◎西田洋平著『人間非機械論』(講談社選書メチエ)

 

 

本書は、副題に「サイバネティクスが開く未来」とあるように、サイバネティクスをテーマとした本で、さっそく「はじめに」に次のようにある。「本書はAIの書ではないし、生命科学の書でもない。ロボット工学の書でもないし、遺伝子工学の書でもない。{衒学的/げんがくてき}な哲学談義でもなく、感傷的なAI批判でも、神秘主義的な生命礼賛論でもない。¶本書は、「サイバネティクスと呼ばれる科学の、とくにその知られざる後期についての書である(4〜5頁)」。

 

と前置きしたうえで本論に入ると、著者によればサイバネティクスには二つのパラダイムがあるとのこと。一つは「制御」を主体としたパラダイムで、「第1章 機械は人間になり、人間は機械になる?」と「第2章 制御と循環のはざまで」の前半部では、まずこちらのパラダイムが取り上げられている。サイバネティクスの大親分と言えばノーバート・ウィーナーだけど、その彼と技術者のビゲローと医学者のローゼンブリュートの三人が書いた「行動、目的、目的論」という論文があるのだそう。この論文のタイトルは科学論文としては奇妙に聞こえる。というのも、近代科学はアリストテレス的目的論(これについては『アリストテレスの哲学』を参照されたい)を捨象したところに成立した営為なのだから。ところがウィーナーらが確立したサイバネティクスという学問は(というか、その考えはウィーナー以前にも存在していたが、それを一般化したのはウィーナーだったのだそう)、「まずもって行動の科学として考えられて(36頁)」おり、「さらに言えば、それは闇雲に動くという意味での行動ではなく、目的に向かう行動(36頁)」だったのですね。

 

たとえば「重力の目的は何ぞや?」などといった問いは近代科学ではタブー視されていたのに対し、サイバネティスクスは工学の一概念であり、工学には「家を建てる」「橋を架ける」「対空砲で敵機を撃ち落とす(それがウィーナーのルーツであったことはよく知られているよね)」などといった目的が最初から組み込まれていることを考えれば、「目的論」と親和性があったとしてもさほど不思議ではない。それに関して著者は、次のように述べている。「ウィーナーたちは、目的や目的論という言葉の使用をはばからなかった。フィードバック機構の普遍的役割が理解されたことで、「目的のある行動はいかにして可能か」という問いの正当性が見出されているからである。むしろ先の論文[「行動、目的、目的論」のこと]で目指されていたのは、状況を逆転させ、「目的のある行動(purposeful behavior)」や「目的論的(teleological)」という言葉を、フィードバック機構の存在と等置することであったと言える(37頁)」。つまりウィーナーは、機械にしろ、生物にしろ、フィードバック機構を備えた実体には、目的が内在していると考えていたということなのでしょう。だから著者は、「初期サイバネティクスの独自性は、フィードバック機構を「目的論的」機構として位置づけることで、それまでの科学には存在し得なかった「目的論的機械論」という領野を開いたところにある(37頁)」、そして「目的論的現象を機械論的に記述できるということは、原理的にはそれを実現する機械をつくりだすことができるということである(37頁)」と主張するわけ。

 

まあこの流れが最終的には現代のシンギュラリティがどうのこうのなどといった議論へつながっていくわけだけど、そのような流れによって「機械の精神化が精神の機械化へと反転し、我々を含めて、すべては機械であるという認識が急速に力を持ちつつある(39頁)」状況に至ったということらしい。第2章に入っても前半は、そのような「制御」を主体としたサイバネティクスの見方の歴史的経緯が紹介され、そこにはフォン・ノイマン、ウォーレン・マカロック、ウォルター・ピッツなどといったビッグネームが登場する。それに関して詳細は述べないけど、次の指摘のみ取り上げておきましょう。「ウィーナーたちのフィードバック機構は、目的論的機械論という形で「生物=機械論」の大枠を保証しているのに対し、マカロック−ピッツモデルは、フォン・ノイマンのコンピュータと結びつくことで「人間=機械論」に具体的な輪郭を与えている(48頁)」。

 

ところが、このような「制御」を主体としたサイバネティクス・パラダイムとは相反するような「循環」を主体とするサイバネティクス・パラダイムがあとから誕生してくるというのが著者の見立てで、第2章の後半からはそちらのパラダイムに焦点が移される。その萌芽はすでにウィーナーにも見られたとのことだけど、本格化したのは、ポリマスと言うにふさわしいグレゴリー・ベイトソンかららしい。ヘタレブケダンの私めも、その昔ベイトソンの本にはまって、訳書や原書で何冊も読んだことがある。彼の理論のなかでも、もっとも有名なものの一つは「ダブルバインド理論」だと思うけど、この理論は単にメッセージとメタメッセージの区別を重視するのみならず、著者によれば「単純にその混同を禁止するというよりも、むしろその全体をまとめて理解することを重視している。この点で、彼の議論は通常のサイバネティクスを超えて行く(69頁)」のだそう。

 

ベイトソンのこの考えに関して、著者はさらに次のように説明する。「システムは、その外部環境から切断して見たときに初めて{制御/傍点}されるシステムとして見えるのであって、システムとその環境という、より大きな関係性の全体を眺めれば、それ自体が大きな{循環/傍点}するシステムとして見えてくる。だからベイトソンは、サイバネティクスをシステムの制御ではなく、循環するシステムの理解をめざす学問として位置づけ直す。これまでのサイバネティクスは、制御という概念を重視することで、システム全体ではなくその一部を切断して見てしまっていたのだと言うのである(70頁)」。我田引水になるけど、わが訳書、ロイ・リチャード・グリンカー著『誰も正常ではない』や、スザンヌ・オサリバン著『眠りつづける少女たち』で取り上げた生物・心理・社会モデルも、循環するシステムをとらえようとする、つまり大げさに言えばベイトソンが提起した循環的なサイバネティクスの衣鉢を継ぐ試みであったと考えられる。まあステマはその程度にしてメチエ本の話に戻ると、「制御」という概念がもたらした負の遺産を次のようにとらえている。「制御という概念によってなされる全体からの切断は、その対象を入出力マシンとして捉えることでもある。全体から切断することで、どのような入力を与えると、どのような出力が返ってくるかという見方が生まれる。制御という概念は、そうして人間と機械を並置し、人間対機械、人間対環境、人間対人間といった対立を生み出してしまう。しかし少し視野を広げれば、そこにあるのは循環である。だからベイトソンは制御ではなく、循環による全体の調和を目指すのである(72頁)」。

