◎小原雅博著『戦争と平和の国際政治』(ちくま新書)

 

 

いくつか細かい点を除けばおおむね同意できる内容だったけど、まずは同意できなかった点を二つほどあげておく。

 

一つは「ナショナリズム」という用語をその定義を明確にしないまま使っている点(この問題は他の本にもよく見られることだけど)。たとえば第一章で、中国に関して次のように書かれている。「中国は「中華民族」の名の下にチベット、ウイグル、モンゴルなどの少数民族の文化や言語の同化を強行する。台湾人アイデンティティーが支配的となった台湾との関係も含め、「大きなナショナリズム」が「小さなナショナリズム」を飲み込むダイナミズムと見ることもできよう(64頁)」。しかし今の中国はイコール特定のイデオロギーを固守する中共であって、彼らがやっていることは「ナショナリズム」ではなく拡張主義、つまり「インペリアリズム(帝国主義)」と見るべきだと思う。

 

確かに、「ゲルマン民族」を理想化したナチスや、「偉大なロシア」を標榜するプーチンの例を見ればわかるように、「ナショナリズム」や「民族主義」が「帝国主義」に利用されやすいのは確かだけど、第二次大戦直後、アジアやアフリカを「帝国主義」の軛から解放する原動力になったのも「ナショナリズム」や「民族主義」であった点を考えれば、「帝国主義」の本質が「ナショナリズム」にあるわけでも、ましてや「ナショナリズム」の本質が「帝国主義」にあるわけでもないことがよくわかるはず。

 

そもそも個人的な考えでは、「ナショナリズム」とは、最適な生活圏という粒度の問題も含んでいるのであり、よって「大きな(小さな)ナショナリズム」という言い方は撞着語法でしかないと思う。それらの点を明確にしておかないと、「ナショナリズム=悪」と一方的に喧伝する左派メディアや左派学者の単純極まりない印象操作に簡単に乗せられかねない。

 

ただし本書の著者自身は、高坂正堯への言及があることからもわかるようにリアリストであって、少なくとも国家安全保障をないがしろにする日本型リベラルではないと思う。また、プーチンが拡張主義を糊塗するためにナショナリズム的な言説を利用していると著者自身も考えていると思しき記述があるけど、それについてはあとで述べる。

 

それからもう一つの同意できなかったこととは些細な点だけど、学者が書いた最近の本で類似の記述をよく見かけることもあってあえて指摘しておく。それはトランプが例の議事堂襲撃を煽動したかのようにも読める記述があること(それ以外にもあちこちで、いささか感情的ともとれるトランプ批判を繰り返しているけど、それらについてはとりあえず置く)。

 

確かにトランプは、首都へ集まるようツイッターで呼びかけていたようだけど(それだけをもって民主主義を危機に陥れたと非難するのであれば、日本の国会前に集まってデモしている人々やそれを主催している人々にも同じことが当てはまる)、当時FOXがストリームで流していた彼の演説をリアルタイムで聴いていた私めには、少なくとも彼が例の襲撃自体を煽動したわけでないことは明白なんだよね。

 

もし彼が言った何らかの言葉が襲撃の合図だった、あるいはすでに裏で糸を引いていたなどと言い出すのなら、それはそうであった証拠を示さない限り単なる陰謀論でしかないし、逆に、あれは民主党のいわゆる偽旗作戦だったという熱狂的なトランプ支持者の主張にもマジで取り合わなければならなくなる(偽旗作戦自体は古来より行なわれてきた悪辣ながら有効な戦術だしね)。

 

下院で委員会が開かれていて、現在でもその件が追及されているらしいけど、それは劇場政治の最たるもの(ちなみに著者はトランプの北朝鮮対応に対して「劇場型」という言葉を使っている)、もっと言えば魔女裁判でしかないと思う。ブッシュ政権の副大統領でネオコンのチェイニーの娘(共和党)をトップに据えていること自体、それがまさに劇場政治であることを示していると言えるかもね。学者がその手の劇場政治につき合うのはどうかと思う。

 

それから例の襲撃事件自体とは直接的には関係しないけど、彼のツイアカウントがバンされたいきさつが最近ツイッターファイルで暴露されつつある。ここでその内容に触れることはしないけど、以前から私めはSNSの問題は利用者よりもむしろプラットフォーム提供者のほうにこそあるとツイしていたんだけど、要はそれを裏づける証拠が出てきたわけね。

 

トランプにもいい点もあればまずい点もいくらでもあるのは確かだけど、あのツイッター社のやり方は、何らかの力を握った輩どもが自分の気に入らない発言を封殺するというファシストの手口と何ら変わらなかったと思う。だからバリバリのリベラルのメルケル氏でさえ、ツイッター社のやり口を非難していた。

