠まれた歌。「この歌講じ出づるの時、殿中鼓動して郭外に及ぶと云々」(袋草紙)。歌合の場で起きた賞讃の歓声が、邸の外まで響き渡ったというのである。趣向の珍しさと詞の流麗な響きが人々を驚かせたのであろう。

【他出】賀陽院水閣歌合、相模集、栄花物語、後六々撰、定家八代抄

【主な派生歌】
五月雨は美豆の御牧の深き江にすみかへりぬる我が心かな(慈円)
かすむより緑もふかし真菰生ふる美豆の御牧の春の河浪(藤原雅経[新続古今])
船とむる美豆の御牧の真菰草からでかりねの枕にぞしく(俊成女[玉葉])

題しらず

下もみぢ一葉づつ散る()のしたに秋とおぼゆる蝉の声かな(詞花80)

【通釈】色づいた下葉がはらはらと一枚ずつ散る、木の下蔭にいると、もう秋なのだなと思える蝉の声よ。

【語釈】◇下もみぢ 下葉(木の下の方の葉)の紅葉・黄葉。他に先んじて色づく。

【補記】木の下蔭にいて、いちはやく秋を感じている。「一葉づつ散る」といった細かい心の働かせ方は以前の和歌にはあまり見られなかったもので、この作者の感性の清新さがよく出ている。『相模集』によれば題は「せみのこゑ」。

【主な派生歌】
大あらきの森の下風吹くままに一葉づつ散る本柏かな(覚性法親王)
山めぐりそれかとぞ思ふ下紅葉うちちる暮の夕立の雲(藤原定家)
峰に吹く風にこたふる下紅葉一葉の音に秋ぞ聞こゆる(藤原定家)

題しらず

手もたゆくならす扇のおきどころ忘るばかりに秋風ぞ吹く(新古309)

【通釈】手がだるくなるほど使い親しんだ扇――その置き所を忘れてしまうほど、近頃は秋風が吹いているのだ。

【補記】漢詩の影響か、扇と秋風を取り合せた歌はさほど珍しくないが、この歌は「手もたゆく」などに作者の日常的な実感が感じられ、当時としては清新な作風と言える。治安三年(1023)の百首歌、題は「早秋」。

【参考】「玉台新詠・怨詩一首」(→資料編
常恐秋節至 涼風奪炎熱 棄捐篋笥中 恩情中道絶
  「和漢朗詠集・納涼」(→資料編
班婕妤団雪之扇 代岸風兮長忘
  藤原為頼「後拾遺集」
おほかたの秋来るからに身にちかくならす扇の風ぞかはれる

【主な派生歌】
手にならす扇の風も忘られて閨もる月の影ぞすずしき(*藻壁門院但馬[続拾遺])

題しらず

暁の露は涙もとどまらでうらむる風の声ぞのこれる(新古372)

【通釈】暁の別れを悲しむ織姫の涙は少しも止まることなく流れ続け、あとには恨むような風の声が残るばかりだ。

【語釈】◇暁 一晩を共に過ごした牽牛織女が別れる暁。◇露は この「露」は「少しも」の意の副詞であると共に、涙の喩えともなっている。

【補記】『相模集』では詞書があり、七夕の翌朝、織女の嘆きを詠んだ歌であることが明らか。「ふづきの八日あかつきに風のあはれなるを、きのふの夜よりといふことを思ひいでて」。「きのふの夜より」は下記和漢朗詠集の句を指す。

【本説】大江朝綱「和漢朗詠集」(→資料編
風従昨夜声弥怨 露及明朝涙不禁(風は昨夜より声いよいよ恨む 露は明朝に及びて涙禁ぜず)

【主な派生歌】
たまゆらの露も涙もとどまらずなき人恋ふる宿の秋風(藤原定家[新古今])

題しらず

我も思ふ君もしのぶる秋の夜はかたみに風の音ぞ身にしむ(新勅撰1021)