 

次に著者が第2章の最後から「第3章 セカンド・オーダーへの浮上」にかけて取り上げているのは、オーストリア出身の物理学者フェルスターが提起した「再帰計算」と「トリビアル・マシンとノントリビアル・マシン」の概念だけど、かなりテクニカルな話なのでその部分は省略する。ただそれによって引き出された結論は、以降の議論にとって非常に重要なものになるので紹介しておく。それは「制御の制御による閉鎖系(97頁)」という概念に関するもの。フェルスターは、生物の自律性を制御の再帰的メカニズムによって規定できると考えていたらしい。閉鎖性に関しては次のようにある。「ここで「閉じている」ということは、決定的な意味をもっている。制御関係において、システムは閉じているか、開いているかのどちらかである。従来のサイバネティクスが考えてきたシステムは、基本的にすべて開いたシステムだった。(…)開いたシステムである限り、その複雑さの違いはあくまでも程度の差であり、それが機械と人間・生物を峻別する基準となるとは言いがたい。しかし、「閉じる」ことで事態は一変する。閉じているか、開いているかという点で、程度の差とは根本的に異なる断絶が現れる(97頁)」。

 

では「根本的な断絶」とは、いったいいかなる断絶なのか? まさにそれが本書の後半で説明されていることなのですね。この断絶に関して著者は、次のようにさえ主張する。「我々はいま、サイバネティクスの分岐点に立っている。これまでのサイバネティクスは生物を、制御されるシステムとして、他律システムとして捉えてきた。だからその基本思想は人間・生物機械論だったわけである。しかし、機械の複雑さとは根本的に異なる生物の「自律性」を認めることで、その見方は百八十度転回する。生物は、制御されるシステムから制御するシステムへ、他律システムから自律システムへと変貌を遂げるのである。¶これは次章で論じるオートポイエーシス論と相まって、サイバネティクス・パラダイムが人間・生物{非/傍点}機械論の立場をとることの理論的根拠となる。そしてこれがもう一つのサイバネティクスの出発点である。フェルスターの以降の議論は、すべて生物に特有な自律性を認めるところから始まっているとみなすことが可能である(98頁)」。まあフェルスターこそが、サイバネティクスにコペルニクス的転回をもたらしたのであり、人間・生物機械論から、本書のタイトルにもある人間[・生物]非機械論への移行が生じたということなのでしょう。

 

しかしここで大きな疑問が湧いてくるのではなかろうか。その疑問とは「自律システムが閉鎖系をなすのなら、環境はそこから除外されることになるのではないか?」、つまり「ベイトソンが提起した環境を含めた循環システムの考えはいったいどこにいったのか?」という疑問ね。それに対する回答が次に提起されている。まずフェルスターの主張によれば、「環境はあるがままにあるだけで、それを区別したり評価したりするのは我々の側、システムの側だということである(101頁)」。その主張をもっと具体的に説明すると次のようなものになる。「環境はシステムに直接作用する代わりに、システム側の神経細胞によって「コード化」される。(…)ここでの「コード化」には注意が必要である。通常の意味とは違って、コード化の前に、コード化を待っている情報なるものが存在しているわけではないからである。神経細胞は、環境内に存在する情報をコード化するのではない。強いて言えば、自身に対する環境からの{刺激/傍点}をコード化するのである。¶重要なのは、それが{差異化なき/傍点}コード化であるという点である。「差異化なき」という形容詞には、ここでは「刺激の質とは関係なく」という意味が込められている。刺激の質とは、光とか音とか温度とか、知覚の対象となるものの物理的性質と考えられているものである。我々は通常、そうした刺激の質こそが知覚されるものだと思っているが、それらは認知システムにコード化{されない/傍点}というのである(102頁)」。

 

実は最近の脳科学でも、そのことは明確化されている。上記の文章を読んで思い出したのが、脳神経科学者デイヴィッド・イーグルマンの著書『Livewired: The Inside Story of the Ever-Changing Brain』(『脳の地図を書き換える――神経科学の冒険』というタイトルで邦訳されている)で提起されているポテトヘッド理論なのですね。ここでポテトヘッド理論の概要を以下にまとめておく。

 

1)脳が受け取っているのは、さまざまなデータケーブルを介して流れ込んでいる電気化学的シグナルのみである。これは視覚であろうが聴覚であろうがあらゆる感覚に共通する。脳は、感覚の種類にかかわらず、この電気化学的シグナルを処理しさえすればよい。

2)目、耳、鼻、指先などの感覚器官は、外界から脳へと送られる情報のデータフォーマットを変換する(たとえば目は光に基づく情報から電気パルスに基づく情報に変換する)周辺装置にすぎず、入力データの解釈は脳がすべて行なう。

3)脳はいかなる情報が伝達されようが、それに適合し、必要なデータを抽出することができる。

4)入力されたデータが外界に関する重要な情報を反映する構造を持つ限り、脳はその解読方法を学習することができる。

5)つまり脳は、データがどこからやって来るのかにまったく感知しない汎用計算機と、また感覚器官はあとから自在に身体に組み込んで脳に接続されるプラグインデバイスと見なすことができる(これが「ポテトヘッド」モデルの肝である)。

6)進化の過程を通じて、センサーとして機能するまったく新たな感覚器官が変異を通じて身体にプラグインされたとき、脳はそこから入力されてくるデータの解読方法を学習してきた。これは4)と5)から必然的に導き出される結論である。

 

メチエ本の著者がいみじくも述べているように、「認知システムへのコード化に刺激の質が関わらないのだとしたら、いったい何がコード化されるのか。考えられているのは、刺激の量ないし強さ(103頁)」なのですね。ここに至って、「認知システムはいかに機能するのか?」という問題がはっきりと登場してくる。つまり「認知システムは自身の状態に即して量としてのみ環境をコード化(104頁)」しているのなら、人間の経験が実に多様なのはどうしてか? それに関してフェルスターは次のように考えていたらしい。「フェルスターは初期の頃から認知をプロセスとして位置づけてきた。彼にとって記憶とは、コンピュータのハードディスクに固定化されたデータのようなものではなく、想起や再学習と不可分な形で存在するダイナミックな認知のプロセスだった。同様に、我々が認知して対処しようとする「現実」も、認知のプロセスとの関係で捉えられる。いやそれどころか、現実という問題こそ、認知にとっての本質的な問題として位置づけられる(104〜5頁)」。

