大伴旅人 おおとものたびと 天智四~天平三(665-731) 略伝

安麻呂の長男。家持書持の父。坂上郎女の異母兄。万葉集には大宰帥大伴卿・大納言卿などの敬称で現れ、また自らは書簡文に淡等と署名しており、「旅人」の名は一度も見えない。続日本紀には「旅人」「多比等」とある。
和銅三年(710)、元旦朝賀において左将軍として騎兵を陳列、隼人・蝦夷らを率いる。同七年、父を亡くす。同八年正月、従四位下より従四位上に昇叙される。同年五月、中務卿に就任。養老二年(718)三月、参議を経ず中納言に昇進する(中務卿留任)。この年、長男家持生誕か。同三年正月、正四位下。同四年三月、征隼人持節大将軍として九州に赴任するが、同年八月、右大臣藤原不比等が薨去し、勅命を受け京に帰還した。養老五年(721)正月、従三位。同年十二月七日、元明上皇が崩御し、翌日陵墓の造営に当たる。神亀元年(724)二月、聖武天皇即位に際し、正三位に昇叙される。同年三月、吉野行幸に従駕し勅を奉じて歌を作るが、奏上には至らなかった。神亀四年(727)末か翌年春頃、帥として大宰府に赴任。以後、山上憶良沙弥満誓ら文人と交流。翌年夏、正妻の大伴郎女を失い、報凶問歌などを詠む。天平二年(730)正月、大宰府の帥邸において梅花宴を開催する。同年十一月、大納言を拝命し、やがて帰京。同三年正月、従二位に昇り、当時の臣下最高位となる。同年七月二十五日、薨ず。六十七歳。
所謂筑紫歌壇の中心人物。『懐風藻』にも名が見え、五言一首を載せる。勅撰和歌集への入集は新古今以下に十三首。

「その場その場の感懐を吐露する機会詩としての短歌の創作は、憶良や彼によって始まった。ことに旅人は、新知識・新思想を背景に、純粋な創作動機に徹し、しかも大貴族としての矜持を失わなかった」
「旅人の歌は、決して繊細でもないし、また感傷があらわに出過ぎるところがあるし、感受性の振幅度も広くはない。だが、在来の呪歌的・儀式歌的な威儀から、思いきって脱け出して純粋な抒情を開いたところがよい。あまりに平淡・平板であり過ぎるのは、古風な垢を篩(ふる)い落したその結果だと言ってもよかろう」(山本健吉『萬葉百歌』)

万葉集で確実に旅人の作と思われる歌のほぼすべて(五十六首)を載せた。その生涯を見渡しやすいように、ここではおおよそ制作年代順に並べてみた。

 大宰府赴任以前 2首 大宰府にて 39首 京へ向かう 10首 帰京以後 5首 計56首

大宰府赴任以前

暮春の月、芳野の離宮に幸(いでま)す時、中納言大伴卿、勅(みことのり)を奉(うけたまは)りて作る歌一首 并せて短歌

み吉野の 吉野の宮は 山柄やまからし たふとくあらし 川柄かはからし さやけくあらし 天地あめつちと 長く久しく 万代よろづよに 変らずあらむ 行幸いでましの宮(3-315)

反歌

昔見しきさの小川を今見ればいよよさやけく成りにけるかも(3-316)

【通釈】[長歌] 美しい吉野宮は、山の品格ゆえにこそ、神々しいのだな。川の品格ゆえにこそ、清らかなのだな。天地が長久であるように、万代にまで変わることはないだろう、天皇がおいでになるこの離宮は。
[反歌] 昔見た象の小川は、今見ればいよいよますます冴え冴えと美しくなったことよ。

