◎千葉聡著『ダーウィンの呪い』(講談社現代新書)

 

 

まずタイトルが実に香ばしい。それだけで買わずにはいられんかった。ただ読み始めると「はじめに」にいきなり次のようにあっておや〜んと思ってもた。「その後のおよそ40年間、日本では実際に進化学が科学というより駒井の懸念通り、ずっと非科学的な「論」と見なされ、またそう見なされるのもやむを得ない歴史があった(3頁)」。「その後」とは遺伝学者の駒井卓が『日本の資料を主とした生物進化学』と題する著書を出版した1948年の後ということのようなので、1990年近くまで、「日本では進化論が非科学的と見なされていた」ことになる。ほんまかいな? 確かにこれが「日本では」ではなく「アメリカでは」なら、合点が行く話だとしても、私めの記憶からして宗教的なしがらみがほとんどない日本では、一般には進化論が非科学的と見なされていたようには思えない。むしろ「人間がエテ公の子孫であることの何が問題なのか? エテ公が祖先でけっこうけっこうコケコッコー。ばてれんの人々のおつむはいったいどないなってまんねん」というのが、普通の態度だったと思う。そもそも彼の旅行記『ビーグル号航海記』はかなり昔から広く読まれていたはずで、少なくともエセ科学者が書いた本という扱いではなかったように覚えている(さもなければ、かつては偉い学者先生たちが自著の出版を鼻にかけていたと言われる、天下の岩波さんがエセ科学者の自伝を出したことになる)。著者は私と同じ1960年生まれのようなので時代の違いとも思えず、アカデミックの世界では事態が違っていたということなのだろうか?

 

まあそれはそれとして本論に参りましょう。「第一章 進化と進歩」では、まずダーウィンの主張が次のようにまとめられている。「その要点は、第1に生物の種は神が創造したものでなく、共通祖先から分化、変遷してきたものであり、常に変化する、という主張。第2に、生物の系統が常に変化し、枝分かれする以上、種は類型的な実体ではなく、科や属や亜種と同じく、形のギャップで恣意的に区分される変異のグループに過ぎないという主張。第3に、そうした変化を引き起こした主要なプロセスは自然選択である、という自然選択説の主張である。そしてこの三つに基づいて、生物の進化は何らかの目標に向かう進歩ではなく、方向性のない盲目的な変化である、という主張が導かれる(14頁)」。個人的に気になるのは最後の「方向性のない盲目的な変化」で、これは「ランダムな変化」とイコールなのだろうか? というのも、「何らかの目標に向かう進歩ではない」とは必ずしも「ランダムな変化」に一致するとは思えないから。『創造論者vs.無神論者』を取り上げたときに述べたように、神さまのような何らかの主体が目標を立ててそれに向かって生物が進化するという見方を否定したとしても、ランダム性を意味するわけではない傾向性や傾斜性という概念は残るはず。たとえば急な坂道の斜面にビー玉を置けば、ビー玉は下に向かって転がっていく。それは神さまのような何らかの主体が目標を立ててそうしているわけでもなければ、ブラウン運動のようなランダムな動きでもない。そのような意味での傾向性や傾斜性が生物の進化においても作用しているのであれば、それは「方向性のない盲目的変化」とは言えない。ダーウィンさんはそのあたりのことをどう考えていたのかが気になる。

 

と思っていたら、次のような記述があった。「ダーウィンのトランスミューテーションは、このような自然界の秩序ある発展、つまりエヴォリューションを否定するものだったのである。エヴォリューションの語をダーウィンが使わなかったのは、彼が着想したトランスミューテーションが、当時広く使われていたエヴォリューションとはまったく異質なものだと認識していたからだ、と言われている。方向がどのようにも変わりうる生物の変化、目的のない変化というダーウィンの基本的な考えは、革新的なものであったのだ。¶その生命史のイメージは、単純な形から出発した生物が、あらゆる方向に枝分かれしながら無目的に変化する結果、時間の経過とともに人間を含む果てしない多様性が生まれていく、というものだった(21頁)」。「方向がどのようにも変わりうる生物の変化」という言い回しは、傾向性や傾斜性のような制約が一切かかっていないことを意味するように聞こえる。ただダーウィンは、後年になると考えを変えたらしく次のようにある。「ダーウィンは、のちに獲得形質の遺伝の考えも大幅に取り入れ、方向性のない変化の主張も後退させていった。それに合わせるかのように、エヴォリューションという語を使用するようになった(22頁)」。

 