【通釈】私も思うことがある、あなたも辛い恋に耐えている――こんなふうに二人で語り明かす秋の夜は、お互い風の音が身に染みることよ。

【補記】『相模集』によれば、九月の夜、女友達と恋の話などしていた折、風が吹いたので、相模が「我もこひ君もしのぶに秋のよは」と詠みかけたが、相手は何か思い詰めたようにしているので、「かたみに風の音ぞ身にしむ」と相模が自身で付けた、とあり、独り連歌の体裁になっている。

永承四年内裏歌合に、千鳥をよみ侍りける

難波がた朝みつ潮にたつ千鳥浦づたひする声きこゆなり(後拾遺389)

【通釈】朝、難波潟に満ちてくる潮に飛び立つ千鳥――その浦沿いに渡って行く鳴き声が聞えるよ。

【語釈】◇難波がた 淀川下流域に広がっていた潟(浅海)。蘆におおわれた侘しげな場所として詠まれることが多かった歌枕。

【補記】冬の風物として千鳥の鳴き声はありふれた題材であるが、この歌では「浦づたひする声」、移動する音を時間的に捉え、当時としては感覚的に新味のある作風である。永承四年(1049)十一月九日、後冷泉天皇主催の内裏歌合の選外歌。

永承四年内裏歌合に、初雪をよみ侍りける

都にも初雪ふれば小野山のまきの炭竈(すみがま)たきまさるらむ(後拾遺401)

【通釈】都にも初雪が降ったのだから、小野山の槙を焼く炭竈はさぞや盛んに火を燃しているだろう。

【語釈】◇小野山 京都市左京区大原あたりの山。炭焼の名所。

【補記】永承四年内裏歌合八番「初雪」、右勝。

【他出】後六々撰、定家八代抄

【主な派生歌】
沖つ風よさむになれや田子浦のあまのもしほ火たきまさるらむ(越前)
比えの根に初雪ふれり今よりや小野の炭がまたき増るらむ(香川景樹)

年の暮の心をよめる

あはれにも暮れゆく年の日かずかな返らむことは夜のまと思ふに(千載471)

【通釈】暮れてゆく年のわずかに残った日数がしみじみと心にしみることよ。年が改まるのはたった一晩のうちなのだと思えば。

【補記】『続詞花集』では結句「よのまとおもへば」。

【他出】新撰朗詠集、続詞花集、題林愚抄

【主な派生歌】
あはれなり暮れゆく年の日かずかな老のつもりは八十路あまれば(蓮如)

哀傷

枇杷皇太后宮かくれて後、十月ばかり、かの家の人々の中に、たれともなくてさしおかせける

神無月しぐるる頃もいかなれや空にすぎにし秋の宮人(新古804)

【通釈】神無月で時雨が降る頃、あなた方の衣もいかほどでしょうか。御主人様を亡くされて、茫然と過ごしておられた、皇太后宮の人たちよ。

【語釈】◇枇杷皇太后宮 藤原道長の娘で、三条天皇の后となった人。万寿四年(1027)九月十四日崩。◇ころも 「頃も、衣」の掛詞。◇空にすぎにし 「空に」は「うわの空に」の意を掛ける。時雨を降らす雲が空を過ぎて行くことに寄せて、皇太后宮の死後放心状態で過ごした女房たちを思い遣っている。◇秋の宮人 皇太后の宮に勤める女房たち。漢土で皇后宮を「長秋宮」と言ったことから、我が国でも皇后や皇太后を「秋の宮」と称した。

【補記】万寿四年(1027)、皇太后宮藤原妍子が亡くなった翌月の十月頃、その宮に仕える人々のうち誰に宛てるともなく、使の者に置かせた歌。

二月十五日のことにやありけむ、かの宮の葬送の後、相模がもとにつかはしける   小侍従命婦

いにしへの(たきぎ)もけふの君が世もつきはてぬるをみるぞ悲しき

【通釈】脩子内親王をご葬送申し上げる今日二月十五日は、あたかもお釈迦様が入滅された日ですね。その昔の薪も、今日の宮のご寿命も、ともに尽きてしまったのを見ることが悲しいのです。

【語釈】◇いにしへの薪 法華経序品の「薪尽火滅」に拠る。薪が尽きることは、釈迦入滅の暗喩。

返し

時しもあれ春のなかばにあやまたぬ夜はの煙はうたがひもなし(後拾遺547)

