◎上野修著『哲学者たちのワンダーランド』(NHKブックス)
フルタイトルは、『哲学者たちのワンダーランド[改版]――デカルト・スピノザ・ホッブズ・ライプニッツ』。「改版」とあるように、この本は二〇一三年に刊行された『哲学者たちのワンダーランド――様相の一七世紀』という本の復刊らしい。いいなあ、こういうのって増刷しなくてもおじぇじぇが余分にもらえるんだよね? わが訳書で、そういうのまだないから、うらやましいべさ。まあそれは冗談、もとい本気として、この選書本は(NHKブックスを選書と呼べるのかはようわからんが、似たようなもんでしょ?)、副題にあるとおりデカルト、スピノザ、ホッブズ、ライプニッツという四人の近代の哲学者を扱っている。でもここでは、スピノザに焦点を絞り、対比という意味で他にはデカルトのみを取り上げる。
その理由は次のとおり。これを書いている現在は、米大統領選が終わってトランプが次期米大統領に確定したところ。今回の大統領選でわかったことは、トランプがどうのこうの言う以前に(ちなみに私めは、当然のことだがトランプには優れた部分とヤバい部分があると考えている)、いわゆるリベラル陣営のものの見方がいかに幼稚でひどく、現実をまったく見通せていないかという点だった。ネットの情報によれば、ほぼすべてのメディアがハリス優位の予測をし、トランプの当選が確定してからも、今後日本はそれにどう対処すればよいのかといった肝心なことではなく、ただひたすらトランプやその支持者を叩くことに専念していた。これもネット情報に基づいて言えば、TVに出演しているコメンテーターのなかでトランプ勝利を正しく予測したのはジャーナリストの木村太郎ただ一人だったらしい(私めはテレビを観ないので、これがほんとうかどうかはよくわからんが、少なくとも各局がネット上にあげている切り取り動画を観た限りでは、トランプ勝利を予測した人は誰もいなかった)。他所の国の大統領選を扱っているにもかかわらず、この熱心な偏向報道ぶりには呆れを通り越して「あんたらバカなの?」と思ってしもた。もちろん予測だから当たりはずれはあってもおかしくはないが、あてずっぽうでも少なくとも半数のメディアは当てなければおかしいんだから、大手メディア全滅ではメディア全体が偏向していると言わざるを得ない。それならサッカーワールドカップのときのように、タコに予測させたほうがマシだったということになる。タコなら少なくとも半分の確率で当てるだろうからね。それどころか半分の確率であれば、ゴキブリやドブネズミやゾウリムシでも当てられる。ゴキブリやドブネズミやゾウリムシ未満のメディアに存在価値があるとはとても思えない。なお今回のこの件に関する詳細は前回取り上げた『国家の尊厳』の紹介ページの枠内で囲まれた部分を参照されたい。個人的には、そのような左に偏向したものの考え方が出現するに至った遠因はフランス革命にあると思っている。より具体的に言うと、その頃生まれた、思考を重視し直観を軽視するという傾向が、つまり思考と異なり直観(あるいは常識)には合理性が欠けていると見なす傾向が、フランス革命以後の、とりわけ自分をエリートだと思い込んでいる人々の思考様式を強く支配するようになり、その最終的な帰結が今回のような情けない事態を引き起こしたのだと思っている。それに対しスピノザは、彼らが軽視している直観を重視していたと見なすことができる。
この直観重視のスピノザの見方に関しては、以前に取り上げた吉田量彦著『スピノザ』で論じられていた。ただそのときは、内容をあまり詳しく紹介しなかったので、まずこの吉田氏の著書から関連する部分を少し詳しく引用しておく。ちなみにそれに関する論考は吉田氏の新書本の329頁から338頁にあるので、本を持っている人はその部分だけでも読み返してみることをお勧めする。吉田氏はまず、スピノザが三つの知を区分している点を次のように述べる。「直観の知がどういうものか説明するには、まずスピノザが『エチカ』第二部で分類している三つの知について触れておく必要があります(第二部定理四〇注解二)。三つの知とは、それぞれ「想像の知imaginatio」「理性の知ratio」「直観の知scientia intuitiva」です。(…)知の単位としての観念には、すでに見たように、十全なものとそうでないものがありました。あ[そ]れとこの知の分類がどう対応するのかというと、まず最初の「想像の知」が十全でない観念を含んだ知であり「誤りの唯一の原因」とされます。これに対し残りの二つ、理性の知と直観の知は、十全な観念のみで成り立っていて「必然的に正しい」と言われます(第二部定理四一)。¶ここで用語法に小さなずれが生じていることにお気づきでしょうか。理性の知と直観の知が「必然的に正しい」のに対し、想像の知の方は「必然的に誤っている」わけではなく、誤りの「原因」とされるに止まっています。どうしてこういうずれが生じるかというと、ここでの知の分類は、{結果的に合っているかどうかを基準にした分類ではなく/傍点}、知っている(と、本人は少なくとも思っている)ことをどう根拠づけようとしているかという、知の根拠づけの仕方の違いにもとづく分類だからです(同書329〜30頁)」。
