◎櫻井芳雄著『まちがえる脳』(岩波新書)
タイトルが秀逸だし、目次の前にある次のような冒頭の文章も期待を抱かせる。「「脳と同じように働くコンピュータをつくりたい」「脳の優れた情報処理を模したコンピュータを開発したい」――このような言葉をどこかで聞いたことがあるかもしれない。しかし、脳はそんなに優れているのだろうか? まず、脳はよく忘れるが、コンピュータは忘れない。また、脳は精神疾患や認知症などで故障するときもあるが、コンピュータの集積回路はあまり故障しない。そして何よりも、正常に働いていても脳はよくまちがえるが、正常に働いているコンピュータはまちがえない。まちがえることがあれば、それは人がつくったプログラムのまちがいである。脳はどんなに頑張ってもまちがえてしまう。では、それはなぜだろうか?(@頁)」。
まず私め以外にはまったくどうでもいいことからコメントしておくと、かつてIT業界に属していた私めは、「コンピューター」ではなく「コンピュータ」と記しているところに共感を覚えてしまう。かの業界では「コンピュータ」とか「プリンタ」とか記して、末端のカナ文字を伸ばさないのが常識のようになっていた。でも翻訳者になってからは、業界臭がプンプンするのがいやなのできちんと伸ばすようにしていたから、妙に懐かしく感じたってわけ。
まあそれはどうでもいいとしても、この冒頭の文章は、わが訳書、スザンヌ・オサリバン著『眠りつづける少女たち』、あるいはリサ・フェルドマン・バレット著『情動はこうしてつくられる』で言及されていた「予測する脳」という、最近はやりの脳科学の概念からしても十分に納得できる(ただしこの新書では言及されていない)。予測するということは、予測がはずれる、つまり間違うこと(予測エラー)がそもそも脳の原理の一部に組み込まれているということを意味するから。
さて本論の「第1章 サイコロを振って伝えている?」に入ると、「まちがえる脳」という主題からはややはずれるけど、哲学者や倫理学者、あるいは法学者には興味深いはずの問いがいきなり提起される。それは「自由意志は存在するのか」という問いで、次のようにある。「つまりニューロンが発火するには、そこに信号を送るニューロンが発火しないといけない。しかし、その信号を送るニューロンもまた、そこに信号を送ってくれる他のニューロンが発火してくれないと発火できない。このように、ニューロンは自力で発火することができず、常に他力本願な存在である。それでは一体、脳の信号は、最初はどこでどのように発生しているのであろうか? わたしたちが自発的に考えたり、行動したりするとき、脳ではどこかで信号が発生しているはずである。しかし、ニューロンは自発的には発火できない以上、自発的な考えや行動というものもあり得ないことになる。¶もちろん、単独で発火できるニューロンは、脳のどこにも見つかっていない。そこから、脳の自発的活動、すなわちヒトの自発性はどのように生まれるのか、という大きな謎が浮上してくる。そもそもヒトには自発性などはなく、それは単なる錯覚にすぎず、実は自分でも気づかない外界や体内の刺激により脳は活動していると、考える人もいる。(…)このような脳の自発性に関する考察は、かつて脳科学者や哲学者が共に議論した「自由意志は存在するのか」という問題とも関係している(30〜2頁)」。
「おっと! その意味で「他力本願」という言葉を使うと浄土真宗の信者に怒られちゃうよ!」と思ったことは置いといて、これは当然の疑問でしょう。というか、実は今読んでいる別のごつい本(ゆえあってしばらくタイトルは伏せておく)の主題もこれなのよね。そのごつい本では、ベンジャミン・リベットの実験のような瞬間的で単純なミクロの判断に見受けられる因果性のみならず、脳と環境の相互作用、さらには遺伝や進化を通じたよりマクロ的かつ中長期的な因果性を含めて自由意志は存在しないと主張しているから、この問題がさらに過激に扱われている。つまりごつい本の著者の言い回しをちょいと拝借すれば、リベットの実験の結果のみで自由意志を否定するのは、ハリウッド映画の良し悪しをラスト3分間で判断するようなものなのであり(このたとえ自体は「自由意志を否定するのは」を「心が脳を変える場合があることを否定するのは」に変えれば、先にあげた『眠りつづける少女たち』に関するコメントで私めが指摘したこととほぼ同じだと言える)、だからごつい本ではさらに徹底的な決定論が展開されていることになる。
