◎木村俊道著『文明と教養の〈政治〉』(講談社選書メチエ)
二〇一三年刊行という一〇年以上前の本でずいぶん前にすでに一度読んでいるけど、党利党略と利権とイデオロギーに絡み取られて国民をまったくないがしろにしている昨今のどうしようもない政治家を見ていて、いったい現在の政治家、あるいは政治それ自体に何が欠けているのかを考える上で重要なことが書かれていたように覚えていたので、もう一度読んでみることにした(いずれにせよ科学系の本ではないので、一〇年もすれば内容が通用しなくなるということはないはず)。とりわけ石なんちゃらとかいう、たとえば公約は守る必要がないみたいなことを国会で平然と言い放つサイコパス首相が登場するようなご時世だしね。政治に限らず「理性」と言いながら実は「利権」や「イデオロギー」に完全に絡み取られている現代人は、大きな勘違いをしているというのが私めの昨今の見立てで(日本政治における、その最大最悪最醜の産物が石なんちゃらとかいう妖怪人間ベムなわけ)、この選書本はそのような現代人の勘違いを政治という分野を題材として際立たせることに成功しているという印象を受ける。なお今回はまた、本書には直接的には関係しないが、間接的には関係する、トマス・モアに関する私めの長大な論考を途中で加えたため、Word文書25頁にわたるK点越え最長不倒の記録を更新してしまったので、「そんなん読むのはいやや!」という人は、最後の最後に本書全体のまとめが記されている「おわりに」の全文を引用しておいたので(頭が二文字分、嵌入しているシャドーのかかった部分)、ワープドライブを全開にしてそちらだけ参照されたい。
ということで、「はじめに」から見ていくことにしましょう。まず冒頭でシェイクスピアの『お気に召すまま』の台詞を取り上げて次のように評している。≪「この世はすべて舞台」というのは、一六世紀の末に書かれたと考えられるシェイクスピアの『お気に召すまま』第二幕第七場における有名な台詞である。ルネサンスの成熟期を迎えていた当時のヨーロッパでは、シェイクスピアの同時代人である人文主義者たちによって、このような劇場的な世界観が広く行き渡っていた。そこには、以下で明らかになるように、世界の虚構性を認めながらも、教養と作法、あるいはユーモアを通じて所与の現実と対峙する、高度に洗練された政治の技術が育まれていた(6頁)≫。実はシェイクスピアと言えば、私めが現在読んでいるある洋書で、直観、想像力、情動、常識などから成る実践知の重要性を強調するために特に取り上げられていた(現在某社に版権取得状況を確認してもらっているところで、よって現時点ではタイトルを明かすことはできない)。実践知に関しては、この選書本でも「第二章 実践知の政治学」で詳しく扱われているので、あとで言及するつもり。さらに著者は次のように述べている。≪この時代[シェイクスピアが生きていた時代]、「シヴィリティ」は「文明」と同義でもあった。当時のヨーロッパという「世界」(the world)は、このような、いわば「文明の作法」の共有によって成り立っていた。そして、この劇が一方で、ジェントルマン教育を一つの主題とし、公爵の宮廷を舞台にしていたことに象徴されるように、この時代の「政治」もまた、一定の教養や作法を身に付けたアクターたちによって営まれていたと考えられる。だとすれば、「文明の作法」はまた、現代において見失われている、統治の実践や他者との共存を可能にする「政治の技術」を示すものではないか(8頁)≫。そう言えば、現代の日本にはおにぎりもまともに食えないとネットで話題になっていた政治家がいたね。ああいうのは些細な瑕疵のように見えて、一種の記号表現として本人の姿勢を赤裸々(でた!赤裸々)に暴露し、一般人の直観にマイナスに訴えるから甘く見ないほうがいいのですね。
それから「デモクラシー」に対する本書の見方が次のように述べられている。≪現代のデモクラシーが抱える問題の所在は、逆説的に、それを所与の理念としている限り、実は見えてこないのかもしれない。ただし、本書は、これらの問題に対する理論的な解決案を提示し、「真の」デモクラシーの実現を目指すものではない。あるいは逆に、デモクラシーを敵視し、その「虚妄」を暴きたてることを主眼としたものでもない。しかし、もし仮にデモクラシーが自明の価値ではないのであれば、それを一旦括弧に入れ、多様な可能性を含んだ「政治」という営みの一類型として理解することが必要になる。そして、このような「政治」の可能性を考える一つの道筋は、歴史に立ち戻り、デモクラシー以前の政治の姿を想起することに見出せるのではないか、というのが本書の立場である(10〜1頁)≫。何かとデモクラシー、すなわち民主主義を声高に叫ぶ人は多いが、デモクラシーは古来より多数者の暴力に結びつけて捉えられてきたことはあえて言うまでもない。それでも「デモクラシー」を叫ぶのなら、そのマイナス面を十分に考慮したうえでなければならないはずだが、そこまで考えもせず、何かというと壊れたレコードのように「デモクラシーがああああ!」と叫んでいる人も多いんだろうね。それでは、一種のかけ声にすぎない。個人的には、デモクラシーの有効性は直観、常識(コモン・センス)、集合知、暗黙知などといった実践知的な概念によって補完されるべきだと考えている。実は、ネットの意義もそこにある。私めが左派オールドメディアを嫌う理由の一つも、それが権威主義的な立場に立ってまさに集合知の源泉たるネットの力を圧殺しようとしているからなのよね。そのようなやり方は自殺行為に等しい。
ということで先に進みましょう。著者はさらに次のように述べる。≪「シヴィリティ」という言葉に代表される、ここ[シェイクスピアの『お気に召すまま』]で描かれた文明的な教養と作法は、デモクラシー以前の初期近代における政治の運営に不可欠なコモン・センスであったのではないか。そして、このような他者との交際や共存を可能にする「文明の作法」や「政治の技術」は、近代のデモクラシーの時代には見失われてしまったのではないだろうか(15頁)≫。つまり、実践知の重要性が近代のデモクラシーの時代には見失われてしまったということでしょう。その成れの果てが、実践知(現実)を無視して理念ばかりを優先させ国民の生活を破壊する、バイデン政権やら石なんちゃら政権やらの政策だと見ることができるかもしれない。アメリカでトランプ政権が復活し、日本で参政党が躍進しているのも頷ける。自国第一主義もそうだけど、理念よりも現実、つまり実践知を優先させる政治家や政党のほうが国民の支持を得やすいことは当たり前田のクラッカーなのですね。それは自称リベラルが言うように国民がバカだからではない。スピノザの言う「想像の知」の一つにすぎず「理性の知」(『スピノザ』や『スピノザ』参照)ではまったくないイデオロギーに絡み取られて、実践知の重要性にまるで気づいていない自称リベラルより、むしろ一般ピープルである国民のほうが、よっぽど賢いのであって、その賢さの基盤には実践知の重要性に対する直観的な理解が存在している。その点を理解して態度を改めない限り、二〇世紀中はまだしも世界が恐ろしく複雑化した二一世紀においては、イデオロギーに囚われた左派に未来はないとはっきり断言できる。
次に著者は、文明(civilization)の概念について次のように述べている。≪「文明」を意味する言葉としては現在、英語では一般にcivilizationが用いられている。ところが、有史以来の「文明」の歴史と比べ、このcivilizationという言葉の歴史は浅く、それが広く定着したのもまた一九世紀以降のことであった。これに対して、初期近代の文明は、(…)「シヴィリティ」と同義のものとして理解されていた。(…)ラテン語で都市を意味するcivitasを語源とする「文明」はかつて、人間の所作や振舞いに深く関わり、身体的な礼儀や作法の洗練を不可欠としていたのである。ところが、近代以降のcivilizationについては、これとは対照的に、歴史の動的な進歩や、蒸気機関や電信をはじめとする産業技術の発展の側面が強調されがちである。このことは、ヨーロッパにおける文明の変容を意味するだけでなく、その原義に含まれていた「シヴィリティ」が失われ、それまでの文明社会を支えていた礼儀や作法がエチケットの問題に矮小化されたことを端的に象徴しているのではないか(15〜6頁)≫。「シヴィリティ」に関してはノルベルト・エリアスの業績がよく知られ、私めも彼の主著『文明化の過程』を一度だけ読んだことがある。内容はあらかた忘れたが、もちろん本書にも何度か登場する。
さて何度か言及してきた「実践知」については、前述したとおり第二章で詳しく論じられているが、「はじめに」には次のようにある。≪このように、初期近代における「政治」は、一九世紀以降の「近代」とは異なる、人文主義的なパラダイムにおいて営まれていたと考えられる。むろん、同時代には他にも、たとえば法学や神学などを基礎とする複数の言説が見られた。しかし、当時の政治エリートに求められる教養は、法学者や神学者、あるいは哲学者による抽象的な学説や体系的な教義とは異なり、古典や歴史の知識に加え、所作や振舞いなどの「シヴィリティ」を含む、いわば「実践知」(practical knowledge)と呼ぶべきものであった。それはまた、高度な役割演技によって文明的な政治の営みを可能にする「型」や「わざ」でもあった(17〜8頁)≫。