実はこのようなスピノザの見方は、最近の認知科学、神経科学、進化科学の成果によっても裏づけられる。たとえば「想像の知」がなぜ誤りの原因になりうるかに関しては、認知科学者ヒューゴ・メルシエの著書『人は簡単には騙されない』で提起されている見方に照らして言えば、スピノザの言う「想像の知」は反省的に保たれているから、つまり、吉田氏の言い方を借りれば「本人は知っていると思っているという知の根拠づけ」に基づく知だからなのですね。メルシエ氏によれば、反省的に保たれている知は、人類が進化の過程で獲得してきた「開かれた警戒メカニズム」のチェックを受けない(「開かれた警戒メカニズム」の詳細についてはここでは述べないので、詳しく知りたい人はそちらを参照されたい)。そしてメルシエ氏は次のように述べる。「個人的な関与の少ない反省的信念に関しては、開かれた警戒メカニズムの出番はそれほどないと考えるべきだろう。(…)私の考えでは、デマのほとんどは、反省的な信念としてのみ保持される。なぜなら、直観的な信念として保持されれば、個人的な影響がはるかに大きくなるからだ(同書202頁)」。また次のようにある。「反省的な信念は推論メカニズムや行動を志向するメカニズムの一部と相互作用するにすぎない。ほとんど特定の心の部位に包摂され、直観的信念のように心の中を自由に徘徊することができない。さもなければ反省的信念は無数の災厄をもたらすだろう(同書233頁)」。反省的に保たれている知には、たとえばデマや宗教的なドグマがあげられるが、イデオロギーもその範疇に含まれる。だから「開かれた警戒メカニズム」のチェックを受けないイデオロギーは誤りの原因になりやすいのですね。今回の大統領選で左派メディアがこぞってハリスを推して、こぞって間違えたのは、まさに「開かれた警戒メカニズム」のチェックを受けない左派イデオロギーが、彼らが抱いているものの見方を歪曲しているからだと言える。呆れたことに、自分たちの予測が間違いだったことがわかっても、「ハリスはガラスの天井に突き当たった」「トランプ支持者は学歴が低い」などとして、こぞって言い訳にはげんでいる(これらの言い訳がいかに的外れかは、『国家の尊厳』を紹介したページの枠内部分に書いておいたのでそちらを参照されたい)。要するに、事実に基づいて判断する「開かれた警戒メカニズム」のチェックが作用しないがゆえに、彼らは、自分たちの考えを現実に合わせて改めるのではなく、逆に現実を左派イデオロギーに合わせようと必死なのですね。
また理性の知と直観の知がいかに相互作用して意識的経験が形作られるかについては、現在私めが翻訳中のジョセフ・ルドゥーの最新刊『The Four Realms of Existence: A New Theory of Being Human』を読むとある程度わかる。とりわけ意識的次元(彼の主張では、生物存在は生物的次元、神経生物的次元、認知的次元、意識的次元という四つの階層から構成される)の詳細を説明した第X部を参照されたい。ノエシス、オートノエシス、アノエシスに関するエンデル・タルヴィング(エストニア生まれのカナダ人心理学者で昨年お星さまになった)の考えに脳科学的な知見を加えたルドゥーの「意識の階層的マルチステート高次理論(multi-state hierarchical higher-order theory of consciousness)」はきわめて興味深い。長くなるのでここでその詳細を説明することはしないが、このルドゥーの最新刊は、来年前半に拙訳でみすず書房から刊行される予定なので、刊行された暁にはぜひぜひ買って読んでみてね。またこの本に関しては、別のトピックに関してあとでも取り上げる。
『スピノザ』に戻ると、では「直観の知」とはいったい何か? 吉田氏の見解では次のようにある。「{直ちに観取できる知/傍点}こそ、直観の知だというのです(同書331〜2頁)」。「え? 同語反復やん!」と思われそうなので、さらに続けましょう。「わたしたちは現実世界で出会うありとあらゆるものごとを、{その具体的な細部に関する理性的吟味を一切すっ飛ばし/傍点}、先ほどの根本原理[「あらゆるものは神のうちにあり、神を通して考えられる」とする原理]に直接照らして、神の何らかの様態、いわばXモードの神として、わたしたちの精神のうちに「直ちに」位置づけることができます。これこそスピノザが直観の知と呼ぶものに他ならない、とわたしは解釈しています(同書333頁)」。「神」という言葉が出てくるけど、スピノザの言う「神」は非常に特殊で(何しろスピノザには無神論者の疑いすらあるらしい)、それに関しては『哲学者たちのワンダーランド』の紹介に戻ってから説明する。個人的な見解を述べると、「神」とある箇所は、「進化によって人間が獲得し、遺伝子を介して受け継がれてきた形質」、したがっておおむね「直観」と読み換えてみればわかりやすくなる。
では、その直観の知がなぜ重要になるのか? 吉田氏はこの問いに対して次のように答えている。やや長くなるけど重要なので我慢してくださいませませ。「一つ目のポイントは、直観の知と理性の知が、同じく「必然的に正しい」と言われながらも、あくまで互いに別系列の知だということです。そして理性の知の構築プロセスと直接関係ない別系列の知であることにより、直観の知には理性の知にはない{独特の安定性/傍点}が期待できるのです。¶これまで何度か述べてきたように、理性の知は面倒なプロセスを経て初めて確立されるものでした。現実世界で接触する一回限り、一つ限りのものごとをまずは受け止め、またこの接触によって生じる一回限り、一つ限りの感情もまずは(受け身で)受け止め、それらを共通概念の下に置き直して整理するという、じつに息の長い作業がそこでは求められています。時にこうした整理に手間取り、整理が追いつかないこともあるからこそ、ひとはしばしば感情に流され、受け身で動いてしまうのです。¶しかしそういう時でも、つまり(まだ)理解が追いついていないものごとや、(まだ)整理がついていない感情に直面した時でも、別系列の知としての直観の知は健在なのです。目の前のこのものごとも、今直面しているこの感情も、他のすべてのものごとと同じように「神のうちにあり、神を通して考えられる」神の何らかの様態に他なりません。そしてこの「知」は、神である実体についての十全な観念にストレートに根拠づけられていますから、理性の知とは別系列でありながらも、やはり十全であり「必然的に正しい」知なのです。十全な知である以上、この知をふまえつつ当のものごとや感情と向き合うなら、その時そこには、ある種の能動性が生まれるはずです(同書334〜5頁)」。現代日本人の無神論者からすると、どうしても「神」という言葉に引っかかってしまうでしょうね。先にも述べたように、ここはとりあえず、それを「進化によって人間が獲得し、遺伝子を介して受け継がれてきた形質」や「常識」として個々人に備わっている能力と捉えればよい。現代の自称リベラルがかくも判断を誤った理由は、たとえばトランプ当選を知って生じた「整理がついていない感情に直面した」ときに、それに対する耐性のある直観の知ではなく、耐性のない想像の知に身を委ねてしまうからだと言えるかもしれない。では、直観の知に基づくような能力に合理的な判断が可能なのかという疑問が当然浮かんでくるでしょう。しかしこの問いにも最近の認知科学が正面から答えている。それによれば、直観は直感とは異なり(直観と直感の違いについては『あいまいさに耐える』[ページ内検索ワード:直感]を参照されたい)、合理性を備えているのですね。それについては長くなるのでここでは説明しないので、ヒューゴ・メルシエ&ダン・スペルベル著『The Enigma of Reason』などを参照されたい。
