◎中畑正志著『アリストテレスの哲学』(岩波新書)

 

 

この新書本はタイトル通りアリストテレスの入門書で、哲学関係の本としては、新書であることもあって一部を除けばなかなか読みやすい(哲学関係だと、一般向けの新書でも、全編にわたって至って読みにくい本もあるからねえ)。冒頭いきなり、現代人にとってのアリストテレスのとらえにくさを指摘して、「とはいえ、アリストテレスの師であったプラトンなら、ほぼ同じ時代と場所を生きた哲学者であるのに、受けとられ方はかなり違うのではないか。少なくとも、プラトンに対して何か親しみのもてる人は、アリストテレスの場合よりずっと多いと思われる(A〜B頁)」とあるのを読んで、「そうかなあ?」と思ってしまった。

 

というのも個人的には、「人類はプラトンのかけた魔法からまだ目覚めていない」というような主旨のことを誰かが言っていたように、プラトンに影響された素朴実在論は諸悪の根源であるように思えて、プラトンに対する印象はあまりよくないから。おおげさな言い方をすると、プラトンの考えはのちのファシズムにつながるような契機さえ孕んでいるように思えてしまうのよね(まあ素人の私めの言うことだけどね。ちなみに本書によれば、アリストテレスこそ全体主義的と見なされることも多々あるとのことだけど、要はどこに焦点を絞るかによって印象が変わってくるのだろうと思う)。いずれにしても、本書はアリストテレスの入門書であってプラトンの入門書ではないので気にしないことにしましょう。

 

アリストテレスはきわめて多方面の学知に手を出した人で、プラトンと比べると現実をトップダウンに見るのではなく、処々の具体的な事象から世界全体をボトムアップに見て行こうとする傾向を強く持っていたと考えられる。著者によれば、「われわれが経験する世界はどのようなあり方をしているのか、そしてそれを経験し、学び、知るとはどのようなことなのか。――この問いに対する応答は、もちろん、アリストテレスの哲学の核心を語ることになる(11頁)」。

 

アリストテレスの持つ、このようないわば経験主義的な側面がもっともよくわかる本として、マリンバイオロジストとしての側面に焦点が絞られたアリストテレスの伝記?である、アルマン・マリー・ルロワ著『アリストテレス 生物学の創造』(みすず書房,2019年)を推奨しておきましょう。邦訳は上下に分かれていて合わせて¥8000くらいするので値段的にチトきついけど。ちなみに個人的には、原書で一度、そしてゆえあってみすず書房から頂戴した邦訳を一度読んでいる。

 

『アリストテレスの哲学』のなかでのアリストテレスの引用にも、そのような経験主義的な原理に彼が従っていたことがすぐにわかる箇所がある。引用の引用になるけど次のようにある。「こうして、われわれが主張するように、感覚から記憶が生じ、同じ事柄について{繰り返される記憶から/傍点}エンペイリアーが生じる。というのも、数のうえで多くの記憶が{一つ/傍点}のエンペイリアーを構成するからである。そしてエンペイリアーから、あるいはむしろ、魂のうちで静止している普遍全体――それは多くの事柄から離れて、そしてそうしたすべての場合に内在する一つの同じものである――から、技術と知識が生成する(『分析論後書』第二巻第一九章100a3-8)(30頁)」。「エンペイリアー」は「経験的習熟」を意味するとのことだけど、一般には「経験」と訳されているらしい。また「魂のうちで静止している普遍全体」は、とりあえずは「普遍」と考えればよいのだろうと思う。つまり感覚器官から入ってきた外界のデータが記憶として蓄えられ、そうして蓄えられた複数の記憶をもとに、さまざまな個別の事象から一つの普遍が抽出されると言いたいのでしょう。これはのちの経験主義の考え方そのものと言えそうだよね。

 

さらにアリストテレスは次のように主張する。「同意されている諸々の事柄を総観する能力の低下を招く原因は、{経験的習熟の欠如/傍点}である。それゆえ自然的な事象により多くたずさわってきた人びとは、広範な事象につながりをつけうる始原を前提とすることに、より長けているけれども、他方で多くの議論に打ち込むあまり、現にある事実の考察を怠ってきた人たちは、少数の事実に着目しただけで、より安易に意見を表明してしまうのである(『生成と消滅について』第一巻第二章316a5-10)(32頁)」。

 