 

では人間の認知にとって「現実」とはいったい何なのか? この問いに対しては次のようにある。「我々の現実が、認知システムによってなされるこうした計算の再帰的プロセスによって成り立っているのだとしたら、「現実」という言葉によって意味されるものの内実は、一般的なニュアンスとはかなり異なったものとなってくる。実際、フェルスターはそのことをはっきりと自覚している。日本語にすると区別がつかないが、彼にとっての現実とは、「the reality」ではなく「a reality」として考えるべき問題である。すなわち、誰もが同様に特定できる確固とした現実、定冠詞付きの現実ではなく、不特定の現実、さまざまな可能性のある中で成立する{とある/傍点}現実、それが問われているのである。¶しかもそうした現実は、プロセスとしての認知によって生み出されているのだから、あるとき成立していた現実がそのままずっと成立しているという保証はない。「現実」の計算の結果は「行動」としてひとまず解答されるが、それは暫定的な解答である。(…)行動の結果は知覚され、再び計算として展開される。認知の計算プロセスは無限に続いていくのである(106頁)」。まさにその種の見方の一バリエーションを提起しているのが、わが訳書、ドナルド・ホフマン著『世界はありのままに見ることができない――なぜ進化は私たちを真実から遠ざけたのか』なんだけど、ホフマンにとっては、この計算プロセスの基盤には、生き残って子孫を残す可能性を示す適応度の計算が存在する。詳しくはホフマン本を参照されたい。

 

メチエ本に戻ると、著者は次のようにも主張する。「自律システムでは、()互いに互いを制御し合う関係がつくられている。こうした関係まで考慮すれば、事態はさらに込み入っていることがわかるだろう。端的に言えば、現実の計算を行う計算方法自体、つねに再計算されているし、それ自体もまた再計算されている(106〜7頁)」。つまり、認知プロセスによって入出力されるデータ(刺激)のみならず、認知プロセスそのものも再計算されていることになる。この見方は、テクニカルなので説明を端折ったフェルスターの汎関数の考えに基づいていると思われるが、それについては本書第3章の冒頭にある「汎関数の再帰計算」という節を参照されたい。

 

さてここまで説明してきて気づいた人もいるかもだけど、これはまさに「構成主義」による「現実」の見方なのよね。構成主義と言えば、前述のホフマン本もそれにあたると思うけど、わが訳書のなかでは、他にもリサ・フェルドマン・バレット著『情動はこうしてつくられる――脳の隠れた働きと構成主義的情動理論』がまさにそれに該当する。バレットが明示的に扱っているのは認知ではなく情動であるとはいえ、実はそこにも書いたように、「概念」を重視するバレットの情動理論には、認知も深くかかわっているように思われる(実際同書には、情動の生成にはコントロールネットワークが関与しているという記述があるが、コントロールネットワークとは認知的な実行機能を司る神経回路を指す)。ただしバレット自身は、「情動には認知が関与している」と明示的に述べてはいないものの、最近はバレットに近い考えを取るようになった著名な神経科学者ジョセフ・ルドゥーは、最新刊『The Deep History of Ourselves: The Four-Billion-Year Story of How We Got Conscious Brains』(Viking, 2019)の終盤で、バレット以上にはっきりと、情動が意識の存在を前提とすると、そして認知を基盤に情動作用が働いていると論じている。

 

メチエ本では、そのような構成主義による「現実」の捉え方に関して次のように述べられている。「構成主義的な現実感は、生物による環境のトリビアル化[単純化]という見方を、さらに深い意味で裏付けるものとなる。認知のプロセスに着目すれば、客観的な現実がまずあって、それに最適化されていくのが生物であるという見方は正しくない。個々の生物は認知の計算プロセスによって環境を独自の仕方で秩序づけ、それを対処可能なものとして構成している。しかもそれは、無限に修正され続ける自律的なプロセスである。生物は、認知の再帰的な計算プロセスを通じて、環境をトリビアル化しつつ構成し続けているのである(107頁)」。かくして第3章の最後で取り上げられている概念は「観察者による観察」なんだけど、次のようにある。「[認識するものとしての]観察者と世界という対関係をつくりだしているのは、観察という行為である。主観と客観、主体と客体が独立に存在していて、それらを関係づけるのが観察行為であると考えるのは正しくない。両者を別々のものとして解きほぐすことはできない。観察者によって観察されることで世界は成立するが、その世界の中にすでに観察者自身が含まれている(117〜8頁)」。「この認知と現実構成の理論は、観察者としての我々自身の問題として、認識論的に捉え直すことができる。我々は普段、自分自身が認知システムとして現実を構成していることを忘れている。客観的現実を前提とすることによって、観察という問題系を認知的盲点に置いてしまっている。しかし我々はつねにすでに観察するシステムである(126頁)」。なお以上のような構成主義の考え方については、「第5章 現実はつくられる」でさらに詳しく論じられているので、あとでもう一度取り上げる。

 

「第4章 オートポイエーシスの衝撃」では、タイトル通りオートポイエーシス論が取り上げられている。オートポイエーシスといえばマトゥラナ&ヴァレラだよね。彼らの本は読んだことがあるけど、率直なところ何が言いたいのかよくわかなかったことを覚えている。もちろんこの章の主要登場人物も彼ら二人なので、この章を読めばオートポイエーシス理論を少しは理解できるかなという期待に打ち震えながら読んだ。最初のほうに、マトゥラナ&ヴァレラによるオートポイエーシスの定義が掲げられているけど、いきなりそれを読んでもウニ頭になるだけだから引用はしない。

 