そこからその後の進化論の歴史は次のような経緯をたどったらしい。「20世紀半ば以降、自然選択を中心に据えた進化の総合説が広く定着し、改めて生物進化が当初のダーウィンの主張通り、方向性のない変化の意味で理解されるようになったときには、生物学者はみなそれを本来違う意味だったはずのエヴォリューションの語で呼ぶようになっていたわけである(23頁)」。さらに本書のタイトルの「ダーウィンの呪い」の意味を説明する次のような記述は非常におもしろい。「「進歩せよ」を意味する「進化の呪い」は、生物の変遷も人間社会の発展も、それが神の摂理であれ自然法則であれ、共通の法則に従うひとくくりの進歩として捉えられた、19世紀欧米社会の世界観であると言ってよい。その世界観は、恐らくはギリシャ時代に端を発し、キリスト教の終末論的概念を負の推進力として強化され、啓蒙時代の英国を覆っていた、進歩史観に由来するものだ。進歩のために、自助努力を重視し競争を許す思想は、プロテスタントの労働倫理が影響したものであろう。¶「進化の呪い」は生物学の原理を社会に当てはめて生まれたものではない。初めから自然、生物、社会をあまねく支配し、進歩を善とする価値観として存在していたものである。そして当初のダーウィンの意志が生物の進歩を否定するものだったにもかかわらず、社会も人も進歩すべきであるという規範と、人々の競争とその結果を正当化するために、神の摂理をダーウィンの名に置き換えて生まれたのが、「ダーウィンの呪い」――「ダーウィンの進化論によれば……」だったのである。神の教えに代わり、人々に教えの正しさ、規範の重要さを認めさせる「{託宣/たくせん}」、あるいは「ブランド」とも言えるだろう(24〜5頁)」。なぜこの記述が非常に興味深いかというと、創造論者のような宗教的原理主義者と、無神論の四騎士のような科学的原理主義者は、正反対の主張をしているように見えながら、どこか似ているという印象を個人的にはつねに持っていたんだけど、この記述を読んでその印象がどこから来るのかが少しわかるような気がしたから。つまり両者ともにその根底に一種の進歩史観が横たわっているということがわかる。第一章の残りは遺伝に関するテクニカルな話が続くので省略する。

 

「第二章 美しい仮説と醜い事実」では、まず「自然選択」と「適者生存」の違いが説明されている。実のところ、この二つの概念を同義と見なす人は多いように思われる。同義と見なしているか否かは別としても、無批判に使う人は多く、著者もその一人としてユヴァル・ノア・ハラリ氏を槍玉にあげている。かく言う私めも、「適者生存」とは言わないほうがよろしいとは思っていたけど、その理由は優生学的に響くからというあいまいなものでしかなかった。ではそれに関する著者の主張を引用してみましょう。「ダーウィンが自然選択を着想する以前に考えられていた類似のプロセスは、有害な変異が除去されるために変化が起きない、とするものであった。(…)一方、ダーウィンにとって、自然選択は特定の環境下で有利な変異の維持と不利な変異の除去により、新しい性質を作り出す、創造的な意味を持つものだった。(…)これに対してスペンサーが自然選択と同義とした適者生存は、実際にはダーウィン以前に考えられていた類似のプロセスと同じく、劣った変異を除去して変化を止める役目が主で、創造的な作用の意味はほとんど想定していなかった(47〜9頁)」。ただダーウィン自身も後年になると、ウォレスの影響を受けて、1869年に出版された『種の起源』(第5版)には、「個体の違いや変異のうち有利なものを維持し、有害なものを駆逐することを、私は自然選択、あるいは適者生存と呼んできた(50頁)」と書いたとのこと。

 

第二章の後半では、ハーバート・スペンサーの社会進化論が取り上げられており、「社会で受け入れられているダーウィンの思想とされるものが、必ずしもダーウィンの思想と一致しているとは限らないように、スペンサーの社会進化論とされるものが、スペンサーの思想と同じだとは限らない(53〜4頁)」ことが説明されている。その理由を著者は次のように述べている。「スペンサーは、ダーウィンの革新的な考えを取り入れた新世代の思想家ではない。つまり適者生存を人間社会に適用して進化を論じ、弱肉強食型の社会を創ろうとしたわけではない。その進化論は、獲得形質の遺伝や進化理神論などで代表される、伝統的なエヴォリューションの観点から導かれたものである。スペンサーは、ダーウィン以前の進化観に基づいて、壮大なスケールで思想を展開した、最後の古典的進化思想家だったのである(56〜7頁)」。つまりスペンサーは、「方向性のない盲目的な変化」を意味するダーウィンの進化論ではなく、それ以前の近代の進歩史観に基づいて立論したということ、言い換えるとスペンサーはダーウィンの進化論を曲解したわけではないということなのでしょう。ふむふむ、それは目からうどん粉ってやつじゃ。次のような指摘も興味深い。「スペンサーの考える競争は、適者生存ではない。彼の想定する「進化した社会と人間」とは、協調的で利他性を重んじる社会とそれに適合した者の意味だった。その進歩のプロセスは、各人の努力によって未来に全員が最大の幸福を享受する理想的な社会が実現するという、楽天的な、ある意味ユートピア思想に基づくものだったのである。しかし、そのプロセスは、こうした実際の想定と無関係に、適者生存、の言葉で呼ばれるようになったため、誤解されていつしかマルサス的な生存闘争の意味に捉えられるようになったのだと思われる(59頁)」。確かにこれは、一般に考えられているスペンサーの社会進化論とは違うように思える。

 

