◎北野圭介著『情報哲学入門』(講談社選書メチエ)
「情報哲学」とはあるけど、「情報」を重視して左フレームのインデックス上では「自然科学」に分類した。まず内容とはまったく関係ないことから。で、で、で、でたあああああ! 「畢竟」という用語が。しかも10か所も出て来る。率直に言って、高校の教科書(しかも森鴎外か誰かの明治時代の作家の短編小説だったと思う)で見て以来、活字ではおよそ半世紀ぶりに見た。だから「この著者、どんなじっちゃんなの?」と思って著者紹介欄を見ると私めより三歳若かったという。実は「畢竟」だの「あまつさえ」だのといった用語は、ぜひ一回は使ってみたいなとは思っているんだけど、使っても絶対に編集者に「ごらああああ! こんな太古の言葉を使うんじゃねえ!」と言われて修正されるのがオチであることがわかっているので使わないことにしている。しがない銀河系一のヘタレ引き籠り翻訳者相手だと編集者も強気になってそう言えるんだろうけど、さすがに大学教授様が相手では言いにくいのかも。それからもう一点。この選書本には、他者の訳文を使って最後に「(訳文を変更した)」と注を入れている箇所が散見される。たまにその手の措置を見かけるけど、そのやり方は当の翻訳者には気分が悪いだろうね。私めにも、たとえばカントのような古典や文芸作品に関しては、既存の訳書を参照することがあるけど、その場合どんな理由があろうと一言一句変えないようにしている。だから変える必要が少しでもあるのなら、全文自分で訳すようにしている。ちなみに現代の書籍に関してはすべて自分で訳すことにしているので、特定の訳者の恨みを買うことはないはず。さて本文に入る前に、一つだけ断っておくと、第U部、第V部に関しては、私めにはつかみにくい部分が多く(アマコメにも「著者の示す「見取り図」は分かりにくい」という評がある)、よって第T部をメインに取り上げ、第U部、第V部は芋虫の出来損ないたる新幹線なみの猛スピードで駆け抜ける。
ということで、まず「第T部 情報がもたらす未来」の「第1章 情報と技術の未来」から。この章ではレイ・カーツワイル、ニック・ボストロム、マックス・テグマークという三人の情報・AI関連論者?が取り上げられている。引用されているカーツワイル著『シンギュラリティは近い』、ボストロム著『スーパーインテリジェンス』、テグマーク著『Life 3.0』のうち後二者は読んだことがある。でも正直難解であまりよく理解できなかった。なのでここでは、カーツワイルが人工知能の発達した未来を楽観的にとらえているのに対し、後二者は、むしろその脅威を重視している点が異なるとだけ述べておく。カーツワイルの『シンギュラリティは近い』は読んでいない。ただしそれより新しい本は一冊だけ読んだことがある(たぶん『How to Create a Mind: The Secret of Human Thought Revealed』(Penguin, 2012)だったと思う)。読み通しはしたものの議論があまりにもぶっ飛んでいるように思えたから、もう二度とカーツワイルは読まんと決めた。何しろ、著者近影を見たあと、往年の名脇役カール・マルデンのような丸鼻ばかりが気になって仕方がなくなったくらいだしね。
選書本のカーツワイルに関する記述を読むと、その印象は正しかったと思わざるを得ない(丸鼻のことではない)。次のようにある。「切り詰めていえば、ここでカーツワイルが用いている計算処理能力とは、情報処理速度とメモリ量のふたつである。「人間の知能レベルに到達するために必要なコンピューティングとメモリの量を分析し、二〇年以内に廉価なコンピュータで、その水準に到達できると自信をもって言える」のである(同書[『シンギュラリティは近い』]、八四頁)。加えて、「脳を機能的にシミュレート」することができれば、パターン認識も、知能(インテリジェンス)とは区別されることが少なくない高度な知的機能である知性(インテレクト)も、記号計算処理あるいは認知処理とは異なる次元にある感情も、すべて情報処理のフレームワークに着地させることができるだろう、という見通しも彼は立てている。