◎佐藤卓己著『あいまいさに耐える』(岩波新書)
メディア学者の佐藤卓己氏の新書本。お隣のぷち紀伊國屋さんでこの本をパラパラと立ち読みしていたら、各章の冒頭で参照元の論文が紹介されているのがわかった。つまり、基本的には書下ろしの本ではないということ。その種の本は、まず買わないことにしているにもかかわらず買って読んだ理由は、メディア学者の佐藤氏の本だから。細かい部分では、気になる部分もあったとはいえ(それについては該当箇所で個別に述べる)、基本的には同意できる内容だった。左向きの岩波書店の新書本ながら、同じく岩波新書から刊行されている同氏の『流言のメディア史』と同様、イデオロギー的偏向がまったくと言っていいほど見られないので、保守の読者も、安心して読める本だろうと思う。
「はじめに」では、この新書本の大きな主題の一つである{輿論/よろん}(public opinion)と{世論/せろん}(popular sentiments)の違いが説明されている。輿論の「輿」という漢字は、現在では一般に用いられていないはずであり、「世論」と書いて「よろん」と読んだり「せろん」と読んだりして、実質的に「よろん」と「せろん」の区別はされていないのが現状に思われる。てか、かく言う私めも特に区別はしていなかった。でも著者は、はっきりと両者を区別すべきだと主張している。佐藤氏はまず、統計学者の西平重喜氏の『世論をさがし求めて――陶片追放から選挙予測まで』(ミネルヴァ書房、2009年)から次の文章を引用している。「あえていえば世論は世間の評判、多数意見というニュアンスであるが、輿論は各種の意見を想定し、時には少数だが合理的な意見を重視する場合に使われているようだ(ii頁)」。そして次のように「輿論」という用語がほとんど使われなくなった歴史的経緯を述べている。「大正期には選挙権の拡大にともなう政治の大衆化の中で「輿論の世論化」は急速に展開した。特に、一九二三年関東大震災後の大衆政治状況で「液状化した輿論」(…)は、一九三〇年代以降の戦時体制下で「気体状の輿論」、いわゆる「空気」となり、敗戦後の一九四六年に当用漢字表で「輿」が制限漢字となったため「セロンと書いてヨロンと読む世論」となって今日に至っている。私は『輿論と世論――日本的民意の系譜学』(新潮選書・二〇〇八年)などで、世論(空気)を批判する足場として輿論(意見)を取り戻すこと、その前提として輿論と世論をもう一度、使い分けることを提唱してきた(ii〜iii頁)」。まあ現在でも「空気を読む」などという言い方をするからね。ちなみに『輿論と世論』は読んでいないので、古本屋で見かけたら買うことにしましょう(古い本なので、さすがに新品を買う気にはならないけど)。「あとがき」の最後に、本書のもう一つの主題が「ネガティブ・リテラシー」であることが述べられているけど、「ネガティブ・リテラシー」についてはあとで取り上げる。
ということで「第1章 ファスト政治」に参りましょう。「ファスト政治」の「ファスト」とは「ファストフード」の「ファスト(fast)」と同じで「速い」とか「お手軽な」などといった意味を持つ。まずメディアの報告による内閣支持率の何たるかが、次のように述べられている。「一寸先は闇の政界とはいえ、メディアの解散予測はなぜ外れるのか。テレビのコメンテータの解説を聞いている限り、予測は多分に期待の表明である。「予言の自己成就」を意図した発言も少なくない。ある状況が起こりそうだと考えて人びとが行動すると、そう思わなければ起こらなかったはずの状況が実際に生起してしまうことを、社会学者R・K・マートンはそう名付けた。(…)メディアの解散予言が自己成就しない理由は、同じメディアが行う世論調査、特に内閣支持率のためだろう。皮肉と言えば、皮肉な現象である。早期の解散を予測するメディア側の期待感に、世論調査の回答者は正確に反応している。早期解散への空気を読む人びとが「内閣を支持する」と答えるはずはないのである(4〜5頁)」。
この「予言の自己充足」もしくは「自己充足的予言」の効果は、大手メディアが衰退の一途を辿っている現在でも、非常に困ったことにきわめて大きな効果があると個人的には思っている。内閣支持率ではないが、アメリカで現在話題沸騰中の大統領選では、フォックスを除く米国大手メディアはすべてハリス推しのように見える(トランプに対する憎悪のゆえか、日本の大手メディアまで「ハリス、ハリス」と騒いでいるように思われる)。個人的な印象としては、ハリスは、これまでの実績からしてもアメリカ大統領が務まるほどの力量を持っているようには思えない。もちろん優秀な女性の政治家はいくらでもいるとしても、ハリスはどうしてもポリコレ候補にしか見えないところがある。彼女ならたとえば現国務長官ブリンケンのほうがよっぽどマシそうに見えるが(大統領向きではないということなのかもしらんとしても)、現大統領のバイデンがこれ以上ないほど真っ白な白人男性(それに比べると同じ白人でもトランプは赤鬼のように見える)なので、次はなんとしてでも女性、かつマイノリティー出身の候補を立てようとしたポリコレ人事という印象をどうしても受けざるを得ない。