ということで、さっそく本論に入る。まずは「第一章 政治における教養と技術」から。まず本章の目的が次のように述べられている。≪本章では以下、(…)混沌とした現実のなかに可能性を見出そうとする「技術」(art)としての政治の原型を、初期近代ヨーロッパにおける政治思想の伝統のなかに探るとともに、それが「教養」の歴史とも深く結びついていたことを明らかにしていきたい。もっとも、政治的な「技術」や「わざ」に対する関心は、政治思想史研究だけでなく、政治学や政治理論の分野においても、これまで必ずしも高くはなかった。たしかにそれは、デモクラシーや自由や平等といった高尚な理念と比べると、一見して思想的な深みに欠けるだけでなく、偽善や策略や裏切りといった暗いイメージで連想されがちである。しかし、次章にかけて述べられるように、「実践知」という観点から見た場合、経験や歴史、あるいは反復によって習得される技術は、机上の空論や学説とは異なって、かつては政治の実践に欠かせない教養の一部であったと考えられるのである(22〜3頁)≫。まさに現代は、理念が優先され「実践知」が軽視されている時代だと言え、そこに現代の政治の混迷の主たる原因があると私めは考えている。あとで見るように、フランス革命以後、政治的なものの見方の基盤が狂ってきたのですね。その点で、フランス革命に徹底して反対した、えげれすのエドマンド・バークは先見の明があったと言える。バークの話についてはあとで見る。実践知は≪デモクラシーや自由や平等といった高尚な理念と比べると、一見して思想的な深みに欠ける≫というより、「フランス革命以後、実践知が一見して思想的な深みに欠けて見えるよう政治思想が操作されてきた」というのが正しい言い方なのかもしれない。フランス革命後の近代における政治思想の操作という、この観点に関連して本書には次のようにある。≪「近代」以降の西洋においては、合理主義や進歩史観といった「知」のパラダイム転換が進んでいた。しかも、二〇世紀のヨーロッパは、二度の世界大戦や全体主義を経験するなど、自己のアイデンティティを揺るがす大きな困難に直面することになった。したがって、政治思想史という学問分野は当初、危機に瀕したヨーロッパの自己意識を回復させ、それを歴史的に合理化する(=神話化する)という役割を担っていたのである。そして、このような、いわばヨーロッパの財産目録のなかに、その中心的な理念として記載されたのがデモクラシーであった(24頁)≫。注意して読めば、現代におけるデモクラシーの概念は、≪危機に瀕したヨーロッパの自己意識を回復させ、それを歴史的に合理化する(=神話化する)という役割≫を果たすため、政治的操作の一つとして導入されたということがわかる。
さらに次のようにある。≪ヨーロッパの政治思想史は、こうして、デモクラシーや、それに関連する自由や平等といった他の理念の進歩の物語として一般に理解されるようになった。ダール[アメリカの政治学者ロバート・ダール]によれば、一七世紀から一八世紀においてはさらに、代表制という新しいシステムによって、「近代国家あるいは国民国家というはるかに大きな範囲」において「民衆政治の理論と実践」が「拡大」されたのである。もっとも、その一方で彼は、デモクラシーの多義性の問題を指摘しただけでなく、その歴史が単純な成功の物語ではないことも認めていた。それゆえ、彼は『デモクラシーとは何か』(1998)のなかで、「デモクラシーの歴史の経過」を「砂漠を横断している旅人の歩み」に喩えた。彼によれば、その果てしなく平坦な小道は「最後にいたってやっと、今いる山頂へと長い登りがはじまったにすぎない」のである。¶しかし、このダールの描写が逆に示すように、デモクラシーの「長い登りがはじまった」のは、フランス革命以降の「近代」に入ってからであった。しかも、それが「普遍」的な理念として定着したのは、これもまた二〇世紀の前半、とりわけ第一次世界大戦以降のことにすぎない。このことが示唆するように、政治思想史という学問分野は、少なくともその出生においては、危機に直面したヨーロッパにおいて、デモクラシーをはじめとする近代的な価値や理念を歴史的に正当化することを目的とした、まさしく同時代における「政治思想」の産物であったのである(25頁)≫。だからこそ文化的な文脈がまったく異なる日本において、「デモクラシー」や自由や平等を「普遍的なもの」と見なして無条件に称揚することには、疑問符がつかざるを得ないのですね。前回取り上げた『誤読と暴走の日本思想』では、この西洋思想の日本への導入という問題が、「記号設置」というAI用語を用いて分析されていて非常に興味深かった。そこでは捻じれが生じざるを得ないが、だからこそ創造的にもなり得るとそこでは論じられていた。いずれにせよ西洋の文化は、まったく異なる日本の土壌にそのまま単純に移植できるような代物でないことに間違いはない。第一章第一節「デモクラシーの歴史?」は、その「デモクラシー」に関して次のように述べることで締め括られている。≪以上のように、「近代」以前のデモクラシーの思想史は空白であり、他方ではまた、古代のアテナイのみならず、一九世紀以降になってもデモクラシーに対する警戒は止まなかった。それゆえ、現代においても、たとえばクリック[えげれすの政治学者バーナード・クリック]もまた、『デモクラシー』の冒頭において、「いついかなる場合でも最善なのはデモクラシー概念のはずだという主張に対しては、私たちは眉に唾してかからなければならない」と注意を促すのである。むろん、だからといって、ギリシア以降の政治思想の歴史が、まったく意味がなかった訳ではもちろんない。むしろ逆に、とりわけルネサンスから一八世紀までの初期近代においては、現代のデモクラシーの観点からは必ずしも見えてこない、ヨーロッパの文明社会を支える思想的な基盤が形成されていたのではないか。また、そこには同時に、近代以前の政治の原型を見出すことができるのではないか(32頁)≫。
第二節「可能性の技術」は、近年の政治学や政治理論の動向をまとめた次のような記述から始まる。≪政治という多義的で論争的な概念について、近年ではそれを権力と公共性という二つの観点から説明する傾向があるように思われる。前者の権力的な政治観は、たとえばカール・シュミットの『政治的なものの概念』(1932)における友敵理論に代表され、政治において対立や闘争が不可避であることを強調する。これに対して、公共性の理論は、たとえばハンナ・アーレントの『人間の条件』(1958)やハーバーマスの『公共性の構造転換』(1962)などを典拠に展開される。そのモデルとなるのは、古代ギリシアのポリスにおける公的領域や一八世紀の英仏で見られたとされる市民的公共圏であり、言葉や説得、あるいは討論やコミュニケーションを通じて公的な事柄に関わることが理想的な政治の姿とされる。むろん、論者によって権力や公共性の理解は多様であるが、このことはむしろ、人間に関わる政治の本質をある意味で反映している。というのも、人間が両義的な存在であるのと同様に、政治もまた、対立と協調、あるいは現実と理念などの相反する要素をともに含むものだからである(33〜4頁)≫。アーレントやハーバーマスは、理解できたか否かは別として何冊か読んでいるが、シュミットはまったく読んだことがない(アーレントの『人間の条件』は原文でも呼んだし、新宿朝日カルチャーセンターにおける中山元氏の翻訳講座で読んだこともある。中山氏は声が小さくソフトなので、私めのうしろにすわっていたオッサンなど堂々とグーグーと寝ていた。またその際、拙訳、ジョナサン・ハイト著『社会はなぜ左と右にわかれるのか』を中山氏に献本したのを覚えている)。でもシュミットの危機の政治学(というタイトルのメチエ本がありそれは読んだ)は、とりわけコロナが流行していた頃に再びクローズアップされるようになったこともあり、個人的に一応は注目している。
しかし著者がほんとうに言いたかったこととは、シュミットやアーレントやハーバーマスの見方についてではなく、それに続いて述べられている次の点であるように思われる。≪しかし、政治という営為を総体的に理解するには、おそらくこれでは不十分であろう。なぜなら、政治は両義性を有するだけでなく、人間による作為や具体的な実践を伴う活動であるために、所与の現実を操作し、目的と手段をつなぐ高度な「技術」の洗練が不可欠になるからである。ところが、すでに述べたように、このような技術の問題は、政治思想史研究だけでなく、政治学や政治理論の分野においても必ずしも充分に意識されなくなってきている。しかし、この技術が欠けた場合、政治は、一方では書生的な机上の空論に終始し、一方では際限のない権力闘争に陥る。そして、あえて付言すれば、この技術の衰弱がもたらす問題は、とくに近年の内政と外交の双方において顕著になったとも言えるだろう(34頁)≫。十年以上前でさえそうなんだから、今のどこぞの国の石なんちゃら政権の体たらくは、この傾向が極北に至った結果だとも見ることができよう。いずれにせよこの「実践知」、あるいはその欠如に関する話は第二章で取り上げられているので、ここではこのくらいにしておく。
さて、では節のタイトルにある「可能性の技術」とはいったいどういう意味か? どうやらそれは丸山眞男の概念らしく次のようにある。≪一九五八年に書かれた『社会学辞典』の項目(「政治的認識」)や、同年の「政治的判断」のなかでは、広く日常的にも必要とされる政治的な思考法が論じられた。それによれば、不断に変化する状況をリアルに認識するだけでなく、「対象をつねに可塑的なものとして捉え、その不分明な錯雑した性格のなかに明日の可能性を見わけてゆくことなしには、政治の世界で効果的に行動することはできない」。したがって、政治は「可能性の技術」なのであり、それには「現実というものがもつ、いろいろな可能性を束として見る見方」が不可欠である。(…)政治的な思考法の一つの重要な要素は、「現実というものを固定した、でき上がったものとして見ないで、その中にあるいろいろな可能性のうち、どの可能性を伸ばしていくか、あるいはどの可能性を矯めていくか、そういうことを政治の理想なり、目標なりに、関係づけていく考え方」にあるのである(36頁)≫。「矯める」は「ためる」と読むのだそうです。ググらないとわからなかったアホヘタレ翻訳者の私めでした。実のところこの見方は、政治に関する話だけでなく、さまざまな事象に当てはまることは、たとえば昨今のナラティブ論に参照するとよくわかる(ただしここでは詳細は説明しない)。