つまりは、シンギュラリティ論の組み立てにおいて、核となるエンジンは、処理速度と情報ストレージ量にかかわってくることになるのだ(32頁)」。文の途中にある「知能(インテリジェンス)とは区別されることが少なくない高度な知的機能である知性(インテレクト)」というくだりは、私めには意味がよくわからない。文字通り読めば「知能」と「知性」は通常区別されるという意味にとれるが、どのように区別されるのだろうか? まあそれは些細なことなのでよしとして、つまりカーツワイルは、処理速度と情報ストレージ量という「量」だけで、人間の認知や感情までも説明することが可能だと考えていることになる。そんな荒っぽい議論をまともに信用する人がどこにいるのだろうか? ちなみに人間の知性、認知、感情を「量」の問題に還元しようとするやり方を以後カーツワイル主義と呼ぶことにする。確かカーツワイルは、世の中がシンギュラリティに到達する具体的な年(2045年?)をあげていたと思うが、彼の現在の年齢からすればその頃にはとっくにお星さまになっているはず。要するに身銭を切っていないから、言いたい放題ですわな。
ところで著名な哲学者のデイヴィッド・チャーマーズは、最新刊『Reality+』(Norton, 2022)で、「私たちは今、人工的に設計されたコンピューターシミュレーションの世界の内部に存在しているし、これまでもつねにそうであった」というア・ラ・マトリックスなシミュレーション仮説をもとに、デカルトの懐疑論や心身二元論やらカントの先験論、はては神さま(シミュレーション神学)までも論じようという気宇壮大な説を展開していた。そうなってくると、シンギュラリティも何も、すでに世界は情報プロセスによってシミュレートされているということになる。まあかのチャーマーズさんのことなので、話一億分の一くらいに聞いておけばちょうどいいのだろうが、これまでのチャーマーズさんの難解な著書とは異なり、エンターテインメントとしてはとってもおもろい本なのでお薦め。そうそう実在の人物を茶化したなかなか愉快なイラストが60枚近く入っていて、それだけでもとってもとっても楽しい。
ということで「第2章 情報と経済の未来」に参りましょう。この章では、経済という観点から情報が論じられている。そこではまず、アンドリュー・マカフィーとエリック・ブリニョルフソンの著書『プラットフォームの経済学』が取り上げられている。ただ最初のほうにある次の記述には「は?」となった。「[マカフィー&ブリニョルソンは]学術的に次のような論じ方もしていて、興味深いところだ――日本では前世紀末に一世を風靡したニューアカデミズムでいっとき注目を集めた経済思想家の名が登場するのである。経済人類学者カール・ポランニー(一八八六−一九六四年)だ。彼は{人間は知っていること以上のことを知っている/傍点}と述べ、暗黙知の重要性を説いた(55頁)」。そもそも「暗黙知」の概念は、カール・ポランニーの弟のマイケル・ポランニーによるものではなかったか。カールもマイケルも何冊か著書を読んだことがあるが、前者が「暗黙知」に言及している箇所はなかったように思う。もちろんカールの他の著書で言及されているのかもしれないとしても、一般読者向けの選書本のなかの一般的な記述において「暗黙知」の概念をカールに帰すのは妥当だとはとても思えない。もしかすると経済が関係する章なので、ついつい経済学者のカール・ポランニーの名前を出してしまったのかもね。編集者は指摘しなかったのだろうか? もしかすると選書本の著者ではなく、アンドリュー・マカフィーとエリック・ブリニョルフソンが『プラットフォームの経済学』でそう書いていたので仕方がなかったということなのかもしれないけどね。