でも彼女がウクライナやら中東やらで起きている問題や、対中国に関してうまく立ち回れるとはとても思えない。もちろん実際の政策立案は副大統領や国務長官以下の手下や官僚がやるのだとはしても、最終的に表に出るのは大統領だからね。その米大統領が私めと同じヘタレにすぎないと見られたら、プーチン、習近平のダブルぷ〜を始めとする専制主義国家の独裁者は、その隙をついてくる可能性が高まる。さらに言えば、ほんとうにハリスが大統領になって、移民を始めとする国内問題や外交問題が今以上にグダグダになったら、民主党にとっても、女性やマイノリティーにとっても、さらには腐っても鯛とんとんのアメリカにとっても、しばらくは回復不可能な大打撃を受ける破目になるように思える。日米の大手メディアは、そこまで考えているのだろうかと思わざるを得ない。つまり今回の大統領選の件は、トランプがどうのこうのという問題ではなく、「ほんとうにハリスでいいんですか?」という問題なのですね。米国のほとんどの大手メディアがハリス推しだと、それこそ「予言の自己充足」のせいでハリスがマジで大統領になってしまう可能性も相応にあると思っているが、そうなってしまえば米国のみならず、世界全体に悪影響が及ぶ可能性も高まってしまうだろうね。「予言の自己充足」がシャレにならんというのはそういうことね。
早くも脱線してもたので、新書本に戻りましょう。著者は次に、政治に関しても「快楽原理による即時報酬」より「現実原理による遅延報酬」を重視すべきであることを次のように述べる。「各党が発表するマニフェストを吟味する際にも、その公約が即時報酬型か遅延報酬型かを見極めるべきである。即時報酬型の、つまり気晴らし的な政権交代願望なら、長い目で見て有害だ。政権交代という理想そのものを{貶/おとし}めるからである。それを避けるためにも、選挙報道を読む際、そこにあるのが輿論(よろん=公的意見)なのか世論(せろん=世間の空気)なのかを区別するよう努めたい。明治期には使い分けられていた輿論public opinionと世論popular sentimentsは、大衆社会化とともに「輿論の世論化」が加速した。世論を「よろん」と読ませる現状で、空気の暴走を批判する輿論(言論)の足場は失われている(8頁)」。つまり、輿論は遅延報酬型で世論は即時報酬型であり、よって前者を重視すべきということになる。とはいえ、即時報酬型の政治や政治的言説が重視されることは古代からあったという事実が次のように紹介される。「有権者の失望を最小限にとどめる政治技術は古くから考えられてきた。たとえば、古代ローマにおける「パンとサーカス」である。消費財もサービスも使用後には跡形なく消え去り、失望や懸念のはけ口となるような物的証拠を残さない。この点では必ず失望を生む「道路と安全」とは対極的である。形が残るハコものは、利用者からは安普請、不便と、非利用者からは贅沢、無駄と必ず不満の声があがるだろう。ローマ皇帝が大衆の支持を取り付けたのは「道路と安全」ではなく、バラマキとサービスであったことは留意すべきだろう。そしてローマの繫栄は「パンとサーカス」のゆえでなく、「道路と安全」のゆえにあったことも忘れてはならない(9〜10頁)」。「道路と安全」が必ず失望を生むというのはちと言い過ぎに聞こえるとしても、いずれにせよ遅延報酬型の「道路と安全」が即時報酬をもたらさないことは事実でしょう。
次に著者が取り上げるのが、まさにメディアの問題、つまり「メディアクラシー」の問題で次のようにある。「現在のマニフェスト選挙が想定する有権者像は、数値目標を吟味する賢明な消費者である。消費者とは自らの判断で商品を選び、市場での選択(貨幣による投票)によって自らの好みをその生産者に要求するものだ。しかし、こうした古典派経済学の理想モデルが単純に現代のメディア政治mediacracyに応用できるだろうか。メディアが支配力をもっている政治体制を意味する「メディアクラシー」という新造語は、今日『広辞苑』にも採録されているが、「メディア」という言葉がそもそも中立的な情報媒体ではなく「広告媒体」の意味で使われ始めた広告業界用語であることを私たちは忘れてはならない。メディアが「広告媒体」であるとすれば、メディアクラシー(広告媒体政治)において有権者が「消費者」として扱われることは必然である。その際、消費者(有権者)の需要(欲求)は広告媒体によって創出され、市場(投票)はあらかじめ操作されたものにならないだろうか(14頁)」。先にあげた大統領選の問題の根底にもこれがある。大統領選で左派が大勢を占める米大手メディアによって「市場(投票)はあらかじめ操作されたものに」なると、本来の政治的な妥当性とはまったく異なったところで誰が大統領になるかが決定されてしまう。それが民主主義と言えるのだろうか?
