◎篠田英朗著『戦争の地政学』(講談社現代新書)
先日取り上げた『封じ込めの地政学』に続く、地政学関連の本になるけど、著者の篠田氏の本はけっこう読んでいるし、国際政治チャンネルなどのユーチューブ動画も見ている(ただ有料の部分は見ていない)。しかも地政学には大いに関心があるので、本書を読まないという選択肢は私めにはなかった。
まず本書の目的が冒頭で明記されているので、それについて取り上げてみましょう。次のようにある。「地政学の視点が明らかにする国際紛争の構図は、どのようなものか。¶本書はこの問いに取り組む。地政学の視点を用いて、国際政治情勢を見ていく。安全保障の分野に特に焦点をあてながら、地政学の視点が、どのような有用性を持っているのかも考える。そこで本書が特に重視するのは、異なる地政学の視点が映し出す世界観の違いである(3頁)」。
それに続いて地政学の意義が次のように語られる。「人間を取り囲む地理的事情が、人間生活に影響を与えていないはずはない。そうだとすれば、地理的事情に起因する構造に着目して国際情勢を分析することには、有用性があるはずだ。そのような洞察から、地政学の視点が生まれてくる。¶人間は、外界の環境を、根本的には変えられない。{…}ましてや特定の地理的環境の中で培われてきた人間集団の歴史的・文化的・社会的な事情は、一朝一夕には変えられない。¶そうだとすれば、それらの構造的な要因について、あらかじめ十分な注意を払っておき、具体的な現象の背景にも構造的な要因が働いているのではないかと推察して分析を試みることには、常に一定の有用性があるだろう(3〜4頁)」。
つまり地政学の目的は、基本的に不変の地理的事情、さらには一朝一夕には変わらない(が長期的には漸次的に変化していく)歴史的・文化的・社会的な事情の背後に潜む構造的な要因を摘出することにあることになる。したがって国際関係や自国の安全保障は、各国が有する歴史的・文化的・社会的な事情を勘案して検討される必要がある。この本は、以上のように地政学の意義や目的を明確化したあと本論に入る。
まず「第1部 地政学とは何か」では、英米系地政学と大陸系地政学の考え方の違いが説明されている。前者に属する地政学者としては、ハルフォード・マッキンダーとニコラス・スパイクマンが、後者に属する地政学者としてはカール・ハウスホーファーとカール・シュミットが取り上げられている。ここで注意しなければならないのは、これら二つの地政学の考え方は、単に学問上の派閥のごときものであるのみならず、14頁に「しかし、本書は、両者はもっと根源的な世界観の違いを代表している、とみなす。しかも現実世界の人間の対立にも深く反映されている、と論じる」とあるように現実的、実践的な政策上の違いをも生み出しているという点。
次に歴史的な順序に従って、まず大陸系地政学について論じられており、その起源をヘーゲルに影響を受けたドイツの国法学、国家有機体論に求めている。そしてそのような見方に対抗するものとして、英米の立憲主義に基づく英米系地政学が生まれたとしている。これら二つの地政学に関して著者が取る態度は次のようなものになる。「マッキンダーを中心にした現代的な地政学は、現代の政策論の基本的な視座になるものだ。これはもともとのドイツ的な国家有機体説に起源を持つ「ゲオポリティーク」としての地政学とは区別される。ただし本書は、もともとのゲオポリティークとしての地政学[大陸系地政学]と、マッキンダー以降に主に英米圏で隆盛した地政学の視点の双方を、併存するものとして受け入れはする。二つの異なる地政学は、構造的な対立を見せながら、現代にも存在する。むしろ二つの異なる地政学にそって国際情勢を見ることこそが、現代世界の構造的な対立を捉えることにつながる(35頁)」。
次に著者は、英米系地政学を代表するマッキンダーの理論と、大陸系地政学を代表するハウスホーファーの理論を紹介する。マッキンダーの理論については次のようにある。「マッキンダー理論では、「歴史の地理的回転軸」が、必然的に膨張政策をとるハートランドのランド・パワーに見出される。そして「回転軸」を取り囲むシー・パワーが、必然的に封じ込め政策をとることによって、歴史は展開していく。マッキンダー理論では、世界は二元的である。ランド・パワーとシー・パワーの世界とは、膨張主義と封じ込めの勢力が織りなす二元的な世界である。両者は、現状改編的勢力と、現状維持的勢力と表現してもいい。あるいは領土拡張主義の勢力と、ネットワーク重視の勢力と言い換えることもできる(51頁)」。