それから著者(あるいはマカフィー&ブリニョルフソン?)は、この暗黙知をもっぱら「すでに蓄積されている知識」、すなわち「情報としてのデータ」の意味で使っているように思えるが(たとえば「人類が蓄積してきた膨大な知識」など)、その直後でカーネマンの有名なシステム1、システム2の概念に言及しているところからして、むしろ「知識」そのものより「作用(操作)」としてとらえたほうがよさそうな気がした。ポランニー自身についてはどうかと言うと、ウィキの「暗黙知」という項目には次のようにある。「暗黙知(あんもくち、英: Tacit knowledge)とは、経験的に使っている知識だが簡単に言葉で説明できない知識のことで、経験知と身体知の中に含まれている概念。例えば微細な音の聞き分け方、覚えた顔を見分ける時に何をしているかなど。マイケル・ポランニーが命名。経験知ともいう。¶暗黙知に対するのは、言葉で説明できる形式知。暗黙知としての身体動作は説明しにくいが、経験知では認識の過程を言葉で表すことができる」。やはり無意識的な「作用」を指しているように読める。ここでは長くなるの引用しないけど、ウィキの「概要」以下に書かれていることも、「作用」を指しているように読める。著者やマカフィー&ブリニョルフソンにしても、「作用」の意味を含めているのかもしれないが、そうだとしても一般読者が本書の記述から「作用」という意味を掬い取るのはかなりむずかしいと思う。なお「蓄積されている既存の知識の総体」としてより「作用」としてとらえたほうがよさそうなことは、次の記述によってもわかる。「おおざっぱにいえば「システム1は速くかつ自動的で、先天的に備わっており、ほとんど努力を必要としない」で作動する。「直感」とひとびとが呼びならわしてきたものに近い。それに対して、システム2は「注意深くゆっくり働き、後天的に身につくもので、多くの努力を必要とする、そんな思考の仕組みである(57頁)」。「システム」「自動的」「作動」「直感」「努力」「思考の枠組み」などといった言葉は、それがデータとしての「知識」ではなく、「作用」であることを示唆している。
実はデータとしての「知識」としてより「作用」としてとらえるほうが、「暗黙知」という文脈では有益な理由がもう一つある。カーネマンの考えは、「システム1=非認知的で非意識的、システム2=認知的で意識的」というイメージを与える。しかし最近の脳科学ではそのような二項分類では不十分だという提言がなされるようになりつつある。たとえば神経科学者ジョセフ・ルドゥーの説がそれに該当し、彼はシステム1(非認知的で無意識的)と、システム2(認知的で無意識的)と、システム3(認知的で意識的)という三項区分を提唱している。つまりルドゥーの考えによれば、システム2は認知領域に属しながら意識的な作用ではなく、したがって認知には無意識的なもの(システム2)もあれば、意識的なもの(システム3)もあるということになる。この場合、暗黙知はシステム1の領域というよりシステム2の領域における作用、すなわち無意識的ではありながらも認知的に作用するものとして分類することができる。これはまた、認知科学者のヒューゴ・メルシエ&ダン・スペルベルが『The Enigma of Reason』で論じている「合理的思考は直観的推論の一形態である」という考えにもつながってくるように思われるけど、ここでは「暗黙知は合理的思考の一形態として」もとらえうると指摘するに留めておく。なので「暗黙知」をデータとしての「知識」としてより「作用」としてとらえたほうが、昨今の神経科学や認知科学の傾向に沿うのではないだろうかと、個人的には思ったというわけ。なぜわざわざこのような細かい指摘をしたかというと、ウィキに「知識から人間的要因を「恣意的」として排除しようとすると、決して操作に還元しえない「知る」という暗黙の過程をも否定することになり、知識そのものを破壊してしまう。「暗黙知」を単純に「語り得ない知識」と同一視することが広く行われているが、これは(…)誤解である」とあるように、暗黙知をただ「意識されない知識」ととらえてしまうと、「処理速度と情報ストレージ量という「量」だけで、人間の認知や感情までも説明することが可能だ」とするカーツワイル主義に直結してしまうことを示したかったから。要するにカーツワイル主義に従えば、「暗黙知」とは「無意識的な認知」の問題、つまり(カーネマンさんではなく)ルドゥーさんの言うシステム2の問題でもあるという見立てが吹き飛んでしまうのですね。
