八代将軍徳川吉宗の次男として、正徳五年十二月二十七日江戸赤坂に生まれる。徳川御三卿田安家の祖。松平定信の父。
幼名小次郎。享保十四年(1729)元服して宗武を名乗った。同十六年、田安門内に邸を賜わり、以後田安宗武と称す。延享二年(1745)、兄家重が将軍職を継ぐに及び、摂津・和泉ほか四十万石を与えられる。明和五年(1768)、権中納言。明和八年六月四日、田安邸に薨ず。五十七歳。法号は悠然院殿。上野の寛永寺凌雲院に葬られた。
少年期より和歌に親しみ、享保十三年(1728)江戸に出て来た荷田在満(かだのありまろ)に古学・歌道を学ぶ。寛保二年(1742)、在満に歌道書の執筆を依嘱し、在満は『国歌八論』を著して応えたが、宗武はこれに対し『国歌八論余言』を書いて反論する(この論争にはのち賀茂真淵らも参加し、三年にわたって続けられた)。同じ頃在満の別の著作が幕府の忌避に触れたこともあり、在満は田安家の仕官を辞し、代りに賀茂真淵を推薦した。以後、真淵を師とし、宝暦十年(1760)まで重用した。
宗武の詠風ははじめ堂上風の伝統主義的なものであったが、次第に万葉集の影響を深く受け、清新な発想を古風な調べにのせた独自の歌風を築いた。死後、侍臣らが編纂した家集『天降言(あもりごと)』に和歌三百余首が収められている。また、これに紀行文や和歌を補った『悠然院様御詠草』がある。歌論には『国歌八論余言』『歌体約言』などがある。儒学のほか、古楽・有職故実などにも精通し、服飾や雅楽の研究書など、多数の著作がある。
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「彼は老いるまで、少年の持つ驚異の情を失はなかつた。それが歌のうちに際やかに出てゐるものがある。又、すべての歌のうしろに流れてもゐる。彼は平生見なれてゐたと思はれるものを、或時には初めて見るもののやうに見ることが出来た。そこには軽いながら驚異の情がある。そしてその情をとほしてその物を詠み出しえた。魅力とはそれである。大体は写生であるが、単なる写生とはならず、一種の気分の添つたものとなつてゐる。(中略)彼の歌を読んで、生れ来つた歌人だと思はせられるのは、主としてこの驚異の情をもつてゐるところである。彼ほどに持つてゐたものは中世の西行法師くらゐのもので、他にはちよつと見当らない。しかもその驚異の情が、実際に即してあらはれてゐるところは、江戸時代でなくては出来ないことだと思はれる」(窪田空穂『近世和歌研究』)。
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以下には『悠然院様御詠草』(日本古典全書・日本古典文学大系九十三・新編国歌大観九などに所収)より五十余首を抜萃した。『天降言』(近代名家歌選・和文和歌集上・校注国歌大系十五などに所収)も参考とした。
少年期 3首 壮年期 14首 堀河百首題 28首 晩年期 7首 計52首
平尾てふ所にて夕照をよめる
乱れ咲くちぐさの花の色まして帰るさ惜しき野路の夕ばえ
【通釈】咲き乱れるさまざまの花の色がいっそう美しく映えて、帰り道を過ぎるのが惜しい、野道の夕焼けよ。
【語釈】◇平尾 今の東京都港区広尾。鷹狩などの行われた丘陵地で、秋の草花の名所だったという。
【補記】『悠然院様御詠草』に「御としいまだわかくおはしましし御ころほひによませたまひ」と註記する歌群にある。作者十代の作であろう。
三月の末の比、上の御前の遣水の辺にて曲水の宴の有りけるを聞きて
いつしかと春も暮れゆく水の
【通釈】いつの間にか春も暮れてゆく水の面に、散って浮かんでいる花の盃よ。
