仏教に於ける運の捉え方-私見

 業(カルマ)からくるネガティブに偏向するプログラムのバグを取り除いて、本来持っている魂のテーマを実現する。仏教の修行を今風に表現すると、こういう言い方もできるのではないでしょうか。


 仏教では運のいい人とか、運を良くするって言い方をしないですよね。仏教系の新興宗教ではその様なことをいいますが、純粋の仏教書に「運を良くする」なんて文字は見たことがありません。

 さて、なんででしょう。
 それは、そもそも仏教は運を変える為のものだからなんです。仏教だけでなく、インドの宗教(※1ヒンドゥー教)の多くがそれを前提としたものです。

 そんなことを書くと「えっ!誰がそんなこといってんネン。」とか大阪弁で突っ込まれそうですが。
ヒンドゥー教の“業(カルマ)”の思想、善因善果悪因悪果を前提として行動をすることにより、より良い再生、より良い死後の世界を求める。因果応報の“因”を変えることにより“報い”が変わるというのは、運を変えるということの別の言い方ではないでしょうか。
 
 そして、仏教の眼目、テーマはなんでしょうか?
 それはサーキャ族のゴータマという王子が目指し、そして得た境地、ブッダ(※2)になることです。業を越えサンサーラ(輪廻)から外れた存在、覚者になることです。ニルヴァーナに入ることですね。それを今生の内に達成しようとするのです。
 勿論のこと、それはサンガ(僧)に入った修行に専心する者たちにとっての目標でもありますが、出家して修行のできない一般の民衆にも、戒めを守って善業を積みなさい、そうすれば為した善業に応じて次の生では、ニルヴァーナに入ることもあるし、聖者の流れに入れることもある、悪業を積んだ場合には社会の最下層に生まれることもある、と説かれたのです(※3)。
 
 さて、ブッダになったゴータマの悟りまでの道とそのポイントをざっと振り返ってみましょう。
 ゴータマは恵まれた王子としての生活を営み子供を作り幸せに暮らしているが、城の外へ出て生老病死の人間の苦を見て歩き、人生に問題意識を抱きます。
 インドでは昔から、有る程度の年齢を経て、社会的地位を得た後は、森に入り瞑想などの修行を行うのが上質の生き方とされているそうです。
 ゴータマもそれに倣おうとしたわけです。それも若いうちからです。元々、感受性が強く才能とエネルギーに満ち溢れた(※4)ゴータマは様々な修行を転じながら、当時の有名な修行者のもとを尋ねて行脚しました。

 やがて、ゴータマは自分で修行していくことを決心し苦行(タパス※5)に入ります。ウェルベーラーで当時の様々な苦行を行じます。食事も殆ど取らずに居たときは、腹を押すとその指が背骨に当たってしまったといい、また体毛の根が腐って、触るとボロボロに抜けてしまったといいます。牛の糞も食い、自分の糞尿も食したといいます。そして、ひたすら心身統一の瞑想を行じたのです。
 その間に何度もゴータマは死んだというニュウスが流れます。死にかけながらもゴータマは6年の間、苦行を行い(一説には7年)続けます。心身脱落し、プログラムされた人間の意識を止め、自律神経の働きを断ち切ることなどの不随とされている部分のコントロールを行いました(11世紀にブッダとなったチベットのミラレパも同様に苦行を行いブッダフッド:ブッダの境地に達した。その間の具体的な心身の変化はゴータマの伝記と比較しても一段と詳しい)。
 しかし、ゴータマが回想するように、過去に修行者(サマナ)あるいはバラモンで、自分ほどの苦痛を受けた者は居ないだろう、と言うほどの苦行にもかかわらず、人間の事柄を超えた特別の知見に到達しなかった、ということになります。さて、それは何故なのでしょう。

 よく、“ゴータマは苦行を捨てた”といいますが、それは行をやったことがない人がいうことでしょう。
 それは、ゴータマが成道の直後に、なんの利益にもならないあの苦行から離れて良かった、と言っているからでありましょうが、その後に、低き苦行は何であろうと、何の益もない、と言っておられるのです。つまり、ゴータマが気がついたのは、ただ肉体や精神を痛めつけるのが目的にすり変わった苦行主義が無益だということです。

 しかし、人間は心身何れか、または共に、極限状態にならないと、本来持っているプログラムのバグが出てきません。エゴが働いて自己肯定の論理が働く程度の精神状態では、潜んでいるバグに面と向かって自分自身で認識把握できないのです。意識を転換するには、バグを自分自身が認識することが大事なのです。それが第一歩です。そのバグを認識することは苦しいことであり、自分にとって苦しいものは苦手なものであり、いままで避けて通ってきたものです。それを受け入れることは、精神的な苦痛を伴います。また、心の歪みは身体に現れます。病気や骨の歪みは心の表れです。ですから、心身両面からの矯正が必要なわけです。仏教教団でも、インドの伝統の通りヨーガも行われました(ヨーガ行というのは、アクロバティックなハタ・ヨーガばかりではありません。自分の行為によるカルマヨーガ、マントラを唱えることを行の中心に置くマントラヨーガ、自分の全てを投げ出し、神への絶対なる信仰により自分を引き上げるバクティヨーガ、極めて哲学的なアプローチをとるサーンキャヨーガ、知恵の追求により神との合一を図るジュニャーナヨーガなどなどありますが、そのyogaとは神と自分を結びつけるという意味なので、いずれの道に於いても、静的な意味でも動的な意味でも瞑想行が全ての基本となります)。