ところで、マカフィー&ブリニョルフソンは、カーネマンのシステム1、2に言及しつつ次のように考えているとのこと。「『プラットフォームの経済学』の著者たちは、これまでのビジネスの慣行はシステム1がモデルになっていた、という。「何かにつけて理論や数字を振りかざす経営者は、現実の世界のからくりにうまく合わせられないタイプのリーダーとみなされて」いた。計算や記録などは判断にかかわる資料作成作業であり、それは機械が下働きとしてやるのだという前提がそこにはある。ビジネス界のカリスマ経営者たちを直接名指しながら、「無秩序で混乱した状況での判断力と直感力」が重要視されてきたことを著者たちは記している。けれども、こんにち、システム2の仕組みがコンピュータ技術によって効率的に代替されていく度合いがどんどんすすんでいることを見過ごしてはならないという。決定や判断自体をアルゴリズムに任せることや、決定や判断を数値化してこれまでのやり方を逆転する試みは、実態としてはすでにはじまっていて、じっさいに成果をあげてきてさえいる。システム1に依存するこれまでのやり方に比べて、データに基づく意思決定のフェーズへと経済活動の現場は移行しつつあるのだ。それが現実であることから目を逸らす企業は立ち行かなくなるだろう、そう著者たちは論じるのである(57〜8頁)」。ということはマカフィー&ブリニョルフソンも、データ偏重のカーツワイル主義に近いのかな。そもそも「暗黙知」を「データとしての知識」ととらえていれば、そのような帰結が出て来るであろうことは想像に難くない。先の引用には「アルゴリズム」という用語が登場するが、おそらくそれはあくまでも「データ処理アルゴリズム」という意味であろうと思われる。だからここで問うべきは、「人間が持つ「暗黙知」を、データ、ならびにコンピュータのデータ処理アルゴリズムで完全に代替できるのか?」というものになるはずだが、私めは「一部は」代替できたとしても「完全には」代替できないと思っている。それについてマカフィー&ブリニョルフソンがどう考えているかは、この文章だけでは判然としない。いずれにせよ最低でもこの代替が可能にならなければ、シンギュラリティなどという代物は絵に描いた餅にすぎない。そのあとにある「情報財(デジタル技術の上で取り引される財)」がうんぬんという話は正直なところよくわからんかったけど、「財」という言い回しが端的に示すようにカーツワイル主義的であるような印象を持ったとだけ述べておく。
次に著者は、ショシャナ・ズボフの著書『監視資本主義』を取り上げる。この本では、マカフィー&ブリニョルフソンとは逆に、今後の情報世界に対するネガティブな見通しが述べられているらしい。まず著者は次のように述べる。「焦点を絞り込んでいえば、「監視」という政治権力の発動の際に用いられることの多い言葉が、「資本主義」という経済活動の様態を示す言葉とドッキングさせられている点が勘所である。であるので、監視を国家論や権力論から捉える議論の流れに回収してしまうとミスリーディングになるだろう(62〜3頁)」。フーコーさん、聞いてますかああああ? 次に『監視資本主義』から引用し、それを次のようにまとめている。「簡単にいえば、{監視/傍点}と呼びうる、人々の行動をデータとして抽出し、そのデータを解析し、行動予測する{商品/傍点}が生み出されはじめている、ということだ(63頁)」。ここではズボフに関する細かな議論は省略して、最後にある「道具主義」に関する彼女の主張を取り上げましょう。次のようにある。「道具主義的な権力は、[全体主義的なそれとは]異なる具合に動くのであり、いわば反対の方向に向かう。全体主義は暴力を通して実働させられたわけだが、道具主義的な権力は、行動調整を通して実働させられる。この点にかかわって、わたしたちは焦点を移動させなくてはならない。(…)道具主義者が気にかけるのは、わたしたちのあらゆる行動を、変換、計算、調整、収益化、制御にかかわって絶えず進化する実働オペレーションに常に繋げておく、ということだけなのだ(70頁)」。なんかさっきケッチンしたみんな大好きフーコーさんの「生権力」の概念を思い出した。ここで青土社さんからもらった重田園江著『フーコーの風向き』から引用してみましょう(フランス語の部分と、参照頁は省略)。