【語釈】◇曲水の宴 陰暦三月三日、宮中や貴族の庭園で行なわれた宴。曲溝に引き入れた水の流れに酒杯を浮かべ、詩歌を詠じた。◇花のさかづき 曲水の宴に用いられる盃を言う常套表現。花の縁で「散りて」と言っている。
【補記】日本古典全書補注は「享保十七年か」とし、とすれば作者十八歳の作。若年期の宗武は堂上派の歌風に染まっており、酒杯を花びらに見立てた掲出歌も例外でないが、鷹揚として勁い調べには後年の風格がうかがわれる。
赤羽橋帰帆
追風に力もいれで舟人の帆かけてかへるけしきのどけき
【通釈】追い風が吹くので、船を漕ぐ力も入れずに、船頭が帆をあげて帰って来る様子はのどかである。
【語釈】◇赤羽橋 東京都港区。いま同名の橋は古川に架かっている。
【補記】『悠然院様御詠草』の註記によれば「目黒八景」の題で詠んだ八首の一。「いまだ若うおはしましし御ころほひの御歌なり」とあり、十代後半の作であろう。
七月十五日(二首)
永き代の橋を行きかふ諸人はおのづからにや姿ゆたけき
【通釈】永き代という名の橋を往き交う人々は、自然と姿も悠然として見えるのだろうか。
【語釈】◇永き代の橋 隅田川の永代橋。
【補記】例年七月十五日に深川で漁をする慣わしがあったらしい。別の年と思われるが、同じ七月十五日に詠んだ歌には「君が為すなどりせむと漕ぎつ行けば万代(よろづよ)の橋のまづぞ見えぬる」「深川を漕出でて見れば入日さし富士の高根のさやけく見ゆかも」など佳詠が多い。制作年は不詳であるが、御集の排列からすると作者二十代の作と思われる。以下三首も同じ頃のもの。
【通釈】洲崎あたりに漕ぎ出して見ると、安房の山が雲のようになって遥かに見えるよ。
【語釈】◇洲崎 今の東京都江東区木場六丁目から東陽二丁目あたり。洲崎弁天があり、江戸庶民の遊覧の地だった。◇安房 旧国名。今の千葉県南部。◇雲居なしつつ 雲のように霞んでいるさまをこう言ったか。万葉集では「雲ゐなす」は「心」にかかる枕詞として見える。
佃島の蘆辺に立ちて月見けるに
むら松の
【通釈】松林の背後を昇る月の半ばを隠している雲――今宵はその雲さえ美しい。
【語釈】◇月よみ 月の古称。奈良時代以前は「つくよみ」と言ったが、平安時代以降「つきよみ」に変わった。◇うまし 満ち足りてここちよい。美しく心惹かれる。「うれし」とする本もある。
風もよくかなひにけむ、真帆引きぬる舟の澳辺に見えつるが、やや近づくまにまに月影のいとおもしろくさし出でたるを見て
【通釈】真帆を引いてこちらへ寄せて来る船に月が照っている。愉快であろうよ、その船人は。
【語釈】◇真帆 「片帆」と対になる語で、いっぱいに広げた状態の帆。
【鑑賞】宗武の万葉調の代表作とされる歌。「朗々無碍、毫末も小細工のない、いはゆる丈高い大きな歌柄」(斎藤茂吉「天降言抄」)。「平意淡懐如何にも無造作に詠み下したるに却て清興流るる如き感あらずや、感想極めて自然にして叙辞又少しも巧(たく)むところ無し、この一首に依ても猶作者の人となりの、如何にも朗かにしてくどくどしからざるを知るべし」(伊藤左千夫「田安宗武の歌と僧良寛の歌」)。
八月十五夜
あま空のはれ間もあれな我が恋ふる今宵の月をはつかにも見む
【通釈】雨空の晴れる合間があってほしい。恋しく思う今夜の月をわずかにでも見よう。
【補記】『悠然院様御詠草』には「御年たけおはせし御ころほひの御うた也」と註記された歌群にある。集の排列からすると延享元年(1744)前後、作者三十歳頃の作か。
延享元年八月十五夜、盃たびたびめぐり、祐賢拍子、正度笙のふえ、正縄横笛、長頼
いそのかみ
【通釈】唐渡来の古い楽器を演奏して遊ぶ今夜の楽しいことよ。