「少数の事実」を「自分に都合のよい少数の事実」とすれば、現代にもその手の御仁はわんさかいるよね。あるいはアリストテレスの主著の一つ『形而上学』にある、「すべての人間は、自然本性によって知ることを求める(『形而上学』第一(A)巻第一章980a22)(14頁)」という人間の知に関する見方は実に興味深い。知ることを求める自然本性とは、くだいて言えば「好奇心」のことなのでしょう。ちなみにこの一文は一般に「すべての人間は生まれながらにして知ることを欲する」と訳されているそうだけど、「自然本性」のもとの言葉「ピュシス」は、「少なくとも人間の場合に、「もって生まれた」「生得的な」という意味にかぎられない(14頁)」のであって、「成長や発達という時間的プロセスと養育や教育という社会的プロセスのもとでかたちづくられことを含みうる概念(14頁)」なのだそうな。つまり「生まれ」と「育ち」の両方を含んでいるってこと。そのような見方は現代の遺伝学(エピジェネティクスなど)や脳科学(脳の可塑性など)、あるいは進化科学(遺伝と文化の共進化など)とも関連がありそうで、実に現代的ではないですか。だから実に興味深いと言ったわけ。多少強引に言えば、そのことはアリストテレスが生物学にも深く関わっていたこととも何らかの関係がありそうだよね。

 

「U なぜ倫理は月並みなのか」は、倫理に関するアリストテレスの考えが取り上げられている。そこに少し興味深いことが書かれていた。次のようにある。「最終的な目的となる善に対して、アリストテレスは「人間的な」という形容を付している。「人間的な」という限定は、プラトンの〈善のイデア〉という構想に対抗する含意を伴っていた。アリストテレスは、プラトンの〈善のイデア〉の概念を「人間がおこないうる善でもなければ、獲得できる善でもない」と批判する。アリストテレスの思考は、この究極的な善についても、日常的で地上的な世界にとどまっている(54頁)」。ある意味でプラトンが理想化してものごとを見ていたのに対し、アリストテレスはより現実的な観点を取っていたと見ることができるのかもしれない。だからアリストテレスには、プラトンには感じられるファシズム臭がないのかも。

 

ただしその直後に、「他方で、プラトンの善のイデアのモチーフを部分的に受け継いでもいる(54頁)」「アリストテレスにとっても、善の概念は「善いと思われる」ということに還元されてしまうような、各人各状況に相対的なものではなかった(54頁)」とあるので、完全な相対論でもなかったのでしょう。まあそれはそうでしょうね。私め的な言い方をすれば、プラトンが普遍的存在に着目していたのに対し、アリストテレスは普遍的でもなければ、近代的な個人のような細粒度に属する実体でもない、中間粒度に関心を抱いていたということなのでしょう。

 

アリストテレスが中間粒度を重視していたであろうことは、「徳」に関する本書の説明からもわかる。アリストテレスはそれに関して「徳のある人」と「抑制ある人」を区別していたのだそう。つぎのようにある。「パートナーを裏切るといった行為をしないとしても、抑制ある人の場合はそうしたいとは思いながらも、それを実行した場合の得失を計算してその欲求を抑えるが、徳ある人はそうした欲求を抱かないか、少なくともそうすることが行為の選択肢に上らないのである。徳を身につけることは、欲求を抑圧することではない。欲求の方向を養うことなのだ(67頁)」。

 

では、いかにすればそのような欲求の方向を養えるのか? それに対する回答は次のようにある。「徳ある人にふさわしい行為をおこなうには、たんに欲求がよい目的へと向かうものであったり、よい動機をもったりするだけでなく、それを実現するための適切な行為を選択しなければならない。その適切な行為を指示する役割を担うのが、行為選択にかかわる知としての「思慮」である。人びとが目指すべき「善き人」は、思考にかかわる徳と人柄にかかわる徳の二つが共同することではじめて実現する。アリストテレスはその相互補完的性格を、(…)次のように述べている。――「思慮を欠いては本来的な意味での善き人にはなりえないし、人柄の徳を欠いては、思慮ある人にはなりえない」(『倫理学』第六巻第一三章1144b31-32)。思考にかかわる徳もまた、当然、その獲得に至るまでに一定の経験を積むことが必要である(68〜9頁)」。

 

