九条行家 くじょうゆきいえ 貞応二〜建治元(1223-1275)

歌道家六条藤家の裔(家号は九条)。正三位知家の息子。子に隆博がいる。
左兵衛佐・左京大夫を歴任し、建長七年(1255)、従三位に叙せられる。正元元年(1259)、正三位。その後侍従に任ぜられ、安藝権守を兼ねる。文永三年(1266)、右京大夫。同四年、従二位に至る。同十一年、子の隆博に官を譲って引退。その翌年、病により逝去した。五十三歳。
寛元元年(1243)、河合社歌合に出詠。同四年十二月、父知家が勧進し、反御子左派が結集した春日若宮社歌合に参加。その後、宝治二年(1248)の後嵯峨院百首、建長三年(1251)九月影供歌合、建長八年(1256)九月十三夜百首歌合、弘長元年(1261)の弘長百首などに出詠した。弘長二年(1262)には真観の推挙により『続古今集』の撰者に加えられる。以後も、文永二年(1265)七月七日「白河殿七百首」、同年八月十五夜歌合、同年九月十三夜亀山殿五首歌合などに出詠。文永末年頃、私撰集『人家和歌集』を編纂。家集があったらしいが(夫木和歌抄)、伝存しない。続後撰集初出。勅撰入集八十一首。『新時代不同歌合』に歌仙として撰入。

弘長元年百首歌たてまつりける時

ふりつもる上葉(うはば)の雪の夕ごりに氷りてかかる松の下露(新後拾遺548)

【通釈】草の上葉に降り積もった雪が、夕方、冷え込むにつれて凝(こご)った――その上に、松の木から凍った露が落ちる。

【補記】「夕ごり」は万葉集にも見える語で、霜や雪が夕方の冷え込みにより氷結したものを言う。

雑歌に

人とはぬ谷のとぼそのしづけきに雲こそかへれ夕暮の山(風雅1655)

【通釈】夕暮の山――人が訪れることなどない谷底への入口は、ひっそりと静かで――そこへは雲が帰ってゆくばかりだ。

【補記】谷底から湧いた雲が、夕暮、またそこへ帰ってゆく、と見た。「とぼそ」は扉・入口の意。

【主な派生歌】
人とはぬ夕の山の柴の庵雲こそかへれ峰のあらしに(定為)
暮れかかる山の下道わけ行けば雲こそかへれあふ人はなし(尊円[新続古今])


最終更新日:平成14年09月20日