【語釈】◇祐賢 宗武の寵臣。以下、正度ら三人も同じ。◇いそのかみ 「古(ふ)り」の枕詞。◇笛竹 竹製の笛のことであるが、ここでは楽器全般を意味する。
同じ夜
かくしあれと
【通釈】このようにあれと、去年から願い続けていた私の心は、今夜の月と共に晴々としているよ。
【補記】以上二首は延享元年(1744)、作者三十歳の作。
旅のこころを
夕づく日はや隠ろひて旅衣ころも手さむく秋風ぞふく
【通釈】夕日は早くも隠れて、旅衣の袖も寒く秋風が吹くのだ。
【補記】旅情、それも最も情趣に富む秋の旅情を端的に歌って余すところがない。『悠然院様御詠草』の排列からすると延享元年(1744)の作。作者三十歳。
【参考歌】作者未詳「万葉集」
秋田刈る仮庵を作り吾が居れば衣手寒く露ぞ置きにける
仕ふる人の萩の花末になりけるをと申しければ
昨日まで盛りを見むと思ひつる萩の花ちれり今日の嵐に
【通釈】昨日まで、盛りを見ようと思って楽しみにしていた萩が、今日突然やってきた嵐に、散ってしまっていた。
【補記】万葉集に似た歌はあるが(【参考歌】参照)意図して万葉に倣ったという感じはない。日常的な感懐をごく自然に詠み流しているようで、その実一首のつくりのきわめて周到であることは、万葉集の歌と比べてみてもすぐ分かる。『悠然院様御詠草』の排列からすると延享元年(1744)の作。作者三十歳。
【参考歌】秦田麻呂「万葉集」
帰り来て見むと思ひし我が宿の秋萩すすき散りにけむかも
賀茂真淵「賀茂翁家集」
すがのねの永き春日に袖たれて見むと思ひし花ちりにけり
つかふる人の、萩の下にただある石をと申しければ
萩咲ける山辺の石は心ありと人や見るらむ仮に置きしを
【通釈】萩の咲いている山辺の石は、心があると人は見るだろうか。私はかりそめに置いたばかりだが。
【語釈】◇山辺 自邸の庭を言っているのだろう。◇心あり 「風情、趣がある」「特別な考えがある」「風流を解する心がある」など様々なニュアンスを持つ。
【補記】側近の家臣より「萩の下にただある石」を題に詠むよう勧められて作ったという歌。面白いアドバイスをする歌好きの家臣がいたものらしい。「かういふ稍(やや)理窟的な歌でも、宗武が詠むと、厭味のない、雅味のあるものとなるのが不思議である」(茂吉前掲書)。これも延享元年(1744)の作と推察される。
【参考歌】よみ人しらず「古今集」
たえずゆく飛鳥の河のよどみなば心あるとや人のおもはむ
紀貫之「貫之集」「玉葉集」
心ありて植ゑたるやどの花なれば千年うつらぬ色にぞありける
雪のいたう降り積りぬる夕べ、酒飲みつつ庭のさま見侍りけるに、よめりける
酒のみて見ればこそあれこの夕べ雪ふみ分けて往き交ふ人は
【通釈】私は酒を飲んで庭など眺めているからこそ楽しいのだが、この夕暮、雪を踏み分けて往き交う人の思いはどうであろうか。
【補記】『悠然院様御詠草』には「御年たけおはせし御ころほひの御うた也」、『天降言』には「享保より宝暦の頃までの御作なり」と註記された歌群にある。御集の排列からすると延享元年(1744)前後の作か。作者三十歳頃。
つかふる人の含雪亭をと申しければ
富士の山見むとし
【通釈】富士山を眺めようと願って山の上に作った庵に、入日の射しているのが見える。
【語釈】◇含雪亭 太田道灌が江戸城の西端に設けた亭がこの名であったらしい(江戸名所図会)。富士山の眺望が素晴らしかったという。
【補記】含雪亭を題に詠むよう、側近の家人に勧められて作った歌。『悠然院様御詠草』の排列によれば延享元年(1744)、作者三十歳。