 もっとも、ゴータマの言う苦行と我々が考える苦行を同列で考えること自体が間違いの始まりかも知れません。我々にとって30分でも結跏趺坐をして、瞑想をすることだけでも苦行であり得るのですから。ゴータマの行った苦行と、弟子の気根に応じて与えた苦行とは同じものではあり得ないわけです。ゴータマは、自分は為すべきことをすべて為し、それ故にブッダになったと言っておられます。我々小人は為すべきことさえもままならず、為すこと自体が苦行のようなものであります。ゴータマの如く為すことをすべてやり切るからこそ心が透徹し、心身脱落の境地に達することが出来るのが道理でしょう。何れにしても、修行の過程では的確な苦行が必要なのであります。しかしながら、苦行を行じるとその行為自体に執着したり、また何かが得られるものと期待してしまう場合があります。
 だから、古い教典の中では、苦行を重んずる内容と、先の苦行を否定する内容の両方があり矛盾するので、言葉尻に囚われる学者が悩むのです(具体的には、ダンマパダに苦行を尊重し、特に断食を重視しすることが書かれていたり、忍耐・堪忍を最上の苦行としていたりする。サンユッタ・ニカーヤには信仰は種子、苦行は雨という内容もある)。

 その後、村の娘スジャータが作ってくれた山羊の乳の粥を飲んで体力を回復させ、河で身を清め、体のバランスを取った上で、後にブッダガヤと呼ばれる尼連禅河(ネーランジャラ)の畔のウェルヴェーラー村の菩提樹の下で、観る瞑想に入りました。そして21日目に最上の悟りを得てゴータマはブッダ(覚者)になったのです。
 その瞑想の過程では人間の根元的な存在保存の本能から引き起こされる様々なマーヤー(幻影)が現れます。人間の宿業から来る深層意識との戦いです。それは正しく戦いという言葉に当てはまるような凄まじいものであることは容易に想像がつきます。心理カウンセリングなどでも、心の深い傷、トラウマにふれるような場合、被験者の抵抗に遭うことはよく理解されていることですが、場合によっては、カウンセラーに対して、実際の力の行使によって自我を守ろうとする位の抵抗を示すものです。  自我は、自分自身の尊厳を守るために、他人のみならず自分自身にも嘘をつき、自己肯定の論理と、実際とは異なった現実を自分自身に対して創り上げます。そうやって自分自身を守ろうとする働きを自我というわけですから、現実とは違うマーヤーを投影して、自分の好む自分だけが描いているオリジナルな現実を創造するのです。しかし、そのマーヤーの悪魔たちをゴータマは打ち破ったのでした。その過程を乗り越えて、ゴータマはブッダとなったのです。

 つまりブッダになるということは、個人の持っているプログラム(運:それは個人のみならず、その個人が関わる家系特有のプログラム、民族の集合意識の元型も含む)、人間として持っているプログラム(宿業)を書き換えるということなのです。
 
 そのブッダの能力は我々凡人の推し量れるものではなく、人の過去現在未来を観、地球の過去現在未来を観るといいます。千里先に起こっていることを今観ることができ、人の考えていることを見通すこともできたといいます。自分の姿を消したり、物体を消したり現したり出来たという伝説も残っています。
 勿論、これらのことはブッダの修行の中では付随的なことで、目標ではありませんでした。しかし、それだけのパワーがなければブッダの境地は得られないということです。
 ゴータマは自分の過去、そして未来も観たといいます。修行の果ての自分、修行をしないで王子としての道を歩んだ場合に自分がどういう人生を歩んでいたか。そして愛するサーキャ族の運命(行く末)を観たそうです。運命があることが前提なのです。
 
 こういったことは当然、仏教学的にはアプローチ出来る範疇を越えています。ですから、学問としての現代の仏教学ではこういったことに触れません。 
 しかし、仏教の歴史の中で事(理の対語で理論や勉強でなく実際の修行)の体系の中には連綿とこういった超能力的類のことが説かれ、また修行過程でその注意点、危険性などが昔からいい伝え続けられています。

 そして、お釈迦様は弟子達にこういった力を使うことを禁じています。執着して、悟りへの修行が進まなくなるからです。しかし、修行を続けていると、こういった人間離れした能力が自動的に付いてくる場合が多いのです。ですから、お釈迦様はこういったことに関して表向きには、無記(有るとも無いとも言わない)の姿勢を通したとされているのです。
 でも、そういったことを禁じるからには、お釈迦様の教団にこういった現象が高い頻度で起こっていたということですね。
 そして、そういうことに関しては個人的なマンツーマンの指導が行われ、超人的能力に執着せずに、もっと高い境地を成就するためのエンジンとしての使い方が修行者の個性に応じて指導されたのだと思います。

 さて、以上見てきたように、仏教においては我々がいう運命に対応する言葉が違うだけなのではないでしょうか。それを業報というのか、業の異熟というのか現時点のわたくしでは解りません。
 サンサーラ(輪廻転生)とは自分の作ってきた業(カルマ、karman:前世からの行為の積み重ねによって、魂が持っている勢い、方向性の潜勢力)によって魂の歩む道が決まり、苦しみの娑婆世界の中を生まれ変わりしていくというものです。
 仏教ではそれを転換してしまおうとするのです。今世において聖者の流れに入る、この身のまま此の世でブッダ、悟ったもの、ニルヴァーナに入る、死んでからは、もっと違ったレベルの高い世界に生まれ変わるということです。これは運命を変える、運を良くする以外のなにものでもないでしょう。それ以上のものです。
 
