◎伊藤宣広著『ケインズ』(岩波新書)
当然経済金融に関する本なので、経済金融音痴の私めには苦手な分野の本になる。実のところ、むしろケインズの政治的関わりについて書かれている部分も多いとはいえ、もちろん理論的な説明もあるし、たとえば「乗数」など、私めが一度も聞いたことがないような経済金融用語も登場するので細部にはわからないことが多かった。したがってこの本に関しては、いつものように章ごとに取り上げることはせず、私めの現在の関心にもっとも近い、そしてこの新書本の通奏低音をなす「合成の誤謬」に関する記述だけを取り上げることにする。
ただその前に、ケインズさんとは一ミリも関係がないことで素朴な疑問が生じたので、それについてまず触れておきましょう。それは「第3章 金本位制復帰問題とケインズ」に次のようにあったこと。「この金本位制復帰は厳密には旧来の金貨本位制と同じではなく、金地金本位制であった。すなわち、銀行券をイングランド銀行に持ち込んでも金貨と交換してもらえるわけではなく、交換は四〇〇トロイオンス(約一二・四キログラム)の金の延べ棒の単位で行われた。(…)金四〇〇トロイオンスは二〇二三年現在の日本円にして一億円以上になる(104頁)」。はてこれは、二〇二三年現在の日本円に換算して一億円以上に相当する分の当時のポンド札をかき集めてイングランド銀行に持ち込めば、金貨とは交換してもらえないとしても、一二・四キログラムの金の延べ棒なら「持ってけ泥棒!」とか言いながら一本コロンとくれたという意味なのだろうか? 私めはこれまで、金本位制下であっても、現実的には金(おじぇじぇではなくゴールドのことね)の交換は各国中央銀行のあいだでのみ行なわれていたのであって(実際、ご苦労にも船舶で輸送していたとか)、個人が札束抱えて中央銀行に行ったところで、金貨であろうが延べ棒であろうがゴールドには交換してくれないものだとばかり勝手に思い込んでいた。ほんとうのところはどうなのだろう。時代や国によっても違ったのかな?
さてそんなどうでもいいことより、肝心の「合成の誤謬」の話に参りましょう。著者によれば「合成の誤謬」とは、「ミクロ的に合理的な主張が、マクロ的に正しいとは限らないというもの(x頁)」だとのこと。「共有地の悲劇」はその典型例と見なせるのだろうと思う。つらつら考えると複雑系科学で言うところの「部分の性質の単純な総和にとどまらない性質が、全体として現れること」を意味する創発の概念に近いように思える。ちなみに経済は複雑系科学の対象の一つでもあるわけだけど、わが訳書、メラニー・ミッチェル著『ガイドツアー複雑系の世界――サンタフェ研究所講義ノートから』には経済に関する記述はわずかしかなかった。おそらくミッチェル氏は経済学者ではないので、懸命にも君子危うきに近づかなかったものと思われる。
なお「合成の誤謬」に関する、ケインズ氏自身の引用が「第4章 大恐慌とケインズ」にあるので、ここで引用の引用をしておく。まず大恐慌発生後の各国の行動に関して次のようにある。「われわれはここに一般的な利益と特定の利益の不調和の極端な例をみる。各国は、相対的立場を改善しようと努力して、近隣諸国の絶対的繁栄にとって有害な対策を採る。そしてその例はその国だけに限られないので、その国はそのような行動自体によって得をする以上に、近隣諸国による同様の行動によって苦しむことになる。今日広く唱道されている改善策のすべては、事実上こうして共倒れの特徴をもっている。競争的賃金切り下げ、競争的関税、外国資産の競争的現金化、競争的通貨切り下げ、競争的節約運動、新開発の競争的抑制――すべてはこの近隣窮乏化の表れである(158頁)」。また個人に関して次のようにある。「個々人は、自分の個人的な都合で通常の支出を切り詰めざるを得ないかもしれず、そして誰もその人を非難することはできない。しかし、その個人はそのように行動することで公共の義務を果たしているなどとは考えてはなるまい。自発的かつ不必要に、有益であると広く認められている支出を切り詰めたりあるいは延期したりする一個人、もしくは一機関、もしくは一公共団体は、反社会的行動を行っているのである(158頁)」。ぬぬぬ!「反社会的行動」とは、ケインズさんは随分と強い言い方をしたもんだ。なんか私めも反社になりそう。