「フーコー自身『知への意志』において、生権力について以下のように述べている。「生権力の発展のもう一つの帰結は、法の法律的システムを犠牲にして、ノルムの働きがますます重要になるということだ」。ただし「法が消滅したとか司法制度が消え去ろうとしているとか言うつもりはない。法がますますノルムとして機能し、司法制度がだんだんと調整機能を持つ諸装置(医療や行政機関など)からなる連続体へと統合されていると言いたいのである」(同書54頁)」。道具主義は、変換、計算、調整、収益化、制御に関する一種のノルムを介して、人々をして自己の行動を調整するよう仕向けさせると言えるように思われる。そしてそこに「人々の行動をデータとして抽出し、そのデータを解析し、行動予測する」、監視と呼びうる商品が生み出されるのでしょう。これは確かにカーツワイル主義の問題点を示唆していると考えられる。
次の「第3章 情報と政治の未来」では、情報を政治という観点からとらえている。著者は「三人」が好きなのか、ここでも三人の政治学者(ならびに歴史家)が取り上げている。それはフランシス・フクヤマ、マイケル・サンデル、ユヴァル・ノア・ハラリだけど、フクヤマについては今更感が強いので省略。コミュニタリアンのサンデルの考えについては、『サンデルの政治哲学』に詳しいのでそちらを参照されたい。ただし次の部分は引用しておきましょう。「人間が正しくおくるべき生のあり方は、人間の本性に備わる「目的因」によってこそ措定できるとアリストテレスはいった。この考え方に拠って立つことで、生物学的本質主義も、また奴隷制を前提とした市民制の前提も周到に回避できることができ、むしろコミュニティの成員が{培/つちか}い、蓄積する美徳というものの存在に依拠して「目的因」をアップデートすることができる、という論法をサンデルはとる(84頁)」。なお、アリストテレスの「目的因」については『アリストテレスの哲学』を参照されたい。サンデルはコミュニタリアニズムを唱えているわけで、要するに人々の生存や生活がかかるコミュニティという集団の安寧、言い換えれば中間粒度の安寧を問題にしているのだということはいくら強調してもしすぎることにはならない。「美徳」というのは「質」であり、「量」に焦点を絞るカーツワイル主義からは絶対に出てこない。したがって当然、サンデルはカーツワイル主義に見向きもしないはず。よって次のような結論になる。「サンデルにあっては、テクノロジーはときとして人間の美徳にそのまま侵襲してしまう怖れのあるものだ。哲学の営為は都度、テクノロジーの侵襲から人間の美徳、人間の尊厳を守ってやることが求められるということになるだろう(85頁)」。
お次はノア・ハラリさん。他の本を取り上げたときにも書いているが、私めは『サピエンス全史』を読んで、特に後半の記述のやばさに辟易したので、彼の著書はそれ一冊しか読んだことがない。これまで取り上げた著者でも、彼を批判する学者は少なくない(たとえば典型例では、文化人類学者、竹沢尚一郎氏の著書『ホモ・サピエンスの宗教史』)。ただこの新書本に書かれていることは、そのような批判とはやや文脈が異なるように思われるので取り上げることにする。たとえば新書本の著者は、『21 Lessons』から次のような文章を引用している。「間もなく、権限は再び移るかもしれない――人間からアルゴリズムへと。神の権限が宗教的な神話によって正当化され、人間の権限は自由主義の物語によって正当化されていた。それとちょうど同じで、来るべきテクノロジー革命はビッグデータアルゴリズムの権限を確立し、同時に個人の自由という考えそのものを切り崩すかもしれない(89〜90頁)」。「ビッグデータアルゴリズム」という言葉に注目されたい。もちろんノア・ハラリは、カーツワイルのように肯定的な文脈のもとで語っているわけではないとしても、そのような言い回しからも、根本はデータ偏重のカーツワイル主義と変わらないことが見て取れる。そのことは自由民主主義の失墜を憂慮する理由を述べる、次の引用でさらにはっきりする。「私たちは今、二つの巨大な革命のさなかにあるからだ。一方では生物学者たちが人体の謎――それもとくに、脳と人間の感情の謎――を解き明かしつつある。