◎佐藤光著『よみがえる田園都市国家』(ちくま新書)

 

 

著者の佐藤光氏はどこかで聞いた名前だと思って、カバー裏の著者紹介欄を見たところ、そうかポランニー兄弟の専門家だったことを思い出した。ポランニー兄弟と言っても兄のカール・ポランニーは経済学者だし、弟のマイケル・ポランニーは科学哲学者だからかなり毛色が違うけど、その両者に関して本を書いている(『マイケル・ポランニー「暗黙知」と自由の哲学』という、著者が書いた講談社選書メチエ本は読んだことがある)。ちなみに個人的にはカール・ポランニーは『大転換』を、マイケル・ポランニーは『暗黙知の次元』と『Personal Knowledge』を読んだことがある。

 

ちくま新書本の話に戻ると、「大平正芳、E・ハワード、柳田国男の構想」という副題からもわかるように、田園都市構想を大平正芳、E・ハワード、柳田国男の考えに見ていくという流れ。歴史的には、19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍したエベネザー・ハワードのほうが他の二人より先だけどね。

 

しかし大平正芳という名前は久々に聞いた気がする。見てくれがあまり目立たなかったし、「あ〜う〜の人」としか覚えていない。私めより10歳以上年上の著者ですら、「正直いって、若い頃の筆者は、いつも眠そうな顔をした大平に魅力を感じたことはなかった。「目立つ」という点では、彼の盟友・田中角栄の方が一段上であり、首相在位期間が短かったこともあって、大平内閣の政策に強い印象を受けたことはなかったのである(19頁)」と書いている。いつも眠そうな顔をしていても、ロバート・ミッチャムのようにいかした人もいたけど(サイコパスっぽい役が多かったとはいえ)、なんかこう言うとあれだけど大平氏はボケてるんじゃないのかって感じだったよね。また「田中角栄の方が一段上」とあるけど、一段どころじゃないような気が・・・。それで思い出したことがある。大平氏が総理になったとき、今も昔もロクなことをしないマスメディアが、なんと小学生に「今度の首相をどう思うか」みたいな質問をして、いかにもマセガキ然としたガキンチョが「あの人に首相を任せられるか、とってもとっても心配です」みたいに答えていたのを今でもよく覚えている(当時は私めもテレビを観ていた)。もうね、全国放送?するTV番組で、小学生にそんなこと訊くなよと思ったものでした。

 

さてしかし、この本ではそんな大平氏の発案なる、「都市に田園のゆとりを、田園に都市の活力を」をキャッチフレーズとする「田園都市国家の構想」と「家庭基盤の充実」の先見性が論じられている。何でも安部政権下での「Society 5.0」構想や、{菅/すが}政権下での「2050年カーボンニュートラルに伴うグリーン成長戦略」、あるいは岸田政権下の「デジタル田園都市国家構想」などは、もとをただすと大平氏の構想に行きつくらしい。

 

ここで著者の佐藤氏の立ち位置がはっきりとわかる箇所をあげておきましょう。「AIや「超スマート社会」やSDGsに反対なのではない。「誰一人取り残さない」、世界中の貧困と差別を根絶する、経済成長を維持しながら「カーボンニュートラル」を実現する、世界と日本の自然破壊を終わらせる、それも二〇三〇年までに、などという国連や日本のSDGsの目標が本当に達成できるのか、筆者にはいささか疑問だが、それらに反対する理由もない。それらは、やはり追求する価値のある「理想」なのだ。¶必要なのは、その理想を、現実的で豊饒な人間観と社会観と自然観のなかに組み入れて、幻想に囚われることなく少しずつ実現していくことだ。実現できないからといって自暴自棄になって「体制を暴力的に転覆する」などと考えてはいけない。すでに部分的にせよ実現されている理想のさらなる実現を目指して現実を漸進的に改革していくこと――これこそがわれわれが必要とする改革、いわば「保守的改革」なのである(30頁)」。

 