メチエ本の著者によれば、まず「organization」と「structure」の区別が重要なのだそうで、著者は前者を「構成」、後者を「構造」と訳している。「構成」に関しては次のようにある。「オートポイエーシス論における根本的な問いは、「生命システムはどのように組織化されているか」と言い表すことができる。問われているのは、組織化の仕方である。生命を一つのシステムとしてまとめあげ――単位体として規定し――、そのあり方を決めている全体的なメカニズム――単位体としての相互作用と変形のダイナミクスを決定する諸関係――が問われているのである(133〜4頁)」。つまり「構成」とは、生命システムの組織化の仕方ということらしい。それに対して「構造」に関しては次のようにある。「構造は、システムを具体的な機械として実現させる構成素と、そうした構成素間の実際の諸関係を指す。構成が、抽象的だがシステムをシステムたらしめる重要さをもつのに対し、構造は、具体的だがシステムにとってひとまず二次的なものと言える(134頁)」。これだけだとわかりにくいので著者はコーヒーマシンを例にとって説明している。

 

それを読んで、IT業界出身の私めはそれがオブジェクト指向パラダイムで言うところの「機能」と「実装」の区別に近いのかなと思った。この場合、「機能」が「構成」に、「実装」が「構造」に対応する。オブジェクト指向の場合、「機能」を規定するのはインターフェース仕様であり、インターフェース仕様とは「システムはどのように組織化されているか」を規定する規約なのですね。たとえばHTMLは、インターネットブラウザが実装すべき「機能(構成)」を規定するインターフェース仕様だけど、IEやグーグルクロムなどといった個々のブラウザの「実装(構造)」は、ブラウザごとに異なる。要するに、HTMLというインターフェース仕様を忠実に実現、具体化する限り、個々のロジックを含め、どのような実装方法を取るかはブラウザ開発メーカーの自由だということ。よって実装の仕方が異なるから、同じパソで動かしているのに「クロムよりIEのほうが重い(実際にどうかは知らん)」などといった話になる。

 

しかしコーヒーマシンはもとより、インターネットブラウザを「オートポイエティック・システム」と呼んだりする人はいない。なぜなら、当然ながら「構成(機能)」と「構造(実装)」の分離だけで「オートポイエティック・システム」を実現することができるわけではないから。ではさらなる条件とはいったい何か? 端的に言えば、それは「自己の構成要素の再生産」なのですね。次のようにある。「先に示した定義[マトゥラナ&ヴァレラの定義]によれば、オートポイエティックなシステムとは、第一義的には「構成素の産出プロセスのネットワークとして組織化されたシステム」である。だがその要点は、次のような相互産出的な関係性にある。すなわち、構成素が相互作用することで、プロセスのネットワークをつくりだすと同時に、このプロセスのネットワークによってこそ、まさにその構成素が産出される、という関係性である(136頁)」。

 

次に著者は具体例として細胞をあげ、次のように説明する。「分子生物学的に言えば、細胞の構成素とは、核酸、タンパク質、脂質、糖といった生体高分子と、それらの一部ともなる有機低分子、それから水分子と各種の無機化合物である。そうした細胞の構成素は密に相互作用しており、それらの産出、変形、破壊といった生化学的プロセスの複雑なネットワークを形成している。一般に生物学では、これを代謝と呼んでいる。¶わかりやすいのは、この代謝のネットワークによって、細胞を細胞として区切る「細胞膜」が形成、維持されていることである。細胞膜は、代謝ネットワークを一定の空間内に囲い込むことで、代謝の各プロセスの連鎖を保証する。それによって細胞の構成素が首尾よく産出されていくわけである。当然と言うべきか、細胞膜によって保証される代謝ネットワークのプロセスには、細胞膜自体を形成、維持するプロセスも含まれている。面白いのはこの点である。つまり、代謝ネットワークによって細胞膜が形成、維持されるとともに、その細胞膜によって代謝ネットワークが形成、維持されているのである(136〜7頁)」。要するにさまざまな構成要素から成るネットワークが、それらの構成要素自体を形成、再生、維持しているのがオートポイエティック・システムの肝と言えるのでしょう。そして「オートポイエティック・システムは、それが存続する限り、どんなときも常に自分自身を組織化し続けるがゆえに「自律的」なのである(144頁)」。

 

それに対しコーヒーマシンは自分で部品を作ったりしないし、ブラウザはHTML仕様を実装するプログラムを作ったりしないので、それらはオートポイエティック・システムではなく、他者を産出する他律的な「アロポイエティック・システム」に分類される。コーヒーマシンはコーヒーマシンそれ自体とは異なる「(飲料としての)コーヒー」を、またブラウザはブラウザそれ自体とは異なる「画面表示」を産出するというわけ。なおオートポイエティック・システムには、「自律性」の他にも「自己同一性」「単位体であること」「入出力の不在」という性質があるとのことだけど、ここではそれらについては詳述しない(ちなみに「入出力の不在」は環境の存在を無視するように聞こえるから一見奇妙に思えるけど、それはシステム外的な観察者の視点からシステム内的な観察者の視点への、観察の視点の転換の結果によるものとのこと。ただその説明は煩雑になるのでここでは省略する。それに関してはメチエ本を読んでください)。なお、「いまのところ、オートポイエーシスとして組織化された人工的機械は存在しない(156頁)」のだそうな。

 

さて第3章の残りの節「3 生命現象としての認知」「4 説明の円環」だけど、これらの節は本書のなかでも一番わかりにくかった。したがって、その説明はしたくてもできない。なぜわかりにくいかというと、そこでは「自己複製」「進化」「個体発生」「環境」「構造」「構造変化」「環境的決定」「構造的決定」「システムと環境の構造的カップリング」「適応」「認知」「行動」「観察者」「言語的行動」「言語」「共感的領域」「コミュニケーション」などといったさまざまな概念がオートポイエーシス理論から見てどう解釈されるかが、高々二十数頁程度で次から次へと詰め込まれているから。率直に言って、「オートポイエーシス理論」を扱った第4章は、それだけで一冊の本にしないと素人の一般読者が全体を理解することは非常にむずかしいという印象を受けた。まあわが脳が腐りかけているという可能性も無きにしもあらずなので、とりわけそれらの節はゆっくりと読んで理解に努めるようにしましょうとだけ言っておきます。

 