【鑑賞】「いろいろ云はずにただ、『入日さす見ゆ』とだけ云つたのが宗武的である。『山のべに作りし庵に』から直ぐ、『入日さす見ゆ』と続けたのはいかにも旨い。この結句があるために、色彩感も出て来、透明のやうで、重厚となり、充実して来た。どうもこの作者は偉いところがある」(茂吉前掲書)。
九十の賀し侍りける人をほぎて
吾や
【通釈】私や妻や子等はあなたにあやかろう。あなたはさらに長生きして、千歳の松にあやかれよ。
【語釈】◇あえぬべし きっとあやかろう。動詞「あゆ」は「あやかる」「似る」意。
【補記】家臣の九十歳の祝賀に詠んだ歌。「おなじ賀歌でもただの形式的ではなく、その語気に臣下をいつくしむところがあふれ出て居つてまことに好い」(茂吉前掲書)。御集の排列からすると寛保三年(1743)以後の作。
学ばざる人を憂へてよめる
学ばでもあるべくあるは
【通釈】学ばなくてもよい人は、生まれながらの聖人でいらっしゃるけれども、その聖人でさえなお学ぶのだ。
【補記】論語巻十五の「子曰く、吾嘗て終日食はず、終夜寝ねず、以て思へり、益なし、学ぶに如(し)かざる也」を踏まえるか。作者の思想の根幹には儒学があった。「かういふ思想内容を豁達(くわつたつ)な古調で運んで行った手際は実に驚くべきものがある」(茂吉前掲書)。同想の歌に「書(ふみ)も読まで遊びわたるは網の中にあつまる魚の楽しむがごと」がある。
【補記】『悠然院様御詠草』には「御年たけおはせし御ころほひの御うた也」と註記された歌群にある。三十代か四十代の作であろう。
残雪
【通釈】去年降った時はそうとも思わなかったが、年を越えて青みの増さった岩間の雪が清らかに見えるものだ。
【補記】題「残雪」は春になっても消えずに残る雪を詠む。常識的には純白と見なされる雪を「青みます」と見るところなど、題詠でありながら実感に即して清新。長治二年(1105)頃に奏覧された史上最初の応製百首和歌である「堀河百首」の題に従って詠まれたもので、『悠然院様御詠草』の註記には宝暦末頃の作とあり、またこの百首題のうち「四十余り七つ経にける我が年をのみ」と自らの年齡を四十七歳とする歌があることから、宝暦十二年(1762)頃に成ったものと思われる。
春雨
春雨は音しづけしも
【通釈】春雨は音静かに降ることよ。愛しい人の家に行って、語り合い、今日一日を過ごそう。
【語釈】◇い行き 「い」は接頭語で、特に意味はないらしい。万葉集によく見える語。
【補記】「妹が家に」「い行き」「この日暮らさむ」など万葉ぶりの趣で統一している。
【参考歌】作者未詳「万葉集」
ひさかたの雨も降らぬか雨つつみ君にたぐひてこの日暮らさむ
帰雁(二首)
さざなみの比良の山べに花咲けば
【通釈】比良の山に花が咲いたので、堅田に群れていた雁も帰ってゆくのであるよ。
【語釈】◇さざなみの 「比良」にかかる枕詞。◇比良(ひら)の山 琵琶湖西岸の山。武奈ヶ岳を主峰とする連山で、冬には雪を被る高嶺として詠まれる。「比良の暮雪」は近江八景の一つ。桜・紅葉の名所でもある。◇堅田 大津市堅田。琵琶湖が最も狭くなったところの西岸で、古来漁師町として栄えた。「堅田の落雁」は近江八景の一つ。◇雁かへるなり 「雁かへるなり」「千鳥啼くなり」などと万葉集・王朝和歌に用いられた「なり」はいわゆる伝聞推定の助動詞で、視覚以外の感覚に基づいた判断をあらわすが、江戸時代頃には「なり」の本来の意味が分らなくなっていて、詠嘆の意に解したり、断定の「なり」と混同したりしていたようである。
【補記】比良の桜を詠んで一見王朝風の題詠であるが、伊藤左千夫が指摘するように(「田安宗武の歌と僧良寛の歌」)、「堅田に群れし」という「僅かなる写実的筆法」によって一首に「生気」を与えている。
