◎関口正司著『J・S・ミル』(中公新書)

 

 

まず構成を述べておくと、記述はおおよそミルの生涯を通時的に追うという形態が取られているけど、第4、5、6章はそれぞれ『自由論』『代議制政治論』『功利主義』というミルの主著を扱っている(それもおおむね年代順に沿うわけだけどね)。第二章の途中までは、父親のジェイムズ・ミルの話を含めた若き日の生い立ちに関する話が示されているのでその部分は飛ばす。

 

興味深くなってくるのは、父親の影響もあって当初ベンサム主義を支持していたミルが、そこから距離を置いていく様子が描かれた第二章の後半からなのよね。ちなみに「ベンサム主義の政治理論は、誰も否定できないはずの普遍的人間本性から演繹的に結論を引き出す、という推論方法を採用した(70頁)」のだそう。たとえばベンサム主義者だったジエイムズ・ミルの著書『政府論』には、次のような三段論法に基づく演繹的な議論が展開されているとのこと。「大前提:すべての人間は、他人の利益よりも自分の利益を優先する。小前提:統治の担当者は人間である。結論:ゆえに統治の担当者は自己利益を優先する(70頁)」。まあ普通に考えれば、形式論理としては正しくとも、そもそも大前提がいかにも怪しいことは誰にでもわかる。「何よりもまず、自己利益優先の普遍的傾向という人間本性の見方が問題だった(72頁)」のですね。のみならず、詳細は述べないけど、著者によれば「その実践的結論にも難点があった(72頁)」とのこと。

 

だからミルは、そのようなベンサム主義の見方に対して、「スターリングへの反論」という論文?で次のような修正を加えようとしたらしい。「人類全体に共通する何らかの傾向があるとすれば、とりわけ、その中でいっそう強い傾向が規制を必要としていて、しかも、規制のために利用しなければならない傾向でもあり、他には人間本性の普遍的傾向がないと仮定した場合、望ましい法やその他の社会制度はどんなものになるか、これは不合理な探究課題ではない。また、それが何かが確認されたとして、{その限りで/傍点}政治にかんする普遍的科学となるだけのことである。普遍的といっても、それを特定の国民に適用するときは、それに先立って、その国民に特有の傾向も確認しなければならないし、そうした傾向によってもたらされる修正点によって、この科学の抽象的な原理を修正しなければならないのである(74頁)」。

 

最初の二つの文章は非常にわかりにくく意味不明に近いんだけど、ここでは最後の文章に注目しましょう。これは、『グローバリゼーション』や『よみがえる田園都市国家』や『大東亜共栄圏』を取り上げたときに私めが指摘した、「抽象的な理念をインプリメンテーション(実装、実現、具体化)する際には、具体的なインプリメンテーションの文脈に沿って修正を施す必要がある」という見方に合致する。最近の一例としてLGBT法案を取り上げましょう。この法案はネット民が言うように非常にまずい法案だと個人的には思っている。なぜなら、まさに「抽象的な理念をインプリメンテーションする際には、具体的なインプリメンテーションの文脈に沿って修正を施す必要がある」ことが忘れられているから。LGBT法案は普遍的な人権という概念から派生するものであることは言うを待たないけど、それをLGBTという特定の集団を対象にインプリメントする際には、理念をそのまま通用させるのではなく文化的な状況や文脈に応じて修正や限定が施されねばならない。さもなければ、たとえば女性や子どもなどといった他の集団の人権とバッティングするから。要するに総合的、実践的に判断しなければ、ある集団に対する差別をなくそうとする試みによって、別の集団に対する差別を新たに生み出す可能性があるということ。

 

ところで、先にあげたミルの文章に対して著者は次のようにコメントしている。「政治学とそこから導かれる実践的方策は、いずれも、不確実で恣意的になりがちな経験的一般化からではなく、普遍性ある人間本性の原理を前提としなければならない。これを認めるという理由から、ミルはベンサム主義の演繹的アプローチを捨て去ることはできなかった。その一方で、ここに示されているように、それぞれの国民の特性に応じた修正が必要なことを、ミルは認めるようになっていた(74頁)」。先の例で言えば「人権」という普遍的な概念が必要であるのは確かとしても、それを特定の国民や特定の集団から成る中間粒度にインプリメントする場合には、インプリテーションの対象となる、それぞれの国民や集団(ならびにインプリメンテーションの対象にならない他の国民や集団)の特性に応じた修正が必要とされるということになる。

 