この「合成の誤謬」の問題は、「第2章 第一次世界大戦と対独賠償問題」において、より具体的に示されているのでそこから引用する。次のようにある。「世界全体というマクロの視点からみれば、戦後処理でアメリカがリーダーシップを発揮して、寛容で協力的な態度を取れば[対独賠償]問題は解決したかもしれない。しかし、ヨーロッパの問題にあまり深入りしたくないアメリカにとって、国際的なリーダーシップを発揮した経験もなければ、そうする動機もなかった。一国の利害というミクロ的観点からすれば、アメリカはいたって合理的に行動したと言えなくもない。¶ここにも、ミクロ的な合理性の追求が全体としての調和をもたらさないという、「合成の誤謬」の論点がある。外交交渉にあたって、各国は自国の国益を最優先に追求する。これはミクロ的には正しいし、政治家はそうしなければ国民の支持を失うだろう。しかし、各国が頑なに自国の利益だけを追求するばかりではうまくいかないケースがあるということを、当時の世界は教訓として学んでいなかった。ケインズはまだマクロ経済学の立場にはたどり着いていなかったが、学生時代に[哲学者のG・E・]ムーアから「合成の誤謬」の考え方を学んでいた(81〜2頁)」。モンロー主義的傾向を強く呈することが、アメリカにはままあるけど、そのときもそれに近い態度を取ったということなのでしょう。そう言えば、ウッドロー・ウィルソン大統領が提案した交際連盟に当のアメリカ自体が加盟しないなどということもあった。
ところで上記引用箇所の最初の段落を読んで、自国第一主義を唱えたトランプを思い出す人も多いかも。個人的には彼の自国第一主義に対する左派メディアの批判は半分間違いで、半分正しいと思っている。間違っているというのは、その批判が自国第一主義それ自体の批判だとすれば、その見方はとんでもない誤りであり、自国を破壊に導く非常に危険なプロパガンダにすぎないということ。というのも、まず各国政府が確保しなければならないのは私めが言うところの中間粒度の安定、すなわち国民生活の安定であって、そのために自国が優先されることは当たり前田のクラッカーだから(これは上記の文で言えば、「ミクロ的観点からすれば、アメリカはいたって合理的に行動したと言えなくもない」という部分に相当する)。大量の難民を流出させている国というのは、内戦、悪政、汚職、侵略戦争などで中間粒度が瓦解している国であって、そうならないようにするために自国第一主義を取るのは当然と言える。そもそも自国が難民輸出国になったら元も子もない。
ただしトランプの問題はまさにこの「合成の誤謬」を見落としていた点にある(これは上記の文で言えば、「各国が頑なに自国の利益だけを追求するばかりではうまくいかないケースがあるということを、当時の世界は教訓として学んでいなかった」の「当時の世界」を「トランプ」に置き換えればそれに該当する)。その点を指摘しているのであれば左派メディアの批判はまったく正しい。一例をあげればトランプはパリ協定から離脱したけど、気候変動問題は一国だけで解決できるミクロの問題なのではなく、世界レベルで解決しなければならないマクロの問題であるということが彼にはまるでわかっていなかったと言える。経済学者の著者は「ミクロ」「マクロ」という用語を使っているけど、私めなら「中間粒度」「世界粒度」のような言い方をする。「ミクロ」は確かに経済学的にはおもに「個人」を意味するのだろうとは思う。とはいえ英語に「No man is an island」という表現があるように、あるいはわが訳書、マイケル・トマセロ著『行為主体性の進化』に人間は社会規範的行為主体として進化したとあるように、ここでは「ミクロ=中間段階」ととらえても構わないと思う。