では、この問いに対する新書本の著者の回答はというと、「結局、現時点では、脳の自発活動の出発点は謎であり、自発できない相互依存のニューロンが組み合わさり、協調することで自発性が生まれるのではないかというような、抽象的な仮説にとどめておくしかない(32頁)」という慎重なものになる。おそらく脳科学者である著者としては、脳科学者のみならず哲学者、倫理学者、法学者、神学者などとの論争になる可能性があるので、明言は避けたかったのでしょう。賢明な判断でしょう。また著者は特定のニューロンの発火は蓋然的、すなわち確率的であり、「信号の伝達はサイコロゲーム(36頁)」だと述べている。もちろん「信号の伝達がサイコロゲームである」という事実から一足飛びに「自由意志は存在する」とはならないのは確かであり、偶然が自由意志の存在を保証するわけではないという点については、ごつい本の著者も量子力学を自由意志の擁護に動員することに対する反論の一つとしてあげている。とはいえ「信号の伝達はサイコロゲーム」であることが真であれば、それは少なくとも、神経活動が因果関係に完全に支配されているわけではないことを意味するから、隙間のない因果関係の網の目の存在を前提とするラプラスの宇宙的決定論を瓦解させることは間違いない。それと、「自発性が生まれる」などという表現を使っていることを考え合わせると、この新書本の著者はごつい本の著者と違って、暫定的ながら「自由意志が存在する」可能性を認めていると思われる。
ちなみに「自発できない相互依存のニューロンが組み合わさり、協調することで」という新書本の著者の文言は、当人(当個体)が注意を集中することでシナプス前ニューロンの同期発火が生じ、ある特定のシナプス後ニューロンが発火する確率が上がることを指すらしい(ニューロンはn対nで結合している)。ただおそらくごつい本の著者なら、「それも因果的に決定されているのであって自由意志の存在の証拠にはまったくならない」と反論するだろうと思う。では私めはどう思うかというと、「君子、危うきに近寄らず」と答える。ヘタレだしね。
それでも、「自由意志が存在するか」という問いそれ自体に回答するわけではないけど、三点ほど指摘しておきたい。一つは、「自由意志が存在するか否か」という問題の立て方自体、「運命」だとか「因果」だとかいった言葉が大好きな日本人にとっては(ただし哲学者、倫理学者、法学者、神学者を除く)、率直に言ってどうでもいいことのように思えるのではないかという点。たとえすべてが物理的条件や環境的条件によって事前に決定されているのだとしても、日常生活では決定や決断は下さなければならないのであって、実践的には「すべてが事前に決定されているの? それなら優柔不断のボクちゃんは意志決定なんかしないんだもん」とは普通ならない。それでも決定論者は、「意思決定しない」という決定自体、因果関係の網の目のなかで事前に決定されていたと主張するだろうけど、そうなってくると普通の日本人は「そんなめんどっちい議論には付き合いきれん」と思うのが関の山でしょう。そもそも関連するすべての因果関係など、仮にあったとしても人間にはまったく不可知だしね。それでも決定論者は「不可知性は非決定性を意味するわけではない」とのたまうだろうけど(実際ごつい本の著者は、「不可知性」ではなく「予測不可能性」と記しているものの、複雑系科学を自由意志の擁護に動員することに対する反論の一つとして類似のことをのたまっていた)、私めのような由緒正しき日本は「もうええがな」と言いたくなるに違いない。「自由意志は存在するか?」という問いは「神さまは存在するのか?」という問いにも似ている。よく言われるように日本人には無神論者が多いというより、そもそも「神さまがいるかいないかなどどうでもええやん」と思っている人が多いんだと思う。いずれにせよ、「自由意志」という概念自体、中世神学にその起源を持つという話もあり、要するに至って欧米的、キリスト教的、あるいは最近取り上げた本『The WEIRDest People in the World』の著者ジョセフ・ヘンリックの言葉を借りればWEIRD的な立論なのだろうと思う。
二つ目は、自由意志など存在しないと主張する決定論者は、「言論の自由」や「表現の自由」などといった「〜の自由」についてどう考えているのかに興味があるという点。決定論者は、「言論の自由」や「表現の自由」も存在しないと考えているのだろうか? それとも自由意志など存在しなくても「〜の自由」は存在すると考えているのだろうか? ここで一点明確にしておきたいことがある。それは、「言論の自由」や「表現の自由」というと、どうしても政治的な文脈のもとでとらえられがちになるけど、それをめぐる政治的な議論は元来二次的な側面に関するものにすぎないのであり、本来は内発的な動機、すなわち「言論する意志」や「表現する意志」がまずあってこそ「言論の自由」や「表現の自由」が成立しうるのだということ(ネットなどで「〜の自由」に関する記事やコメを読むと、そもそもその点が等閑に付されているのでは?と思うことがよくある)。最初から「言論する意志」や「表現する意志」が存在しなければ、権力者による言論や表現の自由の抑圧を糾弾したところでほとんど意味がない。個人的にはそう思っている。だが、自由意志を否定することは、「言論する意志」や「表現する意志」を否定することにならないのだろうか? もちろん「言論する意志」や「表現する意志」を否定することになるから、自由意志は存在すると言いたいわけではない。それでは本末転倒だしね。ただこの点に関して決定論者はどう考えているのかが知りたいということ。ちなみに自由意志を否定するごつい本でも、そのことについては触れられていなかった。