「第三章 灰色人」では、ダーウィンの番犬ことトマス・ハクスリーがおもに取り上げられている。彼は進化が目的も方向性もない盲目的な過程であるという、ダーウィンの本来の見方を強調した御仁だけど(81頁)、ここでは彼の考え方を示す記述だけ引用しておく。「自然選択では道徳の基礎を提供できないと考えるハクスリーにとって、闘争と自然選択が支配する自然界の生物は、倫理や道徳とはその前駆的なものを除き無縁である。一方、社会は倫理・道徳で闘争が抑えられ、人々はよりよい社会の実現に向けて努力する。だから両者はまったく別物なので、はっきり区別しなければならないと主張したのである(81頁)」。あるいは次のようにある。「闘争と自然選択では社会の善は生まれない、と考えるハクスリーは、政府の自由主義的な政策を批判し、貧困対策や福祉政策により社会の安定を維持しなければならない、と主張した。このようにハクスリーは、進化論を人間社会の問題に持ち込むべきではなく、社会問題は生物学的衝動を知性と道徳で抑えることでしか解決できないと考えていた(82頁)」。ただ私めには、一文目と二文目がやや矛盾しているような気がした。というのも、ハクスリーが人間社会の問題に進化論を持ち込むべきではないと考えていたのなら、彼は「闘争と自然選択では社会の善は生まれない」と考えようが考えまいが、「政府の自由主義的な政策を批判し、貧困対策や福祉政策により社会の安定を維持しなければならない、と主張した」はずだから。さもなければ、結局ハクスリーは、ネガティブな形態であれ進化論を人間社会の問題に持ち込んだことになる。

 

「第四章 強い者ではなく助け合う者」には、ハクスリーとは逆の見方を取っていたクロポトキンが登場する。次のようにある。「クロポトキンとハクスリーの進化観は正反対であった。生物の世界をクロポトキンは相互扶助、ハクスリーは闘争の世界と見た。クロポトキンは生物も人間社会も共通の原理が働くと考え、ハクスリーは生物の進化を人間社会に当てはめてはならないと考えた。クロポトキンは生物の世界も道徳・倫理に従うと考え、ハクスリーは道徳・倫理は人間社会だけのものだと考えた。またそれゆえに、クロポトキンは無政府主義を唱え、ハクスリーは政府の役割を重視した(102頁)」。このようにクロポトキンは相互扶助を重視したが、そこには一つ問題があった。次のようにある。「だがクロポトキンには、こうした相互扶助的な性質の進化を自然選択だけで説明するのは困難だった。相互扶助する利他的タイプは、集団内に利己的タイプが現れると負けてしまう。そこでクロポトキンは集団選択を想定したものの、うまく説明できなかった。そのため、ラマルク的な獲得形質の遺伝に傾斜していかざるを得なかったのである(103頁)」。ではなぜラマルク的な獲得形質の遺伝によって、相互扶助の進化が説明できるかというと、その理由はスペンサーを取り上げた第三章に書かれている。次のようにある。「スペンサー進化論は、ラマルク的なプロセスを想定していたがゆえに、個人は社会と結びついていられたし、有機体としての社会は個人の利益のために存在しえた。ラマルク的なプロセスなら、個人の努力の成果と社会の進歩が、ともに次の世代に個人と社会の生得的な資質として受け継がれる。より進歩した社会で育った個人は、より進歩した資質を獲得して次世代に伝えることができる。利他的な社会の発展を期待して、格差や貧困の解決を未来に託すこともできる。だから未来の社会のために自己犠牲も許容できたのである(77〜8頁)」。

 

以上二つの引用から予想できるように、ここから利他性と集団選択の話が出て来る。問題の多い集団選択についてはここでは置くとして、利他性については次のようにある。「利他行動はバクテリア、菌類、植物を含め、あらゆる生物群で進化している。これらの利他行動とそれを維持するルールの体系、つまり道徳的な仕組みは自然選択により進化しうる(107頁)」。あるいは次のようにある。「複雑な利他行動や協力行動については、それを可能にする高度な認知能力が自然選択で進化してきたことを支持する証拠がある。高次の思考過程や認知に関係する大脳新皮質が発達するゾウと人間では、大規模なゲノム解析から、脳で精神活動に重要な機能を果たす遺伝子群が特に強い自然選択を受けてきたことが示唆されている。人間の場合、社会規範を内面化していないとされる2歳児でも、他者に恩恵を与えようとする強い向社会性を示し、少なくともその基礎は進化で獲得された生得的な性質であると考えられる(108頁)」。実を言えば、このあたりのことは、刊行されたばかりのわが訳書、マイケル・トマセロ著『行為主体性の進化』の主題の一つでもあり、そこでは、人間は社会規範的行為主体として進化したとされている。詳しくは是非この本を読んでみてみて。

 