 当然、運が悪い人間は修行なんか出来ないし、出来たとしても成就することなどあり得ないのです。人間の肉体のコントロールの極致、意識の解放とコントロール、高い意識への転換ですから、運が悪いという状態は初期の時点で転換してしまうわけです。
 
 これを日本仏教的な言い方をすると、“滅罪生善”となります。先ず専門的な修行の前段階で滅罪を済ますことが前提になります。だって、当たり前でしょう、不徳を積んで来た人間が、その不徳を補う行為を行わなくて善が生まれますか? 借金を返さないで利息が貰えないのと同じです。
 人間の潜在能力は大きなものです。その潜在意識のエゴの部分に黒い部分やグレーの部分が残って居たら、どうなると思いますか? 行をされた方だったら解ると思いますが、意識の転換どころか、頭がおかしくなって転落への道をまっしぐらです。精神異常になる修行者が多いのは、これが理由です。
 解りますね?オウムはこの道を歩んでしまったのです。オウムに入った何人かの人間を知っていますが、一番大事な“捨てる”という精神でなく、“欲しい欲しい”が行動原理の人達でした。
 
 勿論、専門的な修行が出来ない一般の人達には、こういう心構えで生活しなさいとか、その様な行いを続けていると、未来への因をつくるから、このような行いを為しなさい、といった人の気根に応じた対機説法によって一般の人が歩むべき道が説かれています。(これは仏教の教えの部分、顕教的という言い方もする場合がある)
 縁ある人に対して、良き道が歩めるよう、業の解消がなされるように様々な方法を通して導いて下さったのがお釈迦様でした。

 ですから、インドでは運命があることが大前提で、輪廻転生が当然の如く考えられているのです。その原因となる業の解消が多くの宗教の目的ですからそれらのことについて有る無いの記述を、あらためて為さないのが当然と言えます。

 これは文化的歴史的土壌が違う国のことを扱う上での基本的なことです。ところが仏教学者や生悟りのお坊さんたちの中には、お釈迦さんは魂について論じていないとか、輪廻転生はないだとかいう人がいるので困ります。お釈迦様の直弟子達が整えた教典の中にも沢山の神霊も出てきます。  ただ、個の奥に入り智慧を持って解放する方法をとるお釈迦さまの教団では、ヒンドゥーに於いて当たり前の前提である神を取り立てて引き合いに出す必要はないのです。神と智慧を獲得した人間(ブッダ、アラハン)とを同等に扱っています。神を特に高い存在と奉っていないのです。違う次元の存在として付き合うのです。また、西欧においては、輪廻転生の事実が、権力の手先となった後世のキリスト教会の人心コントロールの為にもみ消されてしまった事実は、調べれば誰にでも解るはずです。
 そのような背景を知らずして、自分を文化人と思いたいが為にそのまま受け入れてしまった先人達、自分たちの理解の範疇にないことを切り捨ててしまったり、曲げてしまった学者達、そのなかの物理的な力を指向する粗い魂の持ち主が現代の経済優先の社会の中で主流になったのです。
 そのような、物理的な“力”優先の考え方での学問的実証主義的アプローチでは輪廻転生の概念自体がはなから受け入れがたいものですから、仏教を教えの面からだけ捉えようとするのも道理でしょう。

 しかし、お釈迦様の残したものの中は教えだけでなく、人間がブッダになるための具体的な方法の体系やその事実があるのです。
 それは理屈でなく、やるものです。“意識の力”の浄化と統合です。この物理次元が意識によって生み出されていることを知るシステムです。その上で意識をフォーカスしてエゴのマーヤーを打ち破るのです。
 自分の過去世から魂にプログラムしてきた、意識(フィルタ、ファームウエア、行動パターン、思考パターンのプログラム)を一回さらけ出し、自分自身で自分の偏向性を認識し、トラウマを癒し、過去になした過ちのエネルギーを償い、それができたら、一旦オールクリアして、まっさらになったところで最上のものを再構築する作業を行うわけです。これを別の言い方をすると止と観といいます。止はエゴのプログラムをすべて捨てること、身体を清め、心の動きを止め、器を空っぽにすることです。観は智慧の行です。意識を拡大し周波数を上げ、宇宙のすべての存在と合一し智慧そのものになるのです。目的とするところは輪廻を超え人間を超えた存在に成ることです。

 言葉で書くと簡単ですが、先ずは最初の段階でエゴの壁にぶつかってしまって、そこでお仕舞いです。普通に暮らしをしていればそこまででしょう。そんなこと出来ない理由を沢山挙げて、自己肯定して悟りへの道とはオサラバです。論理的な人間ほど理由を作るのが上手ですからね。(論理的能力を否定しているのではありませんので誤解無きよう。直感的能力とのバランスがとれていない、またとれていても、相対的に能力が低い、という言い方が出来るかも知れません。その理由はエゴが強く、オープンマインドで無いからでしょう。受け取る力、受信能力、そして徳が無いといえるでしょう)そういう、理屈の中では自分が作ってきた運命通りの生き方しかできず、高い理念を実行できるような自己の転換はあり得ないのです。