ミルはこの考えを正当化するために、演繹的推論を幾何学的方法(抽象的方法)と物理学的方法(具体的方法)に分けて考えたのだそう。先にあげたベンサム主義者ジェイムズ・ミルの三段論法は、そのうちの幾何学的方法(抽象的方法)に該当し、よって理論と現実は一致しなければならないと考えられた。それに対して物理学的方法(具体的方法)では、個別の具体的な事象は、さまざまな普遍的な力が加わるなかでそれらが均衡して出現しているものと考える。その考えをもとに、「社会現象は、基本的に、このような力学的な合成のモデルに即してアプローチすべきだ、とミルは考えるようになったのである(83頁)」。要するに、政治が扱うさまざまな問題は個別に単体で考慮すべきものではないのですね。たとえば気候変動、原発、再エネ技術、(経済)安全保障は、複雑に相互作用するのであり、したがってそれらを一つずつ考慮するようなやり方を取れば、一種のもぐら叩きになって複雑に絡み合った現実の問題を解決できなくなる。

 

政治を一つの普遍や理念に還元して、それを無理やりインプリメントしようとすると何が起こるかは、早くもフランス革命が示してくれている。たとえば本書によれば、「フランス革命は、コント[オーギュスト・コント]の理解では、現実を見ずにもっぱら抽象原理に依存したことによる失敗であり、形而上学的段階の{終焉/しゅうえん}を象徴している(117頁)」。あるいは元祖保守のエドマンド・バークはもちろんのこと、『社会主義前夜』によれば、サン=シモン、フーリエなどといった元祖社会主義的な思想家も、フランス革命による悲惨な経験をもとに急激な変革たる革命の防止を目指していたらしい。

 

では理念や目的のインプリメンテーションに関するミルの考えはどうか? 次のようにある。「ミルの考えでは、政治の実践的目的は権力濫用の抑止だけではなく、国民全般の知的道徳的改善も非常に重要な目的だった。目的が複数あるという前提から見ると、同じ制度がこれら二つの目的の両方にかかわっている場合もある。また、それぞれの目的の達成の過程で、異なった制度が複雑な形でたがいに影響を与えることもある。一方の目的を促進する目的が、他方の目的を阻害することもあるかもしれない。だから、政治のアートでは、一つの目的とそれを実現する手段を構想した後で、それとはまったく無関係な形で、別の目的とその実現手段とを構想するという単純な手順をとることはできないのである(89〜90頁)」。現代の日本の政治家や自称知識人には、二世紀近く前にミルが考えていたこの点をまったく閑却している御仁がいかに多いかに気づかざるを得ないよね。

 

こうして「ミルは、複数の実践的目的を念頭に置いた政治の科学とアートの探究という方向で、思索を深めていくことになる(90頁)」わけだけど、続く「第三章 思索の深まり」でその点が検討されている。それによると、ミルは政治社会が安定的に持続する条件を三つあげているとのこと。第一の条件は、「政治社会の構成員とみなされる人々に対する教育の仕組みが存在していること(98頁)」。まあそりゃそうでしょう。別に政治社会でなくとも、社会が安定的に存続するためには教育が不可欠であることはわざわざ言うまでもないしね。第二の条件は、「忠誠の感情が何らかの形で存在していること(99頁)」。なおここでの「忠誠」とは、「特定の支配者あるいは支配層に対する個人的な忠誠ではなく、その政治社会の国制(基本構造)の根本原則となっているものに対する構成員全般の忠誠(99頁)」をいう。立憲主義への忠誠とかそういうことなのでしょうね。そして第三の条件は、「政治社会の構成員のあいだに、強い結びつきが存在していること(99頁)」。ただし「ミルが注目するのは、独善的な排外主義や自民族中心主義といった反感の原理ではなく、共感の原理である。自然的・歴史的に区切られた同じ領域内に住み、同一の政府の下で生活している人々には、共通した利害の感情がある。その地域に暮らす他の人々にとっての害悪を自分のものとして受け止め、自他に共通する不都合を回避することに努め、地域の人々との結びつきを粗末にしない姿勢がある(99頁)」とのこと。

 

第二の条件と第三の条件はとりわけ興味深い。というのもミルは『自由論』を書いているがゆえに、現在で言うところのリベラル知識人であったような印象を与えるんだけど、第二、第三の条件はむしろ保守的なものだから。第二の条件の「忠誠」は、ジョナサン・ハイトがわが訳書『社会はなぜ左と右にわかれるのか』で提起している道徳基盤理論の〈忠誠/背信〉基盤に相当すると思うけど、ハイト氏はそれをおもに右派(保守派)に特徴的に見られる基盤としてあげている。また第三の条件は、私めが言う「中間粒度」の維持に関するものであり、保守は中間粒度の維持に細心の注意を払っているのですね。この点については、前述の『日本の保守とリベラル』を参照されたい。