それに対してハウスホーファーの理論については次のように述べている。「これに対してハウスホーファーの理論では、世界は地域ごとの強者が持つ影響力によって編成されるいくつかの圏域に分かれている多元性を持つ。この世界で重要なのは、どの民族国家が自らの「生存圏」を保持できる実力を持っているか、その実力にみあった「生存圏」はどれくらいの範囲に及ぶべきものか、複数の「生存圏」の関係はどのように維持されるか、といった点である。それぞれの「生存圏」の覇権的勢力が、お互いの「生存圏」の存在を相互に認め合うことが、安定性につながる。それぞれの「生存圏」の覇権的勢力が、他の「生存圏」を侵害する場合には、その勢力は秩序{攪乱/かくらん}者となる(51頁)」。
ちなみに『封じ込めの地政学』はタイトルに「封じ込め」とあるように英米系地政学の観点からの国際関係に関する見方が提示されていたと言うことができ、したがってマッキンダーやスパイクマンへの言及はあっても、ハウスホーファーへの言及は、ナチスが手前に都合のいいように彼の理論を利用したことで、地政学が戦後しばらく不遇をかこってきたという文脈でしか語られておらず、シュミットに至ってはひとことも言及されていなかった。
それから『封じ込めの地政学』のレビューのなかで私めは、「こうしてみると日本が戦前、戦後に犯した最大の過ちとは、本来ユーラシア大陸の周縁部に位置する島国国家であり、シー・パワーに属し、イギリスとよく似た境遇にある日本がランド・パワーの大国ドイツと同盟を結んで、シー・パワーの大国たる英米と一戦を交えた点にあることがよくわかる」と書いたことも、英米系地政学から導き出される必然的な見方だったと言える。とりわけ戦前の日本が「大東亜共栄圏」のような考えを持ち出したのは(これについては『大東亜共栄圏』を参考のこと)、ドイツ流の地政学的見方に囚われた結果と言えるかもしれないよね。
また『封じ込めの地政学』のレビューで、私めは「安部氏がお星さまになったとき、米英では左派メディアでさえ、(左派メディアだけにright-orientedという批判はあったにせよ)彼のインド太平洋構想をこぞって称賛していたのは、まさにシー・パワーに属する米英が、同じくシー・パワーに属する日本の政治家が、第二次大戦時とは違ってシー・パワーに徹する役割を担うことを自ら提唱し、のみならずそれをQUADという形態で具体化していったから、その点を評価せざるを得なかったのだろうと思う」と書いたんだけど、このことは、英米では左派のジャーナリズムにも、英米系地政学が浸透していることの証左になるでしょうね。
それに対して日本には、戦前の政治家たち同様、ランド・パワーに属するドイツを何かにつけて持ち上げたがる人々がいるけど、ランド・パワーの雄として最近頭角を現してきた、拡張主義的な専制国家中国に接近するなどの動きも見せているドイツ(たとえばこの記事を参照されたい)には、英米流地政学の知見からしてもやはり注意を怠ってはならんと思う。明治憲法の制定時からドイツ国法学の影響を受け、ドイツ産の「生存圏(Lebensraum)」の考えに基づく「大東亜共栄圏」のような広域的、拡張主義的な見方に染まっていくなど、日本はこれまでドイツの影響を受けて奈落の底に沈んでいったことを忘れるべきではない。
ドイツさんは、ヒトラーのような人物こそいなくなりはしたけど、今も昔も本質的に変わっておらずヤバいんだって! 原発全廃の件だって、『知っておきたい地球科学』を取り上げたときに私めが述べたように、「電力が足りなくなると周辺国から原発で発電した電気を買っているようだし。これって危険(ドイツは原発を全廃したのだから、原発は危険と考えていることになる)をアウトソーシングしているに等しいんだから、一種の経済的帝国主義と言える」んだよね。要はドイツさんのええ格好しいに騙されて、戦前の日本のようになったらあかんってこと。
次にマッキンダーの後継者スパイクマンと、ハウスホーファーの後継者シュミットについて説明されているけど、まずはスパイクマンから。スパイクマンは、マッキンダーのシー・パワーとランド・パワーという概念を受け継いだ上で、ユーラシア大陸の外周をなす「リムランド」という概念をつけ加え、篠田氏によれば、「スパイクマンは、マッキンダーのヨーロッパ中心主義を修正する意図で、世界島[ユーラシア大陸+アフリカ大陸]の運命は、リムランドの趨勢によって決せられると洞察した(57〜8頁)」のだそうな。要するにシー・パワーは、ランド・パワーの覇権国にリムランドを完全に支配されることを何としでも避けなければならんってことね。