吉田氏はさらに、直観知が重要になる二つ目のポイントをあげている。次のようにある。「直観の知で重要な二つ目のポイントは、理性の知と直観の知がそれぞれ別系列であるからこそ、逆説的に両者の間に相互支援関係、相互バックアップの関係ができる可能性があることです。¶ものごとを理性の知のレベルで整理する作業が足踏みしている時でも、直観の知が別系列の知としてわたしたちの精神を安定させ、それによってわたしたちの理性的な問題処理活動を下支えしてくれることがある、そういう可能性については[一つ目の理由として]すでにお話ししました。実は、ちょうどそれと逆の働きも期待できるのです。(…)理性的探究が足踏みすれば直観の知が支え、理性の知が成功を重ねれば直観の知を支える。スピノザが『エチカ』で最終的に示そうとした人間の自由libertus humanaとは、この互いに独立した二系列の知が精神を車の車輪のように支え合い、現実世界に対する可能な限り能動的な向き合い方と「精神の安らぎaquiescentia mentis(第五部定理二七ほか)」を確保する、どうやらそういう境地であったと考えられます(同書336〜8頁)」。ここまで述べたことをまとめると、「直観の知」と「理性の知」は相互に支援し合いながら、現実世界に対する可能な限り能動的な向き合い方と「精神の安らぎ」をもたらしてくれるのに対し、「想像の知」は誤謬の原因になりやすいということになる。ちなみに、この「精神の安らぎ」は非常に重要なのですね。「精神の安らぎ」とは情動が安定していることを意味する。情動が政治的判断に大きな影響を及ぼすことについては、バチャ・メスキータ著『文化はいかに情動をつくるのか』の訳者あとがきを参照されたい。
ここで「理性の知が成功を重ねれば直観の知を支える」必要がなぜあるのかについて、進化科学や神経科学の知見に基づいて考えてみましょう。「直観の知」は、進化の過程を通して獲得され遺伝によって受け渡される系統発生的なものと、文化、慣習、教育などを通じて後天的に獲得される個体発生的なものの二つがあると考えられる。いずれにしても、心身二元論を考慮するのでない限り、それらの知は、前者では遺伝子の発現に、後者では脳の可塑性に基づく神経回路の配線を介して直観として作用することになる。まず系統発生的なケースについて考えてみましょう。最近の進化科学の本でよく論じられていることだが、ある形質が獲得されたときの環境と現代の環境はまるで異なることがあるので、かつては有効に機能していた形質が、現代ではバックファイアーする可能性が大いにある。よくあげられる例に肥満がある。かつては食物が稀少だったので、食べられるときに食べておかないとその後の生存が危うくなってしまう。そのような状況のもとで適応的に得られた形質は、食物があり余っている今日の先進国では、本能的な直観(つまり進化によって獲得された直観の知)に起因する過食を引き起こす。だからそれを防ぐために理性の知、言い換えると論理や科学的な事実に基づいた熟慮が必要になる。他方の個人の発達段階を通じて獲得される個体発生的な直観の知に関して言えば、今日のような変化が著しい時代にあっては、子どもの頃に文化や教育によって教え込まれたことがおとなになるとまるで通用しなくなる場合がある。たとえばテロや戦争が多発している激動の二一世紀になっても、比較的安定していた冷戦時代に教えられたことにしがみついていては、非常にマズい事態が生じる場合がある。だからそこに理性の知を適用する必要が生じるというわけ。ところが現代では、そのような状況のもとで理性の知ではなく、想像の知に頼ろうとする人が大勢いる。そのことが今回の大統領選で明らかになったことの一つでもある。
こうして見てくるとリベラル陣営が今回の大統領選で間違った理由がはっきりとわかる。それは有権者たる一般ピープルはおおむね「直観の知」と「理性の知」を用いて判断していいたのに対し、自称リベラルはイデオロギーという「想像の知」に踊らされて、しかもその「想像の知」に基づいて一般ピープルも判断すると、あるいは判断すべきと考えていたからなのですね。この「ああ!勘違い」は、「トランプ支持者の学歴は総じて低い」などという、「それって民主党批判で言っているの?」と言いたくなるような(なぜそれが民主党批判になりうるかがわからない人は前述した『国家の尊厳』の枠内を読まれたい)ケッタイなへ理屈を持ち出した点に如実に見て取れる。それに比べてネットの総体的な見解では、トランプ優位と見ていたように思われる。ただし「経済」にのみ着目してそういう判断を下している人が多かったのは、間違いではないとしても不十分だと思っている。というのも、経済のみならず、バイデン&ハリス政権が国境政策、あるいはLGBTなどのアイデンティティー・ポリティクスを通じて、慣習、文化、伝統などに支えられている中間粒度を徹底的に破壊してしまったことも一つの大きな要因になっているはずだから。ところでとりわけ興味深かったのは、ネットでは賭けサイトの掛け率の変遷を参照してトランプ優位と見ていた人々がいたこと。賭けでは、おじぇじぇがかかっている。