同時にコンピューター科学者たちが、前代未聞のデータ処理能力を私たちに与えてくれつつある(90頁)」。さらには新書本の著者自身、次のように述べている。「端的にいえば、ハラリが照準を合わせているのは「バイオメトリックス」である。シンプルにいえば、生体反応に関わるセンシング技術の高度化、他方では、そこで吸い上げられたデータの処理(演算速度と計算アルゴリズム)の高度化、さらには人間の身体各部に作用する技術の高度化が組み合わされることでなされる、すすんだ研究分野であり、ステージの変わった事態だ(90〜1頁)」。
私めには、これは根本において、決定的にカーツワイル主義的であるように思われる。そのような見立てから、ノア・ハラリは次のような結論を導く。「バイオテクノロジーとITが融合したら、民主主義は現在のような形のままでは生き延びられない。民主主義がまったく新しい形に自らを仕立て直すか、さもなければ、人間が「デジタル独裁国家」で生きるようになるかの、どちらかだ(92頁)」。この種の議論はよく見かけるけど、私めには、これは見立て違いにしか思えない。おそらく、ノア・ハラリは普遍主義的な立場に軸足を置いているからこういう結論が出てくるのだと思う。中間粒度を重視するコミュニタリアンのサンデルなら、たぶんこういう結論は導かないだろうね。というのもよくも悪くも、そもそも中間粒度はカーツワイル主義的な見方とは根本において馴染まないから。この引用の直後で、新書本の著者は次のように述べている。「具体的にいえば、「政権は、あなたがどう感じているかを正確に知るだけではなく、何なりと望みどおりのことをあなたに感じさせることもできるようになりうる」だろうし、「独裁者は国民に医療や平等は提供できないかもしれないが、彼らに自分を敬愛させ、敵対者を憎ませることができるだろう」ということだ(92頁)」。とりわけ最初の括弧内の記述は、フーコーの生権力や生政治の概念を思い出させる。ということはつまり、「バイオテクノロジーとITが融合したら」も何も、フーコーの生政治の概念が示すように、良し悪しは別として中間粒度においては、国民国家成立以来これまでもその種のメカニズムは存在してきたのであり、人々はそれに何とか対処しつつ、あるいは対処に失敗しながら生きてきたのですね。確かに「バイオテクノロジーとITが融合」することでそれが極端化するとは言えても、本質的な問題はすでに存在していると言わざるを得ない。要するにこのような中間粒度に関する問題を、ノア・ハラリのように普遍主義的な観点からとらえると、ましてやカーツワイル主義的にとらえると本質が見えなくなる。サンデルが「目的」や「美徳」という「質」にこだわるのも、普遍主義や、「量」にこだわるカーツワイル主義に内在する陥穽を回避するためだとも言える。
だからサンデルに対する著者の次のような批判は、フェアではないと思う。「サンデルは個々のケースでそうした美徳論の有効性を丹念に見定めていく議論が必要だとしているのだが、しかし結果として特定の美徳が価値として屹立し、覇権をえた場合、いったいどのような世界が招来するかについては正直なところ危うさが残っている(93頁)」。そもそもサンデルはコミュニタリアンなのであって、特定の中間粒度の安寧をいかに維持するかに関心を抱いている。だから「個々のケースでそうした美徳論の有効性を丹念に見定めていく議論が必要だとしている」わけ。「特定の美徳が価値として屹立し、覇権をえた」というのは、コミュニタリズムの範疇を超えた話であって、もしそのような事態が生じたとしたら、それはコミュニタリズムに内在する問題であるというより、コミュニタリズムをより大きな粒度に適用しようとする、私めが「ボトムアップの粒度越境の誤り」と呼ぶ適用の問題なのですね。これは先日取り上げた『〈私〉を取り戻す哲学』で述べた構築主義批判に通じる側面がある(コミュニタリズムは保守的であるのに対し、構築主義は左派的という違いはあるとしても)。あるいはナショナリズムに対する左派的な批判も、非常に似た側面がある。なおこれについては、たとえば『権力について』を参照されたい。要するに、コミュニタリズム、構築主義、ナショナリズムの適用の問題を、それらに内在する問題としてとらえている点が決定的に誤っていると言いたいのですね。