それから次に取り上げられるのが、ナチの御用学者でもあったカール・シュミット。シュミットは政治思想家ではあっても地政学とは無縁の人物だと思っていた人も多いはず(私めもそうだけど)。というより篠田氏もそう思われることを予想してか、次のように書いている。「シュミットを地政学の理論家として扱うのは、一般的ではないかもしれない。しかしそれはシュミットにおいて地政学に関わる議論が欠落していたからではなく、法学や政治思想の分野で、早くから巨大な足跡を残していたからだ(64頁)」。
さてそのシュミットの地政学に関する考えは、次のようなものだったらしい。「『大地のノモス』[1950年に公刊されたシュミットの著書]においてシュミットは、19世紀に頂点に達したヨーロッパ公法の時代の国際秩序を、人格を持った政治共同体間の水平的な国際法秩序として描き出す。大陸系地政学の特徴の一つである有機体的国家を彷彿させながら、「主権的な人格」を持つ権力構成体としての国家を、シュミットは「大いなる人間たち(große Menschen)」と呼ぶ。「同等のものは、同等のものに裁判権を持たず」という論理構成に依拠した、「彼らのおのおのは、戦争についての平等な権利を、平等の・戦争を行なう権利(jus ad bellum)をもつ」秩序観を作り出した。言うまでもなく、これは、いわゆる「無差別戦争観」として知られている公法秩序のことである(66〜7頁)」。
この考えは、英米系地政学に真っ向から対立するわけだけど、それについては次のようにある。「アメリカの主導で戦争が違法化された20世紀の「国際法の構造転換」は、この「無差別戦争観」のヨーロッパ公法秩序を廃止した。シュミットは、この時代の流れに抗した。¶シュミットが20世紀国際法の普遍主義を批判するのは、それが「場所確定」を破壊する「場所喪失」をもたらすからだ。シュミットは、普遍化しえない具体的な場所の秩序として、例外主義的な決断主義によって成り立つ国家秩序を擁護した。そして主権者が行う戦争に、法的地位の違いを見出さない「無差別戦争観」を擁護した(67頁)」。
この記述に関しては二点補足しておきたい。一つは、「アメリカの主導で戦争が違法化された20世紀の「国際法の構造転換」」とは、ウッドロウ・ウィルソンが提唱した国際連盟と、その後継機関である国際連合によって統制される国際秩序を指すと思われるけど、アメリカ議会は結局、その国際連盟に加盟しないという決定を下したことからもわかるように、アメリカ自身がアメリカの主導で形成された国際秩序に完全にコミットしていたとは言えない側面があること。だからアメリカとのちの国際連合との関係も非常に微妙で、それについては最上敏樹著『国連とアメリカ』(岩波新書,2005年)などを参照されたい。
もう一つは、「シュミットが20世紀国際法の普遍主義を批判するのは、それが「場所確定」を破壊する「場所喪失」をもたらすからだ。シュミットは、普遍化しえない具体的な場所の秩序として、例外主義的な決断主義によって成り立つ国家秩序によって成り立つ国際秩序を擁護した」というシュミットの考えは、個人的にはある程度理解できる部分があること。というのも「場所」を「中間粒度」と置き換えれば、私めの考えと大差はないから。ただしそれは20世紀国際法が普遍主義的な強制力であると考えた場合にのみそう言える。でも私めは英米系地政学に基づいて成立した国連憲章などの国際法は、普遍主義的強制力なのではなく国際主義的強制力だと考えている。
これまで何度も指摘してきたけど、普遍主義と国際主義は意味がまったく違う。ちなみに私めの定義では、『グローバリゼーション』を取り上げたときに述べたように、普遍主義は「世の中のあらゆるもののごとに関して粒度の相違をなしくずしにして一元的、均質的なものにしようとする見方」を指し、それに対して国際主義は「生活圏として機能する中間粒度(その最大の実体は国家になる)を維持しつつ、それを基盤としてより粒度の大きな国際関係を連邦的なあり方で構築していこうとする見方」を指す。この区分からすると、英米系地政学が目指す国際秩序とは、普遍主義ではなく国際主義の見方に基づいていると私めは考えている。というのも、そもそも英米系地政学は前述のとおり「ネットワーク重視」の見方であり、ネットワークはノード(この場合では国家)の存在を前提にしなければ成立し得ないわけであって、したがって国家という中間粒度と、諸国家のネットワークという、より包括的な粒度の二つの粒度を前提としているはずだから。
