藤原定頼 ふじわらのさだより 長徳元〜寛徳二(995-1045) 号:四条中納言

大納言公任の長男。母は昭平親王女(後拾遺集ほかに「定頼母」として歌を載せる)。源済政女との間にもうけた経家(権中納言)と女子(藤原経季の妻)はともに勅撰集歌人。
寛弘四年(1007)、元服し従五位下に叙される。同五年、侍従となり、同六年、昇殿を許される。右中弁などを経て、寛仁元年(1017)蔵人頭に補され、正四位下に叙される。寛仁四年(1020)、参議に就任し右大弁を兼ねる。治安二年(1022)、従三位。長元二年(1029)、権中納言。長久三年(1042)、正二位に至る。寛徳元年(1044)、病により出家し、翌年正月十九日、薨去した。五十一歳。
長元五年(1032)の「上東門院彰子菊合」、同八年の「関白左大臣頼通歌合」などに出詠。「懈怠人」「無頼者」などの評もあるが(『小右記』)、書や誦経にも優れた風流才子で、容姿端麗だったという。大和宣旨相模・公円法師母(小式部内侍の娘)などを恋人とし、小式部内侍大弐三位とも贈答歌がある。『袋草紙』『古事談』『十訓抄』ほかに歌人としての逸話を多数残す。家集『定頼集』(『四条中納言集』とも)がある。後拾遺集初出。勅撰入集四十五首。中古三十六歌仙の一人。小倉百人一首にも歌をとられている。

梅の花にそへて、大弐三位に遣はしける

来ぬ人によそへて見つる梅の花散りなむ後のなぐさめぞなき(新古48)

【通釈】花の香に、いつまで待っても来ない人を偲びながら、我が家の梅を眺めていました。花が散ってしまったら、後はもう何も慰めがありません。

【校異】初句を「みぬ人に」とする本もある。

【補記】大弐三位の返しは「春ごとに心をしむる花の枝に誰(た)がなほざりの袖かふれつる」(大意:あなたの家の梅に毎春心を占められていたが、今年は誰かが袖を触れてしまったのか。私のように深い思い込みもなく、いい加減な気持で…)。

【主な派生歌】
来ぬ人によそへて待ちし夕べより月てふものは恨みそめてき(*後嵯峨院[続後撰])

春歌中に

梅の花をりける袖のうつり香にあやな昔の人ぞ恋しき(続後撰52)

【通釈】梅を手折った袖に、花の移り香がただよう――その薫りに、むしょうに昔の人が恋しくなるのだ。

【補記】「梅花香」という薫物があった。「昔の人」は恋人。

【他出】定頼集、万代集

随風尋花といへる心をよみ侍りける

吹く風をいとひもはてじ散りのこる花のしるべと今日はなりけり(続後撰119)

【通釈】吹く風を一方的に嫌がったりはするまい。今日は、散り残った花がどこにあるか、その場所を教えてくれる道案内になったのだ。

【語釈】◇いとひもはてじ 「はて」は動詞の連用形について、「…し切る」「最後まで…する」など、その所作を徹底する意になる。

【他出】定頼集、続詞花集、題林愚抄

【本歌】凡河内躬恒「古今和歌六帖」
吹く風をいとひもはてじ梅の花ちりくる時ぞ香はまさりける

大井河にてよみ侍りける

水もなく見えこそわたれ大井川きしの紅葉は雨とふれども(後拾遺365)

【通釈】大井川は、見渡す限り川面を紅葉に覆われて水がないように見えるよ。岸に生えている木々から、紅葉は雨のように降っているのに。

京都嵐山 大堰川
大井川 京都市右京区

【語釈】◇見えこそわたれ 見え渡ることよ。「わたる」は川の縁語。◇大井川 大堰川とも書く。桂川の上流、京都嵐山のあたりの流れを言う。紅葉の名所。

【補記】「水もなく」「雨とふれども」の対比に知的な面白みを狙っているが、それよりも「見えこそわたれ大井川」の大らかな調べが一首を佳詠とした。『定頼集』によれば、大井川に行って「紅葉」の題で詠んだ歌。

【他出】定頼集、奥義抄、後六々撰、五代集歌枕、西行上人談抄

宇治にまかりて侍りける時、よめる

朝ぼらけ宇治の川霧たえだえにあらはれわたる瀬々の網代木(千載420)

【通釈】夜が白じらと明ける頃、宇治川に立ち籠めていた霧が切れ切れに晴れてきて――その絶え間から次第に姿をあらわしてゆく、浅瀬浅瀬の網代木よ。

【語釈】◇宇治 山城国宇治郡、今の京都府宇治市。水量豊かな宇治川が流れる風光明媚の地で、貴族の別荘地として栄えた。網代や鵜飼で名高く、また源氏物語宇治十帖の舞台となる。◇たえだえに (川霧が)時々絶えながら。とぎれとぎれに。◇瀬々の 浅瀬浅瀬に打ち渡した。◇網代木(あじろぎ) 秋から冬にかけて、鮎の幼魚などを捕るための仕掛け。網の代りに簀(す)を川にかけ渡したが、それを繋ぎとめる杭を網代木と言った。