 また、その様な流された、社会通念、観念に囚われた生き方では、何かを創り出して行く結果が如実に表れるわけでもないわけですから、人生の流れや運命の存在にも気がつかず、ただ世の中は理不尽で、抗しがたい事実が厳然とあって、自分の力では如何ともし難く、自分は被害者だというスタンスで、口で評論を述べながら一生暮らしていくことになってしまう訳ですね。
 運命が有ることは、自分の能力の限界にチャレンジし、エゴにぶつかってはねとばされたりして、それでもなんとか自分を変えようとやってみたことがない人には、自分のコントロールを越えた運命というものが有るのか無いのか解らないことですから・・・
 
 でも、その運命を変える方法はある意味では簡単です。ひたすら陰徳を積むことです。他人のわからないところで、人や地球が喜ぶことを為すことです。対価を相当分受け取って使ってしまったら、利息は生まれないでしょう。最初は意識しないと出来ないかも知れません。まだその時には、これだけやったから良いことがあるかも、などと計算の心が働くこともあるでしょう。それでも続けていれば無意識に身体が動くようになります。その様な行動が出来るようになってくるとやがて大いなる存在と繋がり、ポジティブな気の流れに乗ることが出来るでしょう。目先のエゴの欲を満足させることよりも、魂の浄化とポジティブな精妙なエネルギーの蓄積が必要なのです。
 そうすれば、コントロールは出来ないにしても自分の能力を超えた出来事が不思議に幾つも起こるのです。そして自分を越えた存在があることや、人間は意識の底で有機的につながっている(Formative Resonance:形態共鳴)こと、また人間だけでなくすべての存在とつながっていることが少しづつ見えてくるはずです。
 
 こういったことをやっている人は幾らでも居ます。別に仏教を信奉しようがキリスト教であろうが、また宗教は関係なくても、行っている人達は居るわけです。そういう人が幸せな道を歩み、その幸せな道を歩いたという事実が、他人に良い影響を与えていくのです。
 社会の中でリーダーシップを握るとか、有名になるとか、財産や権力を持つことが、幸せを得るのと同義ではないことは賢い人だったら解っていますよね。逆に一歩間違えば、今生で大きな不徳を積みやすい立場でもあります。ちょっと心得違いするだけでネガティブなものを引きつけ易いので、突然転落していく人達が多くみられます。パワーを持っている分だけ自分自身を傷つけ易いのです。
 
 勿論、そういった立場になるのが悪いといっているのではありません。成る人はそういう役目があったり、自分の今生でのテーマがあったりしますから、それはそれでよいのです。ただ、誰もがそういう注目を集めやすい立場に成ることが、その本人の幸せの道かどうかということです。
 
 皆それぞれ自分の為すべきテーマがあります。そのテーマを捜しもしないで華やかな部分だけ追い求めることが間違いの始まりになるわけです。誰もが自分自身で決めた魂のテーマがあるのです。そのプログラムがあります。その中でネガティブに偏向するプログラムのバグを取り除いて、本来持っている魂のテーマを実現するのが運を良くするということです。良いも悪いもプログラム通り人生を歩めば、運命通り生きたということです。そのプログラムを自分自身で認識し、更に組み替えよう、というのが仏教です。
 
 そんなプログラムなんか無いよ、っていう人は自分の限界以上の挑戦をしたことのない腰抜けか、怠け者か、はたまた自分が失敗した原因を社会や他人、親のせいにしているピーターパン・シンデレラ君達でしょう。そんな、左脳意識的な自己肯定を繰り返していると、本当の自分の心に気づいている右脳意識、身体意識とのギャップがどんどん広がっていって、自己破綻を起こしますよ。
 自分の考えていることと、実際起こしてしまう行動が違うようになってきたら、このギャップが広がりつつあるといえるでしょう。小さな失敗を繰り返していたのが、やがて大きな失敗を犯すようになるのです。心理学用語でいう自己処罰のバグがどんどん力を増し、プログラムが暴走するのです。
 これをわたくしめは運が悪いと言っているのです。
 
 ここで言っている運とは、ただ単についているとかついていないとか博打的な話ではなく、人の潜在意識のプログラムが、無意識のうちに発動されて人間を動かしていくものである。そのなかの良いものはさておいて、ネガティブなプログラムやバグからくる思考パターン行動パターンが問題であるということです。
 それは単に脳味噌や身体に記録されているのではなく魂に刻み込まれたものなのです。だから、能力開発スクールや何とかセミナーに行って一時的には良くなったように見えても、結局は元の木阿弥なのですね。
 こういったことは、能書きやテクニックではないのです。教わったら、はい出来るという問題ではありません。くさい言い方になるが、ハートの問題です。
 その行動原理は陰徳を積むこと、大きな愛を持ってであります。その上で、好む人はブッダの残してくれた道を歩めばよいと思います(べつに仏教だけじゃないですよ、瞑想と智慧の道は幾らでもあります)。
 あなたの周りでシンクロニシティが沢山起きるようでしたら、それこそ運がいい人でしょう。この場合、シンクロニシティは良い意味で使っています。ネガティブなシンクロニシティは、一般的には事故と言いますモンね。そういう意味で運が運んでくるシンクロニシティが自分の周りで起こることが多い人は“智慧の道”を歩いている人でしょう。破綻への道をまっしぐらである競争社会の“力の道”では無い道を。
  