「可能性の技術」についてもう少し引用してみましょう。次のようにある。≪「可能性の技術」という言葉自体は、ドイツの宰相ビスマルクに由来すると言われる。しかし、(…)とくにそれは、イギリス政治におけるコモン・センスであったと考えられる。それゆえ、たとえば福田歓一も指摘しているように、もし「政治的な思考態度」が「政治社会の状況を希望的観測を離れて冷徹にとらえ、オールタナティヴの選択として政策を意識し、そして常に手段の体系を用意することを意味する」とすれば、イギリスにおいて「この意味での政治的感覚は完全に常識化」されていた。それゆえ丸山もまた、可能性の技術を論じた先の政治学講義のなかで、次のようなバークによる演説の一節を引用したのである。¶¶政治家は大学の教授とは違う。後者が単に一般的な社会理論を扱うに対して、政治家はこれら一般的観念を無数の状況と結合して考察しなければならない。状況は無限に存在し無限に結合するゆえに、それは常に一時的かつ可変的である。[……]政治家たるものは原理を見失わない範囲で状況に導かれるべきであり、その場の危局に関する判断を誤る時には彼の故国を永久に滅ぼす破目になりかねない(41〜2頁)≫。まさにバークの言う通りでしょう。いつも述べているように、理念や原理は抽象的であるのに対し、現実は具体的であるがゆえに、理念や原理を現実に適用する際には、後者を前者に合わせるのではなく、前者を後者に合わせる必要がある。バークがフランス革命を嫌っていたのも、フランス革命の革命家たちが、理念や原理を強引に現実に適用しようとしたからでしょうね(しかもその傾向は時間が経つにつれ高まっていき、最終的にはロベスピエールの恐怖政治に至る)。そもそも革命は政治ではないからね。このフランス革命のやり方が、実は現代日本にさえ大きな影響を及ぼしているのだから、始末が悪い(たとえば憲法を抵抗権や革命権の概念で説明しようとするなどといった解釈がそれにあたるが、これがいかにおかしいかは『憲法学の病』を参照)。
われらがバークに関しては、さらに次のようにある。≪政治における「学問」のあり方をめぐる思想的な緊張と対立は、たとえば、一八世紀末におけるバークのフランス革命批判において顕在化する。「完全なデモクラシー」を「この世における破廉恥の極み」と断罪し、他方で「無数の状況」に適応することの重要性を説いた彼は、同時にまた、抽象的な原理や一般的な規則を掲げた革命の無秩序を非難する。彼によれば、自然権などの「その抽象的完全さ」は、同時にまた「その現実的欠陥」でもあった。これに対して、「統治とは、人間の{必要/傍点}に応ずべく人間の知恵が考え出したもの」であり、その必要のなかには、「文明社会」において「情念を充分に抑制する」ことも含まれる。ところが、「人間性は込み入っており、社会の目的は可能な限り最大級に複雑多岐」である。それゆえ、統治は「最も微妙かつ複雑な熟練の問題」であり、「人間性」や「社会の目的」などについての「深甚な知識」を要求する。そのうえで彼は、実践を目的とする「統治の学」(science of government)が、経験的な学問に立脚することを(…)提示したのである(48〜9頁)≫。このバークの考えは、妙な理念に固執する、というか≪人間性≫すら欠けていると思えるような、欺瞞と党利党略と利権にまみれた現代日本の政治家に聞かせたいところだよね。
ということで、著者はこの第一章を次のように結んでいる。≪一九世紀に入って新たに登場した近代の教養(culture)は、人間性の完成や個性の確立、人格の陶冶などを目指す一方で、日常的であるはずの政治とは距離を置き、むしろ個人の内面の世界に沈潜していったと考えられる。こうした流れは他方で、学問と技術の転換と分離という現象とも連動していた。すなわち、学問(science)と教養(culture)のいずれも、フランス革命以降の「近代」における知的変動のなかで、政治という人間による作為と具体的な実践の世界から乖離していったのである。だとすれば今日、デモクラシーや公共性をはじめとする価値や理念、あるいは現実政治の科学的・実証的な分析に関心が集中する一方で、現実と理想を媒介する可能性の技術としての政治の原型や伝統が、ともすれば現代の視点から見失われがちであったのも不思議ではない(65頁)≫。≪現実と理想を媒介する可能性の技術≫といのは、たとえば神学で言うところの「決疑論(casuistry)」や、法学で言うところの「衡平法(equity)」、あるいは普遍的な「道徳」をいかに現実に適用すべきかの考察とも見なせる「倫理」にも当てはまるはずだが(「決疑論」「衡平法」「倫理」については『手の倫理』を参照してね)、ましてや政治の世界では重要視されてしかるべき「技術」であるにもかかわらず、現実を理念に合わせる理念先行の政治が蔓延している、日本を含めた先進諸国は、それをまったく無視しているのですね。大げさに言えば、これらの国は存亡の危機に瀕していると見ることさえできる。今すぐにでも、もう一度この「可能性の技術」に立ち返る必要があることはあえて言うまでもない。それからあまり本論とは関係がないけど、「個人の内面世界への沈潜」を、政治の世界で史上初めて示した政治家は、一九世紀ではなく一六世紀に活躍したトマス・モアだと個人的には考えている。それについては、のちの章でトマス・モアに言及される箇所で取り上げる。
お次は「第二章 実践知の政治学」。冒頭にまず次のようにある。≪二〇世紀に入って政治学の科学化が進み、あるいは政治思想史という学問分野が成立するのと時を同じくして、「近代」以降の学問(science)や教養(culture)は逆説的に、可能性の技術としての政治の世界から次第に離れていったと考えられる。現代に生きるわたしたちは、歴史を振り返る場合、しばしば無意識のうちに、そうした「近代」の観点から過去を眺めてしまう。しかも、前章で明らかにしたように、「近代」はデモクラシーの価値が上昇するだけでなく、学問や教養といった「知」の基盤となるパラダイムそのものが変わった時代でもあった。だとすれば、「デモクラシー」や「近代」以前の政治学は、そもそも、現代の視点からは見失われた「知」によって育まれていた可能性がある(68頁)≫。近代の西洋の知(エピステーメー)がいかに成立したかを分析したフーコーの業績は、この文脈においても高く評価されるべきでしょうね。なお、そのようなフーコーの業績に関しては、最近取り上げた本では『フーコーの言説』を参照されたい。
次に政治における実践知のあり方を古代から見ていく。次のようにある。≪[古代においては]人間性を涵養する学芸が、同時にまた、前章で述べた近代の学問や教養とは異なり、政治という営為とも密接なつながりを有していたことである。それゆえ、政治学はかつて、市民や君主、あるいは政治エリートの教育の問題と不可分であった。しかも、次章の議論とも関連して、そこでの政治教育が、観念的な知識だけではなく、身体的な技芸とも不可分であったことは見逃せない。たとえば、プラトンは『国家』のなかで、「国家という船」の統治を担う守護者の教育として物語や音楽、体育の重要性を指摘した(第二、三巻)(72〜3頁)≫。次にルネサンス期の人文主義によって再生される政治における実践知として「レトリック」と「思慮」があげられている。もちろんここで言うレトリックとは「詭弁」であるより、≪人間性の涵養や文明的な政治に不可欠な教養(79頁)≫としてのレトリックを指す。キケロを始めとするレトリックに関する詳細はここでは省略するが、レトリックとフランシス・ベイコンに関する野家啓一氏の指摘が興味深かったので次の箇所のみ引用しておく。≪レトリックはまた、ベイコンによる「学問の革新」の根幹となる方法論にも影響を及ぼしていたと考えられる。彼は、もう一つの「学芸のなかの学芸」である論理学について、それを四つの「知性の技術」(arts intellectual)に分類する。すなわち、「探究あるいは発見の術」「吟味または判定の術」「保管あるいは記憶の術」「発表あるいは伝達の術」である。パオロ・ロッシや前田達郎氏、あるいは近年では野家啓一氏の指摘にもあるように、これらは近代科学の基礎である数学的な方法とは異なり、それぞれ「発想」「配置」「表現」「記憶」「発声」から構成されるレトリックの段階に対応している。科学革命の一翼を担うとされるベイコンも、デカルトのように数学を重視しなかったことを一因として、その評価は必ずしも高くはない。しかし、このことは逆に、ベイコンに「近代科学の主流の考え方とは相容れない、異質な要素が含まれている」ことを示している。野家氏によれば、ベイコンはむしろ「レトリックの伝統を再生あるいは活性化しようとした哲学者」と考えられる。なぜなら、その学問の方法は「レトリックの技法をモデルにしてそれを換骨奪胎したもの」であり、「レトリックという古い革袋の中に実験科学という新しい酒を注ぎ込んだものにほかならない」からである(88頁)≫。要するに、ベイコンは過渡期の人だったということになる。このような過渡期の人には興味深い人物が多く、ベイコンは科学という文脈における具体例だとすると、あとで取り上げるトマス・モアは政治の世界における具体例だと言えるかも。