象の小川 奈良県吉野郡吉野町
象の小川

【語釈】[長歌]◇み吉野の 「吉野」の枕詞のように用いられた詞。「み」は讃め言葉。「見よし」(見て美しい)の意も掛かる。◇山柄し…川柄し 『論語』の「知者楽水、仁者楽山」を踏まえる表現であることが指摘されている(→資料編)。因みに「川」は万葉集の原文では「水」の字が遣われている。◇貴くあらし 「貴くあるらし」に同じ。「らし」は確かな事実をやわらげて言っているので、推量というわけでもない。◇天地と長く久しく 原文は「天地与長久」。漢語「天地長久」の直訳的表現であることが指摘されている(清水克彦『万葉論集』)。
[反歌]◇象の小川 宮滝で吉野川に合流する喜佐谷川。「きさ」は動物のゾウの古名。

【補記】神亀元年(714)三月、聖武天皇の吉野行幸に従駕した時、天皇の命により作ったという長短歌。旅人六十歳。題詞脚注に「未逕奏上歌」(未だ奏上を逕(へ)ぬ歌)とあり、天皇に奏上されることはなかったという。中納言のような高位の人物の宮廷讃歌が奏上される慣例がなかったため、天皇への奏上には至らなかったものか。題詞に「奉勅」とあるのを旅人の「見立て」(仮構)と見る説もある(伊藤博『萬葉集釋注』)。万葉集を見る限りでは旅人の処女作。

【他出】[反歌]古今和歌六帖(作者名不明記)、五代集歌枕(作者「波多朝臣」)、歌枕名寄(作者「家持」)、玉葉集(作者「中納言家持」)

【参考】作者未詳「日本書紀」
み吉野の 吉野の鮎 鮎こそは 島へも良き え苦しゑ 水葱(なぎ)の本(もと) 芹の本 あれは苦しゑ
  「続日本紀」聖武天皇即位時の宣命
万世尓不改常典止(万世よろづよかはるましじき常ののりと)

【主な派生歌】
昔みしきさの小川はかはらねど我が年波ぞ立ちかさねぬる(一条兼良)
いよよ清く成りにしといひし象川は今いかならむ見まほしきかも(田安宗武)

大宰府にて―神亀五年~天平二年

そち大伴卿の歌五首

我が盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ(3-331)

【通釈】私の盛りの時がまた返ってくることがあろうか。いやそんなことはあり得まい。ひょっとして、奈良の都を見ないまま終わってしまうのではなかろうか。

【補記】防人司佑大伴四綱の「藤波の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君」に応じた歌。この歌以下、神亀五年四月頃、大宰少弐小野老の着任を祝う宴での作。

【主な派生歌】
吾が盛りくだつともよし吾妹子が玉の光儀(すがた)の旧りずありせば(鹿持雅澄)

 

我が命も常にあらぬか昔見しきさの小川を行きて見むため(3-332)

【通釈】私の命はいつまでもあってくれないものか。吉野へ行って昔見た象の小川を再び見るために。

【補記】同じく大宰府で小野老を歓迎する宴で詠んだ作。奈良の都に対する望郷から、吉野に対する懐旧の念へと転換。

 

浅茅原あさぢはらつばらつばらに物へばりにし里し思ほゆるかも(3-333)

【通釈】浅茅原の茅原(つばら)ではないが、つばらつばらと(つらつらと)物思いに耽っていると、古びてしまった明日香の里がしみじみ思われることよ。

【補記】吉野から生まれ故郷の飛鳥へと追想は展開する。

【主な派生歌】
憂きことをつぶらつぶらに思ほえば君のみあがり悲しきろかも(久坂玄瑞)

 

萱草わすれぐさ我が紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため(3-334)

【通釈】忘れ草を私の衣の紐に付けるよ。香具山の故里を自然と忘れてしまえるために。

【語釈】◇忘れむがため 下二段活用の「忘る」は、自然と忘れる意。意識的に努めて忘れるのではない。

【補記】ノスタルジーに堪えきれず、いっそのこと故郷を忘れてしまいたいと詠む。

 

我がゆきは久にはあらじいめわだ瀬とはならずて淵にてありこそ(3-335)

