真山青果 まやま・せいか(1878—1948)


 

本名=真山 彬(まやま・あきら)
明治11年9月1日—昭和23年3月25日 
享年69歳(青果院殿機外文棟大居士)
東京都文京区小日向1丁目4–18 日輪禅寺(曹洞宗)



劇作家・小説家。宮城県生。旧制第二高等学校(現・東北大学)中退。明治36年上京。38年小説『零落』を発表、小栗風葉の門に入る。『南小泉村』で認められる。またイプセンの影響で、戯曲『第一人者』を発表。44年の原稿二重売り事件で隠棲。大正13年『玄朴と長英』で再起。『平将門』『大塩平八郎』などがある。






  

 百姓ほどみぢめなものは無い、取分け奥州の小百姓はそれが酷い、襤褸を着て糅飯を食つて、子供ばかり産んで居る。丁度、その壁土のやうに泥黒い、汚い、光ない生涯を送って居る。地を這ふ爬蟲の一生、塵挨を嘗めて生きて居るのにも警ふれば譬へられる。からだは立つて歩いても、心は多く地を這つて居る。親切に思遣ると、氣の毒にもなるが、趣味に同情は無い。僕はその濕氣臭い、鈍い、そしてみじめな生活を見るたびに、毎も、醜いものを憎むと云ふ、ある不快と嫌悪とを心に覺える。實際、かれらの中には「生れざりしならば」却つて幸福であつたらうと思はれるのがある。いや、僕の目だけには、その方が多いやうに見た。
 然し斯う考へるのは、強ちに僕の僻見ばかりではあるまいと思ふ。親しくかれらの中に立雑つて、深くその生活になじんだら、誰しも然う取るに相違ないと思ふ。僕は誤つて餘り近寄り過ぎた。眞實、心からかれらの親友にならうと思はゞ、少くとも自分を五歩、六歩距てゝ置いて、そこから遠退いてかれらを見るに限る。---これは僕の正直を云ふのだ。僕は一年以上も、かれらと一緒に住んで居た者である。
                                
(南小泉村)

     


 

 同じ時期に文壇に登場した正宗白鳥とともに「白い鳥と青い果」といいはやされ、華々しい注目を浴びた時期もあったが、自らが招いた二度にわたる原稿二重売り事件という禍根によって文壇を去り、新派劇の座付作者となった。
 大正13年、『玄朴と長英』の好評で文壇に復帰後は『元禄忠臣蔵』など歴史劇の大作を次々と発表し、商業劇壇の第一人者となった。浮沈の激しい作家人生を送ることとなった真山青果は、終戦の昭和20年8月より移った静岡県沼津市静浦海岸の寓居にて、23年3月25日午後3時30分頃、脳溢血により死去する。4月8日、築地本願寺で葬儀。24日から早稲田大学演劇博物館で「真山青果追悼展」が開かれた。



 

 国木田独歩の死の周辺をめぐって自然主義文学直系の田山花袋らとの対立も、中村武羅夫の言うように〈嵐の如く感情が狂奔すると、理性も、利害も、分別も、何もかもその力を失ってしまって、自分で自分の感情を制御できない〉直情径行型の作家であった真山青果のなせる業であった。それゆえの放縦生活が原稿二重売り事件として自らを文壇から去らしめることともなった。
 ——文学上の苦闘を乗り越え、確固たる気概を持った戯曲家として蘇り、東京・小日向の日輪禅寺、高台にある塋域の「真山家之墓」の主となっても、台風の前触れらしき突風をも何処吹く風、何事のことがあろうかと嘯いて飄々と図太く建っている。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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