さてお次は「第5章 現実はつくられる」だけど、前述のとおりこの章では第3章で登場した「構成主義」の考え方が詳しく説明される。冒頭でまず、構成主義について次のように復習する。「生命システムはそのそれぞれが自律的な認知システムであり、世界を個々に認知している。私の世界はその一つであって、観察者たる私と切り離すことができない。だから観察者と無関係の客観的現実を、何の留保もなしに認めるわけにはいかない。むしろ現実は、観察者によってつくられている、構成されていると考えた方がよいことになる(190頁)」。そしてさらに次のように主張する。「サイバネティック・パラダイムの現実観は、(…)次のテーゼに集約できる。すなわち、「我々が環境を知覚するときはいつでも、我々がそれを発明している」。ここでの「環境」は、「現実」や「世界」と読み替えてもよい(192頁)」。それから著者は、その点に関して次のような問いを提起する。「我々が現実を構成しているなら、世界のこの秩序はいったいどこからくるのか。(…)自律システムによる現実の計算プロセス[現実を計算するプロセス]は、いかにして世界を安定的に構成するのだろうか(194頁)」。

 

この問いに対して著者は二つの回答を与えている。一つは、計算によって「固有値」や「アトラクター」が生じることがあげられている。ここでは「アトラクター」について説明しましょう。著者の説明によれば、「アトラクターはその力学系を定義する数式そのものによって、一定の秩序へと{引きつけられる/アトラクトされる}ことを意味している(196頁)」。また、わが訳書、メラニー・ミッチェル著『ガイドツアー複雑系の世界』によれば「アトラクター」とは、数式の再帰的な実行によって最終的に到達する規則的な振る舞い(固定点あるいは振動)をいい、「どんな初期条件が与えられても最後にそこへ「{誘引/アトラクト}される(同書58頁)」。要するに、ある経緯を経て最終的に至った固定値、もしくは複数の固定値の循環(たとえば1,5,9,8,2,1,5,9,8,2,1,5,9,8,2,...など)によって表わされる秩序のことをいう。

 

もう一つの答えは「システム外的な制約」で、これはたとえば「人間は水中では呼吸することができない」などといった環境的、物理的な制約を指す。つまりいくら自律システムであったとしても、何らかの環境的、物理的な制約は受けざるを得ないということ。これは『まちがえる脳』を取り上げたときに、自由意志に関して次のように述べたのと大して変わりはない。「そもそも非決定論者であっても、(…)物質的条件に人間が縛られていることを否定しているわけではまったくないということ。極端な例をあげれば、自由意志を擁護する非決定論者でも、自由意志を行使すれば、飛行機のような道具なしでも人間は空を飛べるなどとは考えていない。そう考えているのは、カルト宗教の信者か、オカルト主義者であって非決定論者ではない」。ちょっと脱線したのでメチエ本に戻ると、とはいえ著者によれば次の点に注意をする必要がある。「ただし、外的制約は「客体」として認知システムに直接認識されるわけではないし、システムと無関係にあらかじめ与えられている「客観的現実」として同定することもできない。それはあくまでシステムの行動の結果としてそれに攪乱を与え、その変化の引き金をひくに過ぎない。「水」は我々にとっては呼吸を制約するものだが、魚にとってはそうではない。システムの変化の仕方はシステム自身の構造によって決定されている(198頁)」。

 

次に著者は、以上のような形態で認知システムをとらえた理論としてまず、心理学者ジャン・ピアジェが提起した、「同化」と「調節」という二つのプロセスを核とする発生的認識論をあげているけど、それは割愛して、このピアジェの理論を拡張したグレーザーズフェルドのラディカル構成主義がなかなか興味深いので、ここではそちらを取り上げることにしましょう。グレーザーズフェルドは、ピアジェの理論を、通俗的な刺激と反応のメカニズムとして捉えるのではなく、刺激と反応と予期という三項の関係として捉えたとのこと。それに関して著者は、「一方の頬に触れられると、それを追うように頭の向きを変えてしゃぶるものを探す(202頁)」乳児の例をあげて次のように述べる。「この乳児の認知行為をきちんと説明するためには、刺激と反応の二項だけでは不十分であるということである。第三項として必要なのは、それがかつて有益な結果をもたらしてきたということ、乳児の認知システムは、それが再び起こることを予期しているということである。グレーザーズフェルドによれば、ピアジェはこうして刺激と反応という二項ではなく、三項で認知行為を捉えるようになったという(202頁)」。あるいは次のようにある。「同化[ピアジェの発生的認識論では「認知主体が自分に合わせて環境の一部を取り入れること(199頁)」をいう]は、この三項[刺激、反応、予期]からなる行為図式がうまく機能するときに生じているとグレーザーズフェルドは言う。すなわち、主体にとってある特定の状況が「再認」されると、その状況と連合した特定の「活動」が誘発され、それがかつて経験した結果を生むという予期へと同化する。彼はこれを「{既知のことの一例として/傍点}新しい素材を扱うこと」とも述べている(203頁)」。

 

またピアジェの発生認識論における「調節」に関しては次のように述べている。「予期された結果が実際には生じなかった場合は、行為図式は攪乱され、変容を迫られる。このとき生じているのが調節である。期待される結果が導かれるように、その行為図式全体が調節される。だから調節は同化の逆などではなく、その行為図式が予期された結果を生まない場合にのみ生じる現象である。認知主体の予期は、この意味で極めて重要な役割を担っている。刺激と反応の二項モデルではこれを適切に理解することができない(204頁)」。

 

最新の脳科学に詳しい人なら、ここでハタと気づいたのではないだろうか。そう、これはまさに現代の脳科学で言うところの「予測符号化」や「予測エラー」の概念に近いということを。ピアジェやグレーザーズフェルドは二〇世紀に活躍していたわけだけど、すでに二一世紀の脳科学を予見していたと言えるかもね。ちなみに脳の予測に関しては、わが訳書のなかでは前述の『情動はこうしてつくられる』と『眠りつづける少女たち』で言及されているのでぜひご参考のほどを。そしてそこからメチエ本の著者は次のような結論を引き出す。「そして忘れてはならないのは、予期された結果の確認もまた、主体による再認に依存するということである。そしてこの再認自体、また同化の結果である。つまりそれは、過去の経験からその主体が構成してきた行為図式に依存している。自ら構成してきたものに従って確認されるのであって、客観的な環境によって確認されるのではない。認知行為はこのように徹頭徹尾、主観的なものであり、それは外部から観察不可能な主体の状態に依存している(204頁)」。要するに、自律的な閉鎖系によってなされているということなのでしょう。

 