夢のわだ
夢のわだ 吉野宮滝

【通釈】私の旅は長くはないだろう。吉野川の夢のわだよ、年経ても浅瀬にはならず、美しい水を湛えた深い淵のままであってくれ。

【語釈】◇わが行(ゆき) 私の旅行。大宰府の帥(そち)としての赴任の旅を言う。◇夢のわだ 象(きさ)の小川(喜佐谷川)が吉野川に注ぐあたりの淵かと言う。「わだ」は川などの湾曲している所。

【補記】しめくくりでは再び朝廷の聖地吉野への思いを歌い上げる。望郷歌五首、いずれも抒情性豊かな秀詠である。

大宰少弐石川朝臣足人の歌一首

さす竹の大宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも君

帥大伴卿の和(こた)ふる歌一首

やすみしし我が大君のす国は大和もここもおやじとそ思ふ(6-956)

【通釈】我が大君の治められる国は、大和もここ筑紫も同じと思っています。

【補記】神亀五年(728)、大宰府での作。下僚の石川足人から「奈良の佐保山のお邸を懐かしくお思いでは」と聞かれたのに対する返歌。

大宰帥大伴卿、凶問に報ふる歌一首

禍故重畳し、凶問累集す。永(ひたぶる)に心を崩す悲しみを懐き、独り腸を断つ泣(なみた)を流す。但両君の大助に依りて傾命纔(わづ)かに継ぐのみ。筆言を尽さず。古今歎く所なり。

世の中は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり(5-793)

神亀五年六月二十三日。

【通釈】世の中は空しいものだと言いますが、こうしてそのことを思い知る時、諦めの境地になるどころかさらにいっそう深い悲しみに襲われるのです。

【補記】「凶問」は弔問と同様。大宰府で妻を亡くした旅人を弔慰する使者が朝廷から派遣された時に詠まれた歌らしい。「累集」というのは、同じ頃弟の宿奈麻呂が亡くなったからか。万葉集巻五巻頭。この歌の後に山上憶良の「日本挽歌」が続く。

式部大輔石上堅魚朝臣の歌一首

ほととぎす来鳴きとよもす卯の花のむたやなりしと問はましものを

右は、神亀五年戊辰、大宰帥大伴卿の妻大伴郎女、病に遇ひて長逝す。時に勅使式部大輔石上朝臣堅魚を大宰府に遣(つかは)して、喪を弔(とぶら)ひ、併せて物を賜ふ。 その事既に畢(をは)りて、駅使と府の諸卿大夫等と、共に記夷城(きのき)に登りて望遊する日、すなはちこの歌を作る。

大宰帥大伴卿の和(こた)ふる歌

橘の花散る里のほととぎす片恋しつつ鳴く日しぞ多き(8-1473)

【通釈】橘の花が散る里のほととぎすは、散った花を独り恋い慕いながら鳴く日が多いことです。

【他出】古今和歌六帖、続古今集、新時代不同歌合、夫木和歌抄、雲玉集

【主な派生歌】
橘の花ちる里のかぜとめばむかしの人とねぬべしや君(藤原基俊)
たち花の花ちる里のすまひかなわれもさこそは昔がたりよ(慈円)
橘の花ちる里の夕風に山ほととぎす声かをるなり(藤原家隆)
橘の花ちる里の夕づくよ空にしられぬ影やのこらん(藤原定家)
橘の花ちる里の庭の雨に山時鳥むかしをぞとふ(藤原良経[玉葉])
橘の花ちる里の夕ぐれにわすれそめぬる春のあけぼの(藤原良経)
ほととぎすきけどもあかず橘の花ちる里の五月雨の頃(*源実朝)

神亀五年戊辰つちのえたつ、大宰帥大伴卿、故人をしのひ恋ふる歌三首

うつくしき人のきてし敷布しきたへの我が手枕たまくらを纏く人あらめや(3-438)