よって私めの考えでは、シュミットが20世紀国際法の普遍主義を批判して、そのような批判を行なったのなら、それはシュミットの見立て違いであったことになると思う。というのも20世紀国際法は普遍主義ではなく国際主義に基づいていると考えれば、その国際法が中間粒度をなす「場所の喪失」をもたらすとは言えなくなるから。とはいえ「モンロー・ドクトリンは、当初から普遍主義の理念的要素を内包していた(97頁)」などといった記述も見られるので、もしかして20世紀国際法に関しては篠田氏自身が普遍主義的と見なしている可能性はある。本書にはそれに類する記述が他にもかなり見られ、その点は大いに気になった。それについては、以下に述べるウィルソンの見方からしても少し奇異に思え、要は篠田氏自身が普遍主義と国際主義を明確に区別していないことを意味するのかもしらん。
いずれにしてもシュミットについては、彼の危機の政治学(これについては牧野雅彦著『危機の政治学 カール・シュミット入門』(講談社選書メチエ,2018年)などを参照されたい)がコロナパンデミックやウクライナ戦争が起こってから再び注目を浴び始めていることもあり(新書や選書のような一般向けの本でさえ取り上げられている)、現代においては十分に注意した上で注目すべき政治思想家での一人あることに間違いはないでしょうね。
さて「第2部 地政学から見た戦争の歴史」では、以上の地政学の見方を「近代のヨーロッパの国際政治と、20世紀の冷戦時代の国際政治、そして2022年ロシア・ウクライナ戦争へと連なる冷戦終焉後の時代の国際政治に(76頁)」当てはめて検証している。とはいえ長くなるので、ここでは今や誰もが関心を抱いているであろうウクライナ戦争に関する部分をおもに取り上げることにする。
ただし20世紀の冷戦が取り上げられている「第5章 地政学から見た20世紀の冷戦」に、「モンロー・ドクトリン」の解釈に関して興味深いことが書かれていたのでそれについてのみ述べておく。たいていの人は「モンロー・ドクトリン」とはいわば引き籠り主義のことだという印象を持っているはず(かく言う私めもそう思っていた)。ところが篠田氏によればそうではないらしい。次のようにある。「アメリカは、孤立しているのではなく、ヨーロッパの帝国主義国家の拡張政策を封じ込めているのである。モンロー・ドクトリンの「新世界」は、20世紀後半の国連憲章体制の世界が集団的自衛権と呼んでいるものによって成り立たせた秩序空間の萌芽であった(95頁)」。ということは、『封じ込めの地政学』でも述べられている第二次大戦後のアメリカの封じ込め政策は、実のところ「モンロー・ドクトリン」に基づいたものであり、「モンロー・ドクトリン」それ自体が単なる引き籠り主義ではないということになる。
それからそれに続く、「ウィルソン大統領にとって、モンロー・ドクトリンの秩序は、合衆国憲法によって主権を持った州(State)が集団的に作って維持している憲法秩序の延長線上に見出されるべきものであった(95頁)」という指摘は興味深い。というのは、ウィルソンが構想していた国際秩序とは、少なくとも二段階の粒度を持つ連邦組織的なものであったことを意味するから。『よみがえる田園都市国家』で著者の佐藤氏が、アダム・スミスに関して「ある意味でのナショナリストでもあり、思想的系譜としては、各国の政治的主権と経済的・社会的・文化的個性を尊重した上で、国家間の利害の衝突を国際法によって調整し抑制す[る]ことを目指したH・グロチウスの「国際主義(internationalism)」の伝統に属しているのである」と書いているけど、ウィルソンもその系譜に入るのかもしれないね。だからそれによってもシュミットが20世紀国際法を国際主義的なものではなく普遍主義的なものと見なしたことが、完全に的外れであったことがわかるというもの。
そして集団安全保障の制度を「モンロー・ドクトリンの秩序をヨーロッパに広げる試みだと考えていた(94頁)」ウィルソンは、「帝国主義的な大国政治を否定して、民族自決に基づく秩序を打ち立て(93頁)」、それを裏付ける「戦争を違法とする国際法の構造転換(93頁)」を果たしたのこと。国連憲章にも規定されている集団安全保障に関しては、なぜか日本では強硬な反対が巻き起こったわけだけど、集団安全保障にはこのように「戦争を違法」とする国際法的観点がもともと込められているということを知っていて反対していたのだろうかという疑問を覚えざるを得ないよね。
