◎中嶋洋平著『社会主義前夜』(ちくま新書)
本書に登場するのは、サン=シモン、オーウェン、フーリエという、のちに「空想的社会主義者」というレッテルを貼られることになるいわば前社会主義者だけど、著者の主張の一つはこの三人は決して「空想的」ではなかったという点にある。
確かにこの本を読んでいると、少なくともフランスの二人に関しては「空想的」というより「現実的」であったように思えてくる。というのも、彼らはフランス革命による悲惨な経験をもとに、そのような状況に陥らないようにすること、言い換えると急激な変革たる革命の防止を目指していたから。
実のところ彼らは、のちの社会主義、共産主義者のように資本主義を打倒すべきものとして否定していたのではなく、むしろサン=シモンなどは、現在で言うところのトリクルダウン効果の有効性を主張し、「(…)サン=シモンは産業による富の増大をとおして貧困層の境遇を改善することを構想する。サン=シモンの考えでは、経済発展によって経済のパイを拡大すれば拡大するほど、資本家層など一部のもとに留まっている富が、労働者を中心とした貧困層にも分配されるようになるはずだからである(154頁)」と考えていたらしい。しかも社会主義というイメージからは想像がつきにくいけど、「小さな政府」を標榜していたらしい。
またフーリエは、オーウェンが構想していたような完全平等な協同体を志向していなかったとのこと。次のようにある。「オーウェンは資本家と労働者の間の平等も実現することを目指すようになるほどに、労働者の悲惨な境遇、そして資本家と労働者の貧富の格差という現実に対して強く憤っていた。¶一方で、フーリエはこうした平等を協同体の活力を奪うものと捉える。人びとにはもともとの立場の違いや能力などの差があるわけだから、それぞれの生産に対する貢献が異なるからであろう。働いているというだけで同じ財産を受け取れるのではなく、貢献に応じて財産を受け取れるのでなければ、人は競争心や自負心を高めてもっと生産に貢献しようなどと思わなくなるのは当然である(122頁)」。
このような、現在で言えば経済的保守主義者が擁護するような、能力や努力に応じた配分という見方は、完全な平等を標榜する社会主義とはかけ離れている。こうしてみると、フランス革命を直接経験していないオーウェン以外の二人は、理想に基づいて急激にものごとを変える革命より、現実的な世の中の改善、言い換えると穏健的な改革を目指していたように思える。
社会主義の歴史における二人の立場は、フランス革命が進行するなかで、立憲君主制を目指していたミラボーやラファイエットらの穏健的な立場にも似ている。社会主義はこの二人の死後先鋭化していくし、フランス革命はミラボーやラファイエット、さらにはジロンド派だとかフイヤン派だとかいった比較的穏健な人々が次々に退場していったあとで、ロベスピエールらのジャコバン派による恐怖政治へと急激に先鋭化していく。
現在は知らんけど、私めが高校に通っていた頃は、フランス革命はバラ色の側面ばかりが強調されていたように覚えている。確かにロベスピエールらの暴力による恐怖政治にも触れられていたけど、それはフランス革命の本質的な部分ではないかのような扱いだったと思う。でも、歴史家のサイモン・シャーマが指摘しているようなフランス革命が宿していた暴力性は、エドマンド・バークのような元祖保守の親玉のみならず、意外なことにのちの社会主義にもつながる思想を持っていたサン=シモンやフーリエでさえも直観していたことが、この新書本によってわかった。
※2023年4月28日