 

以上の個人的な不満は本書の本筋に対するものではないし、脱線がひどくなってきたこともあり、そのくらいにしておく。以後は、興味があった章だけを取り上げることにしましょう。

 

「第2章 カギを握る戦略とインテリジェンス」では安全保障における戦略とインテリジェンスの重要性が説かれている。冒頭で有名なバーリンのハリネズミのたとえ(「狐はたくさんのことを知っているが、ハリネズミは大きいことを一つだけ知っている(102頁)」)に言及して次のように述べる。「バーリンは、「物事を見比べる狐の視点こそが本物の研究の出発点になる」と力説した。筆者は、東京大学の講義で、「批判的思考(critical thinking)」を重視した。それは、自説に固執せず、新たな要素の発見や状況の変化に応じて柔軟に考えを修正していく思考法である。そんな思考はハリネズミにはできず、狐にこそ可能である。ハリネズミは明快でわかりやすく、大衆受けする。しかし、その一本調子な強気の自説展開では国際情勢の変化を見失い、将来を正確に見通すことはできない。昔も今も、こうした「識者」や「専門家」は少なくない(102頁)」。

 

まさにリアリストの面目躍如って感じだね。とりわけ安全保障のような国家の一大事を考える際には、固定化された理念に基づいて考えると、非常にヤバい事態を招きかねない。もちろんバーリンのハリネズミ論には批判も多いようだけど(ドゥオーキン著『ハリネズミの正義』はその典型なんだろうね。あの本、刊行直後に原書を買って一度読み通したことがあるけど、率直に言って難しくてよくわからなかった)、少なくとも安全保障に関しては正鵠を射ていると思う。

 

次の「第3章 日本を取り巻く危機」では安全保障をめぐる日本の現状が解説されている。ネットでタダで読める「防衛白書」も読むことをお勧めするけど、本書ではとりわけ中国、というより中共のやり口に関して、国連憲章、国連海洋法などの国際法の観点からもかなり詳しく論じられている。

 

そのなかでも中共の法解釈に関する話はおもろい。『中国共産党、その百年』にも似たようなことが書かれていて、以前それを引用した覚えがあるので繰り返しになるけど、次のようにある。「「法の支配」とは法の絶対的優位と法の前での平等を意味する。これに対し、中国の「法治」とは「法による支配」を意味し、それは中国共産党が法を作り、解釈し、適用することによって政治的目的を達成することを意味する(166頁)」。

 

早い話が中共にとっては「中国共産党のイデオロギー>>>>>>>>>国際法」ということで、国防総動員法のような外国でさえ影響を受けかねないトンデモ法を涼しい顔をして制定しているのは、まさにこのひっくり返った不等式が彼らの考えの基盤にあるからだろうね。まずそこを理解しておかないと、日本の対中国安全保障の議論は始まらない。

 

次に「序章 ロシアによるウクライナ侵攻の衝撃」とともに今回のロシアの暴挙を扱った「第4章 プーチンの戦争」を取り上げましょう。今やこの手の国家安全保障を扱う本では、この件を扱わなければ片手落ち(って差別用語?)どころか両手両足落ちと言われても仕方がない状況になった。

 

まず先に述べたように、プーチンの言説に現れるナショナリズムは、拡張主義を糊塗するものであると著者自身も考えていると思しき記述がある点を指摘しておく。たとえば次のようにある。「プーチン大統領は、こうした祖国防衛の歴史に思いを馳せ、偉大なロシアの物語を国民と共有することで、愛国心を掻き立て、ウクライナ侵攻を正当化する。赤の広場を行進する軍の中に見えたソ連邦の国旗は、かつて米国と覇を競った超大国の復活を夢見る権力者の時代錯誤を感じさせた(262頁)」。まさにプーチンが、己の帝国主義的な覇権主義を隠すためにナショナリズム的なナラティブを利用していることをみごとに喝破している。

 

なお294頁の注4にあるように、ロシアを「帝国」と呼べるか否かに関しては論議がある。確かに軍事大国、資源大国ではあっても、GDPは韓国以下の経済弱小国のロシアを「帝国」とは呼びにくい。でも、少なくとも独裁者たるプーチンの頭のなかは、前述のとおり「帝国主義」に染まっている。

 