このような相互補完的に作用する徳は、私めなら直観知と言いたいところ。直観知についてはここでは詳しく述べないけど、吉田量彦著『スピノザ』(講談社現代新書,2022年)や、認知科学者ヒューゴ・メルシエ&ダン・スペルベル著『The Enigma of Reason』(HUP,2017年)、あるいはわが訳書、ヒューゴ・メルシエ著『人は簡単には騙されない』(青土社,2021年)に関するレビューを参照されたい。先の引用にあるように、アリストテレスによれば、この直観知を獲得するには「一定の経験を積むことが必要」なのですね。ちなみに個人的には、この経験は個人的な経験であっても構わないし、『人は簡単に騙されない』で提起されている「開かれた警戒メカニズム」のように、人類がこれまでの進化の過程を通じて経験し獲得してきた、いかに自らの生存を確保するかに関する知識、すなわち遺伝によって継承される一種の集合知であっても構わないと考えている。ただもちろんアリストテレスが生きていた時代に進化生物学の知見は存在していなかったわけで、この本ではもっぱら個人の経験によって得られる知が扱われているので、ここでもそちらに焦点を絞ることにしましょう。

 

もちろん個人の経験は、教育、法、慣習などで構成される環境のもとで蓄積される。そして教育、法、慣習とは、「開かれた警戒メカニズム」のように生物学的な遺伝の仕組みを通じて継承されたメカニズムではなく、社会に蓄積されていくものであることは言うまでもない。そこで登場するのが、ポリスを中心とするアリストテレスの政治学なのよね。それに関して次のようにある。「われわれがこんにち「アリストテレスの倫理学」と呼ぶもの、つまり『倫理学』のなかでおこなっている考察を、アリストテレス自身は「政治学」(ポリティケー)、つまり(もとの意味を表に出すなら)「ポリスにかかわる知」であると繰り返し表現している。「個人的なことは政治的なこと」であるという見方の背景となるのは、人間は自然本性によってポリス的動物であるという洞察である(77頁)」。

 

また次のようにある。「人間の自然本性(ピュシス)は、共同体のなかで、言語を使用して、習慣づけをはじめとした日々の教育を通じて養われ陶冶される。それを養うのは、直接的には家族や周囲の人間であっても、その言葉は、共同体のなかで共有された価値観を反映している。他方、養われる自然本性は、固定したものではなく可塑的であり、社会的に形成されるものである。このような自然本性は、しばしば「第二の自然本性」(second nature)とも呼ばれるが、アリストテレスにとっては、生物的な自然本性に付け加えられた別の自然本性ではなく、まさに{人間の/傍点}自然本性のあり方そのものと言ってよいであろう(80頁)」。

 

三点ほど個人的な見解をつけ加えておく。一つはここでいう「共同体」とは、私めが言う「中間粒度」とほぼ同じ意味を持つということ。二点目は、養われる自然本性が可塑的なのは、脳が可塑性を持っているからこそであること。三点目は、「第二の自然本性」とは、「生物的な自然本性」と「特定の社会のもとで経験を重ねることで蓄積された知」が不可分に統合されていることを意味していると思うけど、これはまさに現代の脳科学の最新の知見、「個人における生物(遺伝子など)と環境(文化や慣習など)の相互作用」、ひいては進化生物学の最新の知見「生物と社会の共進化」にもつながると考えられること。というよりもっと大げさに言えば、むしろ逆にそのような最新の科学の知見のほうが、元をただせばアリストテレスの考えに遡ると言ったほうが妥当なのかも。たとえば前述の『The Enigma of Reason』に、「理性は動物の心にたまたま継ぎ足された{超能力/スーパーパワー}などではなく、人間という動物を特徴づける驚異的に発達した心を構成する、みごとに統合化された一要素なのである(同書12頁)」とあるけど、これは先のアリストテレスによるピュシスに関する言明とさほど変わらない。ちなみにメルシエ&スペルベルも、理性を社会的なやり取りを通じて形成される、直観に基礎を置く社会的な能力と見なしている。

 

さて以上のことから、アリストテレスのポリスを中心とした政治学は、彼の倫理学の帰結であること、そして中間粒度を重視する見方であり現代で言えば、アラスデア・マッキンタイア、チャールズ・テイラー・マイケル・サンデルらのコミュニタリアンの考えに近いのではないかということがわかる(サンデルのコミュニタリアニズムについては『サンデルの政治哲学』を参照されたい)。だからアリストテレスは「ある種の保守主義者とみなされている(哲学や思想の事典の「保守主義の項目を見ると、たいていその[アリストテレスの]名が歴史上の先行者に挙げられている)(87〜8頁)」のだそう。