さてウクライナ戦争の件に移ると、「大陸系地政学の復活」という節に次のようにある。「冷戦終焉後の時代におけるロシアの拡張主義政策に関して、ロシアのアレクサンドル・ドゥーギンが注目されるようになった。2022年のロシアのウクライナ侵攻後も、ドゥーギンによって代表される「ユーラシア主義」の思想の影響が取りざたされた。ドゥーギンは、過激なウクライナ併合主義者である(108頁)」。
ではユーラシア主義とは何か? それは次のような思想らしい。「ユーラシア主義の思想によれば、ユーラシア大陸の中央部に、共通の文化的紐帯を持つ共同体が存在する。ユーラシア大陸の中央に、ロシアを中心とする広域政治共同体が存在する。この信念にしたがうと、中央アジア諸国やコーカサス地方の諸国のみならず、ウクライナのような東欧の旧ソ連圏の諸国は、ロシアを盟主とするユーラシア主義の運動に参加しなければならない。あるいは参加するのが自然な姿だ、ということになる(108〜9頁)」。要するにユーラシア主義とは広域主義であり、ゆえに一時は英米系地政学によって完全に淘汰されたように思われた大陸系地政学が21世紀になってから復活したということになる。
もっと具体的に言うと次のようになる。この大陸系地政学の影響を受けたユーラシア主義を信奉する「プーチンあるいはドゥーギンは、いわばハウスホーファーがいう生存圏の存在を自明視し、普遍的な原則を課す国際秩序に挑戦する。それぞれの生存圏の覇権国が、お互いの生存圏を認め合うことによって、国際社会の安定は図られる。そのため、冷戦の終焉とソ連の崩壊によって、ロシアの生存圏が減少してしまったのであれば、それを取り戻すことが正当である。もし欧米諸国をはじめとする世界の諸国が、ロシアの生存圏/勢力圏の回復を認めないのであれば、それは不当である。プーチンをはじめとする数多くのロシア人たちは、このような世界観を大真面目に信じ込み、戦争を始めている(109〜10頁)」。どこかで聞いたような話だよね。そう、戦前のドイツが第三帝国やレーベンスラウムという、また戦前の日本が大東亜共栄圏という広域的な思想を掲げて侵略戦争に突入したのと非常に似ている。まさに大陸系地政学的思想に染まるとその国は暴走し始めてしまうんだろうね。
次は「第3部 地政学から見た日本の戦争」(第7〜9章で構成されている)だけど、章題を見ただけで好奇心がムクムクと湧き上がってくるよね。冒頭に次のようにあって、ムクムクと湧き上がったわが好奇心は全開になった。「第7章では、明治期の日本が、マッキンダーが登場する以前の時代に、マッキンダーの理論を先取りする外交政策をとっていたことを指摘する。第8章は、1930年代以降の日本が、大陸系地政学の考え方の方向に、外交政策を変転させていったことを見る。第9章は、20世紀後半の日本の外交政策が、マッキンダー理論への回帰であったことを論じる(120頁)」。
最初の「第7章 英米系地政学から見た戦前の日本」では、1930年代に入るまでは、日本は英米系地政学(とりわけマッキンダー)の考えに沿った戦略を取っていたことが説明され、その例として日英同盟があげられている。というより順序はむしろ逆で、「日英同盟をマッキンダーが推奨したのではなく、日英同盟の現実を「歴史の地理的回転軸」の執筆者であるマッキンダーが説明した(122頁)」ということらしい。前述のように、明治の政治家は昭和初期の政治家よりもものごとがよく見えていたのかもしれないよね。ただし一つつけ加えておくと、明治憲法がドイツの国法学に影響されていた点を考えれば、日本の政治家全員が英米系地政学に帰依していたわけではないのだろうと思う。
第一次世界大戦時は、日本はシー・パワーに属する連合国側に参加していたわけだけど、ところが第一次大戦中、大戦後から雲行きが怪しくなってくる。その契機となったのがシベリア出兵で、「シベリア出兵は、むしろ日本がランド・パワーとしての性格も持ち始めたことを懸念させる事件であった(132頁)」とのこと。より具体的には次のようにある。「シベリア出兵の主力は日本軍であり、大陸に日本の事実上の占領地域が形成された。日本はアメリカとの間で派兵数を1万2000人とする合意を取り交わしていたが、実際には7万3000の大軍を動員していた。第一次世界大戦の終結で各国の軍隊が撤兵したにもかかわらず、日本軍だけは駐留を続行し、しかも国際合意に反してウラジオストックをこえて進軍し続けた。最終的には、日本の占領地は、バイカル湖西部のイルクーツクまで拡大した。これは第一次世界大戦時の同盟諸国、特にアメリカに、日本に対する懸念を持たせるのに十分な事態であった(132〜3頁)」。