つまりナシム・タレブさん流に言えばそこでは身銭を切らなければならないわけで、そこにイデオロギーという「想像の知」が入り込む余地は皆無とは言わずともほとんどなくなる。賭けでは、まさしく「想像の知」ではなく「直観の知」と「理性の知」を全面的に駆使する必要があるのですね。余談の余談になるけど、その掛け率の変遷を追って掛け率が大きく変化したときに何が起こったかを分析したサイトがあってこれがなかなかおもしろかった。トランプに賭ける人が最初に激増したのは、予想されるように例の暗殺未遂事件の直後だったらしい。その後はイーロン・マスクやロバート・ケネディがトランプ支持を表明したときにはトランプに賭ける人が増え、例のテレビ討論会のあとはハリスに賭ける人が増えるなどと拮抗した状態が続いていた。しかし最後にトランプに賭ける人が増えたときに起こったできごととは、バイデンが例の「トランプ支持者はゴミ」というボケをかましたときとのこと。いやあれはバイデンがわざとやったという見方もあるらしい。トランプが確定したあとのバイデンのスピーチで彼が満面の笑みを浮かべていた動画(フェイク動画でなければだけど)を見ているとあり得ないことではないなと思えてしまう。ちなみに嫁さんのジル・バイデンが共和党色の赤の衣装に身を包んで投票所にやって来る画像も出回っていた。それがフェイク画像でなければマジでこの夫婦はトランプに投票したのではないかと思えてくるよね。
脱線の脱線から脱線に戻ると、いずれにしても左派イデオロギーという「想像の知」に振り回されている主要メディアが、今回ことごとく予想をはずしたのに対し、ネット民の判断はおおむね正しかったという事実は、いかにマスメディアが誤情報やフェイクの捏造機関に堕しているかを示す格好の例になる。なぜ「マスゴミ」と呼ばれるのか、「そんなことを言うのはねとうよだけだ」と言下に否定し去るのではなく、それについてもっと真剣に考えたほうがいいと思うぞ。トランプ&ヴァンスは、自分たちが選ばれたら何をするかを選挙前から公言しているんだから(このページを参照)、最低でもそれを読んでから予測や批判をするのが知識人としての筋だと思うんだが、左派メディアや自称知識人はそれを読んでトランプ批判をしているとは到底思えない。さもなければ感情まかせの単なるヘイトにすぎない。たとえば「トランプは民主主義を破壊する」と主張するのなら、トランプ&ヴァンスが掲げているどの政策がいかにして民主主義を破壊するのかを論じなければならない。しかしそんな議論は個人的にはまったく見ていない。おかしくないかね?
ということで肝心の『哲学者たちのワンダーランド』に入るまでに、すでに長くなりつつあるので、ここらでそちらに移ることにしましょう。『哲学者たちのワンダーランド』に登場する近代の哲学者のトップバッターはデカルトさん。スピノザとはあまり関係がないけど、スピノザとは対照的な見方を提起しているということで簡単に取り上げておくことにする。この本が扱っている哲学者はすべて、おもに十七世紀に活躍している。著者はこの時代を「底が抜けてしまった時代」と呼んでいる。「底が抜けてしまった」とはどういう意味なのか? それについて次のようにある。「十七世紀は、いわば世界の底が抜けてしまった時代だ。よく言われるように、科学の勃興とともに世界は地球中心に閉じた宇宙から、どこにも中心のない無限宇宙になる。地理的にも大航海とともに西洋の外部が露呈してくる。政治的にはチャールズ一世の処刑に象徴される革命の時代だ。いろんな意味で、それまで自明だった足元の支えがふっと消え、底が抜ける。そんな世紀である。そしてこの時代、哲学も底が抜け、ある種の「無限」が口を開く(14〜5頁)」。では、そのような世紀に生きていたデカルトはどう考えていたのか? 次のようにある。「たとえばデカルトのテキストには至る所に無限が顔をのぞかせる。宇宙の無限、神の無限。そして人間が決断する意志の無限。とりわけ神の意志の無限はそら恐ろしい。デカルトの考えでは、2足す3が5になる、今の瞬間に次の瞬間が続く、といったことには何の必然性もない。ただ神が意志してそのようにしているからそうなっているというのである。もちろん、神はもし欲するならそうでないようにすることもできた。いや、今この瞬間にも、できないわけではない。デカルトは本気でこんなことを考える(15頁)」。スピノザとは違ってデカルトの言う「神」は、やはりキリスト教的な神を指すのだろうから、無神論者の日本人にとってはこういう論理にはついていけないところがあるのは確かだよね。あるいは次のようにある。「十七世紀哲学史をこんなふうに考えると、「デカルトの心身二元論」とか「スピノザの神即自然の一元論」、「ホッブズの機械論的唯物論」、「ライプニッツのモナド論」というふうに学説で比較するよりも、無限と様相の観点から特徴づけるほうが事柄が見えやすい。様相(modality)とは、可能と不可能、偶然と必然、この四つ組のことである。たとえばデカルトの無限は懐疑が露呈させる〈不可能の不在〉に関わり、彼の確実性はそうでないことが絶対に不可能なものの発見と関わっている。「コギト」もそういう観点から考えてみる必要があるかもしれない(18頁)」。