つまり『グローバリゼーション』(ちくま新書)を取り上げたときに述べたように、指針として「理想」や「理念」を持つことには意義があるけど、現実にそれを適用する場合にはつねにインプリテーションの問題が生じるってことを心得ておかねばならないということ。保守主義というのは必ずしも現状維持を意味するわけではない。現状は改善していくべきだが、この引用にもあるように、それは「革命」のようなラディカルな手段を通じてではなく、漸進的な「保守的改革」によってでなければならないと考えるわけ。なぜなら、さもなければ私めの言う、人々の生活を支えている「中間粒度」が瓦解するから。ということで中間粒度に着目している点において、著者も私めも保守主義者だと言えると思う。その意味では、著者が「偉大な思想家、エドマンド・バーク(18頁)」と書いているのにもうなずける。バークは、現代に至るまでの病根を残したフランス革命の問題点にその当時から気づいていたわけだしね。

 

ところで大平氏の「田園都市国家の構想」の立案に参加したメンバーの履歴がちょっとおもろい。香山健一、山崎正和、佐藤誠三郎、西部邁らは、学生時代は学生運動に参加していた左派だったのに、のちに保守に転向したらしい。この転向はよくわかる。学生時代は「理想」や「理念」をひたすら追及していたとしても、やがてインプリテーションの問題に突き当たって、中間粒度を瓦解させないような「保守的改革」を目指すようになったんだろうと思う。単にイデオロギーにほだされて活動していた人は、高齢になってすらその点に気づかないままなんだろうけど、真に賢い人は結局、それなりの年齢になった頃に、「うぬぬぬ! 現実はそう簡単にはいかん。実のところ現実面へのインプリメンテーションこそが一番やっかいだ」ということに気づくのでしょう。

 

「田園都市国家の構想」「家庭基盤の充実」というのは、まさにこの、人々の生活を支えている中間粒度の復興が目標とされている。それに関して次のようにある。「これらの構想には改善を要する点が含まれているが、筆者は、その基本的方向性については強く肯定したい。「都市」が経済成長、物質的富の増大、技術革新、利便性などを象徴するとすれば、「田園」は地方、自然などを象徴し、「家庭基盤」は家庭とそれを取り囲む地域社会、地域コミュニティを象徴する。思うに、戦後日本の瞠目すべき経済成長によって、もっとも犠牲にされたのは、されているのは、家庭、地域コミュニティ、地方、自然だった(22頁)」。敢えて言うまでもないけど、ここで言及されている「家庭」「地域社会」「地域コミュニティ」「地方」「自然」はすべて、中間粒度に属する実体だと見なせる(「自然」については、それが中間粒度に属すると言うためには、その意味を限定する必要があるけど、それについてはここでは述べない)。

 

次の第2章では、エベネザー・ハワードが取り上げられている。ハワードは田園都市構想の元祖的人物であることはよく知られているけど、同時に社会主義者で「ユートピア志向」的なところもあったらしい。ただ同じイギリスのロバート・オーウェンほど徹底してはいなかったらしく、著者は次のように書いている。「もちろん現実は理想通りにはいかなかった。その最大の理由の一つは、『明日の田園都市』にあった社会主義的色彩が実現の過程でトーンダウンされ、さまざまな階層、特に労働者層を重要な一員としたコミュニティであるはずの「町・田舎」づくりに失敗したことである(88〜9頁)」。

 

つまり、ここでもやはり、社会主義的な理想を中間粒度にインプリメンテーションする際に問題が生じたのですね。この文章だけを読むと、社会主義的色彩をトーンダウンしたから失敗したと読めるけど、実のところ「社会主義的色彩」そのものにも問題があったのであろうことは次の記述からわかる。「(…)確かにハワードの「町・田舎」構想のあまりにも行き届いた都市計画を読んでいると、自由で自生的な発展を好むスコットランドあるいはイングランド流の「進化主義」ではなく、むしろ、優れた理性に恵まれたエリートによる合理的計画を好むフランス流の「設計主義」の気配を濃厚に感じる(91頁)」。ハワードは社会主義者だったようなので、計画経済に近い考え方をとっていたのでしょう。ちなみに私めなら、「進化主義」は「ボトムアップ志向」、「設計主義」は「トップダウン志向」と言い換えたいところ。要するに、中間粒度へのインプリメンテーションをエリート主義的にトップダウンで実施すると、のちのソ連のようにうまく機能しなくなる場合が多いということなのでしょう。

 

