◎伊藤亜紗著『手の倫理』(講談社選書メチエ)

 

 

5年近く前に刊行された選書本で、すでに一回読んでいるんだけどもう一回読んでみた。「さわる」と「ふれる」の違いをもとにした触覚の倫理的な側面に関する記述が展開されている。とはいえ、あらかじめ述べておくと、この本に関しては本全体を扱うことはしない。というのも、触覚(や身体一般)に関しては別の本を取り上げた際に科学的視点も加えて検討してみたいと思っているので、豊富な実例が紹介されているとはいえ、基本的に哲学的、倫理的観点から触覚というテーマを扱っているこの本については簡単に済ませたいと思っているから。それにゴールデンウィーク中でまったくやる気が出ないし(え? 「そんなこと知らんがな!」ってか?)。では何を取り上げるかと言うと、「倫理」とは何かについて。実は倫理とは何かについて説明されている「第1章 倫理」は二五ページ程度しかなく、全体(二〇〇ページ)の八分の一にすぎない。したがって今回は、最近のヘタレホームページの長大化傾向に反して、いつもよりかなり少ない分量で済ませるつもり。実のところ、倫理の定義については『つなわたりの倫理学』を取り上げた際にも検討したけど、そこで「要するに倫理は、最初から決まっている普遍的な原理を現実に適用することを意味するのではなく、まさに「原則をいかに応用して」現実に適用するかの問題なのですね」と書いた。これは、私めが考えている「倫理」の意味でもある。実はこの『手の倫理』における「倫理」の定義も非常にそれに近い。なのでそのような倫理の定義を明確化するために、あえてその部分だけを取り上げることにしたというわけ。それ以外の章に書かれていることに関しては、ぜひこの選書本を買って読んでみてみて。

 

ということで、著者はまず次のように述べることで問題提起を図る。「あらためて「倫理」とは何でしょうか。確かに安楽死や臓器移植問題に関する「生命倫理」、日本原子力学会が設けている「日本原子力学会倫理委員会」など、時折耳にする言葉ではあります。しかし、いざその意味はと問われると、一言で言い表すのは容易ではありません。時代とともに、また文化によっても、その意味は変わるでしょう。¶本論では、その意味するところを、「道徳」との違いを手がかりにして明確にしたいと思います。倫理と道徳の違い? 同じ意味じゃないの? そう思われるのももっともです。実際、大辞林で「倫理」を引くと、「人として守るべき道。道徳」とあり、両者がほとんど同じ意味で使われていることが分かります。一般的にも、またアカデミックな議論の場でも、両者の区別は徹底されているわけではありません。¶しかし、哲学者や倫理学者のなかには、道徳と倫理のあいだに区別を設ける立場の専門家もいます。もちろん両者のあいだには重なる部分もあるのですが、明確に異なる側面もある。本書では、こうした両者を区別する専門家たちの議論を参考にしたいと思います。なぜなら、現代の複雑化した世界において、その区別はますます重要になってきているように思えるからです(34頁)」。私めは、大学に通っていた頃、哲学を専攻していたんだが、大学に入学した時点での専攻名は厳密に言えば「同志社大学文学部文化学科哲学及び倫理学専攻」だった(ネットで調べてみると、現在ではただ「文学部哲学科」のようだけどね)。でも私めは、「及び」で結ばれている哲学と倫理学の違いが何なのかがよくわかっていなかった。「哲学の一部門が倫理学なのかな?」という程度の認識しかなかった(哲学はあらゆる学問を対象とするという大雑把な理解からすれば、必ずしも間違いではないのだろうが)。哲学と倫理学のあいだでさえそうだったのだから、ましてや倫理と道徳の違いなどまったくわかるはずがなかった。てか、その違いを特に意識するようになったのはごく最近のことにすぎない。で、その違いとして現在認識しているところが、まさにこの選書本のこれから引用する部分に書かれているものとほぼ同じなのですね。ところで引用文中に「現代の複雑化した世界において、その区別はますます重要になってきている」とあるけど、このことは政治にも当てはまると思っている。個人的には、政治には道徳ではなく倫理が大きく関与していると考えている。それどころか政治に道徳を持ち込むと、場合によっては全体主義につながるとさえ思っている。ところが、世の中には「政治」を道徳的に、すなわちあとで説明するように原理的に捉える人が大勢いる。現実より理念や理想を優先させる人々がそれにあたり、そのような見方が現在の混乱した政治的状況をもたらしていると見なしている。それについては、「多様性」に言及されている箇所を取り上げる際に、もう少し詳しく説明しましょう。