右の一首は、別れにて数旬を経て作る歌。

【通釈】いとしい人が枕にした私の腕(かいな)――この手枕を、亡き妻以外に枕にする人がいるだろうか、いるわけがないのだ。

【補記】「故人」は亡き妻。

 

帰るべく時はなりけり都にて誰が手本たもとをか我が枕かむ(3-439)

【通釈】故郷へ帰るべき時となったことよ。しかし都で誰の腕を私は枕として寝るのだろうか。

 

都なる荒れたる家に独り寝ば旅にまさりて苦しかるべし(3-440)

右の二首は、京に向ふ時に臨近ちかづきて作る歌。

【通釈】都の荒れた家に独りで寝れば、旅先での野宿よりも更に辛いことだろうよ。

冬十一月、大宰の官人等、香椎の廟(みや)を拝(をろが)み奉り、訖(をは)へて退(まか)り帰る時、馬を香椎の浦に駐めて、各(おのもおのも)(おもひ)を述べて作る歌
帥大伴卿の歌一首

いざ子ども香椎かしひの潟に白妙の袖さへ濡れて朝菜摘みてむ(6-957)

【通釈】さあ皆の者よ、この香椎の干潟で、袖まで濡らして朝餉(あさげ)の海藻を摘みましょう。

【補記】神亀五年(728)。香椎は福岡市の東北。仲哀天皇と神功皇后を祭る香椎宮がある。

帥大伴卿、遥かに芳野の離宮を思(しの)ひて作る歌一首

隼人はやひとの瀬戸のいはほも鮎走る吉野の滝になほしかずけり(6-960)

【通釈】名高い隼人の瀬戸の大岩も、鮎が走るように泳ぐ吉野の美しい急流にはやはり及ばないことよ。

【補記】神亀五年か翌天平元年。「隼人の瀬戸」は北九州市門司区と下関市壇ノ浦の間の早鞆(はやとも)の瀬戸を指すかという。

帥大伴卿、次田(すきた)の温泉(ゆ)に宿りて、鶴の喧(な)くを聞きて作る歌一首

湯の原に鳴く葦鶴あしたづが如く妹に恋ふれや時わかず鳴く(6-961)

【通釈】湯の原で鳴く葦鶴は、私と同じで妻が恋しいのだろうか、絶えず鳴いている。

【補記】神亀五年か翌天平元年の作。「次田の温泉」は福岡県筑紫野市の二日市温泉。「湯の原」は温泉の湧く野原(固有名詞と見る説もある)。

大宰帥大伴卿、大弐丹比県守卿の民部卿に遷任するに贈る歌一首

君がためみし待酒まちさけ安の野に独りや飲まむ友無しにして(4-555)

【通釈】あなたをお待ちして特別に醸造した酒を、安の野で一人ぽっち飲むのだろうか、友も連れずに。

【補記】大宰大弐だった多治比県守が参議に任命されたのは天平元年(729)二月。民部卿は同じ頃兼任したと思われる。「安の野」は福岡県朝倉郡夜須町あたりの野。

伏して来書をかたじけなくし、つぶさに芳旨をうけたまはる。忽ち漢を隔つる恋を成し、復た梁を抱くこころを傷ましむ。唯ねがはくは、去留きよりうつつみ無く、遂に雲をひらかむことを待つのみ。
歌詞両首 大宰帥大伴卿

龍のも今も得てしか青丹よし奈良の都に行きて来むため(5-806)

【通釈】龍の馬を今すぐにも手に入れたい。奈良の都に行って、あなたに逢って帰って来るために。

【語釈】◇漢を隔つる恋 「漢」は天の川。奈良と筑紫と遠く隔たっていることを「漢を隔つる」と譬えた。◇梁を抱く意 橋の下で女を待っていた男が、川の増水に呑まれ、橋柱を抱いたまま死んだという『文選』等に伝わる故事を踏まえる。◇去留 奈良を去った自分と、奈良に留まった相手。

