本名=津村信夫(つむら・のぶお)
明治42年1月5日—昭和19年6月27日
享年35歳(浩然院湘山清竹居士)❖紫陽花忌
東京都府中市多磨町4–628 多磨霊園8区1種2側
詩人。兵庫県生。慶応義塾大学卒。室生犀星・萩原朔太郎・三好達治等の詩に傾倒、詩人の道を歩んだ。『地上楽園』『四人』の同人を経て、昭和9年第二次『四季』に立原道造らと参加した。『愛する神の歌』『戸隠の絵本』『父のゐる庭』『或る遍歴から』などがある。
私は憶えてゐる。
尾花を手にさげた婦人が、まるで肖像のやうに立つてゐた家の入ロを、あるひは、午後を。
(病身で、いくたりかの子供もあつて、眸には何も映つてゐない)
私は憶えてゐる。
釘づけにされた、あの家の窓や扉、
心もち、明るいと思つた一つの窓は、もうすつかり月光に透かされてゐた。
(秋の歌)
津村信夫は神戸の「薔薇屋敷」と呼ばれた大邸宅に生まれた。兄は映画評論家の津村秀夫。
慶応義塾大学在学中から肋膜炎などを患い病弱であったが、昭和19年6月27日午前2時5分、アディスン氏病(慢性原発性副腎皮質機能低下症)という不治の病に取り憑かれ、東京築地の大東亜病院(現・聖路加国際病院)に入院。その後の自宅療養中に病状が悪化し、鎌倉市山之内の自宅で妻昌子に抱かれて「四季派」の詩人津村信夫は逝った。
室生犀星に師事して終生変わらぬ教示を受け、丸山薫に兄事した。『四季』同人にしてはめずらしく軽井沢を離れ信州戸隠の風土、自然を愛し、戸隠の抒情を歌った哀しい詩人に輝かしい朝は訪れてこなかった。
津村家の塋域、正面に二基、左に昭和八年に若くして逝った姉津村道子の墓「浄華院釋彌智尼之墓」、右が津村信夫の墓「浩然院湘山清竹居士」、左に折れて『津村家先祖代々墓』が建っている。
信夫が姉道子を哀惜して処女詩集『愛する神の歌』に詠った詩、〈父が洋杖をついて、私はその側に立ち、新しく出来上った姉の墓を眺めてゐた。(中略)春から秋へ 墓石は、おのずからなる歴史を持つだらう。 風が吹くたびに、遠くの松脂の匂ひもする。 やがて、 私達も此処を立ち去るだらう。かりそめの散歩者をよそほって〉——。
刻まれた戒名に微かに映った訪問者の影をふりはらうように、昼下がりの風光は、並んだ姉弟の墓石を静かなあたたか味をもって見守っていた。
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