 

とはいえ、まず倫理と道徳の違いを明確にしておかないと、ここで私めが何を言おうとしているのかが理解できないはずなので、その差を説明している箇所をこの選書本から取り上げておきましょう。次のようにある。「[道徳は]小学校の道徳の授業で習うような、「○○しなさい」という絶対的で普遍的な規則。これに対し倫理は、現実の具体的な状況で人がどう振る舞うかに関わります。相手が何者か分からず、自分の身を守る必要もあり、時間やお金の余裕が無限にあるわけではない今・ここの状況で、どう振る舞うことがよいのか。あるいは少しでもマシなのか。倫理が関わるのはこういった領域です(36〜7頁)」。一言でいえば、道徳は「普遍的な」規則や原則、あるいはより政治的に言えば理想や理念として与えられ、言い換えればカントさんの言う定言命法として捉えられるのに対し、「倫理」は状況や文脈に応じてその都度なされる判断として捉えられるということになる。神学には決疑論(casuistry)と呼ばれる概念があるけど、「倫理」はそれに近いと言えるかも。ちなみにウィキの「決疑論」のページには次のようにある。「決疑論(けつぎろん、英語: casuistry) は、宗教または道徳の規範を個々の具体的な行為や良心の問題に適用するさいに利用される法のことであり、一般には道徳法則を内的なものではなく外的なものと見なし、権威や論理に基づいて個々の場合を判断する法のことである」。あるいは法で言えば衡平法(equity)がそれに近いように思われる。ウィキの「エクイティ」のページには次のようにある。「エクイティ(英: equity)、衡平法(こうへいほう)とは、英米法の国々において、コモン・ロー (common law)で解決されない分野に適用される法準則である」としたうえで、さらに「コモン・ローとの対比」という節に次のようにある。「英米法において、コモン・ローは、イングランドのコモン・ロー裁判所が下した判決が集積してできた判例法体系であるのに対し、エクイティは、コモン・ローの硬直化に対応するため大法官 (Lord Chancellor) が与えた個別的な救済が、雑多な法準則の集合体として集積したものである。¶¶コモン・ローとエクイティとの間には、主に次のような違いがある。¶¶・コモン・ローは契約法、不法行為法、不動産法(物権法)、刑事法の分野を中心に発展してきたのに対し、エクイティは信託法などの法分野を形成してきた。¶・コモン・ローは民事事件の救済として金銭賠償を主とするのに対し、エクイティでは差止命令 (injunction)、特定履行 (specific performance) などの救済が認められてきた。¶・コモン・ローの訴訟では陪審審理が用いられるのに対し、エクイティの訴訟では伝統的に陪審審理が用いられない。¶・伝統的には、コモン・ローの訴訟とエクイティの訴訟は別々の裁判所で取り扱われてきた。コモン・ローは厳格な手続を採用してきたのに対し、エクイティの訴訟では比較的柔軟な手続運営がされてきた。¶¶現在では、コモン・ローの訴訟とエクイティの訴訟では手続に余り違いは無くなっているが、今でも、英米法の中でコモン・ローとエクイティの違いは広く認識されており、特に陪審審理が保障されるか否かといった点で現実的な違いを生んでいる」。こうしてみると、「コモン・ロー」は「道徳」に、「エクイティ」は「倫理」におおむね対応するように思える。

 