さて「予言の自己充足」と「パンとサーカス」と「メディアクラシー」の次は「ファスト政治と世論調査民主主義」。まずは「ファスト政治」から。次のようにある。「高度経済成長の次なる目標、高度情報化に邁進していた一九七〇年代以降の日本社会は、さらなる高速化をひたすら追求してきた。コンピュータ技術の発展と相まって「タイム・ラグ(時間のずれ)のある社会」は「リアル・タイム(即時・同時)の社会」に変貌した。つまり、空間的に遠い場所とのやりとりには時間と手間がかかるという感覚はなくなり、空間的距離を無視してリアル・タイムで進行する「実況政治」も始まった。この政治手法において、小泉メールマガジンから鳩山ツイッターまでは一直線であり、その高速化に何らかの断絶が存在したとはいえない。ウェブ上で実況されたファスト(高速)政治――その明暗が即決即断の事業仕分けとタイムリミット設定の普天間基地問題だが――にも、確かに「彼らの手が見えない、心を思いやる暇がない」。慎重な審議や粘り強い交渉よりも、仕分け会場や記者会見でのパフォーマンスこそが「見ごたえある政治」となる(19頁)」。最後にある「見ごたえある政治」とは「劇場政治」とも言えるでしょうね。それに続けて次のようにある。「いずれにせよ、即決をせまるファスト政治は有権者、すなわち視聴者にリアルな参加感覚を与えるために実況を必要とするのである。その「参加なき参加感覚」からすれば、観客民主主義とも呼べる政治である。それが最小限の労力で疑似「国民投票」を可能にする世論調査と結びつくのは自然なことである(19頁)」。「参加なき参加感覚」とは言い得て妙ですな。かくして「ファスト政治」は「世論調査民主主義」に至るわけ。
この世論調査は次のようにして始まったらしい。「科学的な世論調査の始まりは一九三五年ジョージ・ギャラップによるアメリカ世論研究所設立とされている。その政治利用は同時期にニューディールを掲げたルーズヴェルト政権下で飛躍的に発展した。長期化する議会審議を打ち切って法案を通すべく、民意の科学的根拠として世論調査結果が利用された。それは大統領が直接ラジオで呼びかけて「参加なき参加感覚」を国民に与える炉辺談話と不可分の「合意の製造」システムである。¶第二次世界大戦への参戦に向けた総力戦体制の中で、慎重な政治論議よりも迅速な政治行動が必要とされていた。その意味では「YES」か「NO」かの二者択一を、統計的な民意を背景にせまるファスト政治は、ファシズム時代の産物といえる。つまり、「非常時」政治たるニューディール・デモクラシーは、即断即決を求める戦争民主主義に他ならない(20〜1頁)」。うむむ、FDRも形無しですなあ。そしてさらに次のようにある。「一九二五年普通選挙法成立に至る「政治の大衆化」の中で、理性的な討議より情緒的共感を重視する「輿論の世論化」がはじまった。もちろん「輿論の世論化」は、日独伊ファシズムに特有な現象ではない。むしろ、先に述べた通り、科学的世論調査が生まれたアメリカこそ、第一次世界大戦に始まる総力戦体制のシステム化で先頭を走っていた。つまり、マス・コミュニケーションと世論調査は観客民主主義の有権者に参加感覚を与える合意形成システムとして編成されたものなのである(26〜7頁)」。してみると「合意形成システム」は、有権者に参加感覚を与える「アリバイシステム」と言い換えてもよさそう。
ところで、ここで些細ながら重要な指摘をしておくと、佐藤氏は単なる「共感」ではなく「情緒的共感」という用語を使っていることに留意されたい。というのもわが訳書『反共感論』で心理学者のポール・ブルーム氏が述べているように、共感には、「他者が感じていることを自分でも感じること」を意味する「情動的共感(佐藤氏の言う情緒的共感)」と、「他者の心のなかで起こっている事象を、感情を挟まずに評価する能力に結びつけてとらえること」を意味する認知的共感(哲学や認知科学では「心の理論」と呼ばれることもある)の二種類があるから。ブルーム氏によればそのうちの「情動的共感」を政策などの政治的な局面に持ち込むことは非常に危険だと論じている(その理由や具体例はここには書かないので、ぜひぜひ『反共感論』を読んでみましょうね)。つまり、ブルームの見解からも佐藤氏の見方の正しさが裏づけられるわけ。世論調査に関してもっと最近の日本における例で言えば、次のようなものになる。「わかりやすい例で考えてみよう。夕食時に電話のベルが鳴り、唐突に「首相にふさわしい政治家」や「憲法改正の是非」を問われたとする。唐突な質問に対しては、周囲の空気を読むことで無難にやり過ごすのが普通だろう。つまり、日頃マスコミが報じている多数世論をオウム返しに回答する人が少なくないのである。こうして増殖する雰囲気の合算が、どれほど統計的に正確であっても、それを「民意」と見なすことは理性的だろうか。しかも、この世論「調査」を世論「操作」にすり替えることはさほど困難なことではない(24頁)」。私めは世論調査に答えたことなど一度もないからその手続きはよく知らんけど、あれって最初に調査主体が誰であるかを回答者に明示するんだよね? だったらとりわけ政治的な調査の場合には、空気を読むどころか、朝日や毎日などの左向き機関の調査であれば保守派の多くはその時点で「このパヨク新聞(何でパヨクって言うんだろうね)があああ!」とか言って、あるいは逆に産経のような右向き機関の調査であればリベラルの多くは「このネトウヨ新聞があああ!」