 

しかしだからと言ってミルは変化を無視あるいは軽視したというわけではなく、急進的ではなく漸進的な改善は必要だと考えていた。次のようにある。「しかし、社会と政治の改善を望んでいるミルとしては、これらの条件の重要性を強調する一方で、進歩、つまりよい意味での社会の変化に注目する視点も欠かせなかった。たしかに、一八世紀の政治理論、特にフランスの政治理論は、社会や政治の腐敗を告発し改革を急ぐあまり、社会を安定的に存続させる諸条件への配慮を欠きがちだった。とはいえ、抜本的な改善や改革が必要になっている状況では、社会安定の条件も損なわれ、社会の衰退が始まっている。この状況では、社会安定の条件に注目するだけでは事態は好転しない。社会は不可逆的な変化に直面している。その変化の力学を把握して新たな状況に適合した対応を考える必要がある。そうした考察も、社会科学や政治のアートには欠かせないとミルは考えていた(100頁)」。この考えは実のとこと、元祖保守とされるエドマンド・バークの考えであったことは『日本の保守とリベラル』を参照されたい。

 

「第三章 思索の深まり」の残りは、アレクシ・ド・トクヴィルやオーギュスト・コントの考えに対するミルの見方や、前期の著作『論理学体系』や『経済学原理』が取り上げられているけど、それについては省略する。

 

それに続く後半はミルの後半生が取り上げられており、おもに『自由論』『代議制政治論』『功利主義』というミルの主著が取り上げられている。ただしここでは、ミルの代表作と見なされている『自由論』について論じる第四章のみを取り上げる。ここで他の二冊を割愛する理由は次のとおり。『代議制統治論』は「全部で一八章からなる大著で、選挙制度や議会、中央の行政、地方自治、インド統治など、当時のイギリスの政治体制全般にかかわる多様なテーマが取り上げられている(179頁)」らしく、イギリス国制に焦点が絞られているというやや特殊な面もあってか、個人的にそれほど強い興味を持てなかった。『功利主義』について言えば、実のところ個人的には、ミルは『自由論』より、功利主義者としての印象のほうが強いんだけど、他の二著には40頁ほど割かれているのに『功利主義』を取り上げた第六章はその半分しかなく、いかにも駆け足といった印象があり、「公共道徳」と「私的倫理」の区別に関する記述以外はあまりピンとこなかった。いずれにせよ功利主義については、それを総合的に扱った本が出たときに取り上げることにした。

 

と前置きをしたうえで、ミルの主著『自由論』が取り上げられている第四章に参りましょう。ミルは『自由論』の冒頭で、「この本で扱うのは意志の自由ではなく、社会生活の中での自由であると宣言している(137頁)」のだそう。つまり、「個人に対する社会の干渉の範囲を定める原理(238頁)」として自由の原理を提起しているとのこと。『まちがえる脳』を取り上げたときに、自由の重要な側面の一つに「内発的な動機」、つまり「意志」が存在すると指摘した。また『日本の保守とリベラル』を取り上げたときには、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』に言及して自由には「〜からの自由」と「〜への自由」の区別があると指摘した。さらに言えば、ウィキには「[アイザイア・]バーリンが用いた積極的自由、消極的自由という概念に従えば、ミルの『自由論』の議論の多くは消極的自由についてとなる」とある。バーリンはそれらのうちの消極的自由のほうを擁護しているので(後述)、『自由論』の冒頭の宣言が正しいのなら、彼はきっとミルの姿勢に同意していたのでしょうね(バーリンに詳しいわけではないので確信はないけど)。

 

なお著者自身はバーリンの考えについて「あとがき」で次のように述べている。「二〇世紀イギリスを代表する政治哲学者アイザイア・バーリン(一九〇九〜一九九七)は、自由の概念には「消極的自由(〜からの自由)」と「積極的自由(〜への自由)」の二つがあると指摘し、その後の自由をめぐる政治哲学の議論に大きな影響を与えた。この議論は、冷戦という歴史的コンテクストを強く意識したものだったために、バーリンにならって積極的自由を批判し消極的自由を重視することが、自由民主主義へのコミットメントに欠かせないという雰囲気が、ある時期までの学界には色濃く漂っていた。筆者も、そうした空気を肌で感じながら研究を始めたのだが、あれこれと検討を続けていくうちに、この「鉄の檻」に自分を閉じ込めていてはいけないという見方にたどりついた(268頁)」。私めは内発的動機を重視したいので、著者の立場に近いと思う。