ここまでは序章に書かれていることであり、次にこれが何を意味しているのかを具体的に見ていきましょう。まずは『方法序説』に関して次のように述べられている。「デカルトは(…)確実性を持たないものはどれほど「真らしく」見えても真理として受け入れないよう思考改造に努めた。数学を実地にやることがその役に立ったのである。『方法序説』が回顧するように、その効果は現われ、デカルトはこう思うようになってくる。「人間が認識しうるすべてのことがらは、同じやり方でつながり合っている。真でないいかなるものも真として受け入れることなく、一つのことから他のことを{演繹/えんえき}するのに必要な順序をつねに守りさえすれば、どんなに遠く離れたものにも結局は到達できるし、どんなに隠れたものでも発見できる」。『方法序説』第二部のいわゆる「方法規則」はこのガイドラインとして理解できる。一、不可疑のものしか真として受け入れないこと。二、問題を有限な思考プロセスで扱えるパーツに分割すること。三、単純から複雑へと認識の順序を想定して進むこと。四、最後に見落としがないかチェックすること。「方法規則」はどういう学問に適用されるのかというふうに考えない方が私はよいと思う。方法は思考改造の訓練メソッドなのである(30頁)」。こうして見ると、デカルトの「方法」とは、論理的であるというより、きわめてアルゴリズミックであることがわかる。というのも、論理は無時間的に一気に成立しなければならないのに対し、引用にある一から四は同時に生じるのではなく時系列に沿って処理されるわけだから。その意味では、のちの時代のチューリングさんの考えにも通じる部分があるように思えてくる。まったく的はずれですか? そうでっか、それは残念。それから有名な「われ思う、ゆえにわれあり」について次のようにある。なお細かい記述はスキップして最後の結論部だけを引用しておく。「『省察』への反論に答える中でデカルトが言うとおり、「われ思う、ゆえにわれあり」は推論ではない。むしろそれは、不可能の限界経験をひと言で表現する定式である。すなわち、私が現実でないような現実は不可能であり、この不可能は思考のリミットとして存在するということ。これは覆すことの不可能な真理なのである(49〜50頁)」。
最後に神の存在証明の話が出てくるけど、やはり無神論者の日本人にはわかりにくいので存在証明そのものはスキップする。ただしその章にあるデカルトの永遠真理創造説に関する話はなかなか興味深かったので、そこだけ引用しておきましょう。三角形の内角の和が二直角に等しい理由を神の意志に求めたデカルトの文章を取り上げたあと、著者は次のように述べる。「つまり、必然的真理は必然的に必然なのではない、神が欲するなら違うものでありえたであろう。だから三角形の内角の和が二直角に等しくないことだってありえた。デカルトは本気でそう考えているのである。¶これは哲学史で「永遠真理創造説」と呼ばれるものだが、こんな変なことを考えていたのはあとにも先にもおそらくデカルトだけと思われる。キリスト教には無からの創造という考え方がある。神は無から世界を創った。デカルトはそれを真理についても主張する。神は無から永遠真理を創造した。現実の世界がこんなふうであるのは神がそう欲して創造したということ以外に何の根拠もない。同じように、2たす3は5という真理にも、神がなぜかそうであるように欲したという以外の根拠はない。なぜもへったくれもない、神は全能だからどうにでも欲することができたのだとデカルトは考えるのである(56頁)」。でも私めには、それほど変な説であるようには思えない。というのも、現代の私たちが考えている真理は、実は一種の観察者効果によって真理と見なされているのであって、別の真理がないと思えるのは(神が欲するところによって)私たちが経験可能な唯一の世界でそう思わされているからだという可能性も全面的に否定し切れるものではないような気がするから。それとも私めも、デカルト同様の変人なのかな? それから「2たす3は5」というのは真理ではなく定義であるという可能性はないのだろうか? あまり変なことばかり言っているとキ×ガイ扱いされそうなので、いらんことを言うのはこの辺でやめておきましょう。
ということで、次に肝心のスピノザに参りましょう。まず著者は、デカルトとスピノザの違いを検討し、次のように結論する。「こう見てくると、デカルトとスピノザの方法の違いは哲学の違いとして鮮やかに現われる。確実性に取り憑かれたデカルトは「そうでないことの不可能」に出会うまで懐疑の手を緩めない。ほかのものはともかく、私が現実でないことだけは不可能である。このことは逆に言うと、私という必然的真理にとっては、ほかの真理はすべて、かろうじて神の意志によって維持されている偶然的な真理にすぎないということだ。いま2たす3が5でなくなり、私からこんな身体が無くなっていても不思議ではない。それでも私はあり、私は存在しているであろう。デカルトにはこうした、いわば世界と私との根元的な無関連さとでもいうべきものがあって、それが彼の哲学を特徴づけている。私は世界がどうなっていようが私だ。そんなふうにデカルトの哲学が〈不可能なもの〉との出会いからできていたとすれば、スピノザの哲学は〈必然的なもの〉のただ中に身を置くことからできている。偽からそれ自身を分かつ真理の力は私のどうこうできる力ではない。真理自身の力である。真理とは、観念(何かについての考え)とその対象が正しくぴったり一致していて、観念が事態をあるがままに表しているということだ。ということは、それ以外でありえない全現実をまさにそれ以外でありえないものとして思考している神のごとき巨大な思考があって、われわれの思考はその一部分であるがゆえに真理を認識しているというのが本当ではないか。そして、現実のこの世界は、そういう巨大な必然的真理でできた何かではないか。¶スピノザは真理の規範に導かれ、一気に必然的な真理の総体の中に身を置く。というか、その真理の一つとして、真理の中で覚醒する。ここからは『エチカ』の領分である(77〜8頁)」。デカルトを取り上げた章とこの引用だけを考慮すると、デカルトは否定を基調とした、アルゴリズミックな、言い換えると経時的で間接的な思考を擁護していたのに対し、スピノザは肯定を基調とした直観的な、言い換えると同時的で直接的な思考を擁護していたという印象を個人的には受ける。ただデカルトはいいとしても、スピノザについてはまだほとんど何も語っていないので、著者の言う通り『エチカ』の領分に足を踏み入れることにしましょう。なお私めはスピノザの著作は一冊も読んだことがありましぇん。何しろその『エチカ』の定理と証明という、まるで数学のような記述様式に最初からビビってとても読む気にならないからですね。