次は「思慮」について。「思慮」と聞くと何となく抹香臭く聞こえるかもしれないけどそうではない。まず次のようにある。≪以上のように、古典古代のパイデイアー[教養や教育]や人間的教養に由来するレトリックは、ベイコンやホッブズやロックも広く含む、近代以前のヨーロッパにおける一つの伝統的な学芸であった。人文主義の政治学においてはさらに、このようなレトリックと不可分な、合理主義や啓蒙主義とは対照的な実践知として、先に言及した思慮(prudence)の系譜を挙げることができる。ところが、この思慮(慎慮、賢慮、知慮)もまた、近代以降の学問の科学化や教養の非政治化のなかで、不確実な知識として「焼き払われる」対象になった。しかし、とくに二〇世紀後半以降における近代的な知の見直しのなかで、思慮はレトリックと同様に、ガダマーやアーレント、あるいは中村雄二郎氏の『共通感覚論』(1979)をはじめとして、判断力や構想力、共通感覚といった他の関連する主題とともに改めて注目を浴びるようになった。¶たとえば、『過去と未来の間』(1961)に収録されたアーレントの「文化の危機――その社会的・政治的意義――」(1960)によれば、判断力は自己の内部で完結する思弁的なものではなく、「他者との世界の共有を可能にする」ために必要な思考様式である。彼女はまた、カントの『判断力批判』から着想を得たこの概念を、「事柄を自ら自身の視点からだけではなく、そこに居合わせるあらゆる人のパースペクティヴで見る能力」とも説明する。したがってそれは、純粋な推論や論理ではなく、公的領域における「他者との潜在的な合意」に基づく政治的な能力である。もっとも、それゆえに、「その妥当性はけっして普遍的ではない」。しかし、それはまた、「政治的存在者としての人間の基本的な能力の一つ」であり、ヨーロッパの知的伝統のなかでは、思慮や共通感覚とも呼ばれた能力であったのである(91〜2頁)≫。してみると、利権や党利党略やイデオロギーに絡み取られた現代日本の政治家が、いかにこの「思慮」とは無縁であることがわかろう。本人やせいぜい自分の家族に焦点を絞る「利権」、自分が所属する党に拘泥する「党利党略」、そして自分と同じ考えの人々しか対象にしない「イデオロギー」、これらは≪そこに居合わせるあらゆる人のパースペクティヴ≫を無視する政治的行動を生むことになるからね。つまり彼らにとっては、公的領域一般ではなく、私的領域、もしくはごく限られた公的領域が政治の対象になるにすぎない。
またアリストテレスは思慮について次のように考えていたらしい。≪彼[アリストテレス]は『ニコマコス倫理学』第六巻のなかで、知的な状態を五つの種類に分類する。彼によれば、その一つである思慮(フロネーシス)は、技術(テクネー)と同様に「他の仕方でありうるもの」、すなわち「人間的な事柄にかかわり、熟慮の対象となるものごとにかかわる」。したがって、たとえば自然学や数学、論理学などに見られるような、必然的な事柄を対象とする不変的な学知(エピステーメー)とは異なり、思慮は一定の規則や原理に還元されない。(…)政治学は、第一原理を対象とする「直知」(ヌース)や神的な存在を対象とする「智慧」(ソピアー)とは同じではありえない。これに対して、実践学としての政治学の対象には「多くの相違と変動」が見られるのであり、「そのすべての場合において、いつも同じような仕方で同等の厳密さを求めるべきではない」。(…)以上の議論から、古代ギリシアにおいて、他者を含めた人間的な事柄を対象とした思慮が、レトリックの教養と関連するだけでなく、政治の実践に欠かせない知的な徳であったことが理解できる。しかも、このことは、以降の政治思想史においても同様に、必然的な事柄を扱う学知や、あるいは近代の合理主義や啓蒙主義とは対照的な、のちにアーレントによって見出されたような思慮の理解が受け継がれた可能性を示唆している(93〜4頁)≫。
それから時代を下り、ヴィーコについて次のようにある。≪さらに、一八世紀において、ベイコンの『学問の進歩』を意識しつつ、デカルト的な方法を批判して政治的思慮とレトリックの復権をともに主張したのが、ナポリ大学の修辞学教授であったヴィーコである。彼の『学問の方法』(1709)によれば、同時代における学問の「最も大きな不都合」は、真理を唯一の目的として、道徳学や政治学、そして雄弁などの、人間に関わるがゆえに不確実な学問に「熱意を注いでいない」ことにあった。ところが、実生活において重要なのは、真理ではなく、特定の社会において共有されている「コモン・センス」(共通感覚sensus communis)であり、それこそが思慮と雄弁の「規準」なのである。そして、このような観点から彼は、幾何学的な真理や方法が、政治学には不都合であることを以下のように指摘した。¶¶政治生活における思慮に関して言えば、人間に関することがらを支配しているのは機会と選択といういずれも不確実きわまりないものであり、また、たいがいは見せかけと包み隠しというきわめて欺瞞に満ちたものがそれらを導いているので、もっぱら真理のみに気を配っていると、人間に関することがらにおいてはそれらを実現してゆくための手段を獲得することがむずかしくなり、目的についてはなおさら達成が困難になる(102〜3頁)≫。本書におけるヴィーコに対する言及はこれがほぼすべてだけど、この思想家はきわめて興味深いので、いずれヴィーコに関する新書本か選書本が出た暁には取り上げたいと思っている。それからわれらがバークの次のような主張が引用されていて興味深い。≪道徳的もしくは政治的な主題については、いかなる普遍的な命題も合理的には成立しない。純粋な形而上学的抽象はこれらの分野に属さない。道徳の線は数学における理念上の線とは別であり、それは長さばかりでなく幅と深みを有する。それは例外を許容し、補正を要求する。これらの例外や補正は、論理学の手続きでなく思慮の規則によって行なわれる。思慮こそは、単に政治的道徳的な諸特性の階梯の最高に位置するのみならず、これらの徳性すべてを調整し誘導する物指しに他ならない(104〜5頁)≫。そう考えるバークが、特定の理念を煮詰めて暴走する(フランス革命を含めた)革命機械を批判するのは当然だと言えよう。
ということで次の「第三章 文明の作法」に参りましょう。とはいえこの章ではおもに宮廷社会やそこでのマナーが取り上げられていて(ノルベルト・エリアスの『文明化の過程』はこの章に登場する)、少し特殊に思えるし、失礼ながら個人的には退屈なのでトマス・モアに関する記述だけを取り上げる。というか、ここはトマス・モアについて詳しく検討するよい機会なので、長々と(Word文書にして10頁ほど)論じるつもり。ここで述べる内容は、第四章へのつなぎ、音楽で言えばアタッカ(え? Word文書で10頁にも及ぶアタッカって何ってか?)にもなるのでかなり重要だとは考えているけど、トマス・モアや内面意識の発達というテーマに興味がなければ先頭に「➡」がある段落まですっ飛ばしておくんなまし。
それにあたってまず、選書本にある次のような記述を引用しておきましょう。≪モアの『ユートピア』は、ギリシア学者の登場人物ヒュトロダエウスによって語られた第二部の理想国家の描写でよく知られている。しかし、併せて注目すべきは、対話形式の第一部において提示された、宮廷の顧問官による「洗練された政治哲学」(philosophia civilior)であろう。ここで、作者の名前を冠した登場人物モアは、宮廷の腐敗を批判して観想的生活を支持するヒュエトロダエウスに演技の哲学を薦める。すなわち、「自分の登場する幕を知っていて上演中の作品に自分をあわせ、自分の配役を型どおりに立派に演じる哲学」である。それはまた、「観念的な哲学」(philosophia scholastica)ではなく、高度な役割演技を通じて情況に適応し、「嵐のなかで船を放棄」せずに活動的生活を実践するための宮廷の政治学であった(124頁)≫。この記述はやや奇妙に思えた。というのも、登場人物モアとは、普通に考えればトマス・モア本人の一種のアバターと考えられるのだろうが、モア本人は政治的に内省的に振舞っていたようなところがあり、むしろ外面的な役割演技のようなものは否定するはずであるように思われるからなのよね。確かに内面を重視した思想家は、古代のアウグスティヌスあたりまで遡ると考えられる、それを政治的な文脈のもとで初めて実践したのはトマス・モアであるように個人的に考えていた。そのモアが、外面的な演技の哲学を薦めるというのは意外に思えたというわけ。これはもしかすると、空想物語の登場人物に自分の名前を冠して、現実世界ではヘンリー八世の外面重視の宮廷社会において、内面にこだわる自分自身を、自戒の意味をこめて揶揄したということなのかもしれない。
この見立てが必ずしも間違いではないことを、フレッド・ジンネマン監督の名作映画『わが命つきるとも』(英・一九六六年)を取っ掛かりとして考えていきましょう。なおこの映画でトマス・モアを演じているのは、その名演によってアカデミー主演男優賞を受賞したえげれすの名優ポール・スコフィールドですね。ただ盟友でやがて仇敵になるヘンリー八世を演じているのが、最後のシーンにおいて坂道でドラム缶攻撃を受けるなか金髪を振り乱して突進し火だるまになるナチス装甲師団長(『バルジ大作戦』(米・一九六五年))とか、ポール・ニューマンにイカサマでみごとにやり込められるギャングのボス(『スティング』(米一九七三年))とか、コメディ役者ウォルター・マッソーに追い詰められて、最後に地下鉄の三本目のレールをわざと踏んで黒焦げになるテロリスト(『サブウェイ・パニック』(米・一九七四年))とか、奮闘むなしくジョーズにパックマンされるマッチョ漁師(『ジョーズ』(米・一九七五年))とか、なんだかなあという役が多いロバート・ショーなのが、なんだかなあという感じではあるけどね。この映画で描かれている、「ヘンリー八世と現王妃のキャサリンとの結婚を解消して、アン・ブーリンとの結婚を正当化しその嫡子のみを正式な王位継承者として認めるか否か」という問題(The Act of Succession)、ならびに「ヘンリー八世がイングランドにおける教会組織の首長たることを認めるか否か」という問題(The Oath of Supremacy)をめぐって、韜晦戦術を駆使して沈黙し続け最後の最後になって自説を爆発させるモアの政治的態度はきわめて興味深いんだけど、映画には誇張もあるし、どこまで歴史的に正確なのかという問題もあるので、ここではれっきとした学者先生に登場してもらうことにしませふ。