【補記】奈良にいる友人(女性か)に大宰府から贈った書簡と歌。

【主な派生歌】
たつの馬をわれ得てしがも九重のみやこの春を行きて見むため(久坂玄瑞)

 

うつつには逢ふよしも無しぬば玉の夜のいめにを継ぎて見えこそ(5-807)

【通釈】現実には逢う手立てもありません。夜の夢にだけでも続けて現れて下さい。

大宰帥大伴卿の歌二首

我が岡にさ牡鹿をしか来鳴く初萩はつはぎの花妻とひに来鳴くさ牡鹿(8-1541)

【通釈】私の住む岡に牡鹿が来て鳴く。萩の初花を花嫁に得ようとやって来て鳴く牡鹿よ。

【補記】巻八の秋雑歌。鹿と萩を男女に擬えた例は万葉集に少なくない。題詞からして大宰帥時代、また歌の内容から神亀五年夏の妻の死去以降の作かと思われる。

 

我が岡の秋萩の花風をいたみ散るべくなりぬ見む人もがも(8-1542)

【通釈】私の住む岡の秋萩の花は、風がひどいので、今にも散りそうになってしまった。一緒に見て惜しむ人がいてくれたらよいのに。

大宰帥大伴卿、冬の日に雪を見て、京を憶おもふ歌

沫雪あわゆきのほどろほどろに降りしけば奈良の都し思ほゆるかも(8-1639)

【通釈】泡雪がまばらに降り積もると、奈良の都が偲ばれることだ。

【補記】巻八冬雑歌。

大宰帥大伴卿の梅の歌

我が岡に盛りに咲ける梅の花残れる雪をまがへつるかも(8-1640)

【通釈】私の住む岡に、真っ盛りに咲いている梅の花――と思ったら、消え残った雪を見間違えてしまったのだなあ。

【補記】これも冬雑歌。枝に積もった雪を満開の梅と見間違った、ということ。

大伴淡等謹状
梧桐の日本琴一面 対馬つしま結石ゆひしの山の孫枝ひこえなり
この琴、夢に娘子をとめりて曰く、「われ、根を遥島えうたう崇巒すうらんせ、からを九陽の休光にさらす。長く烟霞えんかを帯びて、山川さんせんくまに逍遥す。遠く風波ふうはを望みて、雁木がんぼくあひだに出入りす。唯百年の後、空しく溝壑こうかくに朽ちなむことを恐る。たまたま良匠に遭ひて、られて小琴と為る。質あらく音少きを顧みず、つねに君子の左琴さきんとならむことをねがふ」といひて、即ち歌ひて曰く、

いかにあらむ日の時にかも声知らむ人の膝の我が枕かむ(5-810)

【通釈】いつになったら、この声を聞き分けてくれる方の膝の上を私は枕にすることができるのでしょうか。

【補記】「淡等」は「たびと」を漢風に表記したもの。賦の形式を借りて藤原房前に思いを伝えた。

僕その詩詠にこたへけらく、

言問はぬ木にはありともうるはしき君が馴れの琴にしあるべし(5-811)

【通釈】琴の娘子よ、あなたは物言わぬ木ではあるけれども、立派なお方がいつもそばに置く琴になることができるでしょう。

琴の娘子が答へて曰く、「つつしみて徳音とくいんうけたまはる。幸甚幸甚」といへり。片時にして覚めたり。即ち夢の言にかまけ、慨然として黙止もだり得ず。かれ公使おほやけつかひに附けて、聊か進御たてまつるのみ。 謹状不具
天平元年十月七日、使に附けて進上たてまつる。
謹みて中衛高明閤下にたてまつる 謹空。

【補記】以上は藤原房前に贈った歌文。

帥の宅に宴してよめる梅の花の歌

我が園に梅の花散る久かたの天より雪の流れ来るかも(5-822)