次の第3章だけど、そこではタイトル通り「柳田国男の田園都市国家」構想が論じられている。著者は柳田氏の著書『都市と農村』に言及して次のように述べている。「「外国の商売政策に乗ぜられ」「消費を知って生産を忘れた国家」として柳田が念頭に置いているのは、いうまでもなく大正から昭和にかけての日本だが、それは、当時の東京をはじめとした日本の都会が、「外国の商売政策」に乗せられて、国柄を{弁/わきま}えず、欧米文化の流行を次々と輸入しては生産し、それをさらに特殊事情を無視して地方に売りつけた挙句、生産活動の原点である農村の経済と文化を破壊しているからである(127頁)」。これはまさにグローバリゼーションの影響によって中間粒度が毀損されているという現代的な問題でもある。そのような柳田氏の見方については、著者自身も「(…)極論とも思える柳田の念頭には、グローバル・エコノミーへの参入によってますます発展しながら、経済の一極集中と裏腹に全国各地の農村を疲弊しつつあった当時の日本の姿があった(129頁)」と述べている。

 

ここまでは現状批判に過ぎないけど、では柳田氏はどうすればよいと考えていたのか? それについては細かくなるので第3章の130頁以後を読んでくださいとしか言えないんだけど、著者も述べているようにありきたりか、「彼の自然、農業、農村、地方、家、家族などの考え方に「時代遅れ」の側面があることは否定できない(151頁)」ように感じた。

 

どうやら柳田氏は自然や健康より農村や家の持つ道徳性や宗教性を重視していたらしく、都会を嫌って、田舎が大好きだったとのこと。著者は、柳田氏の「家」に対する考え方について次のように述べている。「「有限の個体の生命や各家庭の寿命を超えて継続する生命の流れ」を柳田は「家」と呼んだのだが、この「家」を、通常の意味での家族や先祖や子孫に限らず、「私」に親しみのある、過去から未来に渡るすべての人やモノの集合体と考えてもよいのではないか、とまで筆者は考える(162頁)」。

 

私めならさらに、「進化の過程で人類が築いてきた個人の生存や生活を保障する中間粒度のメカニズム」とまで言いたいところ。ここで私めが言う「進化」には生物学的進化という意味のみならず、生物(遺伝)と社会の共進化という意味も含む。私めがまさに昨今の進化生物学に注目している理由も、まさにこの遺伝と文化の共進化によっていかに中間粒度が築かれてきたかが、それによってある程度明らかになるだろうと考えているからなのよね。人類の遠い祖先はかつてアフリカ大陸に住んでいたわけだけど、そこから各地に分散して、各地域の特殊な環境に適応しながら進化してきたことは改めて言うまでもない。そして各地域の特殊な環境に適応するにあたって、遺伝と文化の共進化を介して独自の中間粒度を築いてきたってわけ。グローバリゼーションによる画一化、均質化が破壊せんとしているのはまさにこの中間粒度なのよね。

 

著者はグローバリゼーションによる画一化、均質化を時間の流れの分断としてとらえ次のように述べている。「時間の流れが分断され、「昨日」と「今日」と「明日」のつながりがなくなれば、それらをまとめた「物語」を語ることもできなくなる。「物語」あるいは「歴史」とは時間のつながりと脈絡があって可能となるからだ。マッキンタイアの人間の本質は「物語を語る動物(story-telling animal)」であるという説が正しければ、これは、現代人が人間でなくなりつつあることを意味している(166頁)」。「マッキンタイアの人間の本質って何?」って思う人もいるだろうから説明しておくと、「マッキンタイアの」はあとにもっていって「(…)であるというマッキンタイアの説が正しければ」とすべきだし、いきなりマッキンタイア(引用部分のみならず本文中でここまで一度も言及されていなかった)が出て来るので「それ何?」と思う読者も多いだろうけど、マッキンタイアとは、おそらくサンデルらと同じコミュニタリアン哲学者のアラスデア・マッキンタイアを指すと思われる(担当編集者は相手が名誉教授様だけに指摘するのを遠慮したのかな?)。ちなみに私めなら「時間の流れ」とは「進化の流れ」と言うでしょうね。

 

「時間の流れ」あるいは「生物と文化の共進化の流れ」のなかで人々の生存や生活を保障する中間粒度の結束を固めるための「物語」、もっとカッコつけた言い方をすれば「ナラティブ」が築かれてきたのであり、それを破壊すれば人間が人間でなくなるという著者の見立ては、進化生物学的に見ても正しいと思う。そしてまさにグローバリゼーションは、この破壊を行なっていることになる。