まず著者は、『エチカ』では現実とは何かを問うてそれが「神」であると答えられていると述べる。無神論者の日本人には手に負えない概念「神」が、さっそく登場しましたね。しかし著者は、「心配な方は「神」を「自然」に置き換えてお読みになるとよい。私はさらにそれを「現実」と読み替えることができると考える(81頁)」と述べて助け舟を出してくれる。「自然」なら何とかわかりそうだよね。「現実」に関しては、その意味は非常に多義的でありうるので真剣に考えると実はむずかしい(そのことはわが訳書、ドナルド・ホフマン著『世界はありのままに見ることができない』を読んでもわかるはず)。でも、ここでは単純に一般的な意味でそれを捉えておくことにする。
さて著者によれば、『エチカ』では「現実」の成り立ちが次のように捉えられているとのこと。いかにも哲学々々した議論がやや長く続くけど我慢して下さいませませ。「早速、『エチカ』にしたがって現実モデルを作ってみよう。第一部「神について」がレシピである。¶一、まず「それ自身においてあり、かつそれ自身で考えられるもの」を想定し、「実体」と呼ぶ。(…)どういう実体かわかるように、その種類を属性(性質)で区別できるようにしておく。たとえばA属性実体、B属性実体、等々というふうに。属性は何でもよいが、実体を実体として識別できるためにはどれも他の属性なしにそれ自身で考えられるものでなければならない。¶二、すると当然、属性が違う実体どうしは互いに共通点がないことがわかる。たとえばA属性はB属性なしにそれ自身で考えられねばならない(さもないとそれ自身で考えられる実体だとわからない)ので、A属性実体とB属性実体の間には共通点がない。¶三、するとこれも当然に、同じ属性を持った複数の実体、たとえば二つや三つのA属性実体といったものは存在しえないことになる。実体は属性でしか区別できないので、同じA属性の[実体]が複数あると言ったって区別のしようがない。¶四、するとここから、実体はどれも他の実体から生み出されることは不可能だということが出てくる。(…)ということは、よろしいでしょうか、よーく考えると実体はそもそも何からも生み出されえないもの、それ自身で存在するしかないものだ、ということになる。(…)五、仕上げは事物としてのリアリティを考える。A属性だけの実体、B属性だけの実体、というふうにバラバラにあるのでは事物としてのリアリティが分散していまひとつ貧弱である。そこでありとあらゆる属性を全部一つに集中させて、A属性、B属性等々無限に多くの属性を持った実体Xを想定する。(…)もちろん属性はどれもそれ自身で考えられなければならないので、実体XはA属性ではA属性実体としてしか存在しないし、B属性ではB属性実体としてしか存在せず、……以下同様。(…)実体Xはやはり「それ自身においてあり、かつそれ自身で考えられるもの」だし、その属性はどれも他の属性なしにそれ自身で考えられる。せっかくなので、この実体Xを「神」と名付ける(81〜3頁)」。スピノザの言う「神」とは、明らかにキリスト教的な神のことではなくかなり特殊な神だということになる。そして著者は次のように述べる。「スピノザは「ほかに何もありえないもの」のモデルを作った。現実が{これ/傍点}しかないのは、それが「神」だから、なのである。われわれはみな神の中にいる。われわれも石ころも銀河も、すべて事物は、この実体の無限な内部状態の一部、無限様態の一部だということになる(84頁)」。
さて、ここまでは非常に哲学々々していてあくびが出てきた人も多いかも。でもここから先が非常におもろくなってくる。次のようにある。「今日、われわれは思考しているのは心なのか脳なのか、とか、人の同一性はそのいずれに存するのか、などと議論している。ご存知のように「心の哲学」は今や定番である。しかしスピノザによれば、思考しているのはだれでもない。思考そのものである。宇宙が無限に多くの物理作用で満たされているように、無限に多くの匿名の思考作用が全自然を満たしている。われわれは自分が考えていると思い込んでいるのだが、本当は思考が勝手に考えているのである(89頁)」。「ぬぬぬ! 思考が勝手に考えているとは、どういうこっちゃ?」と思うのが普通だろうけど、著者によれば「「精神の本性と起源について」と題される『エチカ』第二部は、考えているだれかがいるというこの大方の前提を平然と覆すような話になっている。だれかが考えているのでなくて、だれのものでもない思考が考えている(89頁)」のだそう。どういうことか? スピノザは次のように主張しているらしい。「人間精神は人間身体の観念ないし認識にほかならない(90頁)」。このスピノザの言葉に対して著者は次のように問いかける。「ほとんどの人はここで躓く。だってそうでしょう、精神が観念を持つ、というのならともかく、観念である、と言うのである。一個の観念でしかないものがどうしてあれこれ知覚したり考えたりできるのか。いや、そもそもスピノザの言う思惟属性で、思考し認識しているのはだれなのか?(91頁)」。
まず、「だれが認識しているのか?」という問いに次のように答える。「思惟実体は神なのだから考えているのは神じゃないかとおっしゃるかもしれないが、不正確である。スピノザの神はあれこれ考えて決断したり意志したりする精神のようなものではない。そうではなくて、自分の本性の必然性からすべてが自分自身に起こるような究極の事物、つまり「自然」のことを神と言っているのである。並行論モデル[「観念の秩序および連結は事物の秩序および連結と同一である(86頁)」とするスピノザの考え]を思い出そう。延長実体としての自然に無限に多くの物理的な出来事が起こり、並行して、思惟実体としての自然にそういうすべての出来事の認識が起こる。雨や風と同じように、思考は「自然」に起こる出来事なのである(91頁)」。では、それはいかにしてか? ここでスピノザは「無限知性」という考えを提起する。次のようにある。「スピノザの言う「無限知性」は(…)結果の認識が原因の認識に依存するというたったそれだけの連結で無限につながっている。これが自然の中にある思考である。考えているのはだれでもない。