とか言って電話をガッチャン、もしくはプッツンする人が多いのではないか。日経あたりだとそうでもなかったとしても、いずれにせよそれだけの理由でも、一般に世論調査の結果は調査主体に応じて偏ったものになる可能性が高くなりそうな気がする。ということで、第1章は次のように締め括られている。「こうした精緻な「感情」調査とは別に「意見」調査の方法も新たに構想されるべきだろう。¶私たちは明治維新のスローガンだった公議輿論にいま一度思いを致すべきではなかろうか。公に熟議する時間の中で生まれる議論は、移ろいやすい世論調査の数値とは別物である。もちろん、輿論の計量化はむずかしく、公議輿論への道も至難だろう。だが、その理想を失ったジャーナリズムに世論を批判する足場はないはずである(32頁)」。まあ現在のジャーナリズムは信用を大きく失っているしね。
お次は「第2章 メディア流言」。とはいえ書下ろしではないだけに、第1章と重なる部分が多く、よってここでは後半にあるラジオ文化に関する指摘だけを取り上げておく。次のようにある。「「量が質を支配する」ラジオ文化が生んだ「人々の頭を統制する」システムこそ、国民感情の制御装置としての世論調査に他ならない(…)。ラジオの広告効果は新聞や雑誌のように発行部数で予測できないため、広告代理店はクライアントへの説明材料としてラジオ聴取率を必要とした。こうした趣味嗜好のフィードバック・システムから見れば、今日のソーシャルメディアを指すCGM(コンシューマー・ジェネレイティッド・メディア)、「消費者が創り出すメディア」という「ウェブ2・0」の発想も「ラジオ文明」に起源するといえるだろう。結局、関東大震災で液状化した輿論は、総力戦体制の中で「ラジオ化した輿論」、やがて「空気としての世論」になって今日に至った(53〜4頁)」。「「消費者が創り出すメディア」という「ウェブ2・0」の発想も「ラジオ文明」に起源するといえるだろう」というくだりに関しては、聴取者による参与性が低い「熱い」メディアとしてラジオを規定したマーシャル・マクルーハンが生きていれば違う見解だったように思えるけど、まあそれはよしとしましょう(マクルーハンの『メディア論』は数か月前に久々に読み返してみた)。
ということで「第3章 デモする社会」に参りましょう。最初の節の「論壇はもう終わっている」は、率直に言って「論壇」の何たるかを私めはよく知らないので、いまいちおもろいとは思えなかった。ただ岩波書店から刊行されている本書で、岩波の雑誌『世界』が、批判的に取り上げられているのにはちょっと意外に思えた。いろいろと書かれているけど、たとえば「それにしても、『世界』を「時代の青年がむさぼり読む」というシーンはすでに指摘したように、限られた時期の、さらに限られた階層にだけ実在した現象である。その意味では、そうした総合雑誌の閉鎖性を打ち破る機能こそ、マスメディアである新聞の論壇時評に求められていた(79頁)」。チビシイねえ。ところで『世界』で思い出した。かつて私めは、岩波の雑誌(たぶん『世界』だったはず)に掲載される予定のあちゃらの論文の翻訳を、別の出版社を介して依頼されたことがあった。私めは雑誌の翻訳は一切しないことにしていた(現在でも同じ)ので、断ってもらったんだけど、表向きの理由以外にももう一つ理由があった。つまり雑誌の翻訳と言えど、岩波の雑誌の翻訳を担当してしまえば、左のイメージがつきかねないことを嫌ったのですね(少なくとも岩波新書は愛読しているとはいえ、イメージ戦略としては非常にマズイのですね)。もちろんそれは断る理由には含めなかったが。
個人的な話はそこまでにして、次に論じられている小倉紀蔵氏の「ふたつの民主主義」という論文をもとにした議論はなかなか興味深かった。次のようにある。「[アメリカの歴史学者チャールズ・ビーアド著]『ルーズベルトの責任』(原著・一九四八年)は、大統領が中立の選挙公約と反戦世論をねじ曲げてアメリカを参戦に引き込んだプロセスを克明に跡づけた歴史書である。それは対ドイツ参戦を実現するために、日本を対米開戦に追い込んだという告発でもある。もちろん、だから日本に戦争責任はない、という議論にはならない。重要なのは、ルーズヴェルト大統領にとっては憲法を否定し、国民を欺いても貫徹すべき大義が存在したということである。小倉は、侵略や圧政と戦う「大義的民主主義」に対して、ビーアドが求めた路線を「孤立的民主主義」と名付ける。「「大義的民主主義」が国民を騙すことによって腐敗し独裁化の道を歩むのに対して、「孤立的民主主義」は情報の徹底した開示と自由な接近、そして何よりも手続きの公正さを最重要と考える」(83頁)」。FDRさん、さんざんな言われ方だね。私めの考えでは、「大義的民主主義」は結局、イデオロギー的に偏向しやすいからこそ問題なのだと思う。毎度毎度述べていることなのであまり繰り返したくはないが(と言いつつステマのためにまたも繰り返す私めであった)、わが訳書『人は簡単には騙されない』でヒューゴ・メルシエ氏が論じているように、イデオロギーは心のなかでは直観的にではなく反省的に保たれている。そして反省的に保たれている観念は、メルシエ氏の言う「開かれた警戒メカニズム」のチェックを受けない。だから、直観的に捉えればまったくおかしな考えが、本人にとってはおかしく思えなくなって、「自分は正しい」「自分は正義を行なっている」と独断的に信じ込むようになるわけ。