【通釈】この我らの集う園に梅の花が舞い散る――天から雪が流れ落ちてくるのだろうか。

【補記】天平二年(730)一月十三日、旅人邸で梅の花を賞美する宴を催した時の作。大宰府の官人ら総勢三十二名が梅の歌を詠んだ。

【他出】和歌童蒙抄、袋草紙、夫木和歌抄

員外故郷を思ふ歌

我が盛りいたくくたちぬ雲に飛ぶ薬むともまた変若をちめやも(5-847)

【通釈】私の盛りの時は過ぎ、すっかり下り坂になってしまった。雲の上にまで飛べるという薬を飲んでも、再び若返ることなどできようか。

【語釈】◇雲に飛ぶ薬 飛行長生の仙薬。漢土の説話類によく出て来る。

【補記】梅花の歌三十二首の補篇。「員外」は成員の枠外の意。作者名は隠してあるが、旅人の作であると認められる。

 

雲に飛ぶ薬食むよは都見ばいやしきが身また変若をちぬべし(5-848)

【通釈】雲の上まで飛べる薬を飲むよりは、都を見たい。そうしたら、みっともない我が身も若返るにちがいない。

大宰帥大伴卿、酒を讃むる歌十三首

しるしなき物を思はずは一坏ひとつきの濁れる酒を飲むべくあるらし(3-338)

【通釈】くよくよと甲斐のない物思いに耽るよりは、一杯の濁り酒を飲む方がよいらしい。

【補記】十三首の連作。おそらく天平二年730頃の作と思われる。

 

酒の名をひじりと負ほせしいにしへの大き聖のことよろしさ(3-339)

【通釈】酒の名を聖人と名付けた昔の大聖人の言葉のなんと結構なことよ。

【補記】『魏史』巻二十七、清酒を聖人、濁酒を賢人に譬えた故事に由る。

 

いにしへななさかしき人たちもりせし物は酒にしあるらし(3-340)

【通釈】昔の竹林の七賢も、欲しがったものは酒であったそうな。

【補記】『世説新語』任誕篇の竹林の七賢が酒を飲み清談に耽ったとの故事に由る。

 

さかしみと物言ふよりは酒飲みてひ泣きするしまさりたるらし(3-341)

【通釈】かしこぶって物を言うよりは、酒を飲んで酔い泣きするようがましのようであるよ。

 

言はむすべ為むすべ知らず極りてたふとき物は酒にしあるらし(3-342)

【通釈】言いようもなく、どうしようもない程に、この上もなく貴い物は酒であるらしい。

 

中々に人とあらずは酒壺さかつほになりてしかも酒にみなむ(3-343)

【通釈】なまじ人であるよりは、いっそ酒壺になってしまいたい。いつも酒浸りでいられようから。

 

あなみにくさかしらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む(3-344)

【通釈】ああみっともない。かしこぶって、酒を飲まない人をよく見れば、猿にそっくりではないか。

【主な派生歌】
世の人はさかしらをすと酒飲みぬあれは柿くひて猿にかも似る(正岡子規)

 

あたひなき宝といふとも一坏ひとつきの濁れる酒にあにまさめやも(3-345)

【通釈】値のつけようもない宝であっても、一杯の濁酒にどうしてまさろうか。

 

夜光る玉といふとも酒飲みて心をるにあにしかめやも(3-346)

【通釈】暗い夜にも輝く宝玉であっても、酒を飲んで憂さ晴らしするのにどうして及ぼうか。

 

世間よのなかの遊びの道に楽しきは酔ひ泣きするにあるべかるらし(3-347)

【通釈】世の中の遊びで一番楽しいことと言ったら、酒に酔って泣くことに決まっているようだ。

 

この世にし楽しくあらばむ世には虫に鳥にも我はなりなむ(3-348)

【通釈】現世が楽しければ、来世には虫だろうと鳥だろうと、俺はなってしまおうよ。

 

生まるれば遂にも死ぬるものにあればこの世なるは楽しくをあらな(3-349)

