書くということ

 

●僕らが僕らでなくなる時
序章 はじまり
第1章 任務

 

●懐かしき朝
第1章

僕らが僕らでなくなる時

第1章 任務

 階段で行くと聞かされていた僕は、眼の前にあるエレベーターにびっくりした。確かに、考えてみれば数百メートルとも聞いている隔たりを自分の足で登るという事は難しそうだ。
 反重力エレベーターと呼ばれている装置の威力は素晴らしいものだった。長いと感じはしたものの、後から考えると、2分とはかかっていないかも知れない。
 エレベーターには係員が同乗した。簡単に“係員”と書いたが、何の係りなのかは今となっても分からない。エレベーターに乗るまで、一度も会ったことがなかったからだ。ただ、当局の人間である事は、通行所の人間と二言、三言話していたことから分かった。エレベーターの中も含め結局、僕とは一言も会話を交わさなかった。
 彼は、僕の“身柄”を1層上、つまり僕が2年を過ごした層の係員に引き渡して、そのまま同じエレベーターで帰っていった。おかしな話だが、1層上に上がっても僕の“故郷”—この言葉はネットの中の死語辞典を見て知ったのだが—の通行儀式と同じ事が繰り返された。もちろん、想像通り帰りも同じ事が繰り返された。
 1層上の係員の顔は、僕らよりははるかに頬が出ており、形も角張っていた。これも死語なのだが、いわゆるいかつい顔であった。でも、どちらかといえば、表情は僕らの係員よりも柔らかい感じがした。その理由は生活をしてみて気がついたのだが、彼らは僕らより喜怒哀楽がはっきりしていたためだ。僕らの世界で言えば、2世代以上前の人達に似ていそうだ。といっても、2世代以上前の人に会ったのは大分前の事で、記憶の底に押しやられている。
 宿泊所で一夜を過ごし、僕は“カイシャ”の人に引きとられた。その人は、K1004という人であった。その記号からすると、僕の父親くらいの年齢らしい。もっとも、僕らの世界と記号の付け方が同じかどうかは分からないが。帰層した今でも、いや帰層した今となってはなおさら分かり様もない。“カイシャ”はDHMIRBという名称で、通称DIと言っていた。DIでは、僕らの世界との輸出入をやっていた。食料に限らず、生活必需品のすべてが対象であった。僕の会社、つまりそれまで勤めていた出向元の会社にいた時には、関係会社として、そんなカイシャがある事は知らなかった。DIに行くと決まってからも、僕の役割は知らされなかった。もっとも、DIという名前も、仕事内容もK1004さんから教えられたのだから、任務などは知らされなかったのは、推して知るべしだろう。
 1層上、いやHGでは、—そうその世界は通称HGと呼ばれていた。“我が国では”という言葉が良く人々の口から発せられたから、HGは1層上の世界の通称ではなく、僕が2年いた国の通称かも知れないが、ここでは、1層上の事をHGと呼びたい—まずのんびり過ごす事を“義務”づけられた。
 “NSさん、あなたの仕事は難しいので、直に活動にかかるのは難しいと思います。しばらくは、こちらの世界に慣れるように街をぶらぶらしてて下さい。”そう言われたのだが、僕は僕の仕事が何だかさえ知らない。

 感覚というものは“昔”からいいかげんなものだ。異国の景色を見て、最初は自分たちの世界とすごく違うと思うが、暫くすると、“何だ、大して変わらないじゃないか”と思いだす。そして、結局最後に、また、違いが大きく気になりだす。

 「そこのおじさん動かないで!今はじっとしていなければいけない時間だという事を知ってるよね!分かったら止まって、止まって」
 その国では月に一度訓練する事に決まっていた。何の訓練か最初は分からなかった。街を歩く人、走る車のすべてが、その日のその時間には一斉に止まった。そして号令一下また動き出す。それが前世の遺物だと知ったのは、ここに来て三月目であった。“前世”とはどのくらい前の事を言うのかは、はっきり分からないが、明らかに今は必要のない事なのに、何かに怯えている誰かが号令を発しているのだ。僕は恐いというより滑稽感が先にたった。だが、その感覚も半年も経てば変わるものだ。実際、あってあたりまえだと思ってしまう。何も不思議でなくなってしまった。

 HGには宮殿が多くあった。毎日のようにとりとめもなく、あちこちの宮殿を回った。どこの宮殿も小さな門をくぐると正面に横に広がった屏風のような建物があり、その後ろには庭があった。それは、下の層の建物に比べて妙にリアリティがあった。
 「しかし、なんでこんなに似たような物がいくつもあるのかな?」
 3日目に誰に言うともなく、思わずつぶやいてしまった。
 会社に来なくても良いと言われていたのだが、K1004さんに聴きたくて翌日には出勤した。
 「しかし、なんでこんなに似たような物がいくつもあるんですか?」
 「それは歴史ですよ」
 「僕の居た下の層には二つと似た物はなかったですね。似た物がある必要はないですよね。それなら、違うものがあった方が楽しいですよ。みんなどちらかにしかいきませんからね、無駄というものですよ」
 「それは、歴史がないからですよ」
 「歴史がない?歴史はありますよ」
 「そうね、歴史はありますよね。でも短い。宮殿を見てどう感じましたか?」
 「妙にリアリティがあって、思わず柱に手を触れました。」
 「そうでしょうね。あれは実物ですからね、リアリティはありますよ」
 「じつぶつ?」
 「そう、実物です。あなたの層にはない物です。あなたの住んでいた層には実物の建物はないですよね!すべて仮想、サイバーのものですよね」
 「そうです。それが、普通ではないのですか?」
 「普通?何を基準に普通と思われるのですか?歴史上では普通ではありませんよ。」
 「歴史上では普通ではないのですか?」
 「伝承されていないのですね。あなたは、その歴史を元に戻すためにここに派遣されたのですよ」
 「歴史を戻す?輸出入の仕事ではないのですか?」
 「輸出入の仕事ならあなたが居なくても今まで通りにできますよ。あなたはいわば研修に来たのです」
 「研修?」
 「そうです。研修です。下の層では決して学ぶ事のできない事を学んでもらうためです。既にこのようにあなたから疑問が提示された事で実は上がっているのです」
 会話は止まるところを知らなかった。窓から外を見るとペアで散歩する人達が、街灯に浮かび上がっていた。さらに上を見上げると満天の星空であった。
 夜になると街のそこここには食べ物屋台が出る。下の層では昼日中にしか見られない光景であった。下の層では夜は専ら室内で過ごすものであった。何で夜に歩くのだろう、そして屋台で物を買って食べる。下の層で暮らしていたならば、想像できない事であった。きっと仕事が忙しくて、夜しか外で楽しめないのだろう。そうその時、僕は思った。全く間違いではない事が後になって分かったが、でももっと深い理由がそこには隠されていた。