ちなみに佐藤氏は「直観」を非理性的な能力と捉えていると思しき表現が二箇所くらいあった(付箋を貼り忘れたのでどこだったかは失念した)。この新書本では「直観」の定義がされていないので何とも言えないとはいえ、直{観/傍点}を非理性的とものとして単純に捉えるのはいかにも直{感/傍点}的と言わざるを得ない。「直観」と「直感」はまったく違う能力なのですね。たとえば「「直観」と「直感」はまったく違う」という『PRESIDENT Online』の記事に、「「直観」とは自分の経験知や知識によってもたらされるものを指していて、感覚によって瞬時に判断する場合に使う「直感」とは違うものであることを注意してほしい」と書かれている。要するに「直観」は認知的な能力で、そこには無意識的であったにせよ合理性が含まれているのに対して、「直感」は感覚的であるがゆえに合理性に欠けるのですね。「無意識的な認知能力など存在するのか?」と訝る向きには、私めが現在鋭意翻訳中の神経科学者ジョセフ・ルドゥーの最新刊『The Four Realms of Existence: A New Theory of Being Human』を読まれたい(来年3月頃にわが訳で邦訳の刊行が予定されているのでその折に買ってね)。なお、「直観」には進化的な意味合いが含まれていると個人的には考えている。「直観」を「非理性的」なものと捉える見方は、最近では行動経済学が流布した都会の神話にすぎないことは、前出の『人は簡単には騙されない』や彼とダン・スペルベルの共著『The Enigma of Reason』や、このルドゥーの最新刊を読めばわかるはず。政治となると、生存や生活にかかわる直観よりもイデオロギーの影響が色濃くなる。だからメルシエ氏の言う「開かれた警戒システム」のチェックにかからないので誤りやすいのですね。それに対して直観は人間が進化の過程で獲得してきた能力なので、むしろ間違いは犯しにくい。さもなければ、とっくに人間は進化における競争の過程で淘汰されているはずだしね。単刀直入に結論を言えば、著者は「直観」ではなく「直感」と記述すべきだったと思う。私めのように認知科学や脳神経科学の本を四六時中読んだり訳したりしているため、どうしても「直観」と「直感」の違いが些細なことには思えないのですね。
またまた脱線してもたので新書本に戻ると、もちろん孤立を旨とする「孤立的民主主義」が称賛されているわけではない。次のようにある。「小倉は戦後日本を「孤立的民主主義」、朝鮮半島の両国を「大義的民主主義」と評する。北朝鮮の大義は「抗日」であり、韓国のそれは「反共」だった。そうした大義的民主主義が軍事独裁の形態をとるのは、ビーアドのテーゼ(大義的国家は必ず腐敗する)からすれば必然である。一方で、戦後日本は「大義」の道を採らず、日米安保体制の中で「過去の清算」を無視して孤立主義に甘んじてきた。「戦後リベラルという陣営は、何を勘違いしたのか、日本国憲法的民主主義に関してきわめて理想主義的な気分を高揚させつづけた。しかしそれは日本国内でだけ通用する態度なのである(83〜4頁)」。このような戦後リベラルの一国平和主義的な態度の問題は『日米同盟の地政学』などでも論じられていた。そこでも述べたように、個人的には戦後リベラルの態度は一国平和主義どころか、結果的に他国からはもっとも嫌われるフリーライダー主義と化していると思っている。
章題にある「デモ」に関しては次のようにある。「重要なことは、デモにおける直接民主主義の有効性を強調しようとすればするほど、議会制民主主義を否定するファシズムとの境界線が曖昧になるということである。例えば、直接民主主義的運動で多くの場合に採用される合意形成手段に「敵」の創出がある。共通の敵が明確に提示できさえすれば、敵への憎悪を軸に利害の異なる集団を結集できるからである。それは「わたしたちが九九%だ」を合い言葉としたオキュパイ[・ウォールストリート]運動における「一%」であり、潜在的被害者(国民すべてが該当する)である反原発デモ参加者における「原子力村」である。こうした「敵」への憎悪による統合戦略の最も成功した歴史的事例こそ、ナチズムの反ユダヤ主義だったといえるだろう。どんな崇高な目的を掲げる運動であれ、共感の動員には「敵」を創出する危険性がつきまとう(90〜1頁)」。ナチズムは右翼運動だけど、こういった「敵」を創出するデモは、革命権や抵抗権を擁護する左派も得意としてきた。元祖フランス革命のおふらんすなんぞ、現代でもよくデモ騒ぎを起こして車をひっくり返したり燃やしたりして、「パリは燃えているか?」と諸外国から揶揄されているよね。「パリは燃えているか?」はヒトラーのセリフだとはいえ、こうして見ると革命後のおふらんすにはナチズムと似たような側面があることがわかる。
ところで佐藤氏は、ここでは単に「共感」と記しているけど、先ほどあったように「認知的共感」ではなく、「情緒的共感(情動的共感)」を指しているはず。それに関連して佐藤氏は安倍氏のベストセラー『美しい国へ』を批判している。個人的には安倍氏にはすぐれた点もあったし(インド太平洋構想はその一つ)、問題もあったと思っているが、「美しい国」という言葉は後者に属し、のみならず非常に危険だと思っていた。このベストセラー本は読んでいないから安倍氏がどういう意味で「美しい国」と言ったのかはわからん。でも、ちょっと警戒すべき雰囲気が感じられるタイトルではある。そもそも「美しい国」という言い方は、「保守的」ではなく「国粋主義的」に響く。保守主義と国粋主義はまったく違う。左翼的なユートピア主義が将来に理想の世界を求めるのに対して、右翼的な国粋主義はベクトルが逆向きになって過去に理想の世界を求める。その点において、保守主義とは異なり、現在を軽視する点では左翼のユートピア主義も右翼の国粋主義も大差がない。よく言われるように、極左と極右は互いに非常に似たところがあるのも、両者とも根本的に、現実より理念や理想、すなわち観念に拘泥し、後者を前者に無理やり当てはめようとしているからだと思っている。
