元正天皇 げんしょうてんのう 天武九〜天平二十(680-748) 略伝

草壁皇子を父に、阿閉皇女(元明天皇)を母に生まれる。諱は氷高(日高)、または新家内親王とも。
和銅八年(715)、一品に叙せられる。霊亀元年(715)、母元明天皇より譲位され、幼弱の皇太子首への中継的な天皇として即位する。同三年、美濃国に行幸し、多度山の美泉に因み養老と改元。翌年、藤原不比等らにより『養老律令』が撰修される。養老四年(720)二月、隼人反乱に際し大伴旅人を九州に派遣する。同年五月、舎人親王らが『日本書紀』を撰進。同年八月、不比等が薨去すると舎人親王を知太政官事に任命し、翌年には長屋王を右大臣に、藤原房前を内臣に任命する。同七年、三世一身法を発布。
翌年の神亀元年(724)、皇太子首に譲位。以後は太上天皇として聖武天皇の後見的な立場にあったが、天平十六年(744)二月、聖武天皇の紫香楽行幸に際しては左大臣橘諸兄とともに難波に留まり、諸兄に難波遷都の勅を宣伝させた。この頃、難波堀江と諸兄宅で遊宴し、橘讃歌を詠むなど、諸兄に対する信頼を表明している。同年十一月、紫香楽に行幸。平城還都後の天平十八年(746)正月、橘諸兄らが諸王諸臣を率いて太上天皇の御在所(中宮西院)に参入し、雪掃きに供奉。この時諸兄・家持らが詔に応じて歌を詠んだ。同二十年四月二十一日、平城宮寝殿に崩ず。佐保山陵に火葬される。天平勝宝二年(750)、奈保山西陵に改葬。『続日本紀』元明天皇譲位の詔に「生れながらに心が広く、しとやかで美しく、朝廷の人々こぞって推戴し、その徳をたたえた」旨ある。万葉集に少なくとも五首の歌を載せる。

冬雑歌

(はた)すすき尾花逆葺(さかふ)き黒木もち造れる屋戸は万代までに(万8-1637)

【通釈】皮つきの黒木を用い、尾花を逆さ葺きにして(古風に)造り構えたこの家は、万代の後までも絶えることなく栄えよ。

【補記】左注によれば、長屋王の佐保宅での詠。

太上皇の難波の宮にいます時の歌

玉敷かず君が悔いていふ堀江には玉敷き満てて継ぎてかよはむ(万18-4057)

【通釈】玉石を敷いておかなかったと貴方が悔やんで言う堀江には、私が玉を敷き詰めて、これからずっと通い続けましょう。

【補記】左注には「御船の江を(さかのぼ)りて遊宴せし日」の詠とある。これは左大臣橘諸兄の歌、「堀江には玉敷かましをおほきみを御船漕がむとかねて知りせば」に和した歌。ここに言う「堀江」は難波堀江。元正上皇が橘諸兄らと共に難波宮に滞在したのは、天平十六年閏一月十二日頃から同年十一月十四日まで。参考:難波(家持アルバム)

左大臣橘卿の宅に肆宴(とよのあかり)する御歌

橘のとをの橘やつ代にも(あれ)は忘れじこの橘を(万18-4058)

【通釈】めでたい橘の中でも、枝も撓(たわわ)に実ったこの橘。いつの代までも、私は忘れはしないだろう、この橘を。

【補記】「やつ代」のヤは八で、無限の数量を表わす。これも難波で橘諸兄が催した宴での作で、諸兄への讃美と信頼を表している。

山村に幸行(いでま)しし時の歌
先の太上天皇の、陪従の王臣に詔りたまはく、夫れ諸王卿等、和ふる歌をよみて奏すべしと曰りたまひて、即ち歌詠みし給はく

あしひきの山行きしかば山人(やまびと)の我に得しめし山つとぞこれ(万20-4293)

【通釈】山道を歩いていたところ、たまたま逢った山人が、私にくれた山の土産であるぞ、これは。

【補記】題詞の「山村」は地名で、現在の奈良市山町。「山行き」に山村へ行く意を、「山人」に山村の村人をかけた、謎かけ歌。「山づと」は、山で採れたみやげもの。花や紅葉を指すと見る説、土地のささやかな献上物と見る説などがある。
これに答えた舍人親王の歌、
 あしひきの山に行きけむ山人の心も知らず山人や誰

霍公鳥をよみませる大御歌

霍公鳥なほも鳴かなむ本つ人かけつつもとな()()し泣くも(万20-4437)

【通釈】ほととぎすよ、もっと鳴いておくれ。去年も来て鳴いてくれた懐かしい鳥よ、おまえをこんなに心にかけているのに、一声ばかりで去ってしまって、私を泣かせるとは、酷いではないか。

【補記】これに答えた薩妙観の歌、
 霍公鳥ここに近くを来鳴きてよ過ぎなむ後に験あらめやも


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日