【通釈】この世に生れれば、結局は死んでしまうのだから、この世に生きている間は楽しくこそ過ごしたいものよ。

 

黙然もだ居りてさかしらするは酒飲みて酔ひ泣きするになほかずけり(3-350)

【通釈】黙りこくってかしこぶっているなんてのは、酒を飲んで酔い泣きするのに、何といっても及ばないなあ。

京へ向かう―天平二年冬―

冬十二月、大宰帥大伴卿、京に上る時に、娘子をとめの作る歌二首

おほならばかもかもせむをかしこみと振りたき袖を忍びてあるかも

大和道は雲隠りたりしかれども我が振る袖を無礼なめしと思ふな

右、大宰帥大伴卿、大納言を兼任し、京に向ひて道に上のぼる。この日、馬を水城に駐めて、府家を顧み望む。時に、卿を送る府吏の中に、遊行女婦うかれめあり。其の字あざなを児島こしまと曰ふ。是に娘子、この別れ易きことを傷み、その会ひの難きことを嘆き、涕なみたを拭のごひて自ら袖を振る歌を吟うたふ。

大納言大伴卿の和こたふる歌二首

大和道やまとぢ吉備きびの児島を過ぎて行かば筑紫の児島思ほえむかも(6-967)

【通釈】大和へ行く道筋にある吉備の児島を過ぎて行く時には、筑紫の児島を懐かしく思い出すだろうよ。

【語釈】◇吉備の児島 岡山県の児島半島。もとは島だったという。◇筑紫の児島 筑紫の遊行女婦、児島。

 

大夫ますらをと思へる我や水茎みづぐき水城みづきの上に涙のごはむ(6-968)

【通釈】立派な男子と思っている私が、水城の上で涙をぬぐうものだろうか。

水城
水城 福岡県太宰府市水城

【語釈】◇大夫 一人前の男子。◇我や この「や」は疑問の助詞。◇水茎の 「水城」の枕詞◇水城 天智三年(664)、大宰府防備のために築かれた土塁。高さ約十四メートルの長堤。

【主な派生歌】
大井川朝風寒み大丈夫ますらをと念ひてありし吾ぞ鼻ひる(平賀元義)

天平二年庚午かのえうま冬十二月、大宰帥大伴卿、京に向ひて道に上る時に作る歌五首

我妹子わぎもこが見しともの浦の天木香樹むろのき常世とこよにあれど見し人ぞなき(3-446)

【通釈】いとしい妻が往きに見た鞆の浦のむろの木は、ずっと変わらずにあるが、これを見た人はもうこの世にいないのだ。

【補記】筑紫から京へ向かう道中の詠。「鞆の浦」は広島県福山市鞆町の海岸。「天木香樹むろのき」(用字は万葉集原文のまま)はヒノキ科の常緑高木ビャクシン(イブキ)か[参考ページ]。但しヒノキ科の常緑低木杜松ねずとする説もある。

 

鞆の浦の磯の杜松むろのき見むごとに相見し妹は忘らえめやも(3-447)

【通釈】鞆の浦の磯に生えているむろの木を見るたびに、一緒に見た妻のことが思い出されることだろう、どうして忘れることなどできようか。

 

磯のに根はふむろの木見し人をいづらと問はば語り告げむか(3-448)

右の三首は、鞆の浦を過ぐる日に作る歌。

【通釈】磯の上に根を張っている室の木よ、往路にお前を見た人は今どこかと問えば、語り告げてくれるだろうか。

 

妹と敏馬みぬめの崎を帰るさに独りし見れば涙ぐましも(3-449)

【通釈】妻と二人で見ながら通った敏馬の崎を、帰り道に独りで見ると、思わず涙が出てきそうになるよ。

【補記】「敏馬」は神戸市灘区岩屋付近。畿内の入口にあたる。「見ぬ妻」を掛けるか。

 

行くさには二人我が見しこの崎を独り過ぐれば心悲しも(3-450)

