金沢区の中から私のお気に入りのポイントを紹介させて頂くページです。生意気ですが、ここ金沢に生まれ育った私ならではの「今までにはない視点」で紹介をさせて頂くページにしたいと思っています。いまのところ内容は薄く、また具体的なコンセプトも明快でありませんが、折を見て徐々に充実させたいと思います。どうぞご期待ください。
- 称名寺
金沢区の歴史を語る上でなくてはならない存在がここ称名寺と金沢文庫ではないかと思う。鎌倉幕府の要職にあった北条実時が自からの別邸の中に建立したのがこの称名寺だった。知識人であった実時は、京都や遠く中国からも沢山の書物を取り寄せ学問に励んでいた。そして集めた大量の書物を所蔵していたのが称名寺におかれた金沢文庫であった。研究によれば、これはきちんとした文庫と呼ばれる建物が建てられたわけではなく、称名寺の何らかの建物に保管していたものを後年金沢文庫と呼ばれたという事らしい。
実時以降、鎌倉北条氏同様栄華を極めた金沢北条氏も鎌倉幕府の滅亡とともに絶え、権力の庇護を失った称名寺と金沢文庫は徐々に衰退の道を進んだ。貴重な蔵書はその後の権力者によって徐々に持ち出され、次第に失われていったという。栄華を誇った大寺院も今ではかなりの部分を失い、今の姿を残すのみとなっている。
考えてみれば、鎌倉時代に庇護を失った称名寺と金沢文庫が平成の世まで存在し続けたことは奇跡的な事ではないかと思う。中世以降の金沢の人たちが大切に守ってきた成果に他ならない。私たちの世代もこの誇れる文化遺産を後世に残せるよう大切に守り通していかなくてはと思います。
私が子供の頃は池が半分埋まっていたりで随分荒れていた同寺であるが、近年の整備事業で輝きを取り戻し、市民の憩いの場所として散策する人も多くなっている。
- 野島公園の不思議なトンネル
太平洋戦争当時飛行機を格納していたトンネルとの事。かつては写真にある囲いはなく、入ろうと思えば中に入れた。子供の頃、中に入った友人の話によると、トンネルには横穴があり、工作機械が放置されていたらしい。(良い子はくれぐれも中に入らないように!)
戦前戦中のものとは思えない立派な造りで、今も当時のまま残されています。
金沢区は旧日本軍関係の遺構が沢山残っており、私の知りうる限りですが、建築物がそのまま残っているものとしては富岡の神奈川県警第一機動隊車庫・大川の東急車輛本社社屋・柴の在日米軍小柴貯油所などがあります。因みに余談ですが、私が通っていた釜利谷小学校の校舎は旧海軍の宿舎、金沢中学校も海軍工廠支廠の跡地だったそうです。
- 伊藤博文旧別邸
伊藤博文は憲法の草案を極秘裏に進めるため、陸軍の砲台用地で無人島の夏島(後に付近は埋め立てられ旧日本軍の飛行場、現在は横須賀市夏島で日産自動車追浜工場がある場所)に別荘を建てここに移っていた。協力者であるいづれも明治政府の要人の金子堅太郎、伊東巳代冶、井上毅は今の金沢区洲崎にあった旅館東屋に住み、博文は船で東屋に通いここで草案を練っていた。後に金子と伊東も夏島の博文の別荘に移り最終草案を作成するに至った。
写真は後に伊東博文が深い関わりを持ったこの地に建てた別荘である。金沢の風土と景色に魅了され頻繁に訪れたとの事。
今でも野島公園の片隅のひっそりと残されています。何も表示もなく整備もあまりされていませんので、ご存知ない方は何でここにこんな古い民家があるんだろう?と疑問に思われる事と思います。個人的には公園整備の一環として何らかの手が入れられないものかと思います。
※現在は綺麗に復元され一般公開されています。(平成28年1月追記)
- 元第一海軍技術廠支廠記念碑
釜利谷第二公園内にある「元第一海軍技術廠支廠跡記念碑」です。この公園は私の通った幼稚園の隣にありまして、子供頃何度も遊んだことのある場所です。戦後生まれの私は何も知らずに生活しておりましたが、歴史の現実を目の当たりにして、何ともいえない感情が込み上げて参ります。
太平洋戦争当時の金沢区は、軍都横須賀に近いこともあって多くの軍需工場と軍の関係施設があったようです。これらは戦後に民間移転され、現在の金沢区の発展の基礎となった事もまた事実です。