【参考歌】「万葉集」槐本歌一首
ささなみの比良山風の海吹けば釣する海人の袖かへる見ゆ
霞わけて雁かへる見ゆ行先の遥けきもへばあはれむ吾は
【通釈】大空の霞を分けて雁の帰ってゆくのが見える。行き先の遥かなことを思えば哀れに思うよ、私は。
【語釈】◇もへば 思へば。
【補記】結句で倒置して「われは」と結ぶのは、柿本人麻呂の「をとめらが袖ふる山の瑞垣の久しき時ゆ思ひき我は」など、万葉集によく見える語法。
山吹
やましろの井手の玉川みづ清みさやにうつろふ山吹の花
【通釈】山城の井手の玉川の水が清らかなので、さやかに映じている山吹の花よ。
山吹の花 |
【語釈】◇やましろ 山城国。今の京都府南部。古くは山背とも書く。◇井手 山城の歌枕。京都府綴喜郡井手町。木津川に注ぐ玉川が流れる。橘諸兄がこの地に別荘を構え、山吹の花を植えたことから、山吹の名所となったと伝わる。◇さやにうつろふ さやかに影が映っている。
【参考歌】厚見王「万葉集」
かはづ鳴く神奈備河に影見えて今か咲くらむ山吹の花
葵
何ゆゑと事はしらぬを
【通釈】いかなる由来があるのかは知らないけれども、葵草の葉を、賀茂祭なので私も挿頭にした。
葵草(フタバアオイ) |
【語釈】◇葵ぐさ ウマノスズクサ科のフタバアオイ。ハート型の青々とした葉をもつ。葵祭(下鴨神社 上賀茂神社の例祭)に おいて衣装や車の飾りに用いられた。
【補記】『天降言』は結句「吾ぞかざせる」とする。
【参考歌】作者未詳「万葉集」
いにしへのことは知らぬを我見ても久しくなりぬ天の香具山
杜若
かきつばた咲くなる池に風吹けば濃き紫にさざ波ぞよる
【通釈】杜若が咲いている池に風が吹くと、濃い紫に細波が寄る。
【語釈】◇咲くなる 古典文法に従えば「咲くという」「咲くらしい」などの意になるが、ここは眼前の景と見るほかなく、助動詞「なり」の誤用である。当時は国学者でさえ「なり」の本来の意味が分らなくなっていたので、無理もないことであった。
【参考歌】源師時「堀河百首」
むらさきの色にぞ見ゆる杜若池のぬなはの這ひかかりつつ
蚊遣火
夕日影にほへる雲のうつろへば蚊遣火くゆる山もとの里
【通釈】夕日を色美しく反映している雲が去って行くと、やがて蚊遣火の煙が立つ、山の麓の里よ。
【語釈】◇夕日影にほへる雲 「にほふ」は「色が美しく映える」意。
【鑑賞】「蚊遣火」の匂いもほのかに立ち上るかのよう。「淡々としてゐて、なほ滋味ゆたかなものがある。…上の句、万葉調でない如くにして、よくよく味はへばやはり万葉調である」(茂吉前掲書)。
蓮
【通釈】蓮が生えている池の水際に佇むと、衣にも花の色を反映させて清らかな風が吹く。
【語釈】◇衣にほはし 万葉集に先蹤がある(【参考歌】参照)。万葉歌では水に濡れて衣の色が鮮やかになる意であろうが、掲出歌では蓮の花を吹いた風が衣にも吹き付け、翻る美しい衣服の色が花の色と照応するといった意味であろう。
【補記】同題の「しじに生ふる池の蓮の花みれば風も吹かなくに心すずしも」も捨て難い。
【参考歌】大伴家持「万葉集」
紅の衣にほはし辟田河絶ゆることなく吾かへりみむ
泉
あしびきの岩間をしぬぎ湧く水の落ちたぎち行く風のすずしさ
【通釈】岩間を通り抜けて湧き出す水が、落下して激しく沸き返る――そこから吹いて来る風の涼しいことよ。
【語釈】◇あしびきの 本来は山の枕詞であるが、ここでは「山」の意を響かせつつ、「岩」の枕詞として用いているらしい。◇岩間をしぬぎ 岩の狭い隙間を通り抜けて。
【参考歌】作者未詳「万葉集」
落ちたぎち流るる水の岩に触れ淀める淀に月の影見ゆ
立秋
琴の緒をさ渡る風の響かすに秋さり来ぬと今はしるしも