「利他行動とそれを維持するルールの体系」たる道徳に関しては次のように指摘されている。「ローレンス・コールバーグは、人間の道徳判断は、社会的経験を経て、必要な価値観や知識を身に付け、段階的に発達すると考えた。しかし実際の道徳的判断はほとんど直観で行われ、むしろほかの認知的判断より高速で行われる。これは危険回避のための協調行動や、不正を行った個体に対する報復行動などと関係した、進化的な適応の可能性を示唆している。そこでジョナサン・ハイトは、人間が持つ他者との競争に勝ち抜く利己的な性質と、利他主義や集団主義、相互扶助の性質が、ともに生物進化のプロセスの産物であると指摘し、道徳的判断が進化による遺伝的背景を持つとした。これに対し、ロバート・ボイドは、道徳的な判断の文化的な要因を重視した。文化的要素の学習、伝達により、協力関係が文化のレベルでも自然選択と類似したプロセスで発達すると考えたのである。文化レベルでも生物進化と似た変化が起き、それと遺伝子レベルの進化の相互作用で複雑な利他行動が社会に定着するというモデルである(111〜2頁)」。いくつか補足しておきましょう。上の文章から類推できるように、確かにハイトさんは、わが訳書『社会はなぜ左と右にわかれるのか』でコールバーグを徹底的に批判していた。また「実際の道徳的判断はほとんど直観で行われ、むしろほかの認知的判断より高速で行われる」というくだりは、ヒューゴ・メルシエ&ダン・スペルベルが『The Enigma of Reason』で、道徳的思考ではなく、より包括的な合理的思考を対象にしているとはいえ、「合理的思考は直観的推論の一形態(同書90頁)」であると主張していたこととも合致する。ただし上の記述で一点気になったのは、このままではハイトさんが文化的進化を否定し、彼とロバート・ボイドの考えがあたかも対立しているかのようにも読めそうだけど(著者にその意図はなかったとしても、何も知らない人が素直に読めばそう読むと思う)、実際には、ハイトさんは『社会はなぜ左と右にわかれるか』の「第9章 私たちはなぜ集団を志向するのか?」で、何度かピーター・リチャーソンとロバート・ボイドを肯定的に援用しており、必ずしも互いに対立する見方を提示しているわけではない。一つだけ同書より、その証拠となる具体例をあげておきましょう。「家畜の飼育という文化的な革新が、成人のラクトース耐性という遺伝的な変化を導くのなら、道徳に関しても同じことが言えるのだろうか? その答えは「イエス」だ。リチャーソンとボイドに従えば、遺伝子と文化の共進化によって、人類の本性は、他の霊長類に見られる小集団の社会性から、今日のあらゆる人間社会に認められる部族的な超社会性へと移行したのだ(同書327頁)」。もちろんこれは肯定的な引用であって、否定的に引用されているのではない。

 

次に新書本の著者は、「高度な道徳的判断の例として(113頁)」、あのなつかしきトロッコ問題を取り上げている。とはいえ、実は本書では道徳的判断に、ある遺伝子が関与していることを示した研究でトロッコ問題が用いられたという文脈で持ち出されているにすぎず、トロッコ問題そのものが検討されているわけではない。ただこの新書本に関しては、ここまでいつもより引用が非常に多く、個人的な見解が少なく芸がなくなってしまったので、ちょうどよい機会でもあり、少しばかりトロッコ問題に対する私めの勝手な印象を述べておくことにする。5人を助けるために、ポイントを切り替えてトロッコを側線に逸らし1人を殺すか否かというトロッコ問題は、その記述を読むたびに、率直に言ってなんともうさんくさいというか、論点先取的というか、誘導尋問くさいという印象を受けてしまう。というのも道徳の問題としてそれを捉えるなら第三者的観点からではなく、状況的に自分、あるいは近親者の生死がかかわるようなもっとシビアな状況設定でないと、タレブさん流に言えば「身銭を切っていない」立場からの見解になってしまうように思えるから。たとえば、ポイントを切り替えるだけの第三者的な人物として自分を登場させるのではなく、側線のレールに縛られた一人があなた自身で手にポイントを切り変えるスイッチを握っていたら、あるいは側線に縛られているのが自分の親や子どもだったら、あなたはスイッチを押しますか?という問いだったとしたら、功利主義的に「イエス」と答える人ははるかに少なくなるだろうと思う。それどころか逆に側線のほうに5人が縛られていて、トロッコが突進してくる本線にあなた、もしくは自分の親や子どもが一人で縛られていたとしたら、あなたはスイッチを押して側線にトロッコを逸らせ五人を殺しますか?という意地悪な質問をしたら、よほどのええかっこしいでない限り「イエス」と答えるのが普通だろうと思う。つまりオリジナルのトロッコ問題は、そもそも功利主義的な回答が得られやすい、いかにもアングロサクソン的な状況設定がなされているような印象をどうしても受けざるを得ないのですね。そもそも実際に道徳的判断を迫られる場合には、オリジナルのトロッコ問題のように自分が第三者的な立場にあるときより、自分自身が身銭を切らねばならない一人称的立場に置かれているときのほうがはるかに多いはずだし。もちろんトロッコ問題はその後のバリエーション(跨線橋の上からメタボ野郎を突き落とすとか)が重要である場合が多いのは確かなのだろうけど、ただ個人的な印象では、大元の問いに納得できない部分がある。

 