しかしグレーザーズフェルドのラディカル構成主義のラディカルさは、さらにその先にある。彼の構成主義の根本原理を定式化すると次の四つになるらしい(205〜6頁)。「(1)知識は感覚やコミュニケーションを経由して受動的に受けとられるものではない」「(2)知識とは認知主体によって能動的に構築される」「(3)認知の機能は、生物学的な意味で適応的なものであり、適合や実行可能性への傾向性を有している」「(4)認知は主体による経験世界の組織化の役目を果たすのであって、客観的な存在論的実在を発見しているのではない」。このうちでもっともラディカルなのは(4)で、著者はそれに関して次のように述べている。「グレーザーズフェルドはここで、認知と「客観的な存在論的実在」との間に一般に想定されている関係を切断している。言い換えれば、認知の機能は真なる世界の発見にあるのではない、と宣言している(207頁)」。

 

ならば「認知行為によって構築される知識とは、真理ではなくて何なのだろうか(209頁)」。その答えが(3)の文に含まれている「うまく機能する」ことを意味する「実行可能性」なのですね。次のようにある。「グレーザーズフェルドは、伝統的な真理の概念を、この実行可能性に置き換える。生物学では、ある状況に生物が適応的で、そこで生存可能であることを「viable」と言うが、同様に、ある状況に知識が適合的で、実行可能であることが「viable」である(209頁)」。また次のようにある。「知識が実行可能であるために必要なのは、外的なものとの「一致(match)」ではなく、その状況への「適合(fit)」である。一致には、まったく同じで「正しい」という含意があるが、適合では、同じかどうかは関係なく、ただフィットするかどうか、うまく機能するかどうかだけが問われる(209頁)」。

 

実にラディカルではないですか。というのもこれは、前述したわが訳書、ドナルド・ホフマン著『世界はありのままに見ることができない――なぜ進化は私たちを真実から遠ざけたのか』がまるまる一冊をかけて主張していることとほぼ同じだから。前述のとおり、ホフマンにとって、「うまく機能しているか否か」の判断の基準になるのは、生き残って子孫を残す可能性を示す適応度であり、またホフマンは「進化の過程で、適応度戦略は真実戦略を打ち破る」、つまり「知覚が真実(実在)をありのままに見るべく進化する可能性は、生物や環境が複雑になればなるほどゼロに近づく」と主張している。ホフマンは進化生物学の最新の知見に参照してそう論じているのに対して、グレーザーズフェルドはほぼそれ抜きで論じているはずなので、当時としてはきわめてラディカルな理論と見なされたのでしょう(現代でもホフマンの理論をラディカルと見る読者は多いでしょうね)。

 

第5章の最後の節「3 共同的な現実構成」の前半は、「複数の主体による世界の共有(214頁)」、言い換えるとアルフレッド・シュッツのような現象学的社会学者が論じている間主観的世界の成立はいかにして可能なのかが考察されているけど、さすがにこの問題を数ページで片付けるのは不可能に近く、納得できるものではなかった(てか白状すると、一度読んだだけではよくわからなかった)。第5章の最後は、ラディカル構成主義に基づいた場合、科学とはいかなる営為と考えられるのかが論じられている。端的に言えば、「{科学は真理を明らかにする営みではない/傍点}(221頁)」。ラディカル構成主義によれば、「そもそも認知の機能そのものが、真理を発見することとは無関係のものだった。認知の機能は主観的な経験世界を秩序づけることであって、外的世界にアクセスすることではない。これは人間だけでなく、すべての生物に共通する認知のあり方である。したがって、いかなる知識も世界の真理や実在とは関係がなく、その妥当性は自らの経験世界における実行可能性によってのみ評価することができる(221頁)」。ただしこのままではポール・ファイヤーアーベントのような極端な科学相対主義を提起していると思われることを怖れたか、実行可能性が間主観的な知識の構築に寄与するとも述べている。

 

次は「第6章 情報とは何か」だけど、この章ではサイバネティクスにとっての情報の意味が検討されている。情報に関する一般的な見方や定義は前述のわが訳書、メラニー・ミッチェル著『ガイドツアー複雑系の世界』の「第3章 情報」などにもまとめられているけど、このメチエ本では、あくまでもサイバネティクスという文脈のもとでの情報の概念が論じられている。著者はまず、サイバネティクスの概念の端緒をなすフィードバック機構の概念について次のように述べる。「フィードバック機構とは、出力の結果を入力の側に返すことで理想的な状態をつくりだそうとするメカニズムである(227頁)」。「ではフィードバック機構にとっては何が重要なのか。(…)フィードバック機構をそれとして駆動させるのは、目指されている状態とその時点の実際の状態の差である。フィードバック機構の本質は、この差を制御することだった。ではこの差の制御はどのように行われるのかと言えば、出力側から入力側へと送られる「メッセージ」によってである。そしてそうしたメッセージのやりとりが「{通信/コミュニケーション}」であり、メッセージとしてやりとりされるものが「情報」である(228〜9頁)」。

 

だがここで、著者は次のように読者の注意を喚起する。「ここでの情報とは、本来の情報概念の一側面を捉えたものにすぎないということである。ひとが「情報」と言うとき、その根底には必ず「意味」の問題が付随している。だが情報量[シャノンやウィーナーの言う情報量のこと]とは文字通り{量/傍点}であって、{質/傍点}にあたる意味とは関係がない。ビット列としての情報も、意味とは直接無関係の形式的な情報である(231頁)」。なぜそうなるかと言うと、その種の情報(量)の概念はサイバネティクスのコペルニクス的転回をまだ経ていない初期サイバネティクスに基づくものだから。次のようにある。「この状況は、初期サイバネティクスの情報観が、まさに一つのパラダイムとして機能したことを物語っている。情報はすべてビット列として形式的に表現可能で、機械で十分に処理することができるという信念、つまり、コンピューティング・パラダイムである。それによって進行しつつあるのが機械の精神化であり、精神の機械化である。そうして人間もコンピュータも、同じ情報処理機械となっていく(231〜2頁)」。

 

ではフェルスターや、マトゥラナ&ヴァレラのオートポイエーシス論を中心とした新しいサイバネティクス(以後ネオサイバネティクスと記す)ではどうか? それに対する著者の回答は次のようなものになる。「こうした[ネオ]サイバネティック・パラダイムの情報観は、コンピューティング・パラダイムの情報観と著しい対照をなしている。コンピューティング・パラダイムでは、情報は制御のためにあり、システムへの命令として客観的に作用する。一方、[ネオ]サイバネティック・パラダイムで考えられているのは自律システムであるから、命令的な情報が外部から入力として与えられることはない。自律システムは情報的閉鎖系である。情報があるとすれば、それはシステム自身の内側に生じる主観的な意味と不可分のものとしてあることになる(237頁)」。うむむむ! 最後の文は謎めいているよね。「システム自身の内側に生じる主観的な意味と不可分のものとしてある」などということが、いかにして可能なのだろうか?