【他出】定頼集、続詞花集、和漢兼作集、定家八代抄、百人一首、新時代不同歌合、歌枕名寄

【参考歌】柿本人麻呂「万葉集」「新古今集」
もののふのやそ宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも
  源経信母「後拾遺集」
明けぬるか川瀬の霧の絶え間よりをちかた人の袖の見ゆるは
(注:経信母の歌との先後関係は不明)

【主な派生歌】
夜をこめて朝たつ霧のひまひまにたえだえ見ゆる瀬田の長橋(藤原定家)
霧はるる浜名の橋のたえだえにあらはれわたる松のしき浪(藤原定家)
隔てつるまきのを山もたえだえに霞ながるる宇治の川なみ(源家長)
時雨れつる峰の村雲たえだえにあらはれわたる冬の夜の月(藤原信実)
朝ぼらけ浜名の橋はとだえして霞をわたる春の旅人(*衣笠家良[続後撰])
窓ちかきむかひの山に霧晴れてあらはれわたる檜原槙原(土御門院[玉葉])
日影さす嶺のかけ橋たえだえにあらはれわたる秋の夕霧(二条為氏)
たえだえにたなびく雲のあらはれてまがひもはてぬ山桜かな(中宮少将[新勅撰])
朝ぼらけ霧のはれまのたえだえに幾つらすぎぬ天つ雁がね(伏見院[風雅])
津の国の猪名野の霧のたえだえにあらはれやらぬ昆陽の松原(邦省親王[風雅])
たえだえにあまの家島あらはれて浦わの霧に浪のよるみゆ(正徹)
つつまれし野中の水のたえだえにかげあらはれてのこる冬草(烏丸光弘)
つつみこし思ひの霧のたえだえに身をうぢ川の瀬瀬の網代木(後水尾院)

題しらず

沖つ風夜半(よは)に吹くらし難波潟あかつきかけて波ぞ寄すなる(新古1597)

【通釈】夜更け、沖からの風が吹き始めたらしい。難波潟の岸には、夜明けまでずっと波の寄せる音が聞える。

【語釈】◇難波潟 かつて大阪湾は、今の大阪平野にまで入り込んでいて、大阪市中心部あたりは、水深の浅い海や、葦におおわれた低湿地によって占められていた。その辺を難波潟とか難波江とか呼んだ。

【補記】『定頼集』(流布本)は詞書を「しほゆにおはして、あか月がたに浪のたてば」とあり、難波の塩湯(海水を湧かした湯、または塩分を含んだ温泉)へ療養に出掛けた際の歌らしい。

【他出】定頼集、玄々集、続詞花集、定家八代抄、新時代不同歌合、別本和漢兼作集

【主な派生歌】
おきつ風あかつきかけて笹島の磯こす波に千鳥鳴くなり(飛鳥井雅有)

日ごろ雨のふるに、人のもとにつかはしける

つれづれとながめのみするこの頃は空も人こそ恋しかるらし(風雅1224)

【通釈】手持ち無沙汰にじっと空を眺めてばかりいる今日この頃――こんな時節は、空の方も人が恋しいらしいですねえ。

【補記】毎日雨の降る頃、恋人のもとに贈った歌。「ながめ」は「眺め」「長雨」の掛詞。雨を空の涙と見なし、空も人を恋しがっているのだとした。風雅集巻十三、恋四巻頭歌。

【参考歌】和泉式部「和泉式部集」「玉葉集」
つれづれと空ぞみらるる思ふ人あまくだりこんものならなくに

長和五年四月、雨のいとのどかにふるに、大納言公任につかはしける

八重むぐらしげれる宿につれづれととふ人もなきながめをぞする(風雅1795)

【通釈】幾重にも葎(むぐら)が繁っている荒れた家で、気の紛れることもなく、訪れる人もない――そんな有様で、長雨を眺め、ぼんやり物思いに耽っています。

【補記】『定頼集』には長和五年四月二十七日と日付を記す。作者二十二歳の初夏、父の公任に贈った歌。「ながめ」に「長雨」を掛けている。風雅集巻第十六、雑歌上巻軸。

【他出】定頼集、万代集

【参考歌】藤原道信「後拾遺集」
つれづれと思へば長き春の日にたのむこととはながめをぞする
  恵慶法師「拾遺集」
八重葎しげれる宿のさびしきに人こそ見えね秋は来にけり

橘則光みちのくににくだり侍りけるに、いひつかはしける

かりそめの別れと思へど白河のせきとどめぬは涙なりけり(後拾遺477)

【通釈】ほんの一時の別れとは思うけれども、白河の関を越えてゆくあなたを思うと、堰きとめることができないのは涙でしたよ。

【語釈】◇橘則光 敏政の子。寛仁三年(1019)七月頃、陸奥守に在任した(小右記)。◇白河のせき 歌枕紀行陸奥国参照。◇せきとどめぬ 「せき」は「堰き」「関」の掛詞。

【他出】定頼集、新撰朗詠集、五代集歌枕、宝物集、歌枕名寄


最終更新日:平成17年04月23日