それから警戒すべきもう一つの理由は佐藤氏が説明している通りで、次のようにある。「「正しい日本」が「悪しき北朝鮮」を批判するという構図ならば、国際政治の議論の俎上にはのるだろう。安保理の制裁決議はその成果だと考えてもよい。もちろん「正しさ」の主張に説明責任が伴うことは自明である。しかし、「美しい日本」が「醜い北朝鮮」を非難するという図式は、戦争プロパガンダとしてはあるだろうが、その真偽を論じる余地がない。美醜を基準とする世論と、真偽を追究する輿論を意識的に区別する必要はここにも存在している。輿論は開かれた対話から生まれ、世論は内向きの共感から生まれる(96頁)」。ここで言われている共感も「情緒的共感」であり、政治の世界で情動的(情緒的)共感に依拠することがいかに危険かはブルームが『反共感論』で徹底的に論じている。それに対して輿論の源泉は、同じ共感でも「認知的共感」に求められると言えるのかもね。
その「情動」が章題に含まれているのが「第4章 情動社会」。なお佐藤氏は、「情動社会」の英語表記を「affect society」としている。ここではややこしくなるから説明しないが、実は認知科学では「アフェクト」という用語にはきわめて特定的な意味がある(「気分」に近いと考えればよい)。氏がその特定的な意味で「affect」を使用しているのか否かは定かでない。が、ここは普通に英語で言えば「emotion」の意味で用いているものと仮定しておく。また「感情」は「情動」作用が主観的に顕現したものと捉えておく。と前置きしたうえで、冒頭にある情動社会の定義を引用しておきましょう。それによると情動社会とは、「現実原理(遅延報酬)より快楽原理(即時報酬)が優先され、「メッセージの真偽を測る文脈」よりも「メディアの信疑を決める接続」に依拠する社会である(103頁)」。「メディアの信疑を決める接続」とは、ちょっとわかりにくい。「信疑を決めるメディアへの接続」という意味なのかな? よくわからん。いずれにせよ、この章に書かれていることも、これまでの章の繰り返しであるように思える。まあ書下ろしではない本にはよくあることで、それも一つの理由で書下ろしではない本はできる限り避けるようにしているわけだけどね。なので繰り返しになるかもだけど、次のようにある。「そもそも大衆政治が大衆参加を前提とする民主主義であるならば、理性的な討議よりも情緒的共感による参加=動員が重視されるのは当然である。それを可能にするマス・コミュニケーションと世論調査は、観客民主主義の有権者に参加感覚を与える制御システムとして編成されたものである。そしてメディアが「広告媒体」である限り、こうした世論調査システムは必要不可欠のものであった(109〜10頁)」。この記述はここまでの章のまとめて言っていいでしょう。ただ実のところ、この章を読んでも「情動社会」がいかなる社会なのかは、これまでの章に書かれていたこと以上にはよくわからなかった。「情動」というテーマは、わが訳書のなかでも、リサ・フェルドマン・バレット著『情動はこうしてつくられる』やバチャ・メスキータ著『文化はいかに情動をつくるのか』の主題でもあり、それとメディアの関連がわかるかもと期待していたから、肩透かしを食らった気分になってしまった。
とはいえ最後の節にある「報道の自由度ランキング」に関する記述が興味深かったので、それについて触れておきましょう。「報道の自由度ランキング」とは、「パリに本部を置くNGO「国境なき記者団」Reporters Without Bordersが二〇〇二年以降、二〇一一年をのぞいて毎年発行している(131頁)」もの。そして「二〇一六年度版[二〇一六年は該当論文が刊行された年]で日本の「報道の自由度」は一八〇国中、七二位に下落した(131頁)」のだそうな。でも私めには、「報道の自由度ランキング」なるものはどうにも怪しいとしか思えない。ちなみに、「報道の自由度ランキング」は次のようにして決められているらしい。「「報道の自由度ランキング」は当該国の専門家へのアンケートによる質的調査と「ジャーナリストに対する暴力の威嚇・行使」のデータを組み合わせて作成される。「専門家」とは報道関係者、弁護士、研究者などであり、彼らが前年比で報道の自由を実感できたか否かが大きなポイントとなる(133〜4頁)」。だとすると日本やアメリカのように左派が強い国では(報道関係者、弁護士、研究者には左派が多いと考えられる)、左派政権下ではたとえ「ジャーナリストに対する暴力の威嚇・行使」があったとしてもなかったと報告し、逆に安倍政権のような保守政権下ではなかったとしてもあったと報告する左派回答者が多い可能性が考えられる。実際、日本の順位は「二〇〇三年(小泉純一郎内閣)の四四位、二〇一〇年(鳩山由紀夫内閣)の一一位、二〇一六年(安倍晋三内閣)の七二位と大きく変動した(137頁)」とある。これってまさに日本のジャーナリズムが左派に牛耳られている証拠にすぎないのでは? どう考えても大手メディアがあれだけ叩きまくった安倍政権下で「報道の自由がない」などとは言えないよね。だから私めは「報道の自由度ランキングって、回答しているジャーナリスト自身が持つイデオロギー的な傾向がきちんと統計的にコントロールされているのだろうか?」と思わざるを得ない。さもなければ、「報道の自由を実感できたか否かが大きなポイントとなる」、言い換えれば事実ではなくジャーナリスト個人の主観が大きく左右する、そんなランキングなどまったく信用ならないとしか言えない。