三つ目は、決定論をとったほうがすぐれている理由を決定論者が述べる際、たとえば脳腫瘍のある人が犯罪に走った場合でも、当人の自由意志によってなされた行為ではないのだから、罪を問わなくて済ませられる、あるいはかつては分裂病と言われていた統合失調症者にスティグマを負わせなくても済ませられるなどといった論理を展開しがちだけど(ごつい本の著者にもその傾向が見受けられる)、そのレベルで自由意志を問題にするのなら、そもそも非決定論者であっても、そのような物質的条件に人間が縛られていることを否定しているわけではまったくないということ。極端な例をあげれば、自由意志を擁護する非決定論者でも、自由意志を行使すれば、飛行機のような道具なしでも人間は空を飛べるなどとは考えていない。そう考えているのは、カルト宗教の信者か、オカルト主義者であって非決定論者ではない。
とはいえ、この問題にあまり深く首を突っ込みたくないし、「まちがえる脳」という主題には直接的な関係がないのでこの辺にしておく。
さて著者は、脳がいかにまちがえるかに関して、ニューロンが「返品必至の性能」しか持っていないとし、次のように述べている。「ニューロンは脳内で信号を発生し伝える基本素子であるが、その性能はきわめて悪く、信号の発生も伝達もきわめて不安定かつ非効率であることがわかっている。もしそれが電気製品の部品であったなら、返品必至の不良品といえる(33〜4頁)」。なんでそうなるかと言えば(著者は進化生物学者ではなくこの本には書かれていないけど)、脳が、先を見通して計画できる人間(や全能の神さま)ではなく、自然選択による進化を通じて形成されたものであるからであることは明らか。
生物学関係のポピュラーサイエンス本では、何らかの生物学的事象が生じる理由を説明する際、もっとも単純で合理的な説明をあげ、それが原因の説明としてもっとも妥当だと主張しているのをよく見かけ、わざわざ「オッカムの剃刀」という言葉まで持ち出されているケースもある。でもその手の説明を読むたびに、「自然選択によって進化した生物や、そのような生物が備える(脳などの)器官の説明に対して、いわゆる〈オッカムの剃刀〉を適用するのははたして妥当なのか?」という疑問がムクムクと湧き上がってくる。もちろん可能性の一つとして、もっとも単純で合理的な説明をあげること自体は問題ではないけど、それが絶対的なものであるかのごとく主張すべきではないと思う。この新書本の著者は、明かにそのような陥穽にはまってはおらず、脳が実は出来の悪い製品であることをまず前提にして立論している。だから少なくとも脳に対して、もっとも単純で合理的な説明を適用することに対する警鐘を鳴らしていているとも解釈することができ、それには個人的に100%同意する。
そしてそれを前提として、脳はまちがうからこそ役立つという点が「第2章 まちがえるから役に立つ」で論じられている。この章は次のような言葉で始まる。「脳は個々のニューロン間の低確率で不確実な信号伝達を、ニューロン集団の同期発火で補っている。そのため脳は絶え間なく自発的な同期発火を繰り返しており、それがあるリズムをもつゆらぎとして現れる。しかし、集団をつくる個々のニューロンが低確率で不確実な信号伝達により発火していることは変わらないため、集団の同期発火にも、またそこから生じるゆらぎにも、ある程度の変動が生じることは避けられない。そのため、信号伝達のエラーを完全に排除することはできず、またエラーが起こる確率も、同期発火するニューロンの数や、信号の受け手であるニューロンの状態で変化するため、一定ではない。その結果、人がときどきまちがえることは避けられず、いつまちがえるかも予測できない。しかし、まちがえることにはメリットもあるらしい。それは新たなアイデアの創出、つまり創造である(64頁)」。「新たなアイデアの創出」「創造」がいかにまちがえる脳と関係するのかについては、細かくなるので本書を参照されたい。ただ一点だけ指摘しておくと、記憶機能に関する、「記憶を脳から定義すると、「特定の神経回路をつくるニューロン間の信号伝達の確率が高くなった状態」といえる(80〜1頁)」という指摘は覚えておきましょう。
