鶴見俊輔 つるみ・しゅんすけ(1922—2015)


 

本名=鶴見俊輔(つるみ・しゅんすけ) 
大正11年6月25日—平成27年7月20日 
享年93歳 
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園5区1種12側



哲学者・評論家。東京都生。ハーバード大学卒。昭和21年に都留重人、丸山真男、姉の鶴見和子らと『思想の科学』を創刊。プラグマティズムの紹介や大衆文化など日常性に注視した哲学を実践。開高健らとベ平連の中心メンバーとして活躍した。著書に『限界芸術論』『日常的思想の可能性』『戦時期日本の精神史』などがある。




 



 自分一人が生きていて、あとの人々は全部、舞台の袖のところで消える、という図柄は、いくら押しだしても、くりかえし、いつかはわたしの頭のうしろに入りこんで住みつづける、押しだすことのむずかしい思いちがいだ。この思いちがいとともに生きる他はあるまい。
 思いちがいを恐れずに、毎日新しく思いちがいを世界にこじいれてゆく他ない。ひどい思いちがいは、わたしをいたい目にあわせる。そのいたさにたえて、自分の思いちがいにしがみつくか、すてるかは、わたしの自由な選択だ。
 いたい目にあうごとに、わたしは、自分のえりくびをつかまれて、真理のほうに向けられる。真理は、痛い方角にある。しかし、真理は、方角としてしか、わたしにはあたえられない。思いちがいに思いちがいをついで、その方角に向うのだ。思いちがいのなかで、思いちがいをすてることでその方角を向いて死ぬ以外に、何ができよう。

(退行計画)



 祖父・後藤新平、父・鶴見祐輔と政治家の家に生まれた鶴見俊輔はその「貴種」がゆえの出自との葛藤、自己嫌悪、三度にも及ぶ重い鬱病を経験するなど、幼い頃から「貴種」と戦う日々であった。自身が「不良少年」であったと繰り返し述べているように、倫理観の正義によって責め立てる母に反発し、放蕩を続けて自殺未遂や退学を重ねていた俊輔少年15歳、父の意向でアメリカへ渡ることになったが、留学先で出会った哲学思想〈思考の意味や真偽を行動や生起した事象の成果により決定する〉という〈実用主義〉の考え方「プラグマティズム」によって定まった鶴見俊輔生涯の道程。考え、書き、行動する意欲は平成27年7月20日、肺炎のため93歳で死去するまで衰えることはなかった。


 

 広々とした空、ヨーロッパの上空から眺めた都市の模型のように、放射状と碁盤目の入り組んだ参道、辻角に植わっている赤松や紅葉の木々、久しぶりの多磨霊園だったが、夏の日盛りの刻限ゆえか、人影は殆ど見当たらないのに相変わらずカラスの鳴き声だけは騒がしいばかりだ。敗戦の責任をもって選んだ「百敗院泡沫頑蘇居士」の戒名と「侍五百年之後」を大書した徳富蘇峰の墓標がある通りの向かい側手前に三、四坪ほどの鶴見家の墓所があった。参道敷石の正面に父鶴見祐輔、母愛子の小振りの墓、その右に昭和31年に父が建てた「鶴見家之墓」、墓誌に父祐輔、母愛子、弟直輔に並んで鶴見俊輔の生年月日が刻まれ、墓前には涼しげに咲いた紫色の擬宝珠が小さな花姿を揺らしている。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


墓所一覧表


文学散歩 :住まいの軌跡


記載事項の訂正・追加


 

 

 

 

 

ご感想をお聞かせ下さい


作家INDEX

   
 
 
   
 
   
       
   
           

 

   


   塚本邦雄

   辻井 喬

   辻 邦生

   辻 潤

   辻 まこと

   辻 征夫

   土屋文明

  壺井 栄 ・ 繁治

   坪内逍遥

   坪田譲治

   津村信夫

   鶴見俊輔