【通釈】時あたかも、春の真ん中の二月十五日、お釈迦様ご入滅の日にぴったり重なった今日の夜半の葬送の煙を見れば、宮のご成仏は疑いもありません。

【語釈】◇かの宮 一条天皇の皇女、脩子内親王。相模の仕えた主人。◇小侍従命婦 相模の同僚。藤原氏。

【補記】哀傷歌。永承四年(1049)二月七日、主人であった脩子内親王が亡くなり、十五日に葬儀が行われた後、同僚と交わした贈答。釈迦入滅と同じ日であったことに因み、成仏は疑いもないと言って悲しみを慰めた。

公資に相具して侍りけるに、中納言定頼しのびておとづれけるを、ひまなきさまをや見けむ、絶え間がちにおとなひ侍りければよめる

逢ふことのなきよりかねてつらければさてあらましに濡るる袖かな(後拾遺640)

【通釈】まだ逢っていないうちから、もう辛い思いがするので、あなたとの仲が深くなったあとで、どんなことになるのだろうと、先のことを考えて、私の袖は涙に濡れているのだ。

【語釈】◇公資(きみより) 大江氏。寛弘四年(1007)以前相模と結婚したが、のち破局。◇中納言定頼 995-1045。藤原氏。公任の息子。歌人として名高い。◇隙なきさま 逢うための時間のゆとりがないさま。公資と同居していたゆえであろう。◇逢ふこと 情を交わすこと。ただ対面することを言っているのではない。◇あらまし こうなるだろうと予想すること。

【補記】大江公資とまだ夫婦であった頃、藤原定頼に求愛されたが、逢うための隙がなさそうで、手紙も絶え間がちとなった。そこで定頼に言い遣った歌。内心では相手の思いを受け入れていることが窺える。

【他出】相模集、後六々撰、古来風躰抄、定家八代抄

男の「待て」と言ひおこせて侍りける返り事によみ侍りける

たのむるをたのむべきにはあらねども待つとはなくて待たれもやせむ(後拾遺678)

【通釈】「待っていてくれ」なんて言って、あてにさせる貴方を信頼すべきではないのだけれど、待つつもりはなくても、やはり心は待ってしまうのだろうか。

【補記】「頼む」には、《相手を期待させる》意と、《相手を信頼して身を任せる》意とがある。初句の「頼む」は「男が私に期待させる」意、二句の「頼む」は「私が男を信頼して身をまかせる」意である。

【校異】初句を「たのむるに」とする本もある。また、『相模集』の詞書は「さしもあるまじき人の、かならずこむ、まてとありしかば」。

【主な派生歌】
今こむとただなほざりのことのはを待つとはなくて夕暮の空(宮内卿)

ときどき物言ふ男「暮れゆくばかり」などいひて侍りければよめる

ながめつつ事ありがほに暮らしてもかならず夢にみえばこそあらめ(後拾遺679)

【通釈】「夕暮ほど嬉しいものはない」とおっしゃるのですか。私もぼんやりと思いに耽りながら、いかにも何かありそうな顔をして、夕暮までの時間を過ごしていますが――あなたと必ず夢で逢えるならいいのですけれど、そうとは限らないのだから空しいことです。

【語釈】◇暮れゆくばかり 「うつつにも夢にも人に夜し逢へば暮れゆくばかりうれしきはなし」(拾遺集読人不知)。現実でも夢でも恋人に逢うのは夜だから、夕暮れてゆくことほど嬉しいことはない、の意。◇事ありがほ 何ごとかありそうな顔つき。

【補記】同じ歌が『和泉式部集』に見え、後拾遺集に相模の作とするのは誤りか。

【他出】後六々撰、定家八代抄

【参考歌】大伴家持「万葉集」
夢にだに逢へばこそあらめかくばかり見えずしあるは恋ひて死ねとか

しのびて物思ひ侍りけるころ、色にやしるかりけむ、うちとけたる人、などか物むつかしげにはと言ひはべりければ、心のうちにかくなむ思ひける

もろともにいつかとくべき逢ふことのかたむすびなる夜はの下紐(後拾遺695)