あるいは次のようにある。「たとえば、『これからの「正義」の話をしよう』の終わり近くにある、同性婚の是非を、法的制度よりも社会契約の一種として捉えながら結婚の{本来的/傍点}な目的因を語るサンデルの議論はどうだろうか。安易な平等主義に対するこの種の批判に対してハラリは真っ向から批判していて、まるでサンデルに対峙しているようにさえみえる。¶あるいはまた、極端な事例を提示し、近代的人間観が説く倫理的判断の土台を切り崩しながら(近年、日本にもこういう手法を持ち出す論客が少なくないように見える)、コミュニティの美徳に裏打ちされる道徳観を称揚するのがサンデルの得意とするところだ。典型的には「トロッコ問題」があるだろう(93頁)」。まず単純な疑問があるんだけど、「安易な平等主義に対するこの種の批判」といくだりは、ほんとうに著者が意図した文章なのだろうか? その後のサンデルに対する批判的な文章を考慮すれば、もしかしてこれは「平等主義に対するこの種の安易な批判」が正しいのでは? もしもとの文章が正しいのなら、私めのように疑問を感じる読者も出てくるはずなので、「安易な平等主義」のように「」で括るか、{安易な平等主義/傍点}のように傍点を振ったほうがいいべさと、引き籠りヘタレ翻訳者としてはアドバイスしておきますら。それから「トロッコ問題」に関しては、私めも「なんかご都合主義的な思考実験だな」と思うことはあるとしても(それについては『ダーウィンの呪い』を参照されたい)、「トロッコ問題」を始めとする思考実験は、あえて指摘するまでもなくサンデルやコミュニタリアンでなくても倫理学者や哲学者が普通にやっていることだし、しかも『これからの「正義」の話をしよう』は一般読者を相手に、輪郭のはっきりした極端な例を用いて本来難解な倫理や哲学の問題をわかりやすく解説することを一つの目的とした本なので、サンデルが「トロッコ問題」に言及するのは倫理や哲学の啓蒙という意味でも当然のことだと思う(ところで紀伊國屋さん、思考実験だけを取り上げてけっこう売れた倫理本があったよね?)。いずれにせよそれらは些細な点だけど、一つ言いたいのは、当然ながらサンデルは中間粒度を重視するコミュニタリアニズムの観点からものごとを見ているのに対し、ノア・ハラリは普遍主義の立場からものごとを見ていると思われる。だから「[ノア・ハラリが]まるでサンデルに対峙しているようにさえみえる」のは当たり前田のクラッカーなのですね。それらは別の粒度に属する見方なのであって、そこに問題が起こるとすると、それはコミュニタリズムを普遍主義の領域に強引に持ち込んだり(「ボトムアップの粒度越境の誤り」)、逆に普遍主義をコミュニタリアニズムの領域に強引に持ち込んだり(「トップダウンの粒度越境の誤り」)した場合の話だべさ。要するにそれらはコミュニタリアニズムや普遍主義に内在する問題なのではなく、適用の問題だということ。ただサンデルが実際に「ボトムアップの粒度越境の誤り」という適用の問題を犯していないかどうかは、『これからの「正義」の話をしよう』を読み直してみなければわからないけどね。
「第U部 情報哲学の現在」は、タイトルにある通り、情報を哲学的な観点からとらえている。「第4章 情報の分析哲学」では、哲学者ルチアーノ・フロリディの情報哲学が、また「第5章 情報の基礎づけ」では、西垣通氏の基礎情報学が取り上げられている。ただ正直なところ一回読んだだけでは、細かい部分でよくわからないところがあちこちにあったので、特に私めがコメできることはない。なのでここでは、第5章の最後にある著者による総合評価だけを紹介しておく。次のようにある。「意味なるものを統語論の地平に回収しようとするフロリディと、生命現象の奥行きを重ね合わせようとする西垣は、人間にとって意味なるものをいま再考する際のポイントを与えてくれるだろう。フロリディと西垣はそれぞれの仕方で知能と身体の関係、すなわち情報の時代における心身問題の組み立て方について、再考を促しもする。また、いわゆる存在とは何か、世界のなかで在るということはいかなることかにまで両者の情報理論が斬り込んでいるのも、みてきたとおりだ(162頁)」。これを読んで気になった人は、この選書本を買って読んでみましょうね。