また他の場所でも書いたんだけど、運命を無闇に変えてはならないと考えている東洋人なら、オリジナルのトロッコ問題でもスイッチを押して人為的に運命を変え、五人でなく一人を殺すことはもってのほかと考えて「ノー」と答える人の割合が増えるのかもしれない。でも、それが五人ではなく世界の総人口マイナス一人対一人だったらそのような東洋人でも、功利主義的に一人を殺すと答えるように思える。だが、どんな場合でもほんとうにそうかというと、非常に怪しい。その点に関して先日、アマプラでちょっと興味深い映画を観た。それは『ノック 終末の訪問者』という、インド出身のM・ナイト・シャマラン監督の二〇二三年の映画。ちなみに私めは、このシャマランという監督は、今ではどうかしらんが、過大評価気味に思えて「こいつシャマランではなくシャラタン(ペテン師)がほんとうのところだろう」という印象があった(なら、なんで観たんだと突っ込まれそうなので、シャラタン監督作であることは見終わってから気づいたと言い訳をしておく)。ただこの映画に関してだけは、ゲイのカップルと幼い東洋系の女の子の三人のうちの誰を犠牲にするかを、三人の合議で決めてそれ以外の全人類を救わなければならないという状況設定がなされており、まさに一人称的立場に置かれた場合の究極のトロッコ問題が提示されていると見なせるところが非常に興味深かった。結論的には、最後の最後になってから、ようやく三人のうちの一人が犠牲になる。もちろん、この究極のトロッコ問題を三人に課す、元プロレスラーらしき俳優さんが演じる、えらくごついおっさんの言うことを三人が信じようとしていないという側面はあるとしても、地球が滅亡しかかっている事実をいくら見せつけられても、とりわけゲイのカップルが信用しようとしないということは、運命を信じる東洋人ならずとも、自分、もしくは近親者が生死の瀬戸際に立たされた場合には、地球の全人口マイナス一人(この映画の場合は三人のうち一人が犠牲になるのでマイナス二人だけど)ですら犠牲にする可能性が相当に高くなることを示しているようにも思えた(まあたかが映画と言えばそうだけど、それならオリジナルのトロッコ問題もたかが思考実験と言えないでもない)。シャマラン監督はインド出身とはいえ、原作はあるわけだし、ゲイのカップルと東洋系の幼い女の子(日本人ではないようなので韓国人か中国人と思われる)が主要登場人物という、いかにもポリコレ全開の昨今のハリウッド映画なのに、結局トロッコ問題の一般的な功利主義的解釈とは大きくかけ離れた展開になっているのがとってもとっても興味深かったというわけ。ちなみに犠牲を強いられるのが身内の三人のうち一人というのではなく、全人類からランダムに選ばれた任意の一人であるという設定だった場合、この映画のような展開には決してならず、即功利主義的に判断してその一人を犠牲にするという、映画としてはまったくおもろない展開になったような気がする(もしかしてそういう映画あったっけ?)。

 

次は「第五章 実験の進化学」。この章では、「進化を考慮しない生物学は何も意味をなさない」という言葉で有名なテオドシウス・ドブジャンスキーら何人かの進化生物学者が登場するけど、のちの章との絡みで言えば最初に登場するアウグスト・ヴァイスマンがもっとも重要に思えたので彼だけを取り上げる。彼の業績に関してまず次のようにある。「1885年の論文でヴァイスマンは、両親から子供に遺伝する物質は、生殖細胞からしか遺伝せず、両親の体の細胞(体細胞)からは伝わらない、と主張した。生殖細胞すなわち配偶子(動物の精子や卵子など)の元になる細胞が、発生の早い段階で、ほかの身体組織を作る体細胞から分離するのに気づいたヴァイスマンは、生殖細胞と体細胞の間に明らかな伝達手段が見当たらず、後天的な特徴の継承は不可能とみて、体細胞で新しく遺伝物質が獲得されても、それは子孫に伝わらない、と結論したのである。¶またヴァイスマンは、約20世代にわたってネズミの尾を切る実験を行い、尾を切られてもそれが子孫の特徴に影響しないことを確かめ、獲得形質の遺伝は起こらないと主張した。ダーウィンの進化論に含まれていたラマルク的な要素を、完全に排除したのである(126頁)」。

 

当然ハクスリーはこの考えを歓迎し、ラマルク説支持者のスペンサーは大反対するわけだけど、それを契機にネオ・ダーウィニストとネオ・ラマルキストの大論争が始まったらしい。最終的にはラマルク的な獲得形質の遺伝が否定されることは誰もが知っているとしても、ネオ・ダーウィニズム側にも大きな問題が一つあった。その問題とは次のようなもの。「[ネオ・ダーウィニズムの]問題の本質は、自然選択は変異がどうなるかを説明するが、変異の成因には言及しない、という点にあった。環境の刺激や応答で生じた変化が遺伝して変異として蓄積されないのなら、どのように変異が生じるのか。19世紀の段階では、この問いにネオ・ダーウィニズムは答えられなかったのである(131頁)」。一文目の「変異がどうなるかを説明するが、変異の成因には言及しない」の意味が私めにはよくわからないのだが、いずれにしても元来のダーウィニズムが方向性のない変化として進化を捉えていたうえに、獲得形質の遺伝まで否定してしまえば、ならば社会の進歩はどうやって達成されるのかという問題が残らざるを得ない。結局、ネオ・ダーウィニズムはそれに答えられなかったということなのでしょう。先取りして言えば、だから進歩という意味、つまりエヴォリューションの意味での進化は、人為的に起こすしかないという結論に至って優生学のようなヤバい代物の登場を招いたということなのだろうと思う。

 