ウクライナの件に関して言えば、特に引用はしないけどとりわけ288頁以後の「ウクライナ戦争の影響と含意」という節は、日本も大いに関係する話だし読み飛ばさないようにしましょう。ただその節の直前にある記述は非常に重要なので引用しておく。「二一世紀、ロシアに限らず、中国などの権威主義国家はデジタル化された監視と組織化された暴力によって権力構造を強め、対外的には、自由で開かれた法の支配に基づく国際秩序に挑戦し、破壊せんと蠢いている。(…)非リベラルな秩序の広がりを阻むためのリベラル諸国の結束が求められている(287〜8頁)」。

 

この認識は今や決定的に重要なものになっていると思う。にもかかわらず、日本ではまさにそのリベラルを自称する人々のなかに、さすがにロシアを擁護する人はごく少数であったにせよ、以前取り上げた『世界正義論』(筑摩選書)で、バリバリのリベラリストの井上達夫氏が否定的に述べている諦観的平和主義の立場に基づいてウクライナ降伏論を唱える人々を見かけた。その立場は結局、自分たちが否定しているはずの権威主義国家に対して決定的に利する結果になると言わざるを得ない。かつて自由を守るために世界中からスペインに結集してファシストのフランコ軍と闘った人々が、リベラルの典型だと考えていた私めには、そのような態度はまったく理解できない。

 

安部氏がお星さまになったときも、彼が言い出しっぺの「開かれたインド太平洋構想」に関して、アメリカの左派紙でさえ彼を評価していたのに、日本の左派主流メディアは、それにはまったく触れず彼を叩くことしかしていなかった。もちろん彼にはまずい面もたくさんあったけど、認めるべきところは認めないと、中国などの権威主義国家にいいように操られる。

 

残りの二章については、気になった点を二つだけあげておきましょう。一つは非常に些細な点だけど、郵便投票の禁止を非難している点。私めは、少なくとも現時点では特例を除いて郵便投票は認められるべきではないと思っている。というのも、例の大統領選のとき、5州で不正に関する公聴会が開かれていたけど(日本の左派メディアはまったく報道していなかったと思うけど、公聴会自体はネットで放映されていたので、もちろん全部ではないが、私めはいくつか部分的に見た)、私めが見た範囲で言えば、そこであがった不正の多くが郵便投票に関連するものだったということが一つにはある。

 

ちなみに証言した人たちは宣誓供述書を書いているので、嘘をついてそれがバレれば罰金刑、もしくは確か10年以下の懲役刑が課されるはず。いずれにせよ普通に考えても、通常の投票より、郵便投票では不正がしやすいであろうことは容易に推測できるわけであり、少なくともそこであがったさまざまな問題が解決されるまでは郵便投票を一般化するべきではないと思う。ただし例の大統領選ではコロナが流行していたこともあり、ある程度仕方がない面もあったんだろうけど、現状では無条件に郵便投票を認めることには、メリットよりデメリットのほうが大きいと思う。

 

それから著者はトランプの「アメリカ第一主義」を非難しているけど(ちなみに日本は日本第一主義でやればいいというようなこともトランプは言っていたので、正確には「自国第一主義」と言うべき)、彼の「自国第一主義」は粒度に応じて半分正しく、半分間違っていると思う。

 

つまり自国民の生活がかかるレベル(私めはこれを精神科医の兼本氏の本に啓発されて「了解レベル」と呼んでいる)では「自国第一主義」はまったく間違っていない。とはいえトランプは、国際的なレベル(私めはこれを「説明レベル」と呼んでいる)でしか解決できない事象にまでそれを拡大適用し、国際条約から抜けるなどしている点では間違っている。

 

了解レベルでは、まず自国民の生活を安定させることが第一であって、それに失敗したら、下手をすれば自国自体が難民流出国になる可能性すらある。そもそも歴史上、あるいは最近になって難民を出している国は、ほぼ間違いなく戦争、内戦、悪政などのせいで国民の生活が安定していない国であることを忘れてはならない。その意味において自国を優先させるのは当然だと言える。

 

説明レベルの問題で典型的なのは、「終章 危機の行方」でも言及されている気候変動問題で、トランプによるパリ協定からの離脱は、その目標の実効性が疑問視されるとしてもまったくの間違いだと思う。また中国との力のバランスを取るために、アメリカが引き籠るのはまずいというまさにリアリストの観点からの批判もあるけど、対ロシアは別としてもトランプは対中強硬派だったし、そもそも「アメリカは世界の警察ではいられない」と最初に言い出したのは、トランプではなく後期のオバマだったことを忘れてはならない。

 

要するに私めが言いたいのは、タレブ氏が「Things don’t scale」と述べているように、粒度が異なればなすべきことも異なるのであって、粒度の異なる事象を十羽ひとからげに論ずるべきではないということ。

 

 

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※2023年4月28日