 

システムによる意味の処理という話で思い出すのは、かつて私めがIT企業に勤めていた頃、XMLコンソーシアムに参加していたことがあるけど、そのコンソーシアムのメンバーのあいだで「セマンティックWEB」というテクノロジーが流行っていたこと。私め自身は「セマンティックWEB」などに手を染めたことはまったくなかったからその内容をよく知らんのでググってみると、「WEBコンテンツやデータベースなど、いろいろな場所にある情報に意味を表すデータ(メタデータ)をつけて、ソフトウェアが情報の内容の意味を自分で解釈できるようにする技術」とある。IT業界を辞めてから15年になる私めはすっかり今浦島になってしまったのでよくわからんけど、あれはいったいその後どうなったのだろうか? おそらく「ソフトウェアが情報の内容の意味を自分で解釈できるように」はなっていないのでしょうね。

 

セマンティックWEBと直接的な関係はないのかもだけど、メチエ本にも次のようにある。「現代の最先端のAIでも、このような意味の問題を抱えている。情報の意味が重要となる領域では、人間の仕事を奪うどころか、実は仕事に就く以前、大学入学以前の段階でつまずいている。意味の理解という点では、東大どころか幼稚園にすら入園できないレベルである(239頁)」。では、「今はやりのChatGPTは?」とか思ったら、直後に次のようにあった。「OpenAIの「ChatGPT」をはじめ、アップルの「Siri」やアマゾンの「アレクサ」など、人間相手に言葉のやりとりができるとされるAIなるものはすでに多数存在するが、この問題はまったく解決されていない。ビッグデータを活用する機械学習の手法は進展しているが、それで情報の意味に対するアプローチが本質的に変わったわけではない。端的に言えば、それは入力された言葉と統計的に関連する確率が高い言葉を見つけ、それを出力しているだけである(240頁)」。まあジョン・サールの有名な思考実験「中国語の部屋」の問題は何ら変わっていないということになるのかな?

 

しかしこれは、世間ではコンピューティング・パラダイムが幅を利かせているからそうなのであって、ネオサイバネティック・パラダイムが実践的にも普及すればこの「意味の問題」は解決できるのだろうか? 先にあげた237頁の引用は、それが可能であるような印象を与える。著者によれば本来の情報とは、「機械で扱えるような客観的な情報ではなく、主観的な生命情報であると考えた方がよい。それは個々の生物に固有な意味作用と不可分のものであるから、伝達することができないのである。これを念頭に再考すると、機械同士の場合に伝達されているのは、本来の情報というよりも、その担体に過ぎないということがはっきりする。それだけでは文字通り{意味/傍点}がなく、我々によって解釈されて初めて本来の情報となるわけである(247頁)」。「担体」などという言葉は生まれて初めて聞いたけど、ググると「他の物質を固定する土台となる物質」という意味なのだそう。だから「情報の意味はどこまでも解釈者に固有のものと理解しなければならない(247頁)」ということになる。これは当たり前のようにも聞こえ、そもそも何が問題だったのかさえわからなくなってきたけど、一つ言えるのは、解釈者とは主観的観察者のことだろうから、オートポイエティックな閉鎖システムを構成しているであろうということ。

 

著者によれば、基礎情報学というそれを扱う学問があるらしい。この基礎情報学に関して次のようにある。「情報は基本的に主観的なものであり、伝達することができない。にもかかわらず我々は、それができることが前提となっているような世界を生きている。情報伝達と言われるような現象は、情報学的にどのように理解すべきだろうか。(…)その点、基礎情報学は情報伝達を一種の{擬制/フィクション}として位置づけ、その背景にあるシステム論的メカニズムを明らかにしている(248頁)」。もちろんその基盤となるのはオートポイエーシス論であり、次のようにある。「情報伝達とは、オートポイエーシス論の語る行動および認知のバリエーションの一つとして理解することができる。より正確に言えば、システム同士の「共感的領域」における行動を、特定の期待とともに観察者が描写したものである。システム同士の相互作用において、特定の刺激によって期待される特定の行動が見られるとき、観察者はそこに情報伝達という現象を認めるのである(250頁)」。なお「共感的領域」とは、省略した第4章の後半で説明されているけど、ここでは「間主観的な世界」程度の意味で抑えておけばいいと思われる。ちなみにその後で論じられている自律性と他律性に関する議論は個人的には要領を得なかった。

 

さらに著者は、オートポイエーシス論を社会に拡大する、社会学者ニクラス・ルーマンの社会システム論を取り上げている。ルーマンはその昔分厚い英訳の本を一冊だけ読んだことがあるけど、とても私めに歯が立つシロモノではなかった。ルーマンに関してメチエ本から一つだけ引用しておくと、「ルーマンによれば、社会システムは生命システムによって産出されるシステムではない。社会システムは自らの作動によって自らを産出するオートポイエティック・システムである(255頁)」。オートポイエーシス論を社会に適用すると、社会は個々の人間によって形成されるというより、自らを産出し自律的に機能するオートポイエティック・システムとして捉えられるという指摘は興味深い。浩瀚で難解なルーマン自身の本をもう一度読む気にはとてもなれないから、誰か新書か選書でルーマン入門を出してくれないかなあ。私めは買うから少なくとも一冊は売れるよ。

 

さて社会をオートポイエティック・システムとして捉えるルーマンの次に紹介されているのは、階層的自律コミュニケーション・システム(HACS)で、率直に言ってわが腐りかけの脳にとってその説明はよくわからなかったけど、個人や社会などの自律的なオートポイエティック・システムを階層的に捉えようとする概念だということだけはわかった。そこで次の点にハタと思い当たった。つまり、前述のわが訳書、ロイ・リチャード・グリンカー著『誰も正常ではない』や、スザンヌ・オサリバン著『眠りつづける少女たち』で取り上げられている生物・心理・社会モデルも、実のところ生物−心理−社会のような水平的な図式としてではなく、生物心理社会という、それぞれ粒度の異なる自律的なオートポイエティック・システムから構成される階層的なシステムとして捉えるべきなのかなということに。