その学者先生とは、文芸評論家でハーバード大学教授のスティーブン・グリーンブラット大先生様のこと。彼の著書にRenaissance Self-fashioning From More to Shakespeare(The University of Chicago Press)というタイトルの本がある。この本はみすず書房から『ルネサンスの自己成型――モアからシェイクスピアまで』として一九九二年に邦訳が刊行されているようだけど、どうも絶版くさい。いずれにせよ、私めは英語版でしか読んでいないので以下の引用は私めの訳による。この本は、タイトルからもわかるようにイギリスにおける一六世紀ルネサンス期に、人々の間に新たな自己成型(みすずちゃんの日本語版のタイトルに敬意を表してself-fashioningは「自己成型」と訳すことにする)の様式が生まれてきたことを、トマス・モアからウィリアム・シェイクスピアに至る著名な文人の生涯を通じて検証している。ここでは、自己や自我などといったような、内面が発達した現代人にとっては、自己成型、あるいはそのような可塑性を持った自己という考え方は当り前田のクラッカー化しているとしても、ルネサンスを経て近代が始まる頃までは事態は現代と同じではなかったのであり、むしろグリーンブラットが取り上げているモアやシェイクスピアのような偉人達が登場し活躍した後に、そのような近代的自我という観念が浸透し発展し今日に至ったという点に注意する必要がある。グリーンブラットの著書は、まさにそのことを論じようとしているわけ。彼の主張の根拠には、文学等の文化的なシンボリズムと現実社会における社会的な象徴様式とは密接に関連しているがゆえに、一般社会すなわち平均的庶民におけるこのような自己成型の発達の見取り図を、文学の中により際立った形態で見出すことができるという考えがあるように思われる。
このグリーンブラットの著書の、モアが取り上げられる第1章の概要として以下のような記述がある。≪この章では、モアの人生や著作に見出すことができる自己成型、自己否定に関する錯綜した相互作用、すなわち公的な役割における役割造形、ならびにそのような役割造形によって確立されたアイデンティティから逃れることに対する深い欲望について述べる。それにあたり、野心、皮肉な愉悦、好奇心、嫌悪が入り混じった彼独特のムードに浸ってお偉方のテーブルの御相伴をしているモアの姿をイメージしてみるようにしよう≫。ここでのキーワードは、「自己成型(self-fashioning)」、「自己否定(self-cancellation)」、「役割(role)」、「造形(crafting)」であろう。つまり、モアは社会的な要請に従って自己の内面を造形せざるを得なかったと同時に、彼はそのような役割形成によって確立した自己像のもたらす矛盾を常に感じていてそれを否定したい欲求を常に抱いていたのですね。ここにあるのは、ライオンに食われようがどうしようが全く動じない清廉潔白かつ二心のない聖人の姿などではなく、まっ二つに分裂した近代的な自我の感情を持ちながら、周囲の誰もそれを理解できずに孤立する、人間的なあまりにも人間的な一人の人物なのではないだろうか。モアはイングランドの大法官に選ばれた人物で、下手をすればすぐに自分の首が文字通りふっ飛んでしまうような当時にあって、そのような高位に登りつめるには単に清廉潔白であっただけでは十分ではなかったであろうことは火を見るよりも明らか。だからそこでは、現在の政治家顔負けの野心、追従、欺瞞等が常に要求されていたであろうことは容易に察せられる。ということは、自分の役割にあったペルソナを巧妙に形成し演技できる能力を有しているか否かが当時の出世の条件の一つだったのであり、モアはそのような資質を十分すぎる程に持っていたということを意味する。モアが御相伴にあずかったお偉方の中には当然のことながらヘンリー八世もいたはずであり、いかに自分を国王の宮廷にフィットさせていくかは彼にとっては死活問題だったはず。そうでがあれ、モアがたとえばトマス・クロムウエルのような国王のおべっか使いと根本的に異なっていたのは、自分がそのような役割造形を行っているということに自覚的に気づいていたという点であり、よってそのような造形された紛いものの自己を抹消したいという自己否定の欲望をつねに抱いていた点にある。またある特定の役割を俳優であるかのごとく演ずることは大きな危険を伴うことが普通でしょう。というのも、自分の役割をうまく演ずることができなければ、それはその演技がなされている演劇の舞台そのものを破壊してしまうことを意味するからで、その演劇の舞台がヘンリー八世の宮廷社会であってみればそれは反逆罪(high treason)にも相当する罪だからですね。結果的に言えば、まさにモアはヘンリー八世の宮廷社会という演劇舞台でそれに相応しい演技を続けることができなかったがゆえに、反逆罪に問われ最後に首チョンパになってしまうわけ。
次に、これに関するグリーンブラットの見立てをいくつか抜粋してみましょう。≪モアは、外見上はいかにも何の苦もなく行なっているかのように見える自身の演技の底流に存在する{緊張状態/テンション}につねに気づいていた。そしてこの緊張状態と明らかな愉悦感との混合は、彼の演技者としての自己意識を、より強制的なもの、確たるものにすると同時により捉えにくいものにもしていた≫。≪彼の生涯とは次のようなものに他ならなかった。すなわち、緊張状態、皮肉、ウイット、積極的な関与と無関心の巧妙なバランス、そして特筆すべきはそれがまさに自分自身の発明であることに自分でも十分に気づいているような、当時にあっては不安感を抱かせるほどに新奇な形態による自己意識の発明ともいえる生涯だったのである。確かにこのような要素は、彼に先行する人物の中にも隔離された様式で散見されるのかもしれない。しかしモアの場合には、これらの要素が、文学的表現と実社会の双方において意識的に統合され作用していたのである≫。≪自らの人生を演劇的な即興によって生きることの一つの帰結は、現実的なカテゴリーが虚構的なカテゴリーと混交してしまうことにある。すなわち、歴史的な存在としてのモアは、同時に虚構としてのナラティブでもあったのである。自らの役割を演ずること、自らの人生を劇中のキャラクターのように生きること、そしてつねに自己を即興的に更新し、自分自身の非現実性をつねに意識していること、これこそがモアが生きる条件だったのであり、いわば彼のプロジェクトだったのである≫。≪そのようなプロジェクトにつきまとう由々しき問題は、それが絶え間のない自己言及性や、それによって不可避的に生じる自己疎外がともなうことである。モアは「〈モア〉ならばどう言うだろうか」と思案するのがつねであった。このように自らに問いかけることは、自分がその時にコミットしていた特定の役割によっては充たされない他のアイデンティティが存在する可能性があると自覚することを意味する。ここから彼の生涯に付きまとう特有の陰が生ずるのであり、その陰は単に自らの仮面を操る意識の陰というばかりではなく、暗闇の中にそっと身を潜めている他の自己という陰でもあったのである≫。
以上のようなグリーンブラットのコメントから浮かび上がってくるトマス・モア像とは、まさに近代的自我が有する分裂した自己であったと言えるのではないか。公的な役割を演ずる自己と内面の自己がつねに矛盾して分裂し、そこから数々の逡巡や韜晦が生まれ、ときに自己欺瞞すら生じたというのが、真のモアの姿だったのではないだろうか。そして皮肉にも、まさに彼の運命が不可避的なものと化し殉教者になることを選んだ瞬間、内面の自己と公的な演技者としての自己が一致したのでしょう。すなわち彼は、ライオンに食われることも恐れない、信心深く、かつ二心を持たない殉教者だったのではまったくなく、殉教者を演ずることを最後に選択することによってそれまでの自己の分裂からの救済をようやく手にすることができたような複雑な人物だったと言っても過言ではないのかもしれない。しかし、それは彼の生涯の究極の到達点であったと同時に肉体的な破滅の瞬間でもあったのですね。モアを扱った第1章の締めとしてグリーンブラットは以下のように述べているが、これはまさに彼が生涯に渡って背負い続けた宿命の本質を語り尽くしたものと言える。≪独房でそして死に臨んで、モアは、モアとヒュエトロダエウスの対話の中で、それまで長いあいだ暴力的に引き裂かれてきた自己のアイデンティティとカルチャーという両側面を再び統合することに成功した。しかし今回は、対話が行なわれるのは平和な庭においてではない。処刑台の上でそれらは勝利し、同時にともに破壊されるのだ≫。前述したようにモアとヒュエトロダエウスとはモアの主著『ユートピア』に登場する二人の主人公のことで、グリーンブラットによれば前者がモアの公的な自己を体現し、後者が私的な自己を体現しているとのこと(先の選書本からの引用からしても、そう言えるでしょうね)。そのような分裂する両面を最後に統合することができたということは、それは彼にとっての自己の内的な勝利の時であると同時に、自己の肉体的な破滅の時でもあるという避けられない宿命を彼は背負っていた。つまり、それほどの高い代償を払わねば解決の道が得られない程、モアの内面は複雑に分裂していたということになる。モアの死後、時代はヘンリー八世の時代から、ブラディメアリーによるカトリック反動の時代を経て、エリザベス朝時代へと移行していく。エリザベス朝時代に盛んになった演劇熱、そしてエリザベス朝時代の代表的な劇作家であったシェイクスピアの演劇における複雑な自我をさらけ出す登場人物たち、これらの先駆となりモデルになったのがまさにトマス・モアその人であったと言えばそれは言い過ぎになるのだろうか。このように、トマス・モアは外面が支配する社会から内面が支配する社会の移行期に活躍した典型的な人物だと見なすことができる。