選書本からの引用を続けるとさらに次のようにある。「哲学者のアラン・バディウは、その名も『倫理』という本のなかでこう述べています。「{倫理/傍点}を抽象的範疇(人間、権利、他者……)に結びつけるのではなく、{むしろさまざまな状況/傍点}へ差し戻すことにしよう」。そしてバディウは言います。倫理に「一般」などというものはない、と。なぜなら状況が個別的であるのに加えて、判断をする人も、それぞれに異なる社会的、身体的、文化的、宗教的条件のなかに生きており、その個別の視点からしか、自分の行動を決められないからです。「倫理『一般』などないとすれば、それは倫理『一般』で自己を武装せねばならない抽象的な主体などないからだ」。¶哲学や倫理学のような学問の領域に限らず、社会生活のさまざまな場面で、私たちはものごとを一般化して、抽象化して捉えてしまいがちです。「人間」「身体」「他者」という言葉。ほんとうは、そんなものは存在しません。それぞれの人間は違うし、それぞれの身体は違うし、それぞれの他者は違っています。¶けれどもついついその差異を無視して「人間一般」「身体一般」「他者一般」について語り、何かの問題を扱ったような気になってしまう。もちろん、道徳が提示する普遍的な視点を持つことも重要です。そうでなければ、人は過剰に状況依存的になってしまい、その場まかせの行動をすることになってしまうでしょう。けれども、「一般」として指し示されているものは、あくまでも実在しない「仮説」であることを、忘れてはなりません。なぜなら「一般」が通用しなくなるような事態が確実に存在するからです。そして、倫理的に考えるとは、まさにこのズレを強烈に意識することから始まるのです(37〜8頁)」。この指摘はきわめて重要であるにもかかわらず、実はこのことがまるでわかっておらず、大上段に理想や理念、あるいは硬直した原理、原則を振りかざし、現実的な個別的状況をまったく無視する人があとを絶たない。ツイなんかでもよく見かけるけど、学歴が高く自分をエリートと思い込んでいる人ほどこの罠にかかりやすい。

 

また次の指摘にも着目しましょう。「倫理に「迷い」や「悩み」がつきものである、ということは、倫理が、ある種の創造性を秘めているということを意味しています。なぜなら、人は悩み、迷うなかで、二者択一のように見えていた状況(…)にも実は別のさまざまな選択肢がありうること(…)に気づき、杓子定規に「〜すべし」と命ずる道徳の示す価値を相対化することができるからです。もちろん、それは定まった価値の外部に出ること、明確な答えがない状態に耐える不安定さと隣り合わせです。しかし、この迷いと悩みのなかにこそ、現実の状況に即する倫理の創造性があるといえます(40頁)」。文脈を無視し、硬直した原理原則を振りかざして「〜すべきだ」「〜すべきではない」と二者択一でものごとを捉えると、現実世界の機微がきれいさっぱり抜け落ちてしまうのですね。だからそこには悩みも迷いも生じなければ、明確な答えがない状態に耐える不安定さも存在しない。でも、そのような非現実的なゴリ押しは日常生活においては致命的な結果を生みうる。

 

実のところ、これは政治的なイシューにも当てはまる。それに関連して著者があげているのは「多様性」。倫理の話をしているのでここでは深入りしないが、もっと細かな事例で言えば、典型的にはLGBTQや移民問題がそれに該当するだろうね。では著者は「多様性」についてどう考えているのか? 次のようにある。「言葉に寄りかからず、具体的な状況の中で考える。私が強くそう念じる背景にあるのは、実際に、気になって警戒しているある言葉があるからです。¶それは「多様性」という言葉です。あるいは「ダイバーシティ」「共生」といった言葉もそう。延期になった東京オリンピックの大会ビジョンに始まり、企業の広告や大学のパンフレットなど、いまあらゆるところでこの言葉が使われています。便利で、私自身も止むを得ず使ってしまうことがあるのですが、この氾濫ぶりは異常だと思います。¶もちろん、人が一人ひとり違っていて、その違いを尊重することは重要です。「多様性」の名の下に行われている取り組みには、こうした違いを尊重し生かすことに貢献するものもあるでしょう。しかし、「多様性」という言葉そのものは、別に多様性を尊重するわけではない。むしろ逆の効果すら持ちうるのではないかと感じています(44〜5頁)」。要するに「多様性」という言葉が単なるレッテル、念仏、それどころかプロパガンダと化しているのですね。そもそも普遍的な「多様性」などというものが存在すると見なしていること自体が、自己撞着を起こしているとも言える。「多様性」はどこまで行っても、「普遍的なものに関する見方」、つまり道徳的な概念なのではなく、「個別的なものに関する見方」、つまり倫理的な概念なのだから。「多様性」を普遍的な概念として捉えて、ほんとうに無条件に認めれば、至るところで現実的な問題、言い換えれば倫理に関する問題が噴出するだろうね。ここで「倫理に「一般」などというものはない(…)。なぜなら状況が個別的であるのに加えて、判断をする人も、それぞれに異なる社会的、身体的、文化的、宗教的条件のなかに生きており、その個別の視点からしか、自分の行動を決められないからです」という前述のアラン・バディウに関する記述をもう一度読み返してみましょうね。まさに「多様性」とは、そのような観点から語られるべき概念だと言えるでしょう。