 

しかしアリストテレスをそのように見なしている人々は、「保守主義」の意味を取り違えているとしか思えない。「保守主義」とは、現状を革命などによって劇的に変革するのではなく、中間粒度を決定的に破壊しないよう、直観知に基づきながら徐々に改善していこうとする見方なのであって、何が何でもステータスクオを維持しようとする見方ではない。著者も次のように述べている。「なるほどアリストテレスは、たとえば現実の知的なあるいは政治的な体制とはまるきり異なるユートピアを夢見ていないし、体制とは異質なもの、体制の外にあるものに反逆の拠り所を探ろうとはしない。しかし「保守主義」が現状の維持を望むとか、変革を期待しない立場を意味するなら、そのような評価は、アリストテレスの考え方に対して適切でないし、さらには、人間の知的探究の実際に対してふさわしくない(88頁)」。

 

フランス革命の同時代人エドマンド・バークや、サイモン・シャーマのような歴史家や、私めが、フランス革命の問題を指摘するのも、まさにこの視点からなのですね。フランス革命は貴重な概念を人類にもたらしたことは確かとしても、とりわけ次第に暴力的になっていった経緯には、そこに反映されている、直観知に参照せずに中間粒度を軽視あるいは無視する態度が透けて見える。この態度は現代に至るまで続いていることはあえて指摘するまでもないでしょうね。

 

「V 現代自然科学では十分ではないのか」というタイトルがついた第3章は、ポピュラーサイエンス書のヘタレ引き籠り翻訳者の私めにはもっとも興味深かった。科学という文脈で言えば、アリストテレスは、彼自身でも生物学などの、現代で言うところの「自然科学」に手を染めていたにもかかわらず、一般に評判がすこぶる悪い。それは彼が四原因説を提唱したからで、著者も次のように述べている。「その[四原因説の]悪名が高いのは、とくに自然科学的知見からすれば、本来原因と呼ぶべきではないものを原因と呼んでいると考えられるからだ(112頁)」。

 

そして著者は、行動主義心理学を提唱したB・F・スキナーに言及して畳みかけるかのごとく次のように述べる。スキナーは「物体が意志や目的をもつといった考え方(…)をアリストテレスに帰したうえで、次のように主張する。自然科学はそうした見方から脱却したおかげで発展できたが、人間の行動科学はいまだに意図や目的などの内的な状態に訴えるような目的論を引きずっているために科学になれないのだ。刺激と行動にもとづく行動主義的心理学こそ、それにとってかわるべき人間の科学である…(113頁)」。

 

ここで復習のために、アリストテレスの言う四つの原因とは何かに関して、本書の説明をあげておきましょう。ここでは家の建築が例にとられている。「(@)素材因――事物に内在していて、その事物がそこから生成するところのもの。木材やレンガ、(A)形相因――形相あるいは範型、すなわち、当の事物が「それであるということはもともと何であるのか(=本質)」を示す規定(ロゴス)。「風雨から身を守るもの」、(B)始動因――運動変化あるいは静止がそこから始まる最初の始原。建築家あるいは建築術、(C)目的因――目的としての原因。すなわちそれのために、というそれ。「風雨から身を守るため」(112頁)」。それらのうちもっとも評判が悪いのは「目的因」だと思うけど、著者によれば、他の三つの要因にも多かれ少なかれ「自然科学的知見からすれば、本来原因と呼ぶべきではない」要素が含まれている。なおこの点に関しては、細かくなるのでここでは詳しく述べない。

 

しかしアリストテレスにはアリストテレスなりの考えがあって、今日の自然科学には馴染まない目的因を始めとした原理を持ち出したのですね。それに関して本書には次のようにある。「アリストテレス的な原因の概念と近代的な原因の概念の主要な対立点は、アリストテレスの原因の概念が、近代の原因概念より広く、説明や理由なども含む、という点にあるのではない。むしろこの世界を、一連の出来事が因果的ないしは(因果性が実在的ではないと考えるなら)継起的に進行する世界と考えるのか、それとも生物をはじめとしたそれぞれのものに原因となる力の存在と可知性を認めるのか、という点に求められるだろう(123頁)」。また次のようにもある。「[アリストテレスにとっての自然の]探究は「われわれにとって知られることから事柄の本性に即して知られることへ」、また「ことの知からなぜの知へ」、という行程をたどる。またその行程は、理想的には、事象の原因を明らかにする論証の構造を与えることができるだろう(126〜7頁)」。