もちろん、「私と同様、この「報道の自由度ランキング」に違和感をもったジャーナリストは少なくなかったようである(131〜3頁)」と述べている著者も、「報道の自由度ランキング」を信用しているわけではないらしい。ただ理由は、私めの場合とはやや異なる。そもそも個人の「実感」に依拠したランキングなど、学者先生さまからすればお話にならないのかも。ただここは著者自身の言葉を引用することにしましょう。次のようにある。「ランキングを作成する「国境なき記者団」は日本の「報道の自由度」下落の要因として、特定秘密保護法(二〇一三年)などの影響で日本の報道が自己検閲状況に陥っていることを挙げている。しかし、自己検閲をいうのであれば、それは近年に始まったわけでも、また安倍政権で急に強化されたわけでもない。そもそも特定秘密保護法にしてからが、その法案を準備したのは民主党の菅直人内閣である。二〇一〇年九月の尖閣諸島付近での中国漁船衝突事件のビデオ映像流出に対処する法整備が直接の動機だった。たとえ自己検閲状況が進んでいたとしても、それは特定秘密保護法制定よりも、先に述べた「内閣支持率政治」の影響の方が大きいと見るべきだろう。¶結局、「報道の自由度」を左右した専門家アンケートの回答も論理的な判断というより、ときどきの政治感情、いわゆる「空気」に左右されたものと言えよう(138〜9頁)」。先述したように、私めには「空気」より専門家自身の主観的なイデオロギー傾向が大きく反映されているように思えるけどね。ちなみに二〇一六年のランキングでは、北欧諸国が上位を占めているそうで、それを聞けば日本の出羽の守さんたちは大喜びしそうだよね。しかし現実は、それほど都合のよいものではないとのこと。次のようにある。「周知のように、北欧は人口統計と国民総番号制の発祥の地であり、情報統制先進国といってよい。人口統計は一七世紀後半にスウェーデンで教区ごとに個人の活動履歴を記録化するシステムとして始まり、それが行政に利用され「統計学」発展の基礎となった。そうした個人情報の集積をふまえてスウェーデンで一九四七年に全国民に背番号コード(PIN)が付与されている。こうした情報統制の徹底が北欧諸国で高度な福祉国家を実現したといって過言ではない(140〜1頁)」。
次の「第5章 快適メディア」では、非常に気になった記述を一箇所だけ取り上げるに留める。それは次のような記述。「見田[宗介]によれば、「歴史は加速する」という感覚を持つのは「団塊の世代」(一九四七年〜四九年生まれ)までであり、それ以降の世代は「歴史は減速ないし停止する」と認識している。歴史の停止とは、未来の目的の喪失を意味する。とはいえ、それは必ずしも「不幸な社会」ではなく、「幸福の高原」に導くと見田はいう。¶重要なことは、「変化意識の原則」や「幸福の高原」がネット革命で説明できないことである。それにもかかわらず、メディア論者は「ネットが意識を変える」と語りたがる。もちろん、正しくは「意識がネットを変える」のである。グーテンベルクの活版印刷術が近代人の意識を生んだのではない。むしろ、近代化した意識から活版印刷術の需要は生まれた(155〜6頁)」。見田氏の主張はいったい何を根拠にしているのかがこれではよくわからないのでここでは置いておく(アンケート調査の結果なのかな?)。気になったというのは後半なのですね。というのも個人的には、最新の認知科学や脳神経科学の成果、つまり生物と心と社会(環境、メディア)の相互作用(循環ループ)に関する発見を考慮すれば、「ネットが意識を変える」こともあれば「意識がネットを変える」こともあると考えているから。マーシャル・マクルーハンは「メディアはメッセージである」と主張した。つまりメディアは、無意識裏に認知を変えうるのですね。無意識的であろうが認知は、何らかの形態で意識に影響を及ぼしうる。というのも意識の基盤には認知が存在するから(それについては先述のジョセフ・ルドゥーの最新刊『The Four Realms of Existence』を参照されたい)。確かにマクルーハンは、科学的な根拠を提示していないが、その根拠は現代の認知科学や脳神経科学によって明らかになりつつあると個人的には考えている。しかしいずれにせよ科学を問題にするのであれば、この佐藤氏の主張も「ネットが意識を変える」という言説が間違いであることを示す科学的な根拠をまったく示していない(サイエンス本ではないということなのかもしれないが)。それどころかネットも環境の一構成要素なのだから、生物と心と社会(環境、メディア)の相互作用(循環ループ)という脳神経科学や認知科学における最新の知見に照らせば、「ネットが意識を変える」ことは必然であるように思える。現代においては、メディア論は認知科学や脳神経科学の裏づけがなければ、説得力がないようにどうしても感じられてしまうのですね。また、「グーテンベルクの活版印刷術が近代人の意識を生んだのではない。むしろ、近代化した意識から活版印刷術の需要は生まれた」というくだりも、なぜそう言い切れるのかがよくわからない。個人的には、これも心(近代人の意識)と、社会の一要素をなすメディア(活版印刷術)のあいだの相互作用的、あるいは循環的なプロセスをなすように思えてしまう。