そしてそのような日本の態度を篠田氏は次のように評価する。「第一次世界大戦後の東アジア情勢は、主要なランド・パワーが存在しない中、本来はシー・パワー連合の一翼を担っていただけであったはずの日本が、大陸における権益を拡張することによって展開した。日本は、いわばマッキンダー理論にしたがってシー・パワー連合を重視するかのように振る舞いながら、実際には主要なランド・パワーの消滅[ドイツは第一次大戦に負け、ソ連は革命が起こって混乱していた]によって生まれた力の空白を奇貨として大陸における拡張主義政策をとったのである。結果として、日本は拡張主義的なランド・パワーであるかのような国となり、他のシー・パワーの不信を買う事態を招いた(133頁)」。これはやはり、日本がドイツ産の大陸系地政学の影響を強く受け始めたことを意味しているのでしょう。
その後は、ロンドン海軍軍縮会議によって引き起こされた統帥権干犯問題、満州事変、国際連盟脱退というおなじみのフルコースをたどることになるわけだけど、その際にも理論的な支柱をなしていたのはハウスホーファー理論などの大陸系地政学だったらしい(ハウスホーファー自身、ドイツの駐在武官として戦前の日本に滞在していたことがあるようで、神道系の秘密組織にも加入していたらしい)。それに関して次のようにある。「ハウスホーファーの地政学理論にしたがえば、ドイツ、ロシア、日本が、ユーラシア大陸を三つの勢力圏に分けてそれぞれの勢力圏を保持する。それによって、米英主導の国際秩序にくさびを打ち込む。統帥権干犯問題を論じ、米国協調主義的な外交政策を批判していた日本の軍部・右派勢力にとって、ハウスホーファー理論は、マッキンダー理論に代わる外交政策理論の支柱となりうるものであった。1933年の国際連盟脱退以降、いわばシー・パワー連合の同盟体制から離脱した大日本帝国にとって、西太平洋・東アジア地域における日本の生存圏を認めるハウスホーファーの議論は、特に魅力的なものであった。¶大陸での拡張主義的政策を模索する軍部の中の勢力だけでなく、国家総動員体制と国家統制経済を推進する革新官僚の中にも、ハウスホーファーに代表される有機的国家観を基調とする大陸系地政学への関心を強める者たちが現れた(139頁)」。そしてそういう者たちが発案あるいは喧伝したのが、「大東亜共栄圏」や「八紘一宇」などの概念だったのでしょう。だからドイツさんを見習うとロクなことがないんだって!
いずれにせよこのような歴史的な流れを把握しておくことはきわめて重要だと言える。なぜなら、現代において地政学を語ると「あんたは軍国主義者か!」みたいに思われるところがあるけど、まさに以上のような歴史的な推移をきちんと理解していないことが、その手の批判の根源にあるから。それについて本書には次のようにある。「日本において地政学は、大日本帝国時代の帝国主義的政策と結びついていたがゆえに、第二次世界大戦後の時代にタブー視されるに至った。そのため地政学が1970年代以降に徐々に注目されていった際、地政学は戦後の日本で禁止された「悪の論理」であると喧伝された。(…)しかしこのような日本における地政学受容の歴史の理解は、二つの異なる地政学の視点を度外視しているために、大きな問題をはらんでいる。1970年代以降に地政学の代表的理論家がマッキンダーだと紹介されたため、あたかも戦後に拒絶されたのがマッキンダー理論であるかのような誤解が生まれがちになった。¶しかし事実は異なる。なぜなら1930年代・40年代に日本の多くの知識人の注目を集めた地政学の理論家に、マッキンダーは含まれていなかった。日本において、戦中に隆盛し、戦後に拒絶されたのは、ハウスホーファーに代表される大陸系地政学であった(121頁)」。
第3部の最後の章「第9章 戦後日本の密教としての地政学」では、日米安保条約を中心として戦後日本の安全保障が論じられている。日米安保については次のようにある。日米安保条約とは「集団的自衛権の位相で、日本の安全保障を確保するためにとられる措置である。日米安全保障条約が代表する集団的自衛権に基づく措置は、国連の集団安全保障と、日本独自の個別的自衛権の不足を補う形で機能することが期待されている措置である(151〜2頁)」。これはスパイクマンの地政学に沿った措置だと言える。