 

引用ばかりでは芸がないので、ここで個人的な見解を述べておきましょう。スキナーは「行動主義的心理学こそ、それ[アリストテレス流の科学]にとってかわるべき人間の科学である」とうそぶいているけど、現在では行動主義心理学こそ凋落の憂き目に逢っている。なぜだろうか? 私めに言わせれば、その理由は刺激と行動(反応)に基づく行動主義心理学は自然におけるある一つの粒度を対象にしてしか通用しないからなのですね。私めは他の文脈で、ものごとにはさまざまな粒度があるのであって、そのなかの一つの粒度に限定して結論を導き、それを他の粒度にまで適用しようとするととんでもない間違いを犯すと主張しているわけだけど(個人的にはこれを「粒度越境の誤り」と呼んでいる)、自然についても同じことが言える。確かに生理学的レベルでは、刺激と行動(反応)は重要な要素になり、そのレベルにのみ適用するならば、行動主義心理学は有用だと思う。でも生理学的な粒度で見出された原理を、人間の行動にまで拡張して適応するのは妥当なのか? 私めには妥当には思えない。そもそも人間は目的を持って行動するのが普通だよね。そのような人間の行動に、目的や意図をまったく捨象した、生理学的な粒度で見出される原理を適用するのは、私めから言わせれば「粒度越境の誤り」に相当する。

 

それよりも何よりも、なぜスキナーは生理学的レベルを特別視するのか? なぜ分子や原子、あるいはクォークなどの素粒子が属する、もっと細かな粒度を選択しなかったのか? なぜならスキナーには、その粒度を選択できない理由があったから。人間や動物を対象に分子、原子、素粒子のレベルで研究を行なっていたらいくら時間があっても足りないという実践的な問題も確かにあろうが、それとともにそこには原理的な問題もある。つまり、その粒度を選択すれば、アインシュタインが「神はサイコロを振らない」と言ったように、量子力学的な偶然が大きくクローズアップされざるを得ないがゆえに、目的や意志は捨象しても自然法則によって表現される、刺激と行動(反応)という因果関係を重視するスキナーは、当然ながらその粒度を選択することができないってこと。ということはスキナーによる生理学的な粒度の選択は、彼自身のアジェンダ(まさに意図や目的)に沿った、ある意味で恣意的な選択だと言える。

 

ちなみにスキナーと並ぶ行動主義心理学の御大ジョン・B・ワトソンの孫娘にヒッチの『マーニー』などに出演した女優さんマリエット・ハートレーがいるけど、そのハートレーが、ワトソンが実践する、抱いたりあやしたりすることすら禁じる子どもの養育方法に反発して女優になったという主旨のことが何かに書かれていた。刺激と行動(反応)を重視する行動主義心理学者の実践する子どもの養育方法がいったいどのようなものだったかは、推して知るべしだよね。

 

とはいえ私めは、スキナー(やワトソンらの)行動主義心理学者が生理学的粒度を自分のアジェンダに沿って選択したことそれ自体が誤りだと言いたいのではない。その粒度にはその粒度自体に内在する意義があるのだから。そうではなく彼が自分のアジェンダに沿って選択した粒度を、動物(人間)の行動のような別の粒度に属する事象に無理やり当てはめようとしていることが問題だと言いたいのであり、これはまさしく「粒度越境の誤り」の典型例なのですね。私めがわが訳書、マーク・ベコフ著『動物たちの心の科学』(青土社,2014年)に関して、「著者[ベコフ]の主張の根本には、動物生態学には動物生態学が対象とすべき粒度があるのであって、三人称的(客観的)な観点を絶対視する、より細かい粒度の方法よりも、そればかりでなく一人称的(主観的)な観点も考慮する、もっと中間的な粒度の方法も必要とされるという考えがあるように思われる」と述べたのも、(人間も含めた)動物の行動を探究するなら、まさにその探究にふさわしい粒度で行なわなければならない、さもなければ粒度越境の誤りを犯すことになると考えているから。

 