 ということで、わたくし流の仏教に於ける運についてでした。以上

by T.T



(※1)仏教はヒンドゥー教の一派です。ヒンドゥー教のなかの新興宗教です。ヒンドゥー教(バラモン教やジャイナ教など沢山の教義の集合)の思想の多くは、業と魂の輪廻が大前提で、その苦しみの世界である此の世の輪廻からの解脱の為の教えと方法や概念が様々にある。
 
(※2)ゴータマは生まれたときに仙人から、この子は国を統合して、より大きな国の王になるか、出家して尊い聖者のなる運命を持っているといわれたという。もっとも、これだけの運命を持っていた(過去世で徳を積んできた)から、多くの人を導く存在に成ったのであろう。そのような役目であったのかも知れない。
 もう一度調べたら、国を統合してどうこうは、後から付け加えられたものだそうだ。

************************** 我々のような小人は幾らプログラムを変えて、運が良くなったからといっても、お釈迦様と同様になれるわけがない。しかし、求めるのはいまより良い状態であればいい。
 どだい執着するところに悟りはやってこないのだ。足(たる)を知れ。今日生きていられること、粗末でも食事をとれることに感謝すべきなのである。
 感謝がないものに徳なぞついてくるはずもない。せいぜい前世で積んだ徳、先祖の徳を潰さないようにすることだ。しかし、日々感謝して、人のために尽くすことができたなら、ある日突然悟りが向こうからやってくる可能性がないとはいえないのだ。

 より多くの人が小さなものでいいから悟りを持つことに依って大きな力となり幸せな社会が築かれるのである。各人には縁あるその社会の中で必ず役目がある。その役目に気づけるだけでも幸せなのだが・・・。
 幸せはいつもあなたの横にある。
 だから、逆説的であるが、運を良くするなんてことばかり考えていないで、今日を精一杯生きることが大切なのである。ただし、高い理念を持っているということと、自分の中から来る閃きを大切にするということがなくてはならない。

 高い理念なしに努力しても、それが“間違った努力”では、いつか傷つくことなるかもしれない。左脳意識的な社会的常識といわれるものに囚われないで、閃きが生まれるように、高い意識に沿った正しい努力が行えるように、自分の中から来る信号を育てるパスを太く作っておくことも必要だ。
 声無き声が聞こえないで、悟りなどはほど遠い。自力だけで悟れると思うのは思い上がりだ *********************** と、声無き声が言っています(^-^;;
  
 重ねていいますが、この世界は理屈の世界ではありません。一般的エンジニアのよく使う左脳的ロジカルな思考方法だけでは、認識できない世界です。でも、思い出して下さい。あなたがいい仕事が出来たときは、言語化するまえに必ず閃きがあったはずです。それを統合して、物理化するために左脳による作業が必要です。みな、そうやっているのです。お釈迦様も同じことを行いました。ただ、持っている理念と慈悲(愛?)と智慧が我々と比べものにならないくらい高くて深かったのです。 
  

(※3)行為(業)の結果:お釈迦様は、行為(業)によって、生まれてくるところが異なるのだといっています。例え現在がバラモン(司祭階級:インドの階級制度の一番上位)であろうとも、その為すところが非道であれば、生まれ変わった後には、その行為に応じたところへ生まれ変わっていく、同様に今生まれている階級は、前世の行為の結果である。だから、生まれとか氏姓によって尊いバラモンなのではないし、非バラモンなのではない。(前世の)行為によって、バラモンであり、王であり、武人であり、農夫であり、職人であり、商人であり、雇われ人なのである、ということです。だから、今世では行為とその果報との縁起をよく悟って、行いや想いを戒めて、善行を為すように、ということを諭しているのです。
 つまり、我々に当てはめて考えれば、自分の前世の行為によって染み着いた魂の周波数に応じて、ろくでもない親の下に生まれ出でたのであり、嫌な上司と出会うのである。または、お金持ちで優しい親の下に、才能容姿に恵まれて生まれ出でて、良き伴侶に恵まれ、良き子供に恵まれるのであるということですね。けっして、拗ねたり僻んだりする問題ではなく、自分自身が選んだ道と言うことなわけです。
 同様に、民族として不遇なところに生まれたり、飢餓や戦争の多いところに生まれるわけです。
 しかしながらここで大事なのは、そういう行為(業)によって自分は幸せだから良かった、または罰が当たったんだ残念だ(ざまあみろ)、ということではなく、そこからどうするかということなのです。

 日本人て、考え方が暗い人間が多いから、諸行無常とかいうと、直ぐに悪い方ばかり考えます。しかし、それはそう捉えるのではなく、悪いこともいつまでも変わらないのではなく良い方に変わるのだ、と考えるのです。
 仏教での代表的な考え方、お釈迦様が感得し我々に示した、この物理次元の地球上のちょっと精妙で周波数の高いエネルギーの法則に、“縁起の法”というものがあります。これは、字の如く縁によって起こっている、ということなのですが、なにごとも縁を変えれば結果が変わるということです。