実はトマス・モアは、それより四〇〇年ほど前に活躍した、ヘンリー二世に仕えたトマス・ベケットと対比してみるときわめておもろい。このベケットにも、彼を描いた、そのものずばりのタイトルの『ベケット』(英・一九六四年)というすばらしい映画がある。この映画では、ベケットはリチャード・バートンが演じている。バートンはよく、怒れる若者を表現して頭角を現した俳優と呼ばれるけど、彼の若い頃の映画を観ていると、個人的にはふてくされた若者のように思ってしまう。でも、この『ベケット』での彼はすばらしかった。最初に指摘しておくと、同じトマスでも、トマス・ベケットは、およそ四〇〇年後に活躍したトマス・モアと違って、徹底的に外面に支配され、役割演技に徹していた。この映画を観るとそのことがはっきりとわかる。トマス・ベケットに関しても映画だけでは心もとないので、学者先生様に御登場を願うつもりだけど、最初に映画のシーンを取り上げてみたい。なおベケットが活躍していた時代は、ローマ教皇が代表するカトリック教会の権力と王や皇帝の世俗権力が激しい鍔迫り合いを演じていたことを念頭に置いておいてね。
まず、ピーター・オトゥール演じるヘンリー二世がトマス・ベケットを大法官に任命した直後、すなわち彼がまだ君主の忠実なしもべであった頃のシーンで、以下のような会話が、教会の代表者たちとのあいだで繰り広げられる。このシーンは、ヘンリー二世が教会の代表者たちにフランスで戦争を継続する為の資金を出せと脅すシーンで(当然教会代表者たちは、教会と世俗の一般民とでは全く違うと主張することで、自分たちからすればまったく降って湧いたような義務を免れようとする)、当時はヘンリー二世の補佐をしていたベケットは、以下のように述べる。
ベケット:イングランドは一隻の船である。王はその船の船長である。
教会代表:神は霊感を与えることによって船長を庇護のもとに置くことについては、いかにもその通りである。しかし、神が乗組員の給料を決めたり、給与支払係に仕事のやり方を教えたりするなどとは聞いたことがない。神には、もっと重要な仕事があるのだ。この世で重要ないかなることがらも、教皇を代表者とする教会やそれに所属する司教たちによって実現されねばならないことをまさかお忘れになったのではあるまいな。
ベケット:おのおのの船には神に仕える一人の祭司が同乗していることについてはその通りである。彼は乗組員に神の祝福を与えるだろう。しかし、神も教会も、「舵取りから舵を奪え!」などと彼に命令したりはしない。
ベケットは、イングランドを船にたとえて議論しているが、重要なことは彼が教皇権と世俗的な権力はまったく別であると述べている点であり、教皇権をバックとした教会は、世俗の政治に対する権限は一切有していないのでそれに関与すべきではない、さらに言えば教会といえども世俗のことがらに関しては世俗の最高権力である君主の命令に従わなければならないということを主張している点。つまりベケットは、君主であるヘンリー二世の強力な援護射撃をしているのですね。ところが、その時分には大法官に任命されたばかりにも関わらず、居並ぶ高位聖職者に自信に満ちた横柄な態度で応対していたベケットも、ヘンリー二世がベケットをカンタベリー大司教の座に据えようとして彼と会話するシーンでは、大司教になった後の自分がそれまでとまったく同じ立場を保てるという自信がまったくなく、半分命令のような王の提案を固辞しようとする。その際の会話は、以下の通り。
ヘンリー:われわれには、新たなカンタベリー大司教が必要だ。それには、信頼できる最適な人物が一人いると考えておる。
ベケット:それが誰であれ、大司教の冠が頭に載ってしまえば、その人物はもはやあなたの味方ではなくなるでしょう。
ヘンリー:だが、もし大司教が余の部下であり余の意向に従うのなら、大司教の権力が余の邪魔になるはずなどなかろう。
ベケット:国王陛下! あなたの言う司教たちがいったいどんな人物か、よく知っているではありませんか。カンタベリーの座に一度でも座ったならば、彼らは例外なく神の威光を前にしてめまいをおこしてしまうのです。
ヘンリー:いやこの男は違うぞ。この男は、めまいが何かも知らなければ、神を畏れたりもしない。トマスよ、聞いているかね、フランス娘や戦利品の楽しみを奪って申し訳ないが、君は今晩イングランドに戻るのだ。
ベケット:何の任務によってですか、陛下。
ヘンリー:王の勅令により、君すなわちトマス・ベケットを、イングランドの主席司教であるカンタベリー大司教に任命する手紙を、君はイングランドの全ての司教に送るのだ。
ここでヘンリー二世とベケットは顔を見合わせて大笑いする。しばらくして、
ヘンリー:静かにせんか。余は大真面目なのだ。
ベケット:国王陛下。どうかそれだけはご勘弁を。
しばらく、同様な会話が続いたあと最後に
ヘンリー:トマス、サイは投げられたんだ。ベストを尽くして、良い結果を得るのだ。もし私の目に狂いがなければ、必ず君はそうするはずだ。
しかしヘンリー二世の目が狂っていたとは言わないまでも、彼は教会の持つ、人を変えてしまう程のパワーを過小評価しすぎていたのですね。それに対してベケットは、上の会話からも明らかなように、そのような教会のパワーについて正しく認識しており、たとえ自分であってもそれに抗し切れないであろうことを予感し、カンタベリー大司教になれば自分はヘンリー二世の敵とならざるを得ないことを察知していたがゆえ、必死でヘンリー二世の提案を拒絶しようとする。結局彼は、カンタベリー大司教の座につくが、まだこの時点では大法官の指輪と大司教の指輪の両方を指に嵌めている。しかし、彼の変節は早くもある教会関係者が世俗権力すなわちヘンリー二世の家来たちに逮捕され、逃げようとして殺されてしまった件をめぐるヘンリー二世と彼との対立で明瞭になる。その時の会話は以下の通り。
ベケット:ギルバート[ヘンリー二世の家来のことと思われる]は、容疑者を教会による法の裁きに委ねるべきでした。もし有罪であれば、われわれがそれに対する罰を決定したはずです。
ヘンリー:余が法だ。
ベケット:私は、私の聖職者たちが世俗の権力の手で牢屋に放り込まれ裁きを受けるのを許すわけにはいかないし、黙って彼らが殺されるのを見ているわけにもいきません。
ヘンリー:君、君が許せないだと! 君が黙ってはいられないだと! 君は真面目に自分が大司教だと思い込んでいるのか?
ベケット:私は大司教です。陛下。
ヘンリー:余のおかげだ。狂ったか、君は大法官であり、わしのものだ。
ベケット:私は同時に大司教でもあります。あなたが、私をより深い義務へと導いてくださったのです。
ヘンリー:君が余の臣下を攻撃する時、君はわしを攻撃しているのであり、君がわしを攻撃している時、君はイングランドを攻撃しているということが理解できないのかね。
ベケット:イングランドには王冠以上のものが存在します。あなたは、いずれそのことに直面しなければならないことを学ばねばなりません。陛下。
ヘンリー:王の名誉よりも偉大な名誉とはいったい誰の名誉なのかね。
ベケット:神の名誉です。
何やらヘンリーはカントロヴィッチの「王の二つの身体」を地で行くような発言をしているよね。それはそれとして映画の紹介を続けましょう。そう言いながら最後にベケットは、大法官の指輪をヘンリー二世に返却する。つまり、これによってベケットは世俗の権力と教皇権とが両立しないことを認め、自分は後者に属すことを明確にヘンリー二世に伝えたことになる。端的に言えば裁判権の問題が取り上げられているわけだけど、それは単なる一人物の生死の問題ではなく、権力の問題が背後に横たわっているがゆえどちらも譲歩するわけにはいかず、これによりヘンリー二世とベケットは互いが互いの権利を侵害する敵同士にならざるを得ないということが決定的に明らかになる。それ以後ベケットは、一目散に殉教へと至る道を駆け抜けていくことになるのですね。その決意の表れは、次のような彼のモノローグにもみごとに集約されている。
俗世界に染まった浪費家、道楽者であったあのベケットがたった今この場所に立っているとは何たる皮肉だろうか。しかし、それにもかかわらず彼は今ここにいる。だが王は、理由は何であれ私に教会という重荷を背負わせたのであり、今私はそれを背負わねばならない。袖を捲り上げ教会を背負ったのだ。誰も私にこの重荷を降ろさせることはできないであろう。
こうしてベケットは、教会という世界に入るや否や今までの自分の考え方を一八〇度転換させ殉教への道をひた走る。これは彼の意思が弱かったからなどではもちろんまったくなく、逆に彼のような偉大な人物にすらそのような決定的な大転換をもたらし、最後は自らの死へとすら導いていったその力とは一体何だったのかが問われなければならないことを意味する。
さてお約束のとおり、これに関する学者先生様の見解を紹介しましょう。その学者先生様とは人類学者のヴィクター・ターナーのこと。ちなみに彼は、Dramas, Field, and Metaphors(Cornell University Press)という著書でトマス・ベケットを一つのケーススタディとして取り上げている。ターナーの本領はアフリカのンデンブ族の調査など未開社会の人類学的研究にあるが、それによって得た知識を中世イギリスにも応用してトマス・ベケットとはいかなる人物であったのかをこの本で把握しようとしている。彼は、未開社会の研究から一種の社会ドラマ(Social Dramas)という観点を抽出し、儀式などの社会装置が、当の社会を構成する各構成員に対して、意識的であれ無意識的であれ、特定のパターン化されたアクションを起こさせる力を孕んでいることを様々な例を用いて説明している。つまり、個人の意思を越えた強力な磁場が、社会、あるいは何らかの共同体という一定の布置の中に儀式のような社会装置を介して出現することが示唆されており、ベケットは当時のキリスト教会が発する磁場、さらに言えば世俗権と教皇権のせめぎあいから発生する混沌とした磁場にみごとに絡め取られた歴史的な事例であると考えることができる。ターナーはこのような磁場や布置をルートパラダイム(root paradigm)と呼んでおり、次のように述べている。≪私は次のように考えている。すなわち、トマス・ベケットは、ヘンリーとの関係が私的領域から公的領域へと、あるいは友情から敵対へと移るに従って、また人間的な共同体の中心的な善についての直観を水面下に秘匿した(それはベケット自身にとって意識からは隠されていた)宗教的な信念や実践のシステムの利益になるように彼の態度が自己利益から自己犠牲へとシフトするに従って、関連し合った一連のそのようなルートパラダイムの完全なる影響下にますます置かれるようになったのである≫。つまりベケットは、彼が当時の世俗的な権力と宗教的な権力が織り成す複雑な社会連関に巻き込まれるに従って、またそのなかで彼が後者の代表として重荷を背負うようになるにつれ、ますます自分の意思では制御することができない社会的ドラマの中の一つの役割のなかへと嵌めこまれていったということになる。要するに、一つのシステムとして構成される複雑な構造的布置連関の網目の中の一つのノードとして織り込まれていたということ。何やらピエール・ブルデューのハビタスの考え方にも近そうだけど、ターナーの場合には個人の具体的なアクションに対する影響力に主眼が置かれているように思われ、モードのような微細且つある程度の持続性を有する慣習的な様式よりは、そこでアクションが実行される劇場のメタファーとでも呼べるような、より瞬間的かつ演劇的な捉えられ方がなされているように思われる。