【通釈】琴の弦を、吹き渡る風が響かせる――その音に、秋がやって来たと今はっきり知られるのだ。
【語釈】◇琴の緒 琴の弦。◇しるし はっきりしている。明瞭に感じられる。
【参考歌】壬生忠岑「古今集」
秋風にかきなす琴の声にさへはかなく人の恋しかるらむ
女郎花
わが恋ふる妹が垣根の
女郎花の花 |
【通釈】恋しい人の家の垣根に咲いている、おみなえしの花――白露が重くて傾くさまも心惹かれる。
【語釈】◇女郎花 オミナエシ科の多年草。秋の七草の一つ。野原や川原に生息し、晩夏から秋にかけて黄色い花が咲く。「をみな」は古くは美女を意味し、和歌では佳人の風情を持つ花として詠まれることが多く、掲出歌もその点古歌を踏襲している。
【参考歌】作者不詳「万葉集」巻十一
山ぢさの白露おもみうらぶれて心も深くあが恋やまず
み吉野のとつ宮どころとめくればそことも知らに薄生ひにけり
【通釈】吉野の離宮跡をたずねて来ると、どこが其処とも分らない程に薄が生い茂っているのだった。
【語釈】◇とつ宮どころ 離宮のあったところ。◇とめくれば たずねて来ると。◇そことも知らに どこが離宮跡か分からずに。
【鑑賞】「卿の好みは最も自然といふ点に存したるものの如く、此吉野の歌の如きも、猶眼前の薄を主として言挙げして、其懐古の感慨は却て幽かに想底に潜めたる如き以て其作意を窺ふに足る、一見極めて平凡なるも用意根柢に存することを忘るべからず」(伊藤左千夫「田安宗武の歌と僧良寛の歌」)。
【参考歌】田辺福麻呂「万葉集」
たちかはり古き都となりぬれば道の芝草長く生ひにけり
武蔵野を人は広しとふ吾はただ
【通釈】武蔵野を人々は広いと言う。私はただ薄を分け過ぎてゆく道と思っただけである。
【鑑賞】「武蔵野の歌の如き、大抵の歌人ならば、徒に空漠たる想像に耽り、とりとめなき形容をヒネクルなれど、卿は直ちに眼前の事実を主とし、少しも実際を離れざる感懐を叙して暗に他を冷笑せるかの趣きある、卿の見識高く時流を抜けるを知るに足れり」(左千夫前掲書)。「この歌もなかなか面白い、優れた歌である。かういふ自在境には至りがたいといふことを感じせしめる。むしろ思想的、哲人的とも謂ふべき、極めて暗指(あんじ)に富んだものである」(茂吉前掲書)。
【参考歌】作者不詳「万葉集」
人皆は萩を秋と云ふよし我は尾花が末を秋とは言はむ
朝顔(二首)
【通釈】妻と一緒に寝ながら、毎朝珍しがって見た――その朝顔の花の良さよ。
あした昇り夕べまかづる宮人の家によろしき朝がほの花
【通釈】朝には勤めに出かけ、夕には退出する大宮人の家に、いかにも似つかわしい朝顔の花よ。
【鑑賞】「朝顔歌中の神品とや云はまし。清麗にして優艷なる朝顔を配するに、世は泰平にして朝夕気安く宮仕へする宮人の家を以てしたる、真に説明し難き美妙の感じなり。」(左千夫前掲書)。
荻はそもいかなる気よりなり出でしそよげる音の悲しくあるは
【通釈】荻はそもそもどのような自然の精気から生まれ出たのだろう。風にそよいでいる音がこれほど悲しげなのは。
雁
春さればきそひていにし雁がねは心ぼそげに啼きて来にけり
【通釈】春になると競うように去ってしまった雁は、秋になって心細そうに鳴いてやって来た。
【参考歌】源師頼「堀河百首」
おほ原や小野のすみがま雪ふりて心ぼそげに立つけぶりかな
月
香久山に生ふる真さかき枝さやに冴えたる月は神も
【通釈】香具山に生える榊の枝をさやかに照らして澄んでいる月――この月は神も賞美していることだろう。
【語釈】◇真さかき 榊。マは接頭語。常緑樹の総称、特に神事に用いられた樹。
紅葉
【通釈】東の山の紅葉は、夕日に映えて、一層紅く、美しいことよ。