 例えば、前世で自分を大事にしてこなかった人は、今世で自分を大切にしてくれない親の下に生まれたりします。そして、出来た恋人が最初は良かったが、結婚したら人が変わったように、自分のことを粗末に扱う、そんな話は良くあるでしょう。それは、自分の意識下で発信しているものが引き付けてしまうのですね。それを変えるには、まず自分の思いや行動を観察し、意識下を調べて因(原因)となっている素を認識します。そして、自分のトラウマを癒し、意識の持ち方、考え方、行動を変えます。これが縁をかえる動力となります。そして、それを積み重ねて確固たる自分の周波数にするのです。もし、その時に配偶者との縁が深ければ相手も変わってきます。また、相手も変われるように手助けをするのです。これが縁の変わり方の楽な例です。
 でも、どうしても相手が変わることを拒否したら、お互いもっている周波数が異なってきてしまいます。その時は体面や経済的なことを計算するような社会的利害は捨てることにして、無理していないで縁を切るのです。これはちょっと大変です。でも、身体一つになっても、またはマイナスを背負っても、それはそれ、また道は開けます。そうすると、自分の発信しているものに応じて、新たな縁が出来ます。そして、新しい事が生まれていくわけです。

 総じてこれを仏教では、因縁果報といいます。因と因の引力によって、縁が出来、それによって出会いという結果が生まれ、出会ったことにより幸せという報いを受けられるということですね。その報いをどの様に受けとめて、如何に行動したかによって次に転じる因を作っているわけです。これが次々と繋がっていくのです。だから、何れかの時点で、自分の行為を変えていけば、自分の発信しているもの(運のプログラム)が変わり、運ばれていく先は新しい世界である、という結果になります。

 また、不遇な立場や民族に生まれてきても、その中にはその不遇な条件を覆す為に戦い抜いて、人間の可能性を見せることを使命として自分が望んで生まれて来たのかも知れません。安楽で腐り掛かっている日本などではなく、もっとエキサイティングなチャレンジを望んだ魂もあるでしょう。また、身障者の方々でとても素晴らしいことを成し遂げている人達がいます。みなそういう方々は、人間の可能性を見せてくれる、また我々が道を歩む上での光となってくれる、そういう存在です。
 ですから、よく国際援助などといって、どこに流れてしまうか解らない物資を送るだけで満足していたりしますが、物や食料と同時に、技術や方法、さらには人間の意識の法則、意識の転換の仕方、霊的価値観なども分かち合う必要があるのです。
 お釈迦様が説かれた、過去の行為によって今の自分がある、という認識を確かに持ち、自己の転換を図りその行動を変えるという智慧がすべての基礎となることを、より多くの人が持ち得たら、どれだけ世の中の改革が進むことでしょう。それは他人に認められるとかではなく、今直ぐ自分自身の足下から始められることなのです。

(※4)ブッダ:覚者
 お釈迦様だけではありません。お釈迦様自身が、自分ゴータマは7人目のブッダで、自分の説いていることは古道(昔からあった悟るための道)を再発見して、みんなに解るように説いているだけだと言っているのです。
 ブッダとは業による輪廻転生から抜け出て、自由の境涯を得た存在のことです。人間でなくなってしまった存在ですね。そのブッダの境地を得るための方法と場を解放したのが、お釈迦様ゴータマブッダ(釈迦牟尼:Sakyamuni)です。
 ゴータマも悟った後は、先人の聖者達と同じように山に隠って、衆生には解らないこの境地を独り楽しもうかと思ったのですが、ブラフマー神に諭され民衆の中に戻ったのでした。

(※5)苦行:タパス(tapas)
 サンスクリットで熱とか火とかの意味を持つ語。転じて自分を責め苛むこと、熱をおこす行、宗教的難行苦行をいう。中村元博士の著書、ブッダの真理のことば(ダンマパダ)、感興のことば(ウダーナヴァルガ)岩波文庫には、真理の言葉訳注184苦行---tapa.苦行は『スッタニパータ』六五五でも重んぜられている。そこでは『苦行と清らかな行いと感官の制御と自制と』とあるが、これら(tapa,brahmacariya,dama)は『ウパニシャッド』に述べられている苦行であり、制戒(samyama)は叙事詩に説かれている。なんら仏教特有のものではない。「苦行」の原語はtapa である。『ダンマパダ』第一八四、一九四詩でも苦行を重んじていう。これはジャイナ教などで苦行(tavas)を重んずるのを直接に受けている。(Utt.氤氤,20;ィィィ,17f,ィ」氤氤,31.)ところでタパスという語はインド一般としては必ずしも身をさいなむ苦行のみを意味していたのではない。例えば---以下略す。
 この中に書かれている制戒:サンヤーマ(samyama)をヨガ的に説明すると、これは瞑想に於ける以下の三つのものの総括していう名称で、凝念:ダーラナ(dharana)、静慮:ディヤーナ(dhyana)、三昧:サマーディ(samadhi)を指す。簡単にいうと、凝念とは集中のことで、心を1点に固定することである。静慮は一般にいう禅の元の言葉になったもので、瞑想の対象と一体化すること。三昧は静慮の究極の段階で自分自身も時間もなくなり宇宙そのもの、ブラフマンとなってしまうことである。
 当然、これらの高度の修行以前に、心にネガティブな思いを残すような行為を行わない為の戒を守り行為を浄化し、思念を浄化する。そして長時間座れる身体にするためには体位:アーサナ(asana)を行い身体を柔軟にする。同時に不随筋の肉体的ヨガのトレーニングが行われ、身体内の浄化法も行われる。さらには様々な調息:プラーナヤーマ(pranayama)呼吸法から始まり、松果体、視床下部、甲状腺、胸腺、太陽神経叢、性腺などのホルモン分泌部位に重なるといわれるチャクラという霊的センタのエネルギーコントロールや体中の気の流れの意識的コントロール法を制する。これらの修練の過程で、自分のエゴがブロックしている滞りを、苦痛を与えることで流れるようにすることも必要である。