ところが著者によれば、「この仕組みは、日本国内のイデオロギー対立の中で、正しく認識されてきたとは言えない(152頁)」とのこと。次のようにある。「歴代の日本政府は、外交安全保障政策の仕組みを正面から説明するというよりも、左派勢力との政治的協調を保つことを優先させた。この傾向は、繰り返される左派系の大衆政治運動にもかかわらず高度経済成長を果たした1960年代以降に顕著になった。(…)「安保ただ乗り」とも揶揄されたアメリカ依存の外交安全保障政策が、経済優先の日本の国策に合致すると信じられ、アメリカとの同盟関係に懐疑的な野党勢力との談合によって国会運営を進めていく政治文化が常態化した(153頁)」。安保ただ乗りは、21世紀になってもトランプが非難していたわけだけど、確かに日本側に関しては、基地は出せども人は出さんという従来の日米安保は、ある意味でただ乗りと言えるよね。とはいえそのような風潮が支配していても、奇妙な平和が続いていた冷戦下では安寧が保たれていたわけだけど、冷戦後、そして21世紀ともなると様相は変わってくる。
まずは21世紀初頭に起こった同時多発テロ。それに応じて「日本は「テロ特措法」を成立させ、インド洋に自衛隊を派遣して米軍などを支援するための給油活動にあたらせた。2003年イラク戦争の後にも、「イラク特措法」を成立させ、民生支援を目的にした自衛隊のイラク派遣を行った。これらはいずれも日米同盟維持の観点から進められた政策であったと言ってよい(155頁)」。
またテロとともに中国が軍拡を進め、ロシアがクリミアに侵攻するなど、国家による横暴が始まる(鉄砲玉の北朝鮮もね)。そこで「民主党政権に代わって2012年に成立した第2次安部晋三政権は、まず平和安全法制の成立に尽力した。その最大の目的は、日米同盟の強化であった。集団的自衛権の解禁を達成した2015年平和安全法制の成立を通じた日米同盟の強化は、その後の安部政権の「自由で開かれたインド太平洋」構想や、インドとオーストラリアを呼び込んだ「クアッド」の連携の構築を進める積極的な日本外交に、大きく寄与した(155〜6頁)」。
まさにこの英米系地政学に基づいた構想を進めたがゆえに、同じシー・パワーに属する英米では左派メディアですらその点を評価したってわけ。著者も次のように述べている。「こうした最近の日本の外交安全保障政策を見ていると、マッキンダー/スパイクマンの英米系地政学理論の示唆にしたがって、日米同盟の強化にあたる政権が、着実な成果を出しているという印象が強い(156頁)」。ところがなぜか、以前にも述べたように、英米では左派紙でさえ認めている事実が、日本ではほとんど報じられていない。
とはいえ一点注意しなければならないのは、集団的自衛権の解禁という成果は基本的にほぼアメリカにしか通用しないこと。なぜなら、よく知られているように解禁された集団的自衛権とは部分的なものにすぎないから。つまり現時点では、日本が死活的な関係にある国としか集団的自衛権に基づく同盟関係に入れない。だからかりにNATOが太平洋地域に門戸を広げたとしても日本はそれに加盟できない(フィンランドやスウェーデンがNATO加盟申請を出したとき、日本もNATOに参加すればいいじゃんという意見がネット上でちらほら見受けられたけど、地理的な問題はさておくとしても、現行の日本の法体系ではNATOには加盟できない)。
それからついでなので一点指摘しておくと、かつて集団的自衛権の解禁に反対していた左派メディアは、「アメリカの戦争に巻き込まれる」とか言っていたよね。でもこれは、意図的か否かは別として誤解を招く言い方であり、正しくは「アメリカの防衛戦争」に巻き込まれると言うべきだった。侵略戦争はそもそも国連憲章で禁じられているんだから、アメリカが勝手に始めた侵略戦争に日本が巻き込まれることはない。日米安保の集団的自衛権は、アメリカの領土が他国に攻撃されたときにのみ発動する。落ちぶれつつあるとはいえ大国アメリカの領土が攻撃されるようなことが起これば、日本は日米安保の集団的自衛権の有無に関係なく第三次世界大戦に巻き込まれるのは必然だと考えたほうが妥当だろうね。日本の左派は侵略戦争と防衛戦争をごっちゃにして単に「戦争」とだけ言って、前者のイメージを後者にかぶせようとする印象操作をしたがるんだけど(海外ではこの傾向はほとんど見られないように思われる)、世界が複雑化した21世紀の今日になってそんな言葉のごまかしをやっていたら、とんでもない結果を招く可能性がある。そもそも防衛戦争もダメだというのなら、ウクライナはただちにロシアに降伏すべきだということになるし(左右を問わずそう主張する人は少なからずいるけど、そのあとどうなるのかを考えているのかな?)、軍国日本に侵略された中国は祖国防衛戦争をすべきではなかったということになる。ほんとうにそう思っているのだろうか?