続く「第6章 人工知能の身体性」は、タイトルは非常におもろそうなんだけど、いまいち要領を得ない気がした。ただ発達心理学者のジャン・ピアジェのシェマの概念とロボット工学のインテリジェンス・ダイナミクス(動的知能学)の相同性という観点から、人工知能における身体性を論じているのであろうことは推測できる。結論部に次のようにある。「シェマによる知能の理解とインテリジェンス・ダイナミクスの類似性はあきらかだと南野[活樹]はいう。第一に「感覚と運動が依存したものとして記憶され」、第二に「経験を累積的に取り込みながら、ある種の構造を内部に形成するということ。また、その構造に基づき、認識と行動が一体となりながら、環境を解釈し、その環境に適した振る舞いを創出する」だろう。第三に、こうした工程を「繰り返しながら、全体として豊かな構造が形成されていく」だろう。ピアジェのシェマの理論は「インテリジェンス・モデルの実現に大きく貢献するものと期待できる」のだ(177頁)」。ピアジェの「シェマ」の概念についてはここでは説明しないが、それは基本的にロボットではなく人間を対象とする概念とだけ述べておく。選書本の著者はその直後に「こうしてピアジェはロボットのなかに移住したのである(177頁)」とあるけど、したがってこれは「インテリジェント・ダイナミクスでは、人間を対象とする「シェマ」の概念が、ロボットに適用されている」という意味になるのでしょう。この見方は、第V部であげられている「情報にかかわる究明的な世界観/制作的な世界観」のうちの後者のアプローチに相当する。
ということでその「第V部 情報の実践マニュアル」に移りましょう。「第7章 世界のセッティング」では、まずその「究明的な世界観」「制作的な世界観」という二つの世界理解図式について次のように述べられている。「第U部であぶりだしたことのひとつは、旧来の物理学的な発想による世界理解の図式では現象の究極的な法則性を究明するという世界観(究明的世界観)が前提となっている一方で、情報技術論的な世界理解の図式には、むしろ、世界のかたちは制作していくべきものであるという世界観(制作的世界観)が胚胎されている、ということだった(183頁)」。そしてこの議論を裏づけるために、マルクス・ガブリエルの『なぜ世界は存在しないのか』、ユクスキュルの環世界論、そしてジェームズ・ギブソンのアフォーダンス理論を援用し、最後に「世界は、環境(構造)としてよりも、ダイナミックな生態系として捉えた方がより的確である(206頁)」と結論する。この結論は、制作的な世界観の必然的な帰結と言えるでしょうね。「第8章 社会のセッティング」は、今日の社会を席巻しているデジタル・メディアが取り上げられる。これに関しては、現在評価中のある本の考え方を紹介したいところだが、今それを書くわけにはいかないので、そのうち書き足すことにする。「第9章 「人間」のセッティング」は、「情報なるものが同時に「人間」というもののあり方までをも大きく変容させつつある次第を確認し、そうした状況に現時点で対処できる術を探(227頁)」っていく。
ということで、全体的に他者の業績からの引用が非常に多く、独創性はあまりないように感じられた。それどころか著者自身が、たとえばカーツワイル主義をどうとらえているのかなどといった単純なことさえほとんど見えてこなかった。それから、もう一つ指摘しておきたい。校正が甘すぎるべさ。「畢竟」の多用は愛嬌としても、日本語がかなり怪しく、よく読むと文法的に意味が通らない部分がいくつかあった。一つ究極的な例をあげると、123頁にある「なぜなら、という。」っていったい何? これは明らかに校正段階でつぶしておかなければならないはず。以上のようないくつかのマイナス点のゆえに絶対的なお勧め本とは言えないけど、情報に関する最近の議論の概要をつかむには手頃な本かもしれないとは言えそう。
※2024年1月24日