まあどの分野にも、粒度を無視した垂直一元論的見方を開帳して「粒度越境の過ち」を犯す人々はいる。科学の世界にもいれば、政治の世界にもいる。科学の世界では前述したスキナーが典型的にそうだけど、政治の世界では「自国第一主義」を唱えるのは問題ないとしても、それをより粒度の大きなレベルにも強引に適用しようとするトランプや(その意味でトランプはスキナーに似ている)、逆に国境のない世界を標榜するような、より粒度の細かな国家を無視して、均質的、一元的な世界を目指そうとする人々がいる(ジョン・レノンやノア・ハラリ氏はこちらの範疇に入る)。それに対抗する考え方を擁護しているのが、たとえば思想界では「Things don’t scale」と喝破したナシム・タレブ氏や、説明レベルと了解レベルを分けて考える精神科医の兼本浩祐氏、あるいは、なされるものごとによって集団の人数が限定されると主張するロビン・ダンバー氏(最新刊『How Religion Evolved』(OUP, 2022)はお薦め、確かどこかの出版社が版権を取っていると聞いたことがあるので、そのうち邦訳が出るでしょう)、科学界ではダマシオやベコフもそうだけど、複雑系科学(後述)やネットワーク科学もその範疇に入る。そしてもちろん不肖私めもね。

 

『アリストテレスの哲学』にも次のようにある。「まず同じく自然現象であっても、宇宙の永遠性から、月下の世界の要素の運動、そしてそれぞれの動物の生態に至るまで、「われわれにとって知られること」である出発点となるデータの性格も、探究において経験的に習熟するためのアクセスの方法も大きく異なる。宇宙が唯一で永遠であることの論証には、先行見解の見当が出発点となり、「生成」や「消滅」の意味の確定などの思弁的考察が要求される。他方、ゾウの鼻が長い理由には、ゾウの生態と環境の観察から探究は展開される。睾丸の役割については、その位置と他の器官との関係について、解剖学的な知見も使用して考えることができる(127頁)」。つまり、自然の探究は、その対象となる事象の粒度が考慮されねばならないと著者の中畑氏(やアリストテレス)は述べているのですね。

 

また、「要するに、自然の事象の多様性が、それを認識するための自然学的な知に対しても、それぞれの事象にふさわしい知のあり方を要求するのだ。その要求に応えることによって、はじめて自然についての探究が完遂され、十分な認識を得ることができるのである(128頁)」とある。「それぞれの事象にふさわしい知」を、「それぞれの事象が属する自然の粒度にふさわしい知」と読み替えれば私めの主張と何ら変わらない。

 

では、それぞれの粒度のあいだの関係については、自然科学ではまったく手に負えないということになるのだろうか? 私めはそうは考えていない。そこで登場するのが「複雑系科学」と「自己組織化するシステム」や「創発」の概念なのですね。わが訳書、メラニー・ミッチェル著『ガイドツアー複雑系の世界』(紀伊國屋書店,2011年)に、それらの概念について次のようにある。

 

「内部、外部の制御装置やリーダー[統率者]の存在なくして組織化された振る舞いを生むシステムを、自己組織化するシステムという場合がある。また単純な規則によって予測の難しい複雑な振る舞いが生じるので、そのようなシステムの巨視的な振る舞いを、創発的であるという場合がある。したがって複雑系という用語は「創発的で自己組織化する振る舞いをはっきりと示すシステム」としても定義できる。複雑系科学の中心的な問いとは、どのようにこの創発的で自己組織化する振る舞いが生じるのかだ(同書35頁)」。

 

さて次は「W なぜ「心」ではなく「魂」なのか」だけど、「魂」が論じられていることもあってか、この章は率直に言ってピンとこなかった。ただ重要なのは、私めがアリストテレスの「魂」にピンとこない、つまりわが直観に訴えないのは、まさに「魂」に関する彼の考えがわが直観に訴えないようにせしめた歴史的背景があるってこと。それに関して著者は次のように述べている。「われわれがアリストテレス的な魂の概念を理解するためには、失われた思考の方向感覚を覚醒させなければならない。その試金石となるのは、心という仕切りによってその外と内に分けられた栄養摂取と感覚知覚を、同じ概念の傘の下に入れて同じように考えることができるかどうかである(143頁)」。要は身体の働きと心の働きを分けて考えるべきではないという、現代で言えばダマシオさんたち神経科学者が擁護している見方が提起されていると言えるのかも。

 