次は「第3章 単なる精密機械ではない」だけど、「2 心が脳の活動を変える」はなかなか興味深い。「心が脳の活動を変える」とは、心が特定のニューロンの発火頻度を変えるということで、ニューラルオペラントの実験によって得られた結果を指し、動物のみならず人間でも確認されているとのこと。それに関して次のようにある。「発火頻度を変えようとする意思とは心であり、それは脳のニューロン活動から生じているはずである。そのようなニューロン活動から生じている心が、脳の広範な部位にあるニューロンの活動を制御できるという事実は、脳と心の関係を考える上で非常に重要であり、まさしく脳のメタ制御性を端的に示している(134頁)」。
ここで言われているのは「脳→心→脳」という循環ループであり、なぜ興味深かったかというとこのような循環ループ、とりわけ「心→脳」の作用は、さらに社会が関与することで中長期的にしか起こらないのだろうと思っていたんだけど、ニューラルオペラントの実験の結果は、単発的な実験の枠内で起こっており、実験を一つの社会的状況と見なさない限り、社会抜きで短期的に起こっているから。ただし、「自由意志は存在するのか?」という先の問いに対して、この実験結果をもって「イエス」と答えられるわけではない。なぜなら、発端は脳にあるのだから、心や、ましてや自由意志が生物学的因果関係の枠外で存在しうることの証拠にはまったくならないから。あくまでもこの結果は、脳と心が、短期的にも循環的に影響を及ぼし合っていることの証拠を提供するだけだと言える。
それからプラセボ効果も、脳のメタ制御性の反映であるという指摘も興味深い。次のようにある。「パーキンソン病における偽薬の効果は、まちがいなく脳内に物質的な変化を起こしており、ニューロンの発火も変えていた。本物の薬であると信じる心が、脳の状態や活動を実際に変化させるのである。つまり、プラセボ効果も、脳の活動から生まれる心がその脳を変えるというメタ制御性をよく表している(139頁)」。これについては、わが訳書、ノーマン・ドイジ著『脳はいかに治癒をもたらすか』で、ドイジ氏も次のように述べている。「最新の脳画像研究によれば、疼痛や抑うつを抱える患者にプラシーボ効果が生じた際の脳の変化は、投薬によって改善が得られた場合の変化と{ほぼ同一/傍点}である。心身医療を実践もしくは研究する臨床医や科学者は、プラシーボ効果の基盤をなす神経回路を系統的に活性化する方法を考案できれば、劇的な医学的進歩を遂げられると主張する(同書58頁)」。あるいは「プラシーボ効果による治癒は、投薬による治癒より「非現実的」というわけではない。それは、心が脳の構造を変えるという、神経可塑性の作用の一例なのである(同書58頁)」。まさにドイジ氏も、脳のメタ制御性のメカニズムを解明できれば、大きな医学的進歩が得られると見なしていることになる。
最後の「第4章 迷信を超えて」は、章題どおり脳に関する迷信がおもに扱われており特にコメントすることはないけど、二点だけあげておきましょう。一つは脳の話題に関するマスメディアの扱いについてで、次のようにある。「わかりやすい単独の原因を指摘したり、手っ取り早い解決法を述べたりする専門家は、これからも絶えずマスメディアに登場するであろう。マスメディアは常に、わかりやすい言葉で「いい切る」専門家を求めているからである。しかし、脳が関わる問題の原因はたいてい複雑であり、解決法も単純ではない(192頁)」。これは脳の問題だけに限られるわけではなく、記憶に新しいところではコロナ感染が爆発的に広がっていたときに、その手の専門家がマスメディアに登場して、したり顔でコメントしていたよね。しかも専門家ですらなく、疫学や病理学にはずぶの素人のアナウンサーや、挙句の果てはお笑い芸人に至るまで、ただの個人的な見解にすぎないものを専門家面して堂々と開帳していたらしい。この手のマスメディアの問題の深刻さは、心身症や集団心因性疾患をテーマとする、先にあげたわが訳書『眠りつづける少女たち』を読めばある程度把握できる。
もう一つは、交絡要因を排除するために「統制条件」を設けて比較実験を行なう場合、「初めから統制ありきで調べてしまうと、最も重要かもしれない「多要因の組合せ」を見逃すことになってしまう(199頁)」という指摘。交絡要因の排除とは、生理学的なレベルで分析的な調査が必要な場合には必須であることは間違いないんだろうけど、もう少しマクロなレベル、たとえば生態学的なレベルにその方法が適用されるとかえって重要な発見を見逃しうるということなんだろうと思う。要するに研究対象となる事象の粒度が異なれば、研究方法も異なってしかるべきだということ。ところがこの本では、「場所細胞」の発見というミクロの生理学的レベルの事象に関しても、実験が十分に統制されていなかったがゆえに発見され、それがノーベル賞につながったという例があげられていてなかなか興味深かった。
ということで総括すると、後半にいくほど「まちがえる脳」という主題からは離れていく印象を受けはしたけど、総じて言えば、いくつかの脳が関係する本を訳している私めにも推薦できるすぐれ本だと評価できる。
※2023年6月2日