個人的な見立てを言えば、「ミクロ=中間粒度」は現在における中間粒度に関する短期的な問題を扱うものであり、「マクロ=世界粒度」は未来における中間粒度に関する長期的な問題を扱うものだと考えている。未来における中間粒度の問題には、マクロの観点からしか扱えないものもある。先にあげた気候変動問題はその一つであり、それを「現在」の中間粒度に関するミクロの問題との関係でのみとらえれば、それこそ「共有地」の悲劇が起こらざるを得ず(つまり地球全体が人間の住める場所ではなくなる)、結局、現在ではなくても未来における中間粒度が破壊されることになる。だから「世界粒度」で気候変動の問題をとらえることは、究極的には未来における中間粒度を守ることでもあり、決して自国第一主義と矛盾するわけではない。というよりも自国第一主義を未来に向かって投影すれば、必然的に「世界粒度」からの観点に至らざるを得ないのであり、むしろ逆に自国第一主義はその動機づけになるはずだと個人的には考えている。このように「ミクロ」と「マクロ」は時間の流れを超えて相関し合っていると見ることができるのであり、その点を、トランプも彼の自国第一主義を批判する左派メディアもまったく理解していないと思わざるを得ない。万事がどんどん複雑化しつつある現在において、その手のあれかこれかの思考様式はまったく通用しないとだけつけ加えておく。
第一次世界大戦の対独保障問題にも同じことが当てはまり、戦勝国が自国第一主義を貫いて敗戦国ドイツに膨大な賠償金を課した結果、やがてナチスが台頭して、その後ヨーロッパ中の中間粒度が徹底的に破壊される結果を招く。ケインズはそうなるであろうことを予見していたらしい。次のようにある。「ケインズは愛国者であり、基本的にはイギリスの国益を第一に考えていたが、目先の利益にとらわれて大局を見誤るようなことはなかった。ドイツに厳しい姿勢を取りすぎない方がイギリスの国益にもかなうという診断には、ケインズの冷静な洞察力と愛国心と正義感が一体となって現れている(83頁)」。まさにこれは私めが先に言った「中間粒度」「世界粒度」の考えにも一致していると見なせる。一点あえて言えば、このケインズの態度は、「愛国」「国益」と聞いただけでさぶいぼを立てる現代日本の左派メディアの態度とはまったく異なることに留意されたい。ちなみにケインズは、「ドイツを止めるための戦争を提唱したことはなかったが、それでも平和主義国家が軍事力を保有することは必要であると考えていた(190頁)」らしい。まあそれでも日本の左派は、「それは日本国憲法の9条に相当するもの、てか成分憲法典そのものがイギリスにはないから、そんな考えになるんだ!」とか臆面もなく言い出しそうではあるけど。そもそも彼は「国境のない世界」を理想とするような理想主義者、普遍主義者などではなく、中間粒度を重視する徹底した現実主義者だったのだろうと思われる。だから現在でも傾聴に値する。
ここでケインズが左派か否かに関してもう一点この新書本から引用しておく。彼は経済政策という点では大きな政府を擁護する左派だったと見られることが多いと思うけど(かく言う私めもそう思っていた)、実際にはそうではなかったと「第5章 『一般理論』とその後」に書かれている。なお参照元に関する括弧内記述はここでは省略する。次のようにある。「ケインズは、「投資の社会化」のような言葉を用いたことでも知られるように、社会における投資において国家がより大きな役割を果たすことを期待していた。そこから、ケインズは左派的、社会主義的な人物とみなされることがあるが、これには注意が必要である。ケインズは私有財産制を否定したり生産手段の国有化を主張したりは決してしなかった。ケインズの主張は、市場経済ではときに投資水準が完全雇用に対応する水準に達しないことがあり、場合によっては政府がそれを補う必要があるというものであった。ケインズの弟子の中にはハロッドのような右派もいれば、カルドアやジョーン・ロビンソンのような左派もおり、数としては左派寄りが多かったが、ケインズ自身は左派ではなかった(182〜3頁)」。