その点について述べられているのが、「第六章 われても末に」で、そこに次のようにある。「進化がラマルク的に起きるなら、人間は、努力して得たものを子孫に生得的な能力として伝えられる。努力で社会が改善されれば、よりよい社会環境で育つ個人は、さらに優れた能力を獲得できる。それゆえ社会の利益は個人の利益と一致する、と素朴に信じられたし、社会のための自己犠牲も子供たちのため、と正当化できた。しかしヴァイスマンの論理は、この楽天的な期待を砕き、人間の努力と社会の発展の関係を切り離すものだった。¶レスター・ウォードは、1891年に「もしヴァイスマンの言う通りなら、つまり、後天的に獲得した特性が子孫に伝わらないのなら、社会改革は無意味なものになる」と述べている。環境改善はせいぜい一時的な緩和策にしかならず、経済的・社会的病理の根源となる個人の「能力」に影響を与えることはできない、と考えたのである。人間の進化は社会の発展とは無関係なので、個人がどんなに努力して、その結果社会がどんなに発展しても、子孫の能力が高まるわけではない、というわけだ。¶それまで漠然と進化を進歩だと信じていた人々が、無方向、無目的な進化の可能性に気づき始めた。「進化の呪い」の効果が徐々に弱まり、「個人が努力し、社会が発展して得たものを、子孫が生まれつきの恩恵として受け取る」という素朴な期待が幻想に過ぎないことがわかってきたのだ(179頁)」。そして結局、次のような傾向が生まれたとのことらしい。「人間の進化が進歩でないのなら、自らの手で人間の進化を進歩に変えねばならない、と考える人々が現れた。人間に働いている適者生存の作用を、「真の適者」であるべき「優れた者」や「強者」や「道徳的な者」が有利になる作用に変えよう、というのである。彼らは堕落への道、終末への道を阻止するため、そして揺らぎ始めた「進化の呪い」の力を守るため、それが覆い隠していた深遠の底に潜む魔物を呼び出した。それは封印されていた、ぞっとするような妄想が世に解き放たれたことを意味していた(181頁)」。

 

もちろんこの魔物とは優生学のことで、次の三章ではこの優生学が取り上げられている。「第七章 人類の輝かしい進歩」では、優生学と言えば必ず言及されるナチスの優生思想が取り上げられる。でももちろん、優生学や優生思想はナチスの専売特許ではなく、それ以前はおもにアングロサクソンの世界を中心に発展していた。最初に「優生学(eugenics)」という言葉を創ったのは、チャールズ・ダーウィンのいとこのフランシス・ゴルトンで、それを最初は「社会的な管理下で、将来世代の人種的資質を肉体的にも精神的にも向上または劣化させる可能性のある制度の研究(190頁)」と、のちには「優生学とは、民族の先天的な資質を向上させるあらゆる効果を研究する科学であり、その効果が最大限に発揮されるよう導くものである(190頁)」と定義したとのこと。「第八章 人間改良」ではえげれすの優生学者が取り上げられている。細かい記述は省くけど、その面子には、ダーウィンの息子のレナード・ダーウィン、ロナルド・フィッシャー、カール・ピアソン、J・B・S・ホールデン、ジュリアン・ハクスリー、はては最近『ケインズ』で取り上げたケインズさんに至るまで錚々たるメンバーが揃っている。まあ凋落目前の大英帝国だっただけに、俺たちは偉いんだってことを何とか示したかったのかもね。「第九章 やさしい科学」では、おもにアメリカにおける優生学の発展が説明されている。えげれすに比べると、登場人物がはるかに小粒で特にめぼしい記述もなかったので省略する。

 

「第十章 悪魔の目覚め」に移ると、その冒頭に、ここまでの展開から考えて、私めにはどうしても理解できない記述があったので、ここに引用しておく。次のようにある。「社会ダーウィニズムという言葉があるが、もしダーウィンのオリジナルな思想をダーウィニズムと定義するなら、この語は重複表現である(章末註)。なぜならダーウィンの進化論と自然選択説は、もともと人間の知性や協力行動、道徳、そして社会の進化を、それ以外の進化と一体のものとして含んでいたからである。そこには部族のような人間集団を単位とした素朴な集団選択の考えも添えられていた。¶人間社会に生物進化の考えを適用したのが、英国、米国、そしてナチスへと至るゴルトン流の優生学の系譜であるとするなら、当初から人間の進化を念頭に置いていたダーウィンの自然選択説そのものが、この系譜の発端だったと言えるだろう。¶ところがダーウィンのオリジナルな進化論は、原理的に「人種」の存在も、その優劣も否定する。生物は常に進化し、分岐し、そして進歩を否定するからである。そもそもダーウィンは「種」を実在しない恣意的なカテゴリーだと考えていた。皮肉にも本来、人種差別を否定し、人々の優劣を否定する理論が、その逆の役目を果たしたわけである(251頁)」。

 

