坪田譲治 つぼた・じょうじ(1890—1982)


 

本名=坪田譲治(つぼた・じょうじ)
明治23年3月3日—昭和57年7月7日 
享年92歳 
神奈川県川崎市多摩区南生田8丁目1–1 春秋苑墓地中6区1–6
 



小説家・児童文学者。岡山県生。早稲田大学卒。昭和2年処女短篇集『正太の馬』を刊行。同年童話『河童の話』が鈴木三重吉に認められ、以後『赤い鳥』に多くの童話を発表。のち童話雑誌『びわの実学校』を主宰、後進を育てた。『善太と汽車』『お化けの世界』『魔法』『狐狩り』『風の中の子供』『子供の四季』などがある。



 



 「ナマヅさん、聞いて下さい。」
 小鮒が言つてゐるのかも知れない。
 「蟹がいけないんです。だつて、ポクをいぢめるんです。ボクはなにもしないんです。たゞその邊を泳いでゐたら、この人が爪を拡げて追っ駈けて来たんです。」
 そこで蟹は言ふのである。
 「それは違ひます。鯰さん。ボクはこの鮒を見かけると、爪を上げて挨拶したのです。爪を上げて挨拶するといふことは、御寺存知の通り、勝負々々といふことなんです。先方を一かどの武士と見立てて一勝負申込んだのです。それを逃げるといふ法がありますか。逃げるばかりか、あなたの處へ、訴へて出るといふのは何事です。もう承知なりません。御面前で失禮ですが、爪の手並を御覧に入れます。」
 「バカヤロウツ。」
 こゝ迄空想して来て、善太は憤慨したのである。蟹が承知ならないどころか、この善太こそ承知ならない。口の内で蟹を罵った後、そつと後に身を引いて、河原から手頃の石を抱へて来た。両手で、頭の上高くさし上げて、蟹の甲羅の上をめがけて、
 「ソーラ、ドブンッ。」
 波がをさまり、水の濁りが澄むのを待つて、善太は底を覗いて見る。何もゐない。投げ込んだ石の上に、やなぎの葉をもれた日光がさしてゐるばかりである。然し、その日のさした石を見てゐると、蔭になつた半面が如何にも涼しさうに思はれた。その半面ばかりか、直ぐ側の藻の蔭など、どんなに涼しく、且つ安楽だらうかと思はれたのである。そこで善太に解つたことは「水の中にも世界あり」といふことであつた。善太はやなぎの下、眞菰の中に一人腰を下ろし水を見つめながら久しくその水中の世界、この人間の世界でない世界を想像しながら時間を經てた。
                               
(子供の四季)



 

 明治41年、早稲田大学文科予科に入学して児童文学者の小川未明に出会ったことが坪田譲治の行く末を決めたのだった。雑誌『赤い鳥』に発表した『善太と汽車』が鈴木三重吉の激賞をうけ、昭和10年、山本有三の紹介で『改造』に発表した『お化けの世界』が出世作となった。
 ——〈私は神の存在を信じない。然し私は祈りをするのである。〉。
 22歳の時にクリスチャンの洗礼を受けた坪田譲治にとってのキリストは「神」ではなく「愛」の象徴であったのだろう。その精神から生まれ、歩んできた少年、善太・三平の理想の祈りは通じたであろうか。東京東久留米の自宅で老衰のため死去したのは、昭和57年7月7日92歳、夏の午後のことであった。



 

 友人尾崎士郎の墓もある生田丘陵のこの春秋苑墓地が気に入り、ここに自分の墓を定めた。
 枯れた芝生に数株の葉牡丹が植えられている。手前に一群のパンジーが鮮やかな色を咲かせて、右手には7歳で亡くなった孫、望の絵日記風「かるいざわ」の文章が石板に刻まれている。
 「坪田家」の墓碑は、どこかしら郊外の野原の一隅に設えたように、遠慮がちの黒い石面を陰らせていた。谷越しの丘に見える小学校の校庭で遊び興じる学童のざわめきが、冬空に拡がってはシャボン玉のように消えていった。
 ——昭和59年、坪田譲治の三回忌の年に大人も子どもも共有できる優れた作品を対象にした『坪田譲治文学賞』が郷里岡山市によって創設された。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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