右の二首は、敏馬の崎を過ぐる日に作る歌。

【通釈】往路には我ら二人で見たこの崎であるのに、今は独り通り過ぎて行くと、心が悲しくてならない。

故郷の家に還り入りて、即ち作る歌三首

人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり(3-451)

【通釈】誰一人いないからっぽの家は、旅の道中にもまして耐え難くつらいことだ。

【補記】「故郷の家」は平城京の佐保の大伴邸。

 

妹として二人作りし我が山斎しま木高こだかく繁くなりにけるかも(3-452)

【通釈】妻と一緒に二人で造った我が家の庭は、すっかり木が高く生い茂るようになったことであるよ。

 

我妹子が植ゑし梅の木見るごとに心咽せつつ涙し流る(3-453)

【通釈】いとしい妻が植えた梅の木を見るごとに、胸が詰まり、涙が流れてやまない。

【補記】天平二年冬、大宰府より佐保宅に帰り着いての作。

帰京以後

大宰帥大伴卿の京に上りし後、沙弥満誓、卿に贈る歌二首

真澄鏡まそかがみ見飽かぬ君に後れてやあした夕べにびつつ居らむ

ぬば玉の黒髪変り白けても痛き恋には逢ふ時ありけり

大納言大伴卿の和こたふる歌二首

ここに在りて筑紫やいづく白雲のたなびく山の方にしあるらし(4-574)

【通釈】ここ奈良から見て筑紫はどっちの方だろうか。白雲がたなびく山の遥か彼方であるらしい。

【主な派生歌】
ここにありて春日やいづち雨つつみ出でてゆかねば恋ひつつぞをる(藤原八束)

 

草香江の入江にあさる葦鶴あしたづのあなたづたづし友無しにして(4-575)

【語釈】◇草香江 生駒山西麓、東大阪市日下町のあたりに広がっていた入江。◇葦鶴 葦原の鶴。「葦鶴の」までが同音で「たづたづし」を起こす序。◇たづたづし 「たどたどし」の古形。不確かで頼りない、心もとない。

大納言大伴卿、新しきはう摂津大夫せつつのかみ高安王に贈る歌一首

我が衣人にな着せそ網引あびきする難波壮士なにはをとこの手には触るとも(4-577)

【通釈】私の贈るこの衣は他人に着せたりしないでくれ。地引網を引く難波男の手には触れたとしても。

【補記】「袍」は男子の朝服の上に着る衣。「難波壮士」は、摂津大夫の高安王を戯れてこう呼んだもの。「旅人は大宰府からの帰途、難波で摂津職高安王の世話になった礼に、高安王に必要な真新しい袍を贈ったのであろう」(萬葉集釋注)。

三年辛未かのとひつじ、大納言大伴卿、寧楽の家に在りて、故郷を思ふ歌二首

しましくも行きて見てしかかむなびの淵はあせにて瀬にかなるらむ(6-969)

【通釈】ほんのしばらくだけでも行って見てみたい。神奈備山の麓を流れる飛鳥川の淵は浅くなって、瀬になっているのではないか。

【補記】この「故郷」は旅人が生まれ育った飛鳥の地。「神なび」は橘寺南東のミハ山かという。

【主な派生歌】
世の中はなにかつねなるあすか川きのふの淵ぞけふは瀬になる(読人不知[古今])

 

指進の栗栖くるすの小野の萩が花散らむ時にし行きて手向けむ(6-970)

【通釈】栗栖の小野の萩の花――散る頃に出掛けて行って、神祭りをしよう。

【語釈】◇指進の 栗栖の枕詞か。意義未詳。「さしずみ」または「さすすみ」など、訓み方も諸説ある。◇栗栖 不詳。飛鳥のどこか。

【補記】天平三年の作。旅人は同年七月二十五日、奈良で薨去。この二首は、おそらく病床で詠んだ作。


最終更新日:平成15年10月07日