 

ここで先ほどちょっとだけ言及した移民に関する政治的問題を例にあげましょう。たとえば多様性を主張するのであれば、個々の国が持っている独自の文化や生活様式は擁護されるべきだよね? ところがバイデン政権下のアメリカのように、それぞれ異なった文化や生活様式のもとで育った(不法)移民の入国をほぼ無条件に認めれば、アメリカがこれまで築いてきた独自の文化や生活様式がいずれ破壊されることになる。つまりアメリカ文化という多様性の一つの顕現が毀損されることになる。アメリカはまだ、そもそも合法的に入ってきた移民の国家だからある程度の耐性はあるとしても、もともと文化的な画一性が高いヨーロッパの国々でも同様なことが起こっているよね? あるいは日本でも川口市で。要するに移民をめぐって現在言われているところの「多様性」とは、本来の多様性とはまったく逆の、ガチャポンによる「均質化」を実質的に意味しているとも見なせる。そうなった場合に困るのは、独自の文化や生活様式を持つ受入れ国の一般ピープルなのですね(一部の政治家や活動家は移民関連の利権を確立してホクホクしているかもだけどね)。極端な見方をすれば、「多様性」という用語は「グローバリズム」というイデオロギーを糊塗する狡猾な手段に成り下がっているとも言える。「「多様性」という言葉そのものは、別に多様性を尊重するわけではない。むしろ逆の効果すら持ちうる」という著者の言葉は、まさにそれに似た意味であろうと私めは勝手に推測している。

 

とはいえ私めは、移民など一切入れるなと言いたいのではない。そうではなく、移民が受入れ国の生活や文化に順応できるような制度、言い換えれば移民に対して日本の文化、法、習慣について教える手立てを、受入れ側がまず構築したうえで受入れなければ、国内がひっちゃかめっちゃかになってしまい、本来国家によって守られるべき多様性が破壊されてしまうと言いたいわけ。まずやるべきことをやらずに、無条件、あるいはユルユルの条件で移民を次々に入れていたら、そりゃ反移民運動に火がつくに決まっている。そうなってしまえば移民側にも受入れ側にも、マイナスにしかならない。本来ウィンウィンの関係になるべきところがルーズルーズの関係になってしまうのですね。そのようなあつれきが生じて得をするのは、そこから利権に基づく利益を得ている一部の政治家や活動家と、延命に必死になって移民問題を右傾化のせいにすることで論点ずらしをし、移民問題の解決を妨害することしかしていない左派メディアだけだと言える。なぜ現代においてかくも移民が大きな問題になっているのかについては、『文化はいかに情動をつくるのか』の訳者あとがきでも論じたので、そちらも参照されたい。繰り返すと移民問題は左派メディアが喧伝しているように右傾化が原因で生じているのではない。そこでも述べたが、庶民の日常生活が現実的に毀損されているからこそ生じているのですね(人々の情動はその人が育った文化の影響を受けるので話が非常にややこしくなるが、それについてはここでは説明しない)。つまり移民問題とは、「移民は受け入れるべき(べきでない)」という、大上段に振りかざす二者択一の道徳的な問題なのではなく、「移民の流入によってもたらされたあつれきをいかに解決するか」という、個々の状況をめぐる倫理的な問題なのですね。著者が「多様性」という言葉に違和感を覚えているのも、おそらくは本来個別的な倫理のレベルで語られるべきことが、二者択一に基づく普遍的な道徳のレベルで語られてゴリ押しされているからなのだろうと思う。