【通釈】二人していつか解く夜があるだろうか。逢うことの難しいあの人と共に、この片結びにした下紐を。

【補記】ひそかに恋をしていた頃、思いが顔色にあらわれたのか、「うちとけたる人」(夫など)に見とがめられ、「なぜふさぎ込んでいるのか」と聞かれて、心の内の思いを歌にしたという。「かたむすび」は「帯または紐の結び方。片方は真っ直ぐのままにし、他方をそれにまとって輪に結ぶもの」(広辞苑第五版)。「(逢ふことの)難き」を掛ける。

題しらず

わが袖を秋の草葉にくらべばやいづれか露のおきはまさると(後拾遺795)

【通釈】私の袖を、秋の草の葉とくらべてみたいものだ。どっちがたくさん露が置いているかと。

【補記】「秋」には「飽き」の意が響き、恋人に飽きられて泣いてばかりいる自身を暗示している。

【他出】相模集、定家八代抄

【本歌】藤原忠国「古今集」
我ならぬ草葉も物は思ひけり袖より外に置ける白露
【参考歌】「多武峰少将物語」(高光日記とも)
奧山の苔の衣にくらべみよいづれか露のおきはまさると

題しらず

焼くとのみ枕のうへにしほたれてけぶり絶えせぬとこのうらかな(後拾遺814)

【通釈】海人の塩焼は、海水を火で焼くのだけれど、私も同じだ。胸の火を燃やしに燃やし、枕の上で塩辛い涙にぐっしょり濡れている。それで、私の寝床の中はいつも煙が絶えないのだなあ。

【語釈】◇とこのうら 和歌に頻出する「地名もどき」。『夫木和歌抄』には「とこのうら、鳥籠、近江」とあり、近江の歌枕と考える説もあったらしい。寝床の裡(うら)の意を掛ける。なお結句「とこのうちかな」とする本もある。

【補記】「焼く」「しほたれ」「けぶり」、いずれも海人の塩焼にかかわる語。

【他出】五代集歌枕、定家八代抄、歌枕名寄

永承六年内裏歌合に

恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ(後拾遺815)

【通釈】恨んだり歎いたりで、乾かす暇もないほど常に濡れている袖――この袖さえ朽ちそうであるのに、ましてや恋のために我が名が朽ちるのは、それこそ口惜しくてならないよ。

【語釈】◇恨みわび 恨み、落胆し。「恨みあぐねて」と解する説もある。◇ほさぬ袖 濡れたままにしている袖。◇袖だにあるものを 袖さえ朽ちそうであるのに。ましてや名が朽ちるのは…とつづく。◇恋に朽ちなむ名 恋の噂によって世間の不評を買うことをいう。

【補記】永承六年(1051)五月五日に京極院内裏で披講された歌合出詠歌。主催は後冷泉天皇、判者は藤原頼宗。掲出歌は題「恋」九番左。

【他出】栄花物語、後六々撰、古来風躰抄、定家八代抄、八代集秀逸、時代不同歌合、百人一首、女房三十六人歌合

【主な派生歌】
恨みわび絶えぬ涙にそぼちつつ色変はりゆく袖を見せばや(肥後[新拾遺])
思ひ侘び絶ゆる命もあるものをあふ名のみやは儚かるべき(小侍従)
ちつかまでたつる錦木いたづらにあはで朽ちなむ名こそ惜しけれ(藤原定家)

永承四年内裏歌合によめる

いつとなく心そらなる我が恋や富士の高嶺にかかる白雲(後拾遺825)

【通釈】恋をしている私の心は、いつと限らずうわの空になってしまう。これではまるで富士山にかかっている白雲。

【補記】永承四年(1049)、関白藤原頼通の後援のもと、後冷泉天皇が主催した内裏歌合。十四番恋右、持(引き分け)。

【他出】永承四年内裏歌合、袋草紙、定家八代抄

【参考歌】藤原忠行「古今集」
君といへば見まれ見ずまれ富士の嶺のめづらしげなく燃ゆる我が恋

【主な派生歌】
春ごとに吉野の嶽にかかる雲の心そらなる山桜かな(後鳥羽院)
立ちのぼる富士の煙のゆくへとも心そらなる身のおもひかな(二条為定[新千載])
かづらきや花のさかりをよそに見て心そらなる峰の白雲(吉田兼好)