 さて、これらを苦行と云わずして何というのでしょう。門外漢から見ればすべてが苦しそうです。私には出来ません!
 これを破棄してゴータマは苦行は益がなかったと言いますか? インドの修行者はこれらを行うのは当然のことであり、これにどう工夫をして、人間を超えた知見に達するかという話なのです。学者というのは、人々が知識を集めてくる労力を軽減することに関しては多大な貢献をしていると言えます。しかしながら、残念なことに頭だけで考えて、現場を知らない学者というのは、時としてして真実から離れてしまうことがあります。真実の智慧に到達するには、下記に紹介するミラレパの伝記の訳者であるおおえまさのり氏が言われているように、ドグマや書物に囚われずに、自我の創り出すマーヤーを吹き払い、実体験による智慧によって、個の空性の転換による目覚めたものへの道を進むことが望まれているのです。


 お釈迦様以降では、11世紀後半のチベットの聖者、ミラレパがブッダの法統におられます。ミラレパについての和訳の本が何冊か出ているので手にいれられるか調べてご覧になるといいでしょう。ミラレパがブッダになられる半生は読み物としてもスリリングで面白いし、訳編者のおおえまさのり氏が見開きに書かれている“このミラレパの伝記を書物や伝統に基づいた信仰に囚われた人々にでなく実体験によって智慧を探し求める人々に捧げる”という言葉通りにミラレパの物語とその詩は、個の転換を図ろうとする目覚めへの旅を歩み始めた我々にとって、光となるものであります。おおえ氏と関係者の方々の思いがこもったご努力により、ジェツン・ミラレパの智慧をそのまま現代に伝えることができる貴重なソースです。
☆チベットの偉大なヨギー“ミラレパ”おおえまさのり訳編 オームファウンデーション刊(25年前:1971年の本で、教典と同じような装幀になっている。その後、装幀は普通の本になって、めるくまーる社からも出ていた) 
☆チベット密教の至宝“ミラレパの十万歌”おおえまさのり訳 いちえんそう刊めるくまーる社発売

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附記:
 因みにわたくしめは特定の宗教を信奉しているわけではありません。公私ともにどこの団体にも所属していません。群れるのが好みではないだけです。ただ、宗教的なことはスキなので、ついついそんな目で物事を観察してしまいます。
 ここに書いたことは、先人達先輩方が言ったことを、私のフィルターを通してグチャグチャにシェイクし、想像たくましくして書いたものです。
 でも、もしはまれば内容は大当たりしていると思います。外したりしている可能性は大いにありますし、勘違いしていたらゴメンナサイ。責任は持てません m(_ _)m 
 
 最初は知人に送ったメイルをアップしてあったのですが、Infoseekでふざけて、“仏教|運”とか入れたら最初にヒットしてしまうではないですか。まさか、そんな検索をする人もいないでしょうが、気が向いたので加筆して再アップしました。
 では皆様の幸せを心よりお祈り申し上げて失礼します。ともに光の道の彼方であいまみえんことを   合掌 

 それから、ここで私が使っている“徳”という言葉は、浄化され蓄積されたポジティブなエネルギーのことだと考えていただければよいと思います。人を惹きつけ、ものを引きつけます。理屈ではなく、なんとなくその人の役に立ちたいとか、喜ばせたいとか、人や動物、ものが向こうから集まってくる引力みたいなものであります。それはその人が前世で外界に対して如何に役に立ってきたか、また今世で役に立ちたいかと思っているか、何れにしても魂の履歴書みたいなものではないでしょうか。
 
 でも、同じようなことは、そんな高尚なレベルでなくても起きます。例えば、未熟な魂は未熟なリーダー(超人的能力“動物的超能力”もあり、口で美しいことを言うが、霊性の低い)のところに吸い寄せられます。波長が合うもの同士しか引き合わないからです。
 それはそれでお互いの学びの場であるのですが、勘違いしたリーダーは、自分は徳があるのだと思い増長してしまいます。精神世界のグループで良くある勘違いです。それは単なる利用しあう関係なだけなのですが、本人達は亡者的意識状態ですから、それに気がつかないのです。
 果たしてそういうリーダーですからやがて魂が濁りはじめ、当たり前のように転落すると、引き寄せられた魂を持った人達も共に同じ道を歩んでしまいます。

**************** こうして宗教的リーダーは、業の解消どころかさらに取り返しのつかない業を作っていくのだ。 
 多くの宗教団体をみていると、信者の多くは自己確立が出来ていない人が殆どである。自分が責任をとるという意識が出来ていないので、良いことがあれば仏様神様のお陰、悪いことがあれば、持っている運命が悪い、先祖が成仏していない、霊障がある、墓相家相が悪い、などと次々に理由を考える。
 
 そうじゃなくて、自分の魂のバイブレーションが低いから、悪い運命に生まれてくるのであり、先祖が成仏していない家系に生まれてくる。成仏していない霊に憑依されるのであり、相の悪い家に縁が出来る。すべて自分が原因なのである。そういう流れになる業を自分で作ってきたのだ。
 