【語釈】◇いつくしき うつくしきに同じ。「おごそかな」「いかめしい」の意もあるが、ここは単純に「美しい」意と見たい。
【鑑賞】「いはゆる歌よみなる者をしてこの歌を評せしめば、子供のつくりたるやうなりとや笑ふらむ。『いよいよ赤くいつくしきかも』などいへる子供の言葉に似たるだけ面白味あり。この平凡及ぶべからず」(正岡子規「歌話」)。「平凡なりと云はば云へ、兔に角眼(まなこ)の実際の好景を見て其感懐を歌へるものの如く見ゆるは、詩想醇正にして叙辞又甚だ自然なるが故なり、題詠にして斯の如くなるは其用意の尋常ならざるを見る」(左千夫前掲書)。
神楽
【通釈】天がいちめん曇り、雪がはらはら散るけれども、諸人が星の歌を歌う声は冴え冴えとしているよ。
【語釈】◇星うたふ 神楽歌「明星(あけぼし)」を歌う。
逢不逢恋
かへらむと吾がせし時に我が紐をむすびし姿いつか忘れむ
【通釈】帰ろうと私がした時に、私の衣の紐を結んでくれたあの人の姿――あの姿をいつか忘れたりしようか。
【参考歌】作者不詳「万葉集」
笠無みと人には言ひて雨つつみ留まりし君が姿し思ほゆ
語らむと思ひしことの残れれば今日をいかでか吾暮らしてむ
【通釈】話そうと思っていたことがまだ残っているので、今日一日をどうやって私は過ごしやればよいのだろうか。
【補記】言いたかったことを言いそびれたまま、朝、女の家から帰って来た。その悔いを抱えて過ごす一日の遣る瀬なさ。夜になれば再び逢えるひとではあるが。
【参考歌】人麻呂之歌集出「万葉集」
我が背子が朝明の姿よく見ずて今日のあひだを恋ひ暮らすかも
旅恋(二首)
常に見てやすらにありし吾妹子を旅をしすれば恋ひわぶるかも
【通釈】常日頃見て心に安らぎを感じていた我が妻を、今は旅をしているので甚だ恋しがり疲れ果てている。
【参考歌】有間皇子「万葉集」
家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
作者未詳「万葉集」
草枕旅にしをれば刈薦の乱れて妹に恋ひぬ日はなし
大君のみことかしこみうつくしき妹を振り捨て旅する我は
【通釈】大君の御命令を謹んで承り、いとしい妻を振り捨てて私は旅をしているのだ。
【語釈】◇うつくしき 愛しい。
【補記】万葉集防人歌「今日よりは顧みなくて大君のしこの御楯と出で立つ我は」などを思わせる力強い調べ。
恨
相おもはぬ人は恨みじ
【通釈】片思いの相手を恨みはすまい。恨むなら、四十七を経た我が年齢をのみ…。
【参考歌】木下長嘯子「挙白集」
四十あまりななとせへぬる雲の上にながめし月も夢の秋風
暁
ひむがしに向へる家は朝あけに明け行く空を見つつ楽しき
【通釈】東の方に向いている家は、早朝、明けて行く空をいつも見て楽しい。
山
二つなき富士の高根のあやしかも甲斐にも在りとふ駿河にも在りとふ
【通釈】二つとない富士山の、不思議なことよ、甲斐の国にもあるという。駿河の国にもあるという。
【参考歌】高橋虫麻呂「万葉集」
なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 不尽の高嶺は(後略)
去年植ゑし柳のいとよくしげれるを見てよめる
植ゑし時は枯れぬべく見えし我が庭のしだり柳のめでたくなりぬ
【通釈】植えた時は枯れてしまいそうに見えた我が家の庭の枝垂れ柳が、立派に育ったものだ。
【参考歌】安倍広庭「万葉集」
去年(こぞ)の春いこじて植ゑし我が屋戸の若木の梅は花咲きにけり
【補記】第二句「枯るべく見えし」とする本もある。『悠然院様御詠草』の排列からすると宝暦から明和にかけての作。作者四十代か五十代。