 

先に言及した、同じちくま新書の『グローバリゼーション』では、このような進化生物学的な視点がなく、それゆえか論旨が妙に揺れている印象を受けた。ちなみに『よみがえる田園都市国家』の著者の佐藤氏は、前述のように、あるいはマッキンタイアやロバート・ベラーや福田恒存らの保守的な見解に言及していることからもわかるように保守的な立場の人であるように思えるのに対し、『グローバリゼーション』の著者はリベラル的な視点に拘泥し過ぎて、結局中間粒度の破壊という肝心な部分を見落としている、あるいはわかっていても立場上その点を強調できなかったのではないかという印象を受けた。

 

「第4章 二一世紀の田園都市国家」だけど、タイトル通りここまでの議論をもとに二一世紀の田園都市国家とはどうあるべきかが書かれているようだけど、途中でAIの話になったあたりから話が拡散して何が言いたいのかイマイチよくわからなくなった。どうやら最終的には、「常識」「共通感覚」「大人の分別」が、二一世紀の田園都市国家のカギになり、「こうした「常識人」を育成するためにも、「家庭基盤の充実」や「自然の教育」が重要(214頁)」になるということが言いたいらしい。一見ありきたりに思えるんだけど、あえて著者の肩を持つとすると、実のところ、この「常識」というのは、まさに人類が進化の過程を通じて獲得してきた、人々の生存や生活を保障する中間粒度の維持に必須の要件だと考えれば非常に重要な指摘であるとも見なせる。わが訳書、ヒューゴ・メルシエ著『人は簡単には騙されない――嘘と信用の認知科学』(青土社,2021年)も別の角度から「常識」を論じていると見ることもできるけど、それについてはここでは述べない。

 

「田園都市国家の総合的安全保障」と題する第4章の最後の節は、軍事を含めた安全保障の重要性が論じられており、やはり「著者は現実重視のリアリストだな」という印象を受けた。人々の生存や生活を保障する中間粒度は何としてでも守られねばならないのだから、安全保障はきわめて重要になる。次のようにある。「(…)健康によい快適な「田園」と「都市」と「国家」をつくり発展させるためにも、まず国家の軍事的安全などが保たれなければならないと考えるのが「大人の分別」というものだろう。いや、ロシアのウクライナ侵攻による地獄を見、中国の台湾進攻が現実味を帯びている今日の状況においては、「不可欠の分別」というべきだろう。田園都市国家構想が田園都市構想でない所以である(214頁)」。最後の一文はわかりにくいけど、個人的には中間粒度の存続を担保するのは、その最大の組織たる国家であり、それを抜きには田園都市構想は実現し得ないということなのだろうと思っている。だとすれば、私めも著者の見解に同意する。

 

最後は「補章 コロナ、そして死とともにある時代に」だけど一点だけ指摘しておく。それは『グローバリゼーション』のツイで、グローバリゼーション、インターナショナリゼーション、ナショナリズムについて指摘したけど、それとまったく同じ主張がなされているという点。次のようにある。「しばしば誤解されることだが、アダム・スミスの自由貿易主義は、人為的な国境の壁をつくる重商主義と異なることはもちろん、国境の壁を取り払ったグローバリズムともまったく異なっている。スミスはある意味でのナショナリストでもあり、思想的系譜としては、各国の政治的主権と経済的・社会的・文化的個性を尊重した上で、国家間の利害の衝突を国際法によって調整し抑制す[る]ことを目指したH・グロチウスの「国際主義(internationalism)」の伝統に属しているのである。自国と他国の独自性をしっかり認めた上での自由貿易と国際交流――これが、グロチウス=スミス流の自由貿易主義あるいは自由主義的国際関係論の理念である。国際主義はナショナリズムと矛盾しない。それが矛盾するのは、トランプ流に世界に門戸を閉ざしたナショナリズムであり、国際法の下での世界との交流を意欲した開かれたナショナリズムは国際主義の重要な要素の一つである(229頁)」。

 

ということで個人的には、田園都市構想という視点から中間粒度の重要性を論じている本書はなかなかおもしろかったと結論して終わりにする。

 

 

一覧に戻る

※2023年4月28日