 そういった事実から目を背けて、彼らはお力がありそうな教祖にすがる。責任逃れをして教祖を利用するわけである。教祖は教祖で自己確立されていないから、自分の持っている力に集まってくる信者が多いと嬉しくてしょうがない。人の目を常に引きつけておかないと、自己存在の確認がとれないのだ。でも、自分では人と世の中の役に立っているつもりになれる。
 彼らは潜在的に潜む不安と恐怖に自分自身で面と向かうのでなく、常に他の存在に依存して、足りない部分を充たそうとするわけである。
 つまり魂を売り渡したもの同志の集まりになってしまう。そして、終いには大きなネガティブな存在に憑依されてしまうことになる。
 
 こういったことは表面だけでは解らないので厄介だ。今の時代、ちっとは知識や情報が増えたから、並の頭があれば言ったり書いたりするだけなら立派なことが表現できるのだ。(私も同様だけどね)
 でも、煽ててその本心の行動原理を探ったり、また少し乱暴だが相手のプライドを傷つけることや存在を否定することを試しに言ってみたりすると面白い。分析すると、矛盾することが沢山出てくる。それ以前に、そんなことをすると、調子に乗ってペラペラしゃべったり、手のひらを返したように豹変するので、良く解るかも知れない。いままで紳士淑女だった人の顔がサッと変わるのだよ。
 もっとも、あなた自身が浄化されていないと思ったら、そんなことしていないでさっさと立ち去る方が賢明である。
 
 さてこのような事例を情報化社会に住む我々は沢山みることが出来る。そう、今の時代は組織や教祖に依存する古い形態は必要ないのである。一人一人が神や仏とつながれる時代に質が変化したのだ。 
 気づいた人達は一人一人が自分教の教祖になればよいのだ。自分の奥の、神や仏につながる声を聞くことだ。そして余分なものは捨て、他人様と地球上の存在の役に立つことに智慧をしぼって行動することだ ***************** と、声無き声が言っています。
 
 ときどき偉そうな書き方をしているところ(全部か?)は、勝手に手がキーを打ってしまうんです。私の言葉ではありません。わたしはいつももっと謙虚です。(^-^) <--- ホントかあ? ウウ、あぶないあぶない、転落の道が (^-^;;;
 では、本当に終わります。ありがとうございました、乱文長文読んで下さって。合掌

追記`03/4/1:この内容は`96年頃に書いたものだが、その後、世の中は益々混迷してきている。しかし、その中でも進化?している人達も増えているのは事実だ。2003年3月米英のイラク侵攻が始まったが長期戦にもつれ込んでいる。アメリカは、またカルマの繰り返しを行うことになるのだろうか。
 そういった出来事の中で、それらを客観的視点をもって相似的な自身の内部の問題として捉え考えられるなら、この既に二極化してしまっている世の流れの中では、良き流れを掴んでいるのかも知れない。奔流を流れる木の葉の様に、自身が軽ければ、落ち込みや巻き返しに捉えられずに、流れの表層の上を上手く流れに乗って下っていくことが出来る。宗教団体や自己改革セミナー、カリスマ的な人間などから離れて(行脚した上で?)、個の中に入り、自立した意識を持って大いなる存在と繋がっている人が増えている様であるが、それであっても此処の頁に書いた様なエゴの勘違いの問題は避けて通れるわけではない。
 その様なわけで、ふと書いておこうと思い浮かんだので追記。何年か前に読んだ本で、これらの諸問題について更に深いレベルでの理解を得る為のガイドブックになるものが有るのでご紹介させて頂く。こんなページを読む方にはご存じの方は多いと思うが、トランスパーソナル心理学といわれる分野のものである。だが、内容はそんな言葉で一括りに出来ず、我々一人一人が魂の成長に於いて自分自身の意識を明らかにしていく上で指針になると思われるので、少しばかり一般の人とは違う能力を身につけつつあると、ご自身で思われる人はお調べになってみて欲しい。特に、超能力的なことや超常的ことを人前で行ったり喋ったりしている方々へのプレゼント。他人から賞賛されているときは良いけれど、思惑とは違うこと、他者から批判的な意見を言われると、途端に自我がむき出しになると自覚する人(自覚出来ている人?)にね。。。そんなこと繰り返しやってると、今は良いけど、いつかポシャりますぜ。それも他人を巻き込んで・・・
“スピリチュアル・エマージェンシー”心の病と魂の成長について スタニスラフ・グロフ、クリスティーナ・グロフ編著 高岡よし子、大口康子訳 春秋社刊 3000円+税 ISBN4-393-36013-3 1999年6月25日初版
執筆陣が充実しており、あらゆる宗教を超えて、魂の進化に於ける諸問題が書かれている。エゴの肥大(インフレーション)、狂気、霊的覚醒時の落とし穴などを、気づき乗り越える為の手引きとなる内容が、医者や研究者の立場として科学的な見地から取り上げられている。

 こんなことを此処に書いたので、以前よりサーバーにはアップしてあってリンクをしていなかった単独頁を、この頁に繋げておきましょうか。“フィーリングの源泉がどこから来るのか見極める能力-----審神者(さにわ)の能力
あんまり、こういう話は興味ある人なんていないので仕舞っておいたのだけれど、まあ何処でご縁があるか解らないし、、、ね。こんなこと書いていたって、一般社会でまともにやっていけないんじゃあなんにもならないから。こういった事柄は生活をきちんとした上でのことですよね。(^-^;; --->自分


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