さらに著者は次のように言う。「実在する対象の能動的な力と魂の受動的な力が共同することによって、それぞれの力が発現され、ある特定の活動――アリストテレスが「エネルゲイア」と呼ぶもの――が実現する。アリストテレスによれば、こうして複数の力の共同によって諸事象が成立することが、魂の活動だけでなく、世界の最も基本的なあり方である。われわれが生きているのは、多種多様な力に{溢/あふ}れ、また相互に共同することによってそれぞれの力を発現している世界である(…)(146頁)」。

 

ところがそのようなアリストテレスの魂の概念は、近代になって(とりわけデカルトのせいで)覆い隠されてしまうわけ。次のようにある。「[デカルトにとって]〈私〉とは「思考するもの」(res cogitans)であり、この思考するものこそが心ないしは精神(mens)なのである。こうして、従来の魂の概念を引き裂くことから、思考するものとしての精神と延長するものとしての物体という実在的な区別が導かれる。精神と物体という二つの実体から構成される世界には、「栄養摂取し、運動し、感覚し、思考する」機能がすべて帰属するような「魂」の居場所は残されていなかった。近代の「心」「精神」の概念の原型は、アリストテレス以来の魂の概念から解放されて、ここに成立したのである(148〜9頁)」。そのような近代の「心」「精神」の概念の影響を受けた私めは、どうしてもアリストテレスの魂という概念がわが直観に訴えないどころか、下手をするとオカルト的に聞こえてしまうわけ。

 

著者も指摘しているように、確かに現代では、感覚知覚を「身体的局面と外的世界との関係を反故にすることによって、「思考」の仲間に迎え入れる(151頁)」デカルト流の心身二元論を真に受ける知識人はほとんどいないと思うけど、個人の内面に限ったとしても身体と心を区分して考える知識人は多い。身体という基質を無視しても人間の心を情報としてコンピューターにアップロードできると考えている人々などその典型例だよね。その意味でもアリストテレスの見方に回帰することは重要で、先にあげたダマシオなどはそれを実践していると言えるのかもね。ここで宣伝しておくと、ダマシオの著書は日本でも訳書がたくさん出ているけど、わが訳書、『進化の意外な順序』(白揚社,2019年)もヨロピク。

 

さて次のアリストテレスの著書『形而上学』を扱った「X なぜ形而上学という知が必要なのか」だけど、いきなり冒頭に「だが、哲学の歴史のなかで、アリストテレスの『形而上学』ほど多くの問題を抱えた本は他にないかもしれない。議論が難解というだけでなく、その成り立ち、構成、主題、考察の方法のどれをとっても、むずかしい問題を{孕/はら}んでいる(165頁)」と書かれているように、『形而上学』そのものが難解なのでそれに関する説明も、この新書本のなかでももっともわかりにくい(W部は単にわが直観に訴えなかっただけで特に難解ではない)。よって率直なところコメントしようもない。

 

最後の「Y 継承・否定・回帰」は、現代に至るまでのアリストテレス哲学の受容について駆け足で紹介されている。歴史的事実に関する記述なので特に言うこともないけど、一点だけ取り上げておきましょう。新プラトン主義者たちのアリストテレス受容に関して説明されている第3節に、「アリストテレスにとって魂は、経験される世界の多種多様な作用を受容することを通じて活動し、生命の維持から知的な活動までを営む存在である。これに対して新プラトン主義者の基本的立場によれば、魂が[、]感覚される物体的世界からの作用を受けることは否定される。魂のはたらきの源泉は経験的世界ではなく、むしろ一者を頂点として階層をかたちづくる非経験的な世界にあった(237頁)」。

 

この記述はプラトンの後継者たちと、アリストテレスの後継者たちの違いをよく表しているように思われる。つまり、後者は現実的なレベルから経験的に、ボトムアップで世界の事象を理解しようとするのに対し、前者は特権的な絶対者を立てて、そこからトップダウンで世界の事象を理解しようとしているってこと。これは、「プラトンの考えはのちのファシズムにつながるような契機さえ孕んでいるように思えてしまう」と最初に言ったことの理由の一つになると思う。

 

長くなったので、そろそろまとめに入りましょう。この本を読んでいると、アリストテレスにはいかに多くの現代(科学)的な考えの萌芽が含まれているかがわかる。この連投ツイでも遺伝学、脳科学、進化科学、認知科学、複雑系科学との類似性を取り上げたし。ポピュラーサイエンス書のヘタレ引き籠り翻訳者の私めとしては、その意味でもこの新書本を推薦したい。

 

 

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※2023年5月11日