真杉静枝 ますぎ・しずえ(1905—1955)※生年は1901年説もある。


 

本名=真杉静枝(ますぎ・しずえ)
明治38年10月3日—昭和30年6月29日 
没年49歳 
神奈川県鎌倉市山ノ内1367 東慶寺(臨済宗)



小説家。福井県生。台中高等女学校中退。神官の娘として少女時代を台湾で過ごす。新聞記者として武者小路実篤を知り、庇護を受ける。昭和2年上京、処女作『小魚の心』を発表。17年中山義秀と結婚したが敗戦の翌年離婚。戦後は被爆少女のために尽くした。『草履を抱く女』『鹿鳴館以後』『美しい人』『花怨』などがある。






  

 静かに墨をすり終ると、その八大山人の画集の、ある一頁をあけて、小さな一ぴきの小魚を模写した。魚は、大きな画面の真中に、ただ一ぴき小さく、しかも恐しいまでの鋭さで描かれてある。
 それを色紙に模し終ると、素一氏は、それに讃をかき加えた。
 「八大山人よ。明の石城府の王孫たりし君が、明亡びてのち、僧になり石窟の中にかくれて、かかる絵を描いた。
 君は、その悲惨な戦乱の町を、狂人の真似してわめき走り、命をつないでいたのだ。
 その運命にほとんど倒されかけたが、しかし、ますます自分の真価を発揮し、内なる悲憤慷慨を君らしき形によって絵面に描きあらわした。
 君の絵にみゆる、追い詰められたる高貴な孤独の魂。氷下に、眼を輝かして生きる、小魚の心。─」
                                                               
(小魚の心)



 

 真杉静枝の生涯は振幅の激しい愛の遍歴に埋め尽くされていた。愛に繋がった男たちは皆、それぞれの道で大成していったが、彼女自身の作品に見るべきものは少なかった。華やかな遍歴の裏には、それだけ孤独な思いも深かったに相違ない。高見順はそれを〈たしかに、いやな女に違いなかったが、私たちはそこに、女の……人間の哀しさを感じないではいられない。私たち誰もが持っている人間の哀しさ……〉といった。
 哀しさを人一倍持って、そして、死にたくない死にたくないと未練を残しながら、昭和30年6月29日、東大病院小石川分院で、肺ガンのため死んでいった。病に苦しみ、また愛欲に溺れた自らの生き様を顧みての贖罪からか、死の直前にキリスト教の洗礼を受けていた。



 

 17歳で結婚も、間もなく離婚。正岡容、武者小路実篤、中村地平、中山義秀などを含め幾多の愛憎を繰り返し、悪評の高い女性だったが、宇野千代、平林たい子らの肝いりで「女流文学者会」建立の墓は、東慶寺奥域にある田村俊子の墓の前にあった。
 墓石、台石、白菊が一輪づつ供えられた花生台など、全て自然石で組み合わされていた。碑裏に遺書が刻まれている。 ——〈みんな、いろいろないみで、私の大小の御縁のあった人々に、お願いします。何卒私を浄めて、許して、見送って下さい。現世においての、多少の私との、つながりを、何卒御心から洗い捨てて下さい。だれのためにも、祝福をのこさない私の苦しみを、何卒たすけて下さい。許して下さい。どなたも——記 一九五四、七、一五 真杉静枝〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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