 

なお第6章の最後の部分にある、コンピューティグ・パラダイムに基づく情報伝達の理解に関する現状批判は重要に思われるので、長くなるけど以下に引用しておきましょう。

 

情報伝達というフィクションは、このように階層関係にあるHACS間に観察される現象として、システム論的に再定義できる。これによって我々は、伝達を見通すための形而上学的信念や、個々の状況に対する観察者の特定の期待を前提とすることなく、情報伝達を語ることができる。本来は生命システムの内部に生起する情報が、社会的に伝達されるかのように錯覚されるシステム論的メカニズムが、こうして明らかにされたことになる。

情報は伝達されない、情報はあくまでフィクションである。しかし社会的な情報伝達が錯覚されることで、意味を無視して機械的に処理できる客観的な「情報」なる概念がその先に出現することになる。そして情報伝達というフィクションがフィクションでなくなり、機械情報こそが本来の情報であると考えられていく。

現代情報社会はまさにそうして転倒した情報概念が基盤となっている社会である。最初に客観的なデータがあって、その先に意味のある情報が出現すると考えられている。ビッグデータから意味ある知見を{発掘/マイニング}しようとする流行りのデータサイエンスはその典型だろう。その根底にあるのがコンピューティング・パラダイムであり、人間・生物機械論である。

だが我々の存在のあり方から根本的に捉え直すとき、事態はまったく異なるものとなってくる。情報の時代を切り開いたサイバネティクスは、システム論としてはすでに人間・生物{非/傍点}機械論へと転回している。新しいサイバネティクスでは、人間・生物は自律システムであり、情報の意味と不可分の存在である。

情報に関するあらゆる認識は、こうして再考を迫られている。我々の身体的情報や精神的情報が客観的に存在し、それをまるごと機械的に処理したり、伝達したりすることができると考えるシンギュラリティの思想は、根本的に見直されなければならない。生物の遺伝情報や人間の言語情報、マスメディアが流布する音声情報や映像情報、本や図書館、ウェブ、データベース、自動運転車の判断や、AIが導き出す回答まで、情報あるいはその関連物として考えられてきたありとあらゆる対象は、その{意味/傍点}と自律的に向き合う生物や人間という存在を基盤として考え直さなければならない。そしてそうした情報が伝達されるかのように錯覚されるメカニズムは、階層関係にあるHASCとして探ることができるだろう。(262〜3頁)

 

思うに本書で著者が最終的に言いたかったのは以上のことなのでしょう。確かに最近は「シンギュラリティ」だとか「トランスヒューマン」だとかいった言葉が流行っているけど、その信憑性には疑念を抱かざるを得ない。著者や、あるいは著者の師匠らしき西垣通氏は日本における懐疑派の代表格の一人と言えるでしょうね。著者は「意味」の問題を前面に出しているけど、個人的には、いわゆるトランスヒューマニストは、なぜ「基質」を無視して心をアップロードできると考えているのかが不思議でならない。「基質」とは実装に関することがらであり、著者の言葉では「構造(structure)」に該当する。つまりトランスヒューマニストは、「実装(構造)」を無視しても、「機能(構成)」だけを情報伝達すれば心をアップロードできると考えていることになる。そんな証拠はどこにあるのだろうか?

 

それに関しては、わが訳書『進化の意外な秩序』の著者アントニオ・ダマシオはさらに手厳しい批判を加えている。同書に次のようにある。「トランスヒューマニズムの背後にある主たる考えは、人間の心をコンピューターに「アップロード」することで、永遠の命を確保できるというものだ。現時点では、このシナリオの実現はあり得ない。この考えは、「生命とは何か」に関する理解の限界と、いかなる条件のもとで生身の人間が心的経験を構築しているのかをめぐる理解の欠如を露呈している。いったいトランスヒューマニストは、何をアップロードしようとしているのか? (…)本書の主たる考えの一つは、「心は脳だけではなく、脳と身体の相互作用から生じる」というものだ。トランスヒューマニストは、身体までアップロードしようとしているのだろうか?(同書243〜4頁)」。またダマシオは、トランスヒューマニストは「生物はアルゴリズムである」「身体や脳はアルゴリズムである」という命題を無条件に前提としていると指摘する。ここで、アルゴリズムとは「機能(構成)」の表現方法であり、「実装(構造)」のそれではないという点に注意されたい。同じアルゴリズムは、異なる複数の実装方法によって実現可能なのだから。ダマシオはそれに関して次のように述べる。「「生物はアルゴリズムである」という考えは、「生身のものであれ人工的なものであれ、生物の構築に用いられる素材を考慮する必要はない」という誤った概念を根づかせた。つまりアルゴリズムが作用する素材も、それが実行される文脈も関係はないというのだ。「アルゴリズム」という言葉の使用の背景には、素材や文脈は無視しても構わないとする考えが透けて見える。この言葉は本来、そのような意味を含んでもいなければ、含むべきではないにもかかわらず(同書245〜6頁)」。ここでは「素材」という用語が使われているけど、ダマシオはまさに「基質」を無視することの問題を指摘しているのだと言える。

 

ちなみに翻訳者のあいだでは「仕事がAIに奪われるうううう!」という言説が流布するようになって久しいけど、こうして見ると、それは結局コンピューティング・パラダイムに囚われた見解であるように思えてきた。確かに翻訳を外国語から日本語、あるいはその逆の変換に過ぎないと考えるのなら、その言説はある程度妥当なんだろうけど、翻訳者は「中国語の部屋」の中の人なのではない。私めのアカウントのプロフィールに高らかと謳う「トータル翻訳」とはまさに、翻訳作業そのものと文化的営為の二つの粒度にまたがるHACSなのですね。だからコンピューティング・パラダイムに基づくAIによって簡単に代替されることなどないと思っている。

 

なお、まだ「第7章 まとめと展望」が残っているけど、この章はタイトル通りまとめと展望が記されており、特に改めてコメすることはない。最後に全体的な評価をしておくと、ヘタレブケダンの私めにはよくわからない部分もとことどころあったけど、AIを含めた現代の問題を考えるにあたって非常に重要な本だという印象を持った。お勧めの本ですね。

 

 

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※2023年7月6日