 

少し脱線したのでミルの「自由論」の話に戻ると、確かに『自由論』の冒頭の文章は、あたかもミルが「内発的な動機」、すなわち「〜への自由」あるいは積極的自由を無視、あるいは軽視していたように響く。しかしそれは事実ではないらしく、著者によれば「実のところ、ミルにとっての意志の自由と社会生活の中での自由という二つのテーマは、自由という言葉で物事を考えるときには、いつでも頭の中に併存していたテーマだった(137〜8頁)」とのこと。ではなぜ『自由論』においては、それら二つのテーマのうちの片方を閑却する宣言を、わざわざ冒頭で掲げたかというと、「自由を当時の社会の差し迫った脅威から擁護することが、この本の明確な目的だった(138頁)」からだそうな。では当時の社会の差し迫った脅威とは何か? それは、民主制の下で集団として最強者となった多数派が、少数派を抑圧する「多数の専制」と、凡庸な大衆への対抗策としてエリートの専制的権力に頼ろうとする傾向の二つということらしい。そしてそれら二つに共通する特徴として「ルールの恣意性」があげられている。著者によれば、「過去のルールの恣意性に対する[ミルの]批判は、「自由の保護」という見地からのものである。他方で、ミルはルールの恣意性が自由の抑圧ばかりでなく、誤った自由の主張につながることにも注意を向けている。つまり、社会の干渉が正当で必要な場合であるのに、自由を口実にして反対するような立場である(143頁)」。現代の日本にも、「社会の干渉が正当で必要な場合であるのに」、「〜の自由」をやたらに叫んで社会の干渉に反対する人々がいるよね。ミルは200年近く前に、そのおかしさを指摘していたことになる。いわゆる抵抗権の裏には、社会的義務の遵守が前提として存在しているのに、前者ばかりを強調するのは間違いだと主張しているのだと思う。

 

ならば恣意性を免れた自由の原理とはいったいどのようなものか? 著者はそれに答えるにあたって、『自由論』から抜粋しているんだけど、長くなるので著者による傍点が振られた箇所だけを抜き書きしましょう。次のようにある。「その原理とは、誰の行為の自由に対してであれ、個人あるいは集団として干渉する場合、その唯一正当な目的は自己防衛だということである(144頁)」。これは「自由原理」あるいは「危害原理」と呼ばれる原理で、腐れ頭の私めでさえ覚えているほど有名な提言だと言える。しかしミルは、この「自由原理」の適用対象になる人を限定する。次のようにある。「自由原理の適用対象となる文明社会の成人とは、自己利益優先の傾向を持ちながらも、また、この傾向のために不正を働くことがありうるとしても、基本的には、自分の利益を保護してくれる社会的ルールに従う人間である。また、たいていの場合、良心に従って自己抑制するし、あるいは、思慮を働かせて衝動や目先の欲望を抑制して先々の自己利益を考慮に入れることのできる人間でもある。文明社会の成人として、ミルはこういうレベルの自律性をそなえた人間を想定している。言いかえれば、自由原理の適用をこのようなターゲットに限定している、ということである(147頁)」。これは、先に引用した「誤った自由の主張」の問題に対する一つの答えになっているのだろうと思う。

 

さて、ここまではバーリンの言う消極的自由(〜からの自由)のみが対象になっているように思われる。だが、『自由論』でミルが決して積極的自由(〜への自由)を軽視していたわけではないことがわかる文章が次に現れる。「ミルは個人の自発性や陶冶の重要性を主題とした第三章で、次のように指摘している(148頁)」のだそうな。「この原理[自由原理]を主張する際に出会う最大の困難は、(…)目的そのものに対して大方の人々が無関心だ、という点にある。個性の自由な発展が、幸福の主要な要素の一つであり、文明、知識、教育、陶冶といった言葉が意味するすべてのものと同格の要素であるばかりでなく、そうしたものに必要不可欠な部分であり条件でもあるということが、もし実感されていれば、自由が過小評価される危険はないだろうし、自由と社会による規制とのあいだの調整も、格別に困難なことにはならないだろう。¶しかし、厄介なことに、個人の自発性が固有の価値を持ち、それ自体として尊重に値するということが、ふつうの考え方ではほとんど認識されていないのである(148〜9頁)」。

