懐かしの国鉄型車輛(2)

飯田線の旧型電車
 かつての飯田線は旧型国電の宝庫でした。私と同年代の鉄道ファンなら一度は訪問した事があるのではと思います。流電52系そして80系はここ飯田線が最後の活躍地でした。119系投入後は話題は少なくなっていますが、依然として多くの鉄道ファンを魅了する魅力がこの飯田線には残されています。改めて訪問をしてみたいと思います。ここではファン的に最も輝いた時期の写真をお届けします



飯田線に通う大きな理由の一つだった52系流電。かつて関西の花形車輌であまりにも有名な車輌だ。昭和32年阪和線鳳電車区から転属し、昭和53年に廃車となるまで、結局その半生を飯田線で過ごす事になった。その後同車はJR吹田工場と日車豊川工場で保存されています。 
1987年年8月13日 牛久保駅



営業最終日の80系電車です。最後の活躍場所となったのがこの飯田線だった。後期の状態の良いものばかりで、当時はこの投入は充分な近代化と思ったが、当時の国鉄車輌の淘汰の波は強く、結局長続きせずに昭和58年には廃車となった。 1983年6月12日 豊橋駅



サハのTC改造車クハ85-100を先頭で営業運転する80系。このクハは2両在籍した。
1983年6月12日

豊橋駅の出発前風景

豊橋駅に停車中の119系豊川行きと荷物車(クモニ83系100台)を最後尾に連結する辰野行き列車。当時は最後尾に写真のような行き先を線路上に立てて表示していた。もう少し前は列車最後尾のサボ受け行き先を表示するサボを差し、発車直前に取り外す事を長年やっていた。今は辰野までのロングラン列車はなくなっています。 
1983年6月12日 豊橋駅
荷物合造り車

知識不足で詳しい解説は書けませんが、半室荷物室にした合造車(たぶんクハユニ56)を先頭とする上り列車。
1983年6月12日 豊橋~小坂井間
飯田線北部の要「伊那松島機関」

クモハ54 モノの本には3扉セミクロスシート車の標準タイプがクモハ51でクモハ54はその高出力タイプに当たると解説されている。なお同車には100番代を名乗る60系からのセミクロス改造車もあり、これは扉間の窓の数(0代は6枚100代は5枚)で識別できるとのこと。昭和12年製と車暦は長いですが、きれいにメンテナンスがされて、美しい姿を保ち好感が持てた。
1983年6月15日伊那松島機関区。

全盛期のブルトレ

ブルトレブームなんて現象もありました。東京発の寝台特急は寝台券の確保がままならずプラチナチケット化し、東京駅にはカメラを持ったファンがいっぱいでした。しかしその後の衰退振りは説明の必要がありません。写真は東北上越新幹線用になってしまった旧9・10番線ホームです。機廻り線11番線を備え機関車の付け替えをやっていました。列車は宇野行き瀬戸です。新造されたEF651000番代に機関車が変更になったばかりの時期と思います



東京に向かう上りさくらです。数あった寝台特急の中で最後に東京に上ってくる列車でした。この当時は長崎編成と佐世保編成を早岐で連解結をし、そのため電源車の必要のない14系客車を使用していました。
風格漂うボンネット特急

当時の上野駅では上信越線系統と常磐線が高架ホーム、東北線系統と常磐線の一部が地平ホームから発車していました。ここにずらりと並ぶ特急車両群は憧れの的でした。写真は今は懐かしいクハ481のボンネットタイプを先頭にする「特急ひたち」です。隣にはキハ58系気動車が止まっています。水郡線直通の「急行奥久慈」あたりかと思います。上野発の気動車には他に磐越西線経由の新潟行「急行いいで」もありました。
山形新幹線開通前の「つばさ」

奥羽本線経由で秋田上野を結んでいたつばさです。奥羽本線の新在直通化(山形新幹線)の開業により見られなくなってしまいました。