 

移民については選書本には特に何も書かれていないが、著者は「多様性」に関してさらに次のように述べて鋭い指摘をしている。「私は二〇一九年の半年間、在外研修でボストンに暮らしていたのですが、帰国して一番違和感を覚えたのはそのこと[分断の進行]でした。街中を覆う「多様性キャンペーン」と、実態として進む分断。誰もが演技をしているように見えてゾッとしたことを覚えています。¶もしかすると、「多様性」という言葉は、こうした分断を肯定する言葉になっているのかもしれない、とそのとき思いました。多様性を象徴する言葉としてよく引き合いに出される「みんなちがって、みんないい」という金子みすゞの詩は、一歩間違えれば、「みんなやり方が違うのだから、それぞれの領分を守って、お互い干渉しないようにしよう」というメッセージになりかねません。¶つまり、多様性は不干渉と表裏一体になっており、そこから分断まではほんの一歩なのです。「多様性」という言葉に寄りかかりすぎると、それは単に人々がバラバラである現状を肯定するための免罪符のようなものになってしまいます(45〜6頁)」。まあ率直に言って、「多様性」を連呼している人ほど「多様性」とはいったい何なのかについて何も考えず、ただ念仏のように「多様性! 多様性!」と唱えているだけのようにも思える。その手の人々は、たとえばA集団、B集団、C集団をA集団、B集団、C集団という独自の集団として認める「多様性」の実現を可能にする主体が何であるかを考えたことがあるのだろうかと思うことがよくある。それは各集団、つまり私めが言う中間粒度に属する人々の生活の安寧を保証する制度や文化や慣習なのですね。また、中間粒度の最大の単位は国家だと言える。その国家を筆頭とする中間粒度を破壊するような考えや(アメリカでバイデン政権がやっていたような)政策は、「多様性」を推進するどころか破壊していると言わざるを得ない。ナシム・タレブさんが言うように、身銭を切っていない人の言うことを信じてはならない。自らを道徳的、イデオロギー的な高みに置き、自分自身も中間粒度に身を置いていることをきれいさっぱり忘れて「多様性」を連呼する人々のいかがわしさが、「誰もが演技をしているように見えてゾッと」する感覚を著者に与えたのでしょう。

 

また多様性と倫理に関して、著者は倫理学者アンソニー・ウエストンの言葉を引用したあとで次のように述べている。「多様性という言葉に安住することは、それ自体はまったく倫理的なふるまいではない。そうではなく、いかにして異なる考え方をつなぎ、違うものを同じ社会の構成員として組織していくか、そこにこそ倫理があると言うのです(47頁)」。「多様性」はなんでもありを意味するわけではない。殺人を認める多様性などない。「多様性」の確保にはベースが必要なのであり、個人的には、そのベースは中間粒度、現時点では実質的に国家だと思っている。そのベースを破壊する多様性などというものはあり得ない。このことをわかっていない「身銭を切っていない」理想主義者が多すぎる。「異なる考え方をつなぎ、違うものを同じ社会の構成員として組織していく」方策なくして、「多様性」をゴリ押しすればそこに分断が生じるのは火を見るよりも明らかであり、現在欧米で起こっている移民問題は、「多様性」をゴリ押しした結果まさに起こるべくして起こったのですね。ということでようやく「第1章 倫理」を終えたわけだけど、冒頭で述べたように「倫理」とは何かにのみ的を絞りたかったので、この本に関してはこれにておしまいにしますら。残りは買って読んでくださいな。

 

 

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※2025年5月5日