そのような見解を敷衍する為に、ターナーは≪いかにして、ある特定の諸々のイベントがパターン化された道筋に沿って展開され、その結果データの集積の中から一連の連続的な識別可能なフェーズを引き出すなどといったことが可能になるのか≫という問いを立てる。ターナーは、この問いに対して次のように回答する。≪主たる行為者(actor)は、それにもかかわらず主観的なパラダイムに導かれており、それは教育やステレオタイプ化された状況における行為モデルによる制限のような社会化装置を備えた社会文化的な主流のプロセスを越えたところに由来する場合もある。そのようなパラダイムは、それを身につけた行為者の振舞いのあり方、タイミング、スタイルに影響を及ぼす。この力に導かれた行為者は、ランダムであるどころか、いくつかの文化圏においては人間社会的な諸々の事象の経験的な規則を説明するための運命、あるいは宿命という概念すら呼び起こし得るほどに構造化された振舞いを、彼ら同士のやり取りの内部に生成し、またそのように構造化された社会的なイベントを生み出す≫。ここで言うパラダイムとは前述のルートパラダイムのことだと思われるが、いずれにせよターナーは、一連のできごとが、そのイベントがそのもとで生じる社会的な状況に関連したルートパラダイムに浸透された行為者たちによって引き起こされるがゆえに、決してランダムには発生せず、そのパラダイムによって刻印される一定の形態やスタイルを帯びることになると主張しているのですね。『ベケット』では、まさにそのような行為者の一人がベケットだったのであり、その意味ではヘンリー二世もそのような行為者の一人であったと見なせる。ただし、『ベケット』に描かれている一連のイベントの連鎖の中において、前者が殉教者という社会的な役割を演じたとするならば、後者は迫害者という社会的な役割を演じたという違いはある。つまり、この二人はその時代に形成されていた、目に見えない複雑な文化政治的な水路の中にみごとに嵌め込まれて流されていったとも言えるかもしれない。ターナーは、直後の段落でギリシア悲劇における運命についても言及している。ギリシア悲劇においては神が運命を定めるという違いはあれど、運命によってもて遊ばれる側からすればそれが神によって与えられようが目に見えぬルートパラダイムによって強制されようが大きな違いはないのであり、自分では自由意思で振舞っているつもりでいながら実際にはある特定の運命的なパターンに盲目的に従わされているという意味では、ベケットという人物はまさにギリシア悲劇に登場する悲劇の英雄に匹敵するような様相すら帯びてくる。それを踏まえてか、ターナーはベケットについて次のように述べている。≪一人の人類学者にとっては、ベケットの叙任後の生きるか死ぬかをめぐる尋常ならざる経歴は、殉教者というステータスへと至る通過儀礼という様相を帯びてくる≫。あるいは次のようにもある。≪自分自身の道、ならびに自分自身と同一視するようになった教会の道を貫徹するためには死なねばならないだろうとひとたび悟った後は、彼は心の平和と確固たる信念、そして行動の一貫性を達成し、それらは血塗られたクライマックスに至るまで失われることがなかった≫。比喩的な言い方をすれば、まさに時代そのものがベケットの殉教という壮大な儀式を取り行なっていたかのようにも捉えられる。ターナーは、自身の議論を総括して次のように述べている。≪私の見方、すなわちアフリカの儀式的なシンボリズムに関する著作の中で発展させた見方によれば、結論は次のとおりになる。ベケット自身が強力で「神秘的な」シンボルと化したのであり、それはまさしく他の強力なシンボルがそうであるのと同様に、彼が反対物の一致、すなわち意味の両極のあいだの緊張状態における意味論的な構造を表象する存在となったのである≫。
さて次に考えてみたいことは、トマス・モアとトマス・ベケットという両トマスのあいだには、実は四〇〇年の時代の違いと同様、自らが置かれた状況に対してどのように反応したかという点で大きな違いがあったのではないかという点について。この違いは両者の取った態度に明瞭に表れている。すなわち、韜晦戦術モードに突入し公的領域から私的領域に逃げ込んだトマス・モアと、公的領域に留まったまま一方の極端から他方の極端へと走ったトマス・ベケットのあいだには、近代的な自我の形成という意味において大きな違いがあったと見ることができる。その時代の権力の網の目の真っ只中に捉えられ最後には殉教に至った点ではトマス・ベケットもトマス・モアもまったく同様だったとしても、公的領域に蜘蛛の巣の如く張り巡らされ、いみじくもベケットがそのなかにみごとに絡み取られてしまったルートパラダイムから、韜晦戦術を駆使し私的領域へと引き籠ることで何とか逃れようとした点では、モアはベケットとは大きく異なるのですね。そして、その相違が何に由来するかというと、内面的な自我の発達の度合いではないかと考えられる。一二世紀に生きたベケットは定められた運命から逃れようとしても、それを反省的に捉える自我がまったく発達していなかったため、古代の未開人達が儀式の網の目のなかに捉えられていたのと同じようにそこから逃れることができなかった。それに対し、四〇〇年後の世界に生きたトマス・モアは、先駆者としてではあれ既に近代的な自我を兼ね備えた人物だったがゆえ、ベケットが持っていなかったこの能力を駆使した韜晦戦術によって一種の煙幕を張り、その陥穽から逃れようとする試みが可能になったと考えられる(でもその試みは最後の最後に失敗するけどね)。ターナーが述べるように、ベケットはひとたび覚悟を決めたあと心の中は平安であったのに対し、モアは外部に対する沈黙とはまったく裏腹に公的領域から遮断された私的領域の内部では自我の闘争を最後まで繰り返していたのですね。私的領域が発達していなければ、自我に関する悩みも少ない代わりに公的領域にいとも簡単に絡み取られてしまうのであり、ベケットはまさにそのような状況に陥らざるを得なかったというわけ。
➡さてトマス・モアはこのように公的領域と私的領域のあいだで引き裂かれていたわけだが、公的領域が完全に影に隠れ、実践知が軽視もしくは無視されるようになったのはいかなる過程を経てなのだろうか? それについてある程度のヒントを与えてくれるのが、「第四章 失われた政治学」だと言える。ということでここから再び選書本の記述に戻る。トマス・モアに関する長々とした記述を読んでくれた人には、とってもとっても感謝する。
第四章は次のような記述で始まる。≪これまで見てきたように、ルネサンスから一八世紀にかけての初期近代ヨーロッパでは、文明の作法に具現される、洗練された学芸としての政治学が発達していた。もちろん、同時代における政治思想の展開は多様であり、その遺産の多くは現在も受け継がれている。ところが、レトリックや思慮を含めた、以上のような人文主義の政治的教養は逆に、科学化の傾向を強める一九世紀以降の近代において次第に見失われていったように思える。そして、それはまた、フランス革命や産業化以降の世界において、文明の指標だけでなく、かつては無秩序と混乱のイメージで理解されていたデモクラシーの価値が転換する過程とも重なっていた(166頁)≫。やはり公的領域から私的領域の転換点はフランス革命にありそうに思われる。ところで、この後しばらくは、文明の作法であるマナーに関するチェスターフィールドが『息子への手紙』で展開している考えについて論じられており、第三章の続きの印象のように思えるのでカットする(そもそも第三章に含めたほうがよかったのでは?)。正直なところ、個別的なマナーの話には個人的に興味が湧かないということもある。で、その部分は省略するとして、フランス革命が転換点であろうことは次の記述からも読み取れる。≪デモクラシー以前の文明の世界は、フランス革命の勃発によって大きく損なわれることになる。たとえばエドマンド・バークによる『国王弑逆の総裁政府との講和』(1796)によれば、それまでのヨーロッパは一つの「共同社会」であり、そこでは「社交の流儀や生活の全体的形式や風儀の面でのこの類似から、この地域に住むどんなヨーロッパ市民も完全には余所者でありえなかった」。(…)しかも、このような生活様式や習俗としての「マナーズ」は「われわれの生活の形式と色彩の全体を与える」のであり、それゆえに「法よりも重要である」。ところが、これに対して「デモクラシー以外のあらゆる統治がとりもなおさず簒奪である」と公言して国王を処刑し、「最も粗野で下品で野蛮で狂暴なマナーズの体系を確立した」のがフランス革命であった。そして、そこでは「科白」や「身振り」に加え、「帽子や靴の流行」に至るすべてが「設計の産物」となり「制度化の対象」となったのである(180頁)≫。≪すべてが「設計の産物」≫となったということは、「可能性の技術」や実践知が軽視もしくは無視されることを意味する。もちろん文明の作法に対する批判は、フランス革命以前にもルソー(やアダム・スミス)が行なっており、次にそれについて説明される。そりゃあ、ルソーはフランス革命に影響を与えているからね。