園の柳を
いにしへの慕はしきかもかづらせでただに見むかもこれの柳を
【通釈】昔が慕わしいことよ。今の世の人は、鬘(かずら)にもしないで、ただ見ているのだろうか、この素晴らしい柳を。
【補記】下記参考歌に見られるように、春先の柳は好んで髪飾りとされた。そうした往古の風習を慕っているのである。これも宝暦から明和にかけての作。
【参考歌】土氏百村「万葉集」
梅の花咲きたる園の青柳をかづらにしつつ遊び暮らさな
作者不詳「万葉集」
ももしきの大宮びとのかづらけるしだり柳は見れど飽かぬかも
孔雀
たまどりの
【通釈】孔雀が長い垂れ尾をひらき立て、歩き巡る姿はいくら見ても飽きないのだった。
【語釈】◇たまどり 他の用例を知らないが、鳥の中でも殊に美しい鳥として、孔雀のことをこう呼んだものらしい。◇見れどあかずけり 万葉集に見える(下記参考歌)。因みに宗武には同じの結句を用いた歌がもう一首あり、「もののふのかぶとに立てる鍬形のながめがしはは見れどあかずけり」。
【補記】おおよそ年代順に歌を排した『悠然院様御詠草』の末尾近い題詠歌群にあり、「宝暦より已来よみおはせし御うた也」と註記する。宝暦末に成った「堀河百首題」に引き続いて詠まれた百首歌であろうか(火事で焼失したため七十三首しか残っていないと註記にある)。珍しい鳥や珍しい花を主題として自由奔放に詠んでいる。
【参考歌】田辺福麻呂「万葉集」
おろかにぞ我は思ひし乎布の浦の荒磯のめぐり見れど飽かずけり
乞雨鳥
今朝いたく
【通釈】今朝はひどく雨乞い鳥が鳴いていたぞ。早乙女よ、準備して早苗を取りなさい。
【語釈】◇雨乞鳥 アカショウビン(赤翡翠)のことかという。カワセミの一種で、日本には夏鳥として渡来する。梅雨時によく鳴く声は「キョロロ」と聞きなされる。◇早乙女 田植えの少女。
【補記】前の歌と同じく『悠然院様御詠草』の末尾近い題詠歌群にある。
明和六年九月十三夜
青雲の白肩の津は見ざれども今宵の月に思ほゆるかも
【通釈】神武天皇が停泊したという青雲の白肩の港は見ていないけれども、今夜の月に偲ばれることよ。
【語釈】◇青雲の白肩の津 河内国草香邑青雲の白肩の津。神武天皇東征の際の最初の上陸地として記紀に見える。「故、その国より上りいでましし時、浪速の渡を経て、青雲の白肩の津に泊てたまひき」(古事記中つ巻)。
【補記】明和六年(1769)、作者五十五歳。死去二年前の作。
【鑑賞】「九月十三夜の明月に対し、肇国(はつくに)の古へに思を馳せた、荘厳雄大きはまりなき歌である」(茂吉前掲書)。
中川を過ぐるほど
秋深き龍田の川はかくぞあらむ入日さす雲のうつる川づら
【通釈】秋も深まった龍田川はこのようであるのだろう。入日の射す雲が映っている川面よ。
【語釈】◇中川 江東区葛西。「古利根川を承け、猿又以下を専ら中川といふ」(岩波古典大系本)。◇龍田の川 大和の歌枕。古今集以来の紅葉の名所。
【補記】次の一首と共に『悠然院様御詠草』『天降言』の巻末に置かれている。最晩年、おそらくは死去前年の作と思われる。
【参考歌】在原業平「古今集」
ちはやぶる神世もきかず龍田河唐紅に水くくるとは
帰さなれど景色いとことに見えければ
昼行きし川にしあれど夕されば静けくゆたに新しきごと
【通釈】昼に通った川であるけれども、夕方になると静かで、初めて見るごとく新鮮である。
【鑑賞】「『新しきごと』の一句は千鈞の力があり、宗武の感覚のいかに常に新しく動いて居るかを立証するものである」(茂吉前掲書)。
更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年07月10日