これを読んだ私めは、これまでの論理展開が一挙にひっくり返るようで、話が急にわからなくなってしまった。そもそもダーウィンは、後年には考えを変えたとしても、オリジナルの、つまり最初の見方では、進化を「方向性のない盲目的な変化」と見なしていたのでは? ならば「ダーウィンの進化論と自然選択説は、もともと人間の知性や協力行動、道徳、そして社会の進化を、それ以外の進化と一体のものとして含んでいた」とはいったいどういうことなのだろうか? そもそもそんな話、どこかに書かれていたっけ? いずれにしても、この記述はダーウィン本来のトランスミューテーションではなく、ダーウィン以前の進歩史観に基づいたエヴォリューションの話のように聞こえる。もしダーウィンが最初から人間の知性や協力行動、道徳、そして社会の進化を、「自然選択による進化」という用語に含めていたのなら、社会の進歩を担保するためにわざわざラマルクの獲得形質の遺伝や優生学に走る必要などさらさらなかったということになり、ここまでの理路整然とした著者の立論が、筒井康隆流に言えばガラガラと音を立てて崩れ落ちることにならないだろうか? また明らかに、最初の段落ならびに二番目の段落(ちなみに¶が段落替えを表している)は三番目の段落と逆のことを述べているよね? だから著者も三番目の段落を「ところが」という逆接で開始している。ならば最初の段落の「ダーウィンのオリジナルな思想」と三番目の段落の「ダーウィンのオリジナルな進化論」は違うものでなければならない。そもそも「オリジナルな」の意味が「最初の」なのか、それとも「独自の」なのかもわからんが(英語のカタカナ書きは、必須でなければなるべくやめてけれ〜〜と翻訳者の私めは言いたくなる)、いずれにせよここで言われている「ダーウィンの思想」と「ダーウィンの進化論」は別物でなければ論理展開がおかしくなる。では「ダーウィンの進化論」とは異なる「ダーウィンの思想」とはいったい何なのか? 個人的には二番目、三番目の段落は理解できるけど、とりわけ最初の段落がさっぱりわけわからん。私めが何か勘違いしているのかもだけど、ここを明確にしておかないと同じような疑問を持つ読者も出て来るように思える。

 

さて文句はそのくらいにして次に進むと、そこでは優生学の起源が古代ギリシャに求められている。下手人はプラトンさんらしく次のようにある。「紀元前4世紀、プラトンは健全な社会を築くために必要な優生政策を、「国家の洗浄」と呼んだ。プラトンが『国家』で提言した政策の要点は、「不適格」な者の排除と「適格」な人間の繁殖であった。プラトンはそれを優れたイヌやウマを選抜する育種になぞらえた(253〜4頁)」。ただ古代以降は、「本格的な優生政策は実施されなくなったが、散発的な活動や提言はその後も続き、優生学の思想は生き続けていた。息をひそめていた魔物を目覚めさせ、偏見と差別のエネルギーを与えて、地上に蘇らせたのは、堕落への恐怖を進歩で克服しようとしたゴルトンの正義感だったのであろう。当時の欧米社会を広く覆っていた社会不安、混乱、移民、世俗化の進行、国家や上位階級の没落への危機感など、魔物の復活や成長に適した条件はそろっていた。それに強力な武器を与えたのが科学だった。ダーウィンの進化論である。科学の真偽はそれほど問題ではなかった。科学的という呪文が力を与えたのである。ダーウィンの理論や仮説の信頼性やその限界が本当は何であるかは、どうでもよかった。ダーウィンや進化論という言葉の響きのほうが悪魔にとって、人々を支配するうえで重要だったのである。これが「ダーウィンの呪い」に備わる魔力である(256〜7頁)」。

 

もちろん優生思想はナチスとともに滅びたわけではなく、その後も残っている。たとえばスウェーデンでは1975年まで強制不妊手術が行われていたし、日本でも1996年まで優生保護法が生きていたことはよく知られている。それどころか、かのドブジャンスキーさんは、1967年に『サイエンス』誌に発表した論文に次のように書いたとのことらしい。「自然選択は現代の人類にも作用しているが、その作用を人為選択で補わねばならない。人間の進化をどう制御するかという問題は、生物学的であると同時に社会学的である。優生学プログラムの成否は、人間の成長と自己実現に有利な条件を作り出せるかどうかにかかっている。(中略)人間は、進化の歴史も含めて、自分の歴史の作り手であるべきだ(266頁)」。「進化を考慮しない生物学は何も意味をなさない」の行きつく先がこれですか?って感じだよね。

 

ということで「第十一章 自由と正義のパラドクス」に参りましょう。いきなり次のようにある。「ナチスや米国の国粋主義者の印象が強いため、優生学運動は全体主義、あるいは政治的に右派、ないし保守派の活動と考えるのが一般的である。だがそれは適切ではない。右も左も関係がない、というのが恐らく正しい(270頁)」。個人的には、国粋主義と保守主義は明確に切り分けて考えるべきだと常々思っている。実のところ国粋主義には、ユートピア思想をかかげるような極左に近いイメージがある。ただし後者に関してはベクトルが未来に向いているのに対し、前者は過去に向いているのですね。それに対して保守派は現在の安定を重視するけど、必ずしも進歩を否定するわけではない。ただしその進歩とは漸進的な進歩であって、急進的な進歩ではない。そう考えると、優生学はユートピア的な理想の未来を目指す左派や、偉大なゲルマン民族などといった過去の栄光を理想としてでっち上げてその再興を目指す国粋主義者には都合のいい道具になる。その理想にふさわしくない人々は淘汰されるべきだという考えを流布できるしね。それに関して著者は次のように述べている。「優生学運動を推進していた人々の大半は、自分たちの社会の理想や表現の自由、民主的プロセスへの参加という意識を強く持ち、リベラルで進歩的で、科学への関心が高く、道徳意識の強い人々である。優生学の拡張された功利主義――最大期間にわたる幸福量の最大化は、未来世代に対して現世代は責任を負うという意識とも重なっている。こうした意識を持つ人々は、現代なら言論の自由を重視し、環境問題や差別の撤廃への関心が強い層に該当するだろう。恐らくダーウィンという言葉が気になるような人々だ。つまり本書の著者や、恐らく本書の読者層のかなりの部分にも該当する(271〜2頁)」。最後の二文は実にきっついねえ。何しろ「ダーウィンの呪い」というタイトルを実に香ばしいと感じて、買わざるを得なかった私めだしね。まあここにも啓蒙の弁証法を見て取ることができると言えるのかも。