ほどなく絶えにける男のもとへ言ひつかはしける

ありふるも苦しかりけり長からぬ人の心を命ともがな(詞花255)

【通釈】生きて月日をしのいでゆくだけでも辛いなあ。いっそ、長続きしない人の心を、私の命にしてこの人生を切り上げてしまいたい。

【補記】金葉集二度本では第二句「うきよなりけり」。

【参考歌】和泉式部「和泉式部続集」
生くべくもおもほえぬかな別れにし人の心ぞ命なりける

恋の歌のなかに

いかにせむ水隠(みこも)り沼の下にのみ忍びあまりて言はまほしきを(玉葉1270)

【通釈】どうしよう。隠れ沼のように、心をおもてにあらわさず、ずっと秘め隠してきたけれど、もう耐えきれなくなって、この思いを告白したいのを。

【補記】『相模集』では「人のもとより」の詞書が添えられており、正しくは男から贈られた歌らしい。相模の返歌は「うきてのみ末も流れぬ沼ならば影見る折あらじとぞ思ふ」。『万代集』ではよみ人しらずとしている。

恋の歌とて

もえこがれ身をきるばかりわびしきは歎きのなかの思ひなりけり(玉葉1536)

【通釈】薪は身を切られ、炎の中に投げられて燃え焦げる。私も同じで、燃え焦がれ、身を切るほどせつない。それは、「歎き」という木の中で燃える、「想ひ」という名の火のせいなのだなあ。

【補記】「歎き」のキに木を、「思ひ」のヒに火を掛けている。なお「燃えこがれ」「切る」「木」は焚き木に関する縁語。

【補記】『相模集』によれば、治安三年(1023)、四季歌と雑歌からなる百首歌、題は「思」。

題しらず

稲妻はてらさぬ宵もなかりけりいづらほのかに見えしかげろふ(新古1354)

【通釈】近頃、稲妻が光らない夜とてないことよ。それにつけても、どこに消えてしまったのだろう、一瞬姿を見せた陽炎のようなあの人。

【補記】『相模集』では詞書「いなづまのいそがしきをみて」とあり、即興の作と判る。

【参考歌】よみ人しらず「拾遺集」
夢よりもはかなき物はかげろふのほのかにみてし影にぞありける

大江公資にわすられてよめる

夕暮は待たれしものを今はただゆくらむかたを思ひこそやれ(詞花270)

【通釈】以前は、夕暮になるとあなたの訪れが待たれたものなのに――今はただ、あなたがどこへ向かって行くのだろうと、そればかりを思いやっています。

【補記】恋人が我が家へ向かって「来る」のを待ち続けた過去、恋人が何処かへと去って「行く」その方向を思い遣るばかりの今。『相模集』の詞書は「かれがれになりゆく人のもとに、夕暮にさしおかする」。

【他出】相模集、玄々集、金葉集三奏本、宝物集、古来風躰抄、無名抄

【主な派生歌】
あぢきなくうつし心のかへりこでゆくらむかたの夕暮の空(藤原雅経)
かへる雁ゆくらむかたを山の端のかすみのよそに思ひやるかな(津守国助)
秋のいま行くらむかたを紅葉ちる嵐につけて思ひこそやれ(藤原行家)

題しらず

うたた寝にはかなくさめし夢をだにこの世にまたは見でややみなむ(千載904)

【通釈】うたた寝で恋しい人を夢に見て、あっけなく覚めてしまった。――まるでそんな果敢ない夢のようだった、あの人との仲だった。あんな夢でさえ、生きているうちに二度と見ることはないのだろうよ。

【語釈】◇見でややみなむ 見ずに終わるのだろうか。

【参考歌】伝小野小町「小町集」
空をゆく月のひかりを雲間より見でや闇にて世ははてぬべき

嘉言(よしとき)、対馬になりて下り侍りけるに、人に代りてつかはしける

いとはしき我が命さへゆく人のかへらむまでと惜しくなりぬる(後拾遺475)