無数の観念が連鎖しながら考えている(92頁)」。つまり、スピノザは意志の力に基づく意識的な思考ではなく、自然に生じるいわば無意識的な思考(しかもそれは「(無限)知性」と呼ばれているように妄想や幻想ではなく知性でもある)に着目しているように思える。これは現代の認知科学、神経科学、進化科学にも整合する見方と言えるが、それについてはあとで説明する。著者はさらに次のような実に興味深いことを述べる。「スピノザは無限知性は産み出される側の様態であって、それを産み出す実体の側には知性も意志もないのだ、と驚くべきことを言っていた。実際、連鎖状の無限知性は全体を高みから俯瞰する神の視点のようなものを持たない。理解は、「cなのでb」、「bなのでa」、というふうに連鎖の局所局所に分散して存在し、まとまった一個の精神の理解にならない。それはいわば、精神なき思考、無頭の思考なのである(93頁)」。「無頭の思考」とは実におもろい。無意識にもそういう性質があるような気がする。
さて次に著者は、「精神が身体の観念「である」とはどういうことか?」という問いに答えている。次のようにある。「答を言ってしまうと、精神は自分がそれであるところの身体の観念を持たない。持っているのは身体の存在を結論するのに十分な匿名の思考になっている自然である。スピノザにとって身体は、それを構成するきわめて多くの個物が一緒になって共同し、あたかも一つの結果を産み出すかのようにふるまうことで絶えず再生される様態である。さて、結果はその原因の認識によって知られる。したがって、いいですね、身体を認識しているのは、身体を絶えず再生させているそれらきわめて多くの個物の観念すべてになっている神の思考である。(…)自然[神]の中に生じている一個の認識が私の精神だが、この認識を持っているのは私ではない。われわれは自分を知らない一個の真理であり、そういうものとしてわれわれは「自然」の身に起こっている(93〜4頁)」。そして著者は「私ではなく無頭の神が……」と題する第八章を、次のような驚くべき言葉で締め括っている。「大事なのは、われわれは自分で自分の考えを頭のどこかから生み出しているのだと思っているが、スピノザによればそうではないということだ。考えているのは「神ないし自然」の無頭の思考だけであって、われわれの自己意識はその局所で生じている効果にすぎない。何ともまともで奇怪な話である(96頁)」。ちなみに私めなら「神」という言葉は「直観」に置き換える。吉田氏が『スピノザ』で述べている「直観の知」を指していると考えたい。
さて、ではこのような「奇怪な話」が、どうして現代の認知科学、神経科学、進化科学に整合するのか? 次にそれについて説明しましょう。すでに述べたようにヒューゴ・メルシエやダン・スペルベルらの認知科学者は、おおまかな言い方をすると「直観」には合理的な側面があると論じている。つまりそれは一種の「認知作用」の一つなのですね。ところが一般には、直観は原始的なものであり、そこに認知作用は含まれず、逆に認知バイアスを引き起こす要因だと考えられている。現代におけるそのような考えの代表者は、『ファスト&スロー』の著者で行動経済学者のダニエル・カーネマンだと言える。あえて言うまでもなく彼は、無意識的かつ直観的で非合理的な速い「システム1」と、意識的かつ理性的で合理的な遅い「システム2」を分けている。しかしこの分類は、おかしいのですね。なぜなら、無意識的な直観が非合理的だとされているから。つまりスピノザの分類による「直観の知」が非合理だと見なされていることになる。このカーネマンらの二重システム理論を痛烈に批判しているのが、先にあげた神経科学者のジョセフ・ルドゥーの最新刊『The Four Realms of Existence』で、そこで彼はカーネマンの二重システムの代わりに三重システムを提起している。これについては『人新世と芸術』を取り上げた際にも紹介したけど、非常に重要なのでもう一度ここに提示しておく。
●システム1:非認知的で非意識的な行動制御(神経生物的次元)
・反射
・直観
・パブロフ型条件づけ反応
・習慣
●システム2:認知的で非意識的な行動制御(認知的次元)
・非意識的なワーキングメモリー
・非意識的な熟慮
・非意識的な推論
・非意識的な直観
●システム3:認知的で意識的な行動制御(意識的次元)
・意識的なワーキングメモリー
・意識的な熟慮
・意識的な推論
ここで「直観」は、反射などとともに非認知的で非意識的な行動制御を実装する神経生物的次元(システム1)と、認知的ではあるが非意識的な行動制御を実装する認知的次元(システム2)の両方にアサインされていることに注目されたい。つまり「直観」は認知的にも作用しうるのですね。しかも非意識的とあるように、意識的、主体的な意志の存在を前提せずして作用する。したがってこれは、スピノザ(著者の上野氏?)の言う「無頭の思考」「精神なき思考」にも通じるものがあるように思える。啓蒙主義の時代以来、多くの人々が誤ってきたのは、「直観」を非認知的なもの、さらに言えば非知として扱ってきたことだと言える。ところが十七世紀に生きていたスピノザは、すでにこの直観に相当する「神」「自然」「無頭の思考」「精神なき思考」を「無限知性」として捉えているのですね。この事実は、いかに彼に先見の明があったかを示しているようにも思える。そして逆に現代になってもこの点をまったく理解していないし、どうやらそれを理解する能力さえ備えていないように思えるのが、前述したとおりトランプの返り咲きが決定した直後に、「トランプ支持者は低学歴」などと言い放って発狂していた自称リベラルだと言える(誤解されると困るのでつけ加えておくと、『国家の尊厳』の枠内にも記したように、そのあたりのことをきちんとわきまえていた東浩紀氏のようなリベラルもいることは私めもよく承知している)。