あるいは次のようにある。「ケインズは生涯、労働党を支持することはなかった。一九二五年八月の自由党夏季学校での講演「私は自由党員か」では、「労働党は階級政党であるが、その階級は私の所属する階級ではない。……階級戦争が起これば、私は、教養ある{ブルジョアジー/傍点}の側に立つことになるであろう」と自らの立場を表明している(183頁)」。自由党員を相手にした講演会での発言のようなので、これだけだと自由党に対するリップサービスと見られないこともないんだろうけど、さらに次のようにある。「一九二九年のパンフレット「ロイド・ジョージはそれをなしうるか?」の中に、「それは社会主義か」という項がある。そこで、自由党の計画と社会主義労働党(Socialist-Labour)の対比を行っている。両者とも「国家機関の手を介して失業者のために仕事を与えること」を提案している点では共通している。しかし、社会主義労働党は、私企業から生産・分配・交換の諸手段を取り上げ、国家的支配に替えようとしているが、自由党の計画は、非常時において私企業によってはとうてい遂行することが不可能であるか、あるいはインフラ整備など、事業の性格からして遂行できそうにない種類の事業を遂行するための国家の援助を提案するだけである。両者を混同するのは、ケインズからすればとんでもないことであった(184頁)」。
経済的見方のみならず政治的見方にも関わるきわめつけの発言として、次のケインズの言葉をあげておきましょう。「革命は、ウェルズが言うように時代遅れである。というのは、革命というものは個人的な権力に反抗するものだからである。今日のイギリスには、個人的権力を持つ者は誰もいない。(…)共産主義は、一九世紀が最適な経済的効果を組織するのに失敗したことに対する反動ではない。それは、その比較的な成功への反動である。(…)理想主義的若者は、共産主義と共に行動する。というのは、それがただ一つ、彼らに現代的と感じさせる精神的アピールをもつがゆえに。しかしその経済学は、彼らを悩ませ、困惑させる。ケンブリッジの学部学生が、ボルシェヴィズムへの避け難い旅路を辿る場合に、それが恐ろしく快適でないのを見出したとき、彼らは幻滅するだろうか? もちろん否である。それこそ、彼らが探し求めているものだから(185〜6頁)」。最後の「彼らが探し求めているもの」とは、「現代的と感じさせる精神的アピール」のことでしょうね。現代の日本にも、ケインズの言うケンブリッジ大生のような人はあまたいるように思われる。まあよくぞ左向きの岩波さんの新書本に、以上のような文章を掲載したなと思ったけど(さすがにアカデミックの世界でも階級闘争史観や下剋上史観にガチガチに凝り固まった全共闘世代が退場して、岩波さんも以上のような若手の見解も載せざるを得なくなったってことかな?)、私めなら「革命は政治ではない」と言いたいところ。というのも、政治とは中間粒度の安定を保つために、さまざまな条件に鑑みて現状に合った最善の手段を考案し実施することであって(そこには妥協も必要になる)、特定の理念や理想をトップダウンに適用することではないのだから。絶対王制を倒すためには革命が必要だったことは認めるとしても、国政レベルで革命家が政治家として居座るととんでもないことが起こることをその後の歴史が証明している。フランスしかり、ロシアしかり、中国しかり。現代の日本にもそのことがまるでわかっていない政治家や自称知識人があまたいるように見受けられる。まさにケインズに学ぶべきだと思う。
ということで、経済や金融に詳しくないと、わからない部分も相当あるので、私めのような経済金融音痴には読むのがつらくなるかもだけど、全体的に見れば非常に重要なことが書かれているので無理して読んでも損はないと思う。
※2023年11月17日