 

次にミルは、そのような「個人の自発性」、つまり「意志の自由」を抑圧すればいかなる弊害が生じるかを論じる。三つのケースがあげられているけど、ここではそれらのなかでも「もっともありがちで」、私めにも非常に興味深い最後のケースを取り上げましょう。このケースは、「世間に受け容れられている支配的な意見が真理全体をカバーしていない部分的真理である一方で、抑圧される側の意見も、真理の別の一部を含んだ部分的真理にとどまっている場合(157頁)」を指す。というより「支配する側」と「抑圧される側」に分けずとも、真理が複数の部分的真理に分散している場合を指すと考えたほうが妥当なのかも。その場合、もろもろの部分的真理を調整し補完し合う必要があることは言うまでもない。これに関する次のようなミルの指摘は、現代人の耳にも痛いでしょうね。「度量の狭い人が熱心になるような真理は、どれも間違いなく、まるで他の真理が世界にはないかのようにして、あるいは、自分が信奉している真理を制限したり弱めたりできるものはどう考えてもありえないかのようにして、主張され教え込まれ、また、多様な形で実行に移されたりするものである。(…)真理の部分どうしが激しく衝突することが、恐るべき害悪なのではない。恐るべき害悪は、真理の半分がひっそりと抑圧されることである(158頁)」。

 

実のところ、その手の党派性に関する議論は、進化生物学、心理学、人類学などのおかげもあって、少なくともあちらでは、部族主義というテーマのもとで最近さかんに議論されるようになっている。ごく最近読んだ本では、『Our Tribal Future』(St. Martin’s Press, 2023)や『Political Tribes』(Penguin, 2018)などがあげられる(ただし前者は部族主義の問題とともに利点も論じている)。あるいはジョセフ・ヘンリックの大著『The WEIRDest People in the World』も、部族ではなく親族を扱っているものの、その系列の書と見なすことができよう。

 

一つだけ注意しておく必要があるのは、その種の議論においては「偏狭な部族主義VS開かれたコスモポリタニズム」という図式は必ずしも成り立たないこと。なぜならコスモポリタニズムそのものが、部族主義の一つに成り下がっているから。その点、『Political Tribes』のエイミー・チュアは手厳しい。次のようにある(なお、この箇所は『Our Tribal Future』にも引用されている)。「アメリカのエリートの多くは自分たちを、普遍的な人間性を寿ぎ、グローバルでコスモポリタンな価値観を擁護する、部族とは正反対の「世界市民」と見なしている。だがそのようなエリートに見えていないのは、彼らが擁護するコスモポリタニズムがいかに部族的であるかという点である。高学歴で世界中を旅行しているアメリカ人にとって、コスモポリタニズムは高度に排他的な{氏族/クラン}社会をなし、他集団のメンバーや魑魅魍魎と自分たちが考える人々――この場合は国旗を振り回す田舎者――から自分たちを区別している(同書6頁)」。個人的には、コスモポリタニズムは部族的どころか、部族的な信念を普遍的に適用しようとする傾向を持つがゆえに全体主義に陥りやすいとさえ思っている。ちなみに部族主義者は、外集団から見ればいかにも常識はずれとしか思えない突拍子もないことを平気でしたり言ったりツイしたりする。なぜかというと、その種の行動は{部族/トライバル}シグナル、つまり一種の部族内におけるステータスシンボルとして作用するから。しかも部族シグナルは、外集団から見て非常識であればあるほど内集団ではそれだけ大きな効果を発揮する。「よそ者の批判をまったく恐れずにこんなに体を張ってる俺の雄姿を見てくれ!」と言わんばかりに、内集団への忠誠をしっかりと誇示できるからね。

 

少し脱線したので新書本に戻ると、「恐るべき害悪は、真理の半分がひっそりと抑圧されることである」という最後の文章は、ネットで「報道しない自由」をさんざん揶揄されている日本の大手マスメディアにとっては耳が痛いでしょうね。さてその後も、「V 個性と自由」「W 自由原理の注意点」「X 自由原理にもとづかない自由」と、『自由論』に関する派生的な議論が続くけど、その部分は正直なところあまりピンとこなかったので省略する。

 

ということで総合的には、とりわけ主著の『自由論』を中心に考える場合には、ミルのよき入門書になると思った(他には岩波新書の古い本しか読んだことないけど)。なお今年はミルの没後一五〇周年なのだそうな。

 

 

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※2023年7月11日