「第6章 ネガティブ・リテラシー」では、冒頭で言及した「ネガティブ・リテラシー」について論じられている。最初にウクライナ戦争におけるロシア、ウクライナ両国のプロパガンダ戦略について述べられている。そしてプロパガンダ一般に関して次のようにある。「プロパガンダの発信者はその効果の最大化をめざしているが、より正確に言えば、プロパガンダの限定的な効果が過大に評価されることを狙っている。デジタル革命がプロパガンダのゲームを根本から変えたという{類/たぐい}の主張は、むしろプロパガンダ効果を人びとに過大評価させるために使われるレトリックと考えるべきだろう(178頁)」。この見解にはまったく同意する。その理由はここでは述べないが、ぜひわが訳書、ヒューゴ・メルシエ著『人は簡単には騙されない』を読んでみておくんなまし。ではそのようなプロパガンダにいかに対処すればよいのか? その一つとして予想通りまず「メディアリテラシー」があげられ、それについて次のようにある。「多くの場合、メディアリテラシーは「メディアを批判的に読み解く力」と理解されており、そのためには批判的思考(クリティカルシンキング)が必要だと考えられてきた(188〜9頁)」。ちなみに「批判的思考」は「吟味思考」とも呼ばれるとのこと。しかし著者によれば、ネット全盛の現代においてはそれだけでは不十分だと主張する。次のようにある。「メディアリテラシー教育論が楽観的に見えるのは、それが市民新聞――{大衆新聞/マス・ペーパー}の対義語――の黄金時代に活躍したデューイの思想的系譜に連なるためでもあろう。人間の自発性を重視するデューイの教育論は、わかりやすく言えば市民新聞の読者層、あるいは教育市民層の教育論である。だが、現在のメディアリテラシーの困難性は、そうした市民新聞(高級新聞)の読者モデルが一般化できるメディア環境ではなくなったことではないだろうか。その点ではSNS普及の影響が大きい。SNSは個人の情報発信力を飛躍的に高めるとともに、レコメンデーション(推奨)システムで大量のパーソナライズされたフィルターバブルの情報伝達を可能にしている(190頁)」。あるいは次のようにある。「そもそも、サイバーシティズン(電脳市民)がどれほどクリティカルシンキング(吟味思考)をマスターしたところで、情報の真偽がそう簡単に見分けられると考えるべきではない。私たちが何かの専門家になるということは、別の何かの専門家ではないということを意味する。あらゆる領域で情報の真偽を見分ける能力など、たとえ情報分析のプロフェッショナルであっても個人的には持ち合わせていない(191頁)」。
まあ昨今よく言われることではあれ、確かに今日のネット社会では、「メディアリテラシー」というお題目を掲げただけではどうにもならないような気もする。というのも、現代においてもっとも「メディアリテラシー」が問われるのは、多かれ少なかれ政治的なコノテーションを孕んだ言説の受容をめぐってであり、政治的言説はイデオロギーの影響を強く受ける。そしてメルシエ氏の用語を借りれば、イデオロギーは反省的に保たれているがゆえに「開かれた警戒メカニズム」のチェックを受けつけないのですね。そこで著者は「あいまい情報に耐える」能力、つまり「情報をやり過ごし、不用意に発信しない力」を培うことを提言する。次のようにある。「あいまい情報をやり過ごし、不用意に発信しない思考がクリティカルシンキングであるのならば、それは「耐性思考」とでも呼ぶべきなのであるまいか(195頁)」。
そして著者は、本章を、言い換えると本書を次のような言葉で締めくくっている。「これまで、私たちはリテラシーの向上ばかりに目を向けてきたわけだが、それは情報が稀少だった二〇世紀までの伝統である。むしろ、情報過剰時代の今日、「読み過ぎず、不用意に書きこまない能力」であるネガティブ・リテラシーをアクティブに求めることが必要となる。¶このネガティブ・リテラシーの中核にあるクリティカルシンキングを前節で「耐性思考」と呼んだ。そして私は輿論(公的意見)と世論(私的心情)を区別する基準として時間耐性の強度を挙げてきた。その時間耐性の強さゆえに、世論調査の数字よりも専門家の意見により大きな関心を抱いてきたのである。もちろん、そうした国民感情と専門家の意見をすりあわせ、世論を輿論にまとめあげることが、成熟した民主主義には求められる。その意味でも本書冒頭で紹介したように、デモクラシーが大正時代に「輿論主義」と訳されたことを、もう一度書き留めておきたい(205頁)」。
ということで、書下ろしではないためかやはり重複が多いという印象を強く受けた。また「直観」は「直感」としたほうが意味を明確にすることができたはずである点と、それにも関係するけど、やはり最新の認知科学や脳神経科学の裏づけがないために説得力に欠ける部分があった点がやや気になった。とはいえ、それは細かな問題と言えば細かな問題であり、認知科学や脳神経科学の本を日頃読んだり訳したりしている私めなので気になるだけなのかもしれない。いずれにせよ、とりわけ「輿論」と「世論」の違いなど、これまで考えてみたことがなかった指摘もあって非常に役立った。
※2024年9月9日