ここで「でも、二〇世紀になってから登場した無意識という概念と、「無頭の思考」や「神」などのスピノザの概念は実際には随分違うのでは?」と思う人もいるでしょうね。確かにまったく同じであるはずはない。ただ選書本の著者も、無意識とスピノザの概念を相応に類似するものと見なしていると思われる。それは精神分析家ジャック・ラカンの『精神分析の四基本概念』から、「問題になっている事柄にスピノザ的な定式を皆さんの前ででっちあげようとするなら、こんなふうになるでしょう。“十全ナ思考ハ常ニ同ジモノヲ回避する”(…)。われわれの位置する水準において、思考であるかぎりで十全な思考は、常に同じものを回避する――たとえあとでそっくりそれが見出されるためであるとしても(99頁)」という、実に難解な文言を取り上げて次のように論じていることからもわかる。「自然(スピノザの神)は自らの本性の必然性から一切を自分の様態として生じる。事物は犬も銀河もみなこの唯一実体の様態である。自然は事物たちが一緒になって何ができるか実地にやってみながら、同時になぜそれができているのかという理解を自らの思惟様態として生じる。つまり、事物の側の原因→結果と同じものが、宇宙大の思考の側では前提→帰結という観念の系列として同時並行で生じる(並行論)。そんなふうにして事物の世界のどこかにわれわれの身体が結果として生じ、思考の世界(無限知性)のどこかにこの身体の観念すなわち精神が帰結として生じている。両者は同じ一つのものの異なる表現にすぎず、これが心身合一ということである。(…)すなわち、身体の観念である精神自身は一個の帰結なので、身体が何であるか、そしてその観念である自分が何であるかまったく知らない。精神自身が神=自然の中にあるその答えなのだが、それを知っているのは精神自身ではなく、身体の観念(…)を帰結するきわめて多くの他の観念(…)の連言に変状している神の思考である。ところがこんなふうに自分の真理から隔離されているのに、精神は自分の身体に起こること(身体の変状)については、非十全にではあるが知覚である。これが「意識」である。知覚意識はだから、「いわば前提のない結論のようなもの」にすぎない。すると、ほら、ラカンの定式どおりになっているのがわかる(…)。すなわち、思考はわれわれの位置する水準で生じているかぎり、常に同じものを回避する。なぜなら、われわれは自分がそれであるところの真理の現前から閉め出され、それを常に外す仕方で「われ思う」と言うのだから(100〜1頁)」。これまた哲学々々していて非常にわかりにくいけど、ここではスピノザの概念には精神分析家ラカンの考えと共通点があるという点だけ理解しておけばよいでしょう(それを説明するために文章構成上長々と引用せざるを得なかったというわけ)。さらに著者は、次のように続けている。「ラカンはもちろん、フロイト的な無意識の話をしているのである。しかし通底するところがないわけではない。それは、精神は自分が意識しているのと常に食い違う仕方で現実の中に存在している、ということだ(101頁)」。「しかし通底するところがないわけではない」というくだりは、「何と通底しているのか」が示されていない悪文になっているけど、おそらくそれは、ここまで説明してきたスピノザの概念と通底するいうことだと思われる。それはそれとして「精神は自分が意識しているのと常に食い違う仕方で現実の中に存在している」という部分に特に着目されたい。「精神」を「直観」と置き換えてみれば、この文章はまさに直観が認知的で非意識的な行動制御(認知的次元)としても作用しうるという、ルドゥーの三重システムの考えとも整合することがわかる。
そして著者は最終的に次のように結論する。「こう見てくると、スピノザの並行論の問題は、どうやら現代の「心の哲学」で論じられるような意識と脳状態の対応なんかではない。問題はむしろ、心が思っていることと身体がやっていることのあいだの還元不可能な{食い違い/傍点}だということがわかってくる。心はいつも自分が中心で、自分が身体のふるまいを決定し導いていると思っている。ところが身体はそんなことはおかまいなしに、他の諸々の身体や物体と連携しながらすでに神殿を建てたり絵を描いたりしている。精神は身体に何ができているか知らないのである。これは逆に言うと、{精神は自分に何ができているか本当には知らない/傍点}ということだ(両者は同じものなのだから)(103〜4頁)」。この引用文中の「心」「精神」は「意識」と、また「身体」は「直観」と置き換えても構わないのだろうと私めは勝手に思っている。そのほうが理解しやすいしね。なぜなら、それによって「身体=直観」が「心、精神=意識」の埒外、言い換えると意識による間接的な媒介を必要とせず、ルドゥーの言う認知的次元でも(意識の媒介なくして)直接的に機能しうるという点が明確になるから。そして直観は、メルシエやスペルベルが述べるように、合理的(認知的)に作用するのですね。
というわけで、現代の認知科学、神経科学、進化科学が最近になってようやく解明しつつあることを、十七世紀に生きていたスピノザはすでにある程度見通していたことがわかる。そして現代の自称リベラルはこの点をまったく理解していないから「トランプ支持者は学歴が低い」、つまり「トランプ支持者は合理的な判断を下せないからトランプに投票したのだ」などというとんでもない暴言を平気で言えるのですね。しかも左派イデオロギーという想像の知に完全に踊らされて、現実をまったく見通すことができていないというわけ。彼らはスピノザの爪の垢を煎じて飲んだほうがいい。それは無理か。ということで、実はここまではこの選書本の半分を説明したにすぎないんだけど、すでにかなり長くなっているし、私めが言いたいことは言い尽くしたので、残りの『エチカ』ではなく『神学政治論』や『政治論』をもとにしたスピノザに関する議論や、ホッブズとライプニッツに関する議論は本を買って読んでみてくださいませませと言って、この選書本の紹介を終わりにする。なんか、「ということは、ひとの本をダシにしててめ〜の考えを開帳しているのかよ」とか言われそうだけど、あらかじめ「すんましぇん」と謝罪しておきますら。
※2024年11月14日