【通釈】今までは厭わしく思っていた自分の命――それさえ、旅立ってゆくあなたがお帰りになるまでは、と惜しくなりました。

【語釈】◇嘉言 大江嘉言(旧姓は弓削)。「大江氏系図」(群書類従)によれば、相模の夫公資は嘉言の甥。◇惜しくなりぬる 古語の「をし」は「愛しい」意も帯びることに注意されたい。

【補記】離別歌。寛弘六年(1009)、大江嘉言が対馬守となって任地に下った時、「人に代りて」贈ったという歌。代作なのであろう。当時相模はせいぜい十四、五歳くらいだったはずで、早熟の歌才が窺われる。ちなみに嘉言はまもなく任地で没した。

【参考歌】藤原義孝「義孝集」「後拾遺集」
君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひぬるかな

子をねがふ

光あらむ玉の男子(をのこご)見てしがな掻き撫でつつも()ほしたつべき(相模集)

【通釈】光かがやく玉のような男の子をお授けくださいな。心から愛しみながら育てられるような男の子を。

【補記】夫の公資と共に任国の相模国に住んでいた作者は、治安三年(1023)正月、箱根権現に参詣し、百首歌を奉納した。夫との仲は思わしくなく、さまざまな悩みを抱えていた時期であった。その時の一首。

うれへをのぶ

いづれをかまづ憂へまし心にはあたはぬことの多くもあるかな(相模集)

【通釈】どれから最初に悩めばよいのか。心には、思い通りにゆかないことが、なんて沢山あるのだろうか。

【語釈】◇憂(うれ)へまし 心配しようか。「まし」は反実仮想の助動詞と呼ばれるが、このように疑問の助詞「か」と共に用いられた時は、迷いの気持を表わす。◇あたはぬこと 能わぬこと。なし得ぬこと。思うようにゆかぬこと。

【補記】これも上の歌と同じく箱根権現に奉納した百首歌。以下の三首も同様。

心のうちをあらはす(二首)

しのぶれど心のうちにうごかれてなほ言の葉にあらはれぬべし(相模集)

【通釈】いくら堪え忍んでも、思いというものは、心の中で動くのはとめられなくて、やっぱり言葉にあらわれてしまうものなのだろう。

【補記】単に内心を詠んだ、というのではなく、心と言葉の関係をめぐる省察そのものを歌にしている。以前の和歌になかった姿勢と言える。

 

手にとらむと思ふ心はなけれどもほの見し月の影ぞこほしき(相模集)

【通釈】手に取ろうと思う気持はないけれども、かすかに見た月の光が恋しくてならないのだ。

【補記】初句「てにとらむ」、第二句「と思(も)ふこころは」であって、初句が字余りなのではない。

ゆめ

いつくしき君が面影あらはれてさだかにつぐる夢をみせなむ(相模集)

【通釈】凜として美しいあなたの御姿が現れて、はっきりと良きことを告げる夢を見せてほしい。

【補記】同題の一つ前の歌「寝(ぬ)る魂(たま)のうちにあはせしよきことをゆめゆめ神よちがへざらなむ」からすると、「君」は神を指すか。前の歌と切り離して「君」を恋人と解すれば、恋人と逢う予知夢を願った歌とも取れる。この場合、「つぐる夢」とは「逢えることを予告する夢」の意であろう。

題しらず

ながめつつ昔も月は見しものをかくやは袖のひまなかるべき(千載985)

【通釈】物思いをしながら、昔も月を見たものだったよ。でも、こんなふうに暇もなく袖が濡れるなんてことがあっただろうか。

【語釈】◇袖のひま 袖が乾いている暇。つまり、涙で濡れていない時間、ということ。

【補記】異本『相模集』の巻頭に置かれた歌で、詞書は「月のいとあかくさしいりたるに、我が身ひとつの」と大江千里の歌の一句を掲げている。

【他出】相模集、古来風躰抄、定家八代抄

【参考歌】大江千里「古今集」
月見れば千々に物こそ悲しけれ我が身ひとつの秋にはあらねど

【主な派生歌】
いにしへもひとりながめし月なれどかくやは袖の露けかりける(小沢蘆庵)


更新日:平成16年05月22日
最終更新日:令和2年12月13日