 

著者は「なぜ自由を求め、自由を主張する人々が優生学の統制を実現させるのか。なぜ反差別主義者が差別主義の優生学運動を推進するのか。なぜ道徳的であろうとして、反道徳的な優生政策を求めるのか(272頁)」と問い、次にその答えをいくつか述べているけど、個人的には説得力があるようには感じられなかった。ただ、そう言っただけでは芸がないので、この問いに関して個人的な見解を一つだけ述べておくことにする。いつも述べているように自由だとか人権だとかいった普遍的な概念を現実世界に適用するとなると、どうしても特定の集団を対象にせざるを得ないから、そこに矛盾が必然的に噴出してくる。優生思想の場合も、理想の人々から構成される理想の社会という、文脈を無視した普遍的な理想像を現実の社会に無理やり当てはめようとするから、そこに矛盾が生じる。左派にありがちだけど、理想や理念を無理やり現実に適用しようとすると、その理想や理念がいかにすばらしいものであったとしても、それを達成するための便利な道具として優生思想を使えるように見えて、現実世界では、えてしてこういう正反対の結果が生まれてしまうというわけ。とはいえ理念や理想などまったく必要ではないと言いたいのではなく、普遍的な理想や理念と現実や事実はつねにフィードバック的、循環ループ的な関係のもとに置かれていなければならないと言いたいにすぎない。中間粒度の安定を最重要視する保守派はそのことを直観的に知っているのですね。また右でもナチスのように過去を理想化する国粋主義に走ってそれを現実に無理やり当てはめようとすると、優生思想が便利な道具に見えてくるのだろうと思う。

 

この点は著者も「第一二章 無限の姿」で別の言い方を用いて述べているので、次にこの最終章に移ることにする。そこには次のようにある。「デヴィッド・ヒュームが指摘して以来、多くの哲学者は「何が事実か」という前提から、直接「どうすべきか」という価値判断や道徳律など規範的命題は導けない、と主張してきた(…)。私たちがなすべきことを科学で“決定”できるのは、科学が得た経験的な情報を、価値観に基づく推論や道徳的な推論の連鎖へ演繹的に組み込める場合に限られる。例えば「命を守るべきである」等の道徳律の下で、医師は患者の診断で得られた疾患の事実から推論して、「治療するべき」と提案する。こうした自明な価値観で橋渡しをせずに事実から規範へ飛躍を許すと、時に隠れた先入観や偏見がギャップを架橋してしまう(308頁)」。ここでは科学的事実から規範への飛躍だけが問題にされているように見えるけど、実際には、事実に何ら基づかない規範や理想の、現実や事実への押し付けも先入観や偏見を生むことに変わりはない。イデオロギーはまさにその典型例だと言える。要するに、規範や理想と現実や事実のあいだには、つねに循環ループ的な関係がなければ先入観や偏見が生まれるのは必至だということ。なおこの第十二章では、おもに現代における遺伝子工学の倫理的な問題について論じられているけど、その詳細はここでは省略する。ただ次の警句は重要に思われるので、ここに引用しておく。「「ダーウィンがそう言っている」は、最もシンプルでわかりやすく、科学を装う危険な説明の一つである。ほぼ何も言っていないのに、なぜか説得力を発揮する稀有な説明である。どんな主張でも、科学的客観性の権威を与えてしまうマジック・ワードなのである(306頁)」。あるいは「科学的事実から価値判断や規範への論理的飛躍こそ、「ダーウィンの呪い」の中枢である。神の摂理なら規範を導けるが、科学的事実は違うのだ(309頁)」。まあ「ダーウィンの呪い」とは、ダーウィンが神さまの役割を果たすようになったということなのでしょう。先に言及した『創造論vs.無神論者』で、無神論の四騎士の考えを私めが懸念する理由を三つあげた。その三番目は、この新書本の著者の見方に近いと言えるかもしれない。そう言えば四騎士の一人デネットさんは、嬉しそうにダーウィニズムを「万能酸」とか呼んでいたよね。これこそ究極の「ダーウィンの呪い」であるように思えるけど、いかがなものか。また「進化を考慮しない生物学は何も意味をなさない、キリッ」とか言っていたドブジャンスキーさんが実は優生思想の持ち主だったとかね(ただ人種差別には反対していたらしいけど)。

 

ということで結論すると、非常に有益な本だと言える。「第十一章 自由と正義のパラドクス」にある、「自由と正義に反する非人道的かつ差別的、強権的な制度は、強権国家でなくても、自由と平等を重んじる人々の手で、正義の名のもとに、民主的に実現しうるのである(273頁)」という著者の提言は、しかと心に焼き付けておくべきだと思う。ただ前述した「第十章 悪魔の目覚め」の冒頭の記述だけは唯一すっきりしない印象が残ってしまったので、重要なポイントの一つだけに、増刷時には、もう少し論旨が明確になるよう書き直したほうがよろしいかと、と〜しろ〜がおなまにも提言しておきまする。

 

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※2023年12月1日