少し脱線したので元に戻りましょう。最後の「第4部 地政学から見た現代世界の戦争」では、「さらに現代世界の諸地域の武力紛争の状況を、二つの異なる地政学理論の観点から検討する(160頁)」とあるように、第4部では1990年代以後の世界の戦争や紛争に関する情勢が取り上げられている(対テロ戦争を含む)。本書全体に言えることなんだけど「二つの異なる地政学理論の観点」には、二重の意味が込められている。一つは「本書が取る」という意味と、もう一つは「実際に特定の国や為政者が取る」という意味(何しろ著者は「地政学をめぐる議論の中で露呈している人間の世界観をめぐる闘争を把握することこそが、現代世界の紛争の状況を構造的に理解する鍵になる(208頁)」と述べているほどだし)。
話が細かくなるので、ここでは昨今になって日本がとりわけ警戒しなければならない国と化した中国が取り上げられている「第12章 自由で開かれたインド太平洋と一帯一路」だけを取り上げる。普通に考えると、中国はランド・パワーの雄であるように思えるけど、スパイクマンの理論によれば「両生類」なんだそうな。次のようにある。「かつて近代化に後れを取って国家としての存在が危うかった20世紀の中国は、陸上兵力を中心とした軍事力を整備していた。ところが今日の中国は、海軍力の面において目覚ましい進展を遂げている。陸でも、海でも、覇権国としての地位を固めようとしている。大陸系地政学の理論枠組みに沿って言えば、中国は、東アジアに自国の生存圏/勢力圏/広域圏を確立することを狙っており、その覇権を陸上においても海上においても確立することを狙っている(195頁)」。
やや余談になるけど非常におもしろい指摘があるので、次にそれを取り上げてみましょうね。「中華帝国もまた、広大な土地を持っていることは確かだとして、ヨーロッパ近代国家のような明確な国境線を持って国家領土が定められていたわけではなかった。圧倒的な力を持つ政治権力があり、その威光が届く限り国家存在が確かめられる。大陸系地政学が生存圏/勢力圏/広域圏と観念するものが、アジアでは歴史的な国家存在の本質である。その典型例が、中華思想に裏付けられる中華帝国の伝統である(196頁)」。ここで言う「ヨーロッパ近代国家」とは、1648年のウェストファリア条約以後に成立した「国民国家」のことと考えて間違いないはずで、要するに著者は、アジアとりわけ中国は国民国家というより広域圏だと考えていることになる。私めはこれまで中国は「国民国家」としてより広域的な「帝国」として見るべきではないかと述べてきたわけだけど、篠田氏もそれに近い考えをしているらしい。
さてもちろん中国は、軍事力においてのみならず経済においても「両生類」になりつつある。つまり「一帯一路」のこと。それに関して次のようにある。「中国は、資源の安定的な確保や市場へのアクセスを狙って、リムランドに沿って影響力を広げていこうとしている。そこで一帯一路は、シー・パワー連合の封じ込め政策と、点上においてではなく、平行線を描きながら、対峙していくことになる(200頁)」。さらには次のようにある。「結局のところ、一帯一路とは、大陸系地政学の視点に立って言えば、中国という超大国の生存圏/勢力圏/広域圏を拡大するにあたって政策的な指針となる考え方のことである。超大国となった中国は、極めて当然かつ不可避的に、国力に応じた自らの生存圏/勢力圏/広域圏の拡大を追求していく(202頁)」。またもやどこかで聞いたような話だよね。そう、戦前日本の「大東亜共栄圏」に限りなく近い発想だと言える。今の中国は、ある意味で大陸系地政学に入れ込んで自ら墓穴を掘った戦前の日本のようになっていると言えるのかもしれない。
それに対して日本を含めた「シー・パワー連合は、この中国の圏域的な発想にしたがった事実上の拡張政策を、封じ込めるための努力を払っていくことになる(202頁)」。そして、その努力の一つが、「自由で開かれたインド太平洋」構想に結実しているわけ。その言い出しっぺは安部氏ということだけど、安倍氏はまさに英米系地政学にしたがってこの構想を案出したらしい。次のようにある。「日本の安部晋三氏は、2006年に著書でインドを重視する姿勢を見せた直後に首相に就任し、翌年に初めてインドを訪問した際に行った演説で、「二つの海の交わり」として「インド太平洋」の概念を初披露した。この経緯は、安倍政権が、英米地政学の論理にしたがって対外政策を進めていたことを示すエピソードだ(204頁)」。
現状を考えれば、少なくともこの点においては、英米地政学を体現していた安倍氏には先見の明があったと言えるでしょうね。まあとりわけ日本には、それをどうしても認めなくない人々が左派メディアを中心に大勢いるのでしょうが、安倍氏をどう評価するかはひとまず置いておいたとしても、少なくともこのような地政学的知見を欠いて、現在の複雑な国際関係を判断すれば致命的な結論を導くと個人的には思っている。
最後に総括すると、前述した普遍主義と国際主義が明確に区別されていない点を除けば、実におもろいし、国際社会が複雑化した現在だからこそ読むべき本としてきわめて高く評価できる。まあ篠田氏の本はたいていおもしろいし、買って絶対に損はないと請け合える。英米系地政学に焦点を絞った『封じ込めの地政学』と合わせて読めばなおよいかも。なお、この本に関する動画が国際政治チャンネルにあがっていました。
※2023年5月8日