それから次の記述に注目しましょう。≪このようなルソーやスミスによる批判や、あるいは[サミュエル・]ジョンソンとチェスターフィールドとの対立に示される時代の揺らぎのなかで新たに登場したのが、(…)内面的な文化や教養を意味するようになったカルチャーという理念であった(185頁)≫。私的領域に属する≪内面的な文化や教養≫であるカルチャーという理念が新たに登場したのですね。次にカントさんの考えが紹介されるが、それはスキップし、教養小説として有名なゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』が取り上げられているのでそれを見てみましょう。次のようにある。≪政治エリート教育を目的とした『息子への手紙』とは対照的に、近代における個人の形成や成長の物語を描き、新たな市民の教養(Bildung, culture)を育んだ文学作品の一つが、ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』(1796)であった。もっとも、にもかかわらず注目されるのは、「あるがままの自分」を「残りなく育て上げること」を目指した主人公ヴィルヘルムの手紙のなかに、以下のような、失われつつある文明の作法の名残が記されていたことであろう。¶¶市民でも功績をあげることができる。必要にせまられれば、精神を陶冶することができる。しかし人品となると、どうあがいてみてもなんともならない。もっとも高貴なひとびとともつき合う貴族にとっては、端正な態度を身につけることが義務となる。〔……〕貴族は公的な人格だ。その身ごなしが洗練され、その声がよく透り、その態度全体が冷静で沈着であればあるほど、彼はより完全になる。¶¶ハーバーマスは『公共性の構造転換』において、この一節のなかに、それまでの宮廷的な公共性の残映と、その結末を見出した。そして、主人公のヴィルヘルムは、このような文明の転換期において、市民でも「光り輝く」ことが可能な場所を芝居の舞台に求めた。彼によれば、「舞台の上では、教養さえあれば、人間として、上流社会と同じように、光栄に包まれることができる」。ところが、この作品が出版された一八世紀末以降のヨーロッパでは、「公的な人格」としての貴族ではなく、勤勉や倹約を美徳とするミドル・クラスが時代の主導権を握るようになる(188〜9頁)≫。トマス・モアに関する長々とした記述を読んだ人なら気づいたかもだけど、ヴィルヘルム・マイスターは、トマス・モア同様、公的領域と私的領域に、モアほど劇的な形態ではないにせよ、引き裂かれていたいわば過渡期の人物として造形されていたことがわかる。また舞台と言えば、トマス・モアが私的領域に閉じ籠る韜晦戦術を捨てて、自らの意見を堂々と述べて首チョンパになる場面では、彼はまさに文字通りに劇的(theatrical)に振る舞っていたと見なせる。
もっと最近になると、次のような風潮が見られるようになる。≪時代は下るが、このような文明の転位が進んだ後のミドル・クラスの世界観を反映した一般向けの教養書として、サミュエル・スマイルズの『自助論』(1859)を挙げることができよう。産業都市リーズにおける労働者向けの講義を契機として書かれた『自助論』は、蒸気機関のワットやスティーヴンソン、紡績機のアークライトをはじめとする産業化の担い手たちの成功物語によって主に構成される。それゆえ、その冒頭から強調されたのは、政治的なアクターに必要とされる外面的な作法や振舞いではなかった。すなわち、「天は自ら助くる者を助く」という有名な一文から始まる『自助論』の主題は、「自助」(self-help)を可能にするための「勤勉の精神」(spirit of industry)や「自己修養」(self-culture)であった。そして、このようなプロテスタント的な色彩の濃い、個人を中心とする自助の世界のなかで、政治の役割は、あくまでも個人の「生命や自由や財産」を保護するという「消極的かつ限定的」なものへと縮減されたのである(189頁)≫。こうなってくると公的領域は私的領域の影に完全に隠れてしまうことになる(ちなみに著者によれば、スマイルズにもゲーテと同じように文明の作法の名残りは見られるのそうだが)。自己啓発本は一切読まないので詳細はわからないが、『Grit やり抜く力』などというタイトルの自己啓発本が売れる現在の日本では、この傾向が最終的に行き着いて出現した歪な光景が繰り広げられていると言えるのかもしれない。ちなみに「自己啓発本」は、英語ではまさに「self-help books」と呼ばれている。つらつらと考えてみるに、日本の現代の政治のどうしようもなさと、自己啓発本の流行は案外相関しているのかもしれない、と売れないポピュラーサイエンス本翻訳者の私めが嫉妬して申しております。
第四章は、もう少し続くけど言いたいことは言い尽くしたので、最後に本書のまとめとして、「おわりに」にある記述を以下に全文引用することで、この本に関しては終わりにする(あまり長く引用すると関係者からクレームが来そうだけど、一〇年以上前の本だし、ちべっとは宣伝にもなるだろうし、勝手に許してもらうことにした)。なお下線部は、私めが引いたものであって、著者によるものではない。
本章では以上のように、近代の視点からは見失われた、デモクラシー以前の歴史を政治思想史の観点から振り返ってきた。とりわけ、本書が着目したのは、ルネサンス期から一八世紀にかけての初期近代のヨーロッパ、なかでもイングランドを中心とした政治の原型である。そこでは、シェイクスピアの『お気に召すまま』の一場面に示されるように、当時の宮廷社会や文明社会を舞台として、他者との交際や共存をまがりなりにも可能にする、高度に洗練された文明の政治学が展開されていた。それはまた、アリストテレスやキケロに代表される古典古代を模範とし、たとえばエラスムスやベイコン、あるいはヒュームやバークらによって再生産されたレトリックや思慮、あるいはシヴィリティをはじめとする文明の作法によって育まれた人文主義的な実践知であったのである。
デモクラシー以前の政治は、現代とは大きく位相を異にする知的基盤に支えられていた。その一つの典型は、ホッブズやロックやルソーではなく、カスティリオーネの『宮廷人』やチェスターフィールドの『息子の手紙』などによって示される。むろん、初期近代ヨーロッパの政治思想は、このような、宮廷の人文主義の系譜に尽きるものではもちろんない。また、実際の政治の動態は、言うまでもなく、マキャヴェッリが観察したようなリアルな権力闘争や権謀術数、あるいは利害対立やイデオロギーや宗教的熱狂に満ちていたはずである。しかし、それゆえに逆に、現実と理想、目的や手段をつなぎ、場面に応じた役割演技を可能にする技術や作法が必要とされ、高度に洗練される。もっとも、人間的な事柄に関わり、流動的な現実に対応するそれは、厳密な科学や体系的な規則、あるいは宗教的な信条や道徳的な規範によって規定されるものではない。近代以前に語り伝えられていた政治的教養は、単なる机上の理論や学説ではなく、経験や実践や模倣を通じて身体的に習得されるコモン・センスであったのである。
しかし、このような政治の「型」を支えた教養や技術や作法は、フランス革命と産業化を起点とする一九世紀以降における文明の転位や、それに伴う一連の語彙の置換とともに次第に変容していった。個人の内面性や人格の陶冶を重視するようになった教養は政治とのつながりを薄め、実践的な学芸や技芸を広く意味した技術は、科学の進歩とともにテクノロジーや産業技術に様変わりし、芸術や美術がアートと呼ばれるようになる。その一方で、宮廷という模範を失った文明の作法は、非政治的な社会における日常的なマナーやチェックへと矮小化された。そして、近代日本が模範としたのは、このような過去の文明の記憶を消去しつつあった、そうした時代の西洋だったのである。
現代の政治は、過去にそれを支えた「型」を失っている。しかも、第一次世界大戦後に「普遍」的な理念となったデモクラシーは、このような歴史と伝統の忘却という深刻な問題を内に抱えることとなった。むろん、本書はデモクラシーの価値や意味を否定し、古き良き昔に還ることを主張するものではない。あるいはまた、デモクラシーの諸問題に対する理論的な解決策や具体的な処方箋を提示するものでもない。しかしながら、「新たな政治の型」を求めて、たとえば「市民」の政治学といった「将来に向っての可能性」を見出すためには、逆説的に、現代の視点からは見失われたデモクラシー以前の歴史に立ち戻る作業が、おそらく不可欠なのである。(219〜21頁)
≪近代日本が模範としたのは、このような過去の文明の記憶を消去しつつあった、そうした時代の西洋だったのである≫という点に関してつけ加えておくと、すでに言及したが、明治以後の西洋文明の受け入れが、いかに日本的に特殊なものであったかは、前回取り上げた『誤読と暴走の日本思想』で「記号設置」というAI用語を用いて論じられているのでそちらもぜひ参照されたい。また日本は、「群島文明」という世界でもまれに見る特殊な独自の文明形態を持つとともに、西洋文明を含む「大陸文明」をどん欲に吸収する側面も持っていたことについては『日本群島文明史』を参照されたい。ということで、本書は現代日本の政治の歪み(ほとんどサイコパス政権とすら言えるほどの石なんちゃら政権に関してはあえて言うまでもない)の根本的な原因がどこにあるのかがよくわかる一冊だと言える。本書の議論に沿ってその原因をひとことで言えば、それは、イデオロギーに篭絡されて実践知が無視あるいは軽視されている点に求められる。
※2025年9月22日