丸谷才一 まるや・さいいち(1925—2012


 

本名=根村才一(ねむら・さいいち)
大正14年8月27日—平成24年10月13日 
享年87歳 
神奈川県鎌倉市十二所512 鎌倉霊園と地区3側146号
 



小説家・英文学者。山形県生。東京大学大学院卒。翻訳などを手掛けた後に作家として出発。昭和35年処女長編小説『エホバの顔を避けて』、41年『笹まくら』を刊行。『年の残り』で43年度芥川賞受賞。『たった一人の反乱』で谷崎潤一郎賞を受賞。ほかに『裏声で歌へ君が代』『輝く日の宮』『女ざかり』などがある。






  

 もともと、どういふわけか樹の影を見るのが好きなたちで、それも地面に落ちる影は、嫌ひではないにしても別に心にしみるほどではない。垂直に立つ面に映る樹の影、殊に並木の影がいい。何かなつかしいやうな、やるせないやうな気分にひたることができる。その壁にしても淡い色のまったくの無地、それとも無地に近いのがいいので、模様入りは困る。つまり、建物にたくさん窓があったり、互ひ違ひに並べてある煉瓦の色がうるさかったり、修理の跡の白い筋が目障りだったりすると、どうも興がそがれるやうだ。素気ない平面がいい。さういふ広い面積の前に立木があって、そこに影を投じてゐると、その形影相伴ふ趣が心をゆすぶるらしい。
 そのくせ、鏡や水かがみに樹が映ってゐるのは、別に厭ではないにしても、さほどの感銘を受けない。水かがみはともかく鏡のなかの樹の映像といふのはをかしいと思ふ人もゐるかもしれないが、たとへば赤坂の某会館はガラス張りの壁に鬱蒼と木立を映し、さながら建物のなかに林を収める趣だけれど、わたしはこのイメージにはわりあひ冷淡なのだ。
 やはり、光が樹木にさへぎられて壁に作る黒ずんだ意匠がいい。日光でも、月光でも、電燈の明りでも。そしてさういふ図柄を広い無地の空間に見出だすことは滅多にないから、狭い面積、あるいはさまざまの色が邪魔してゐる面積のなかのわづかの影でも、楽しむことになる。

(樹影譚)

     


 

 丸谷才一は藤沢周平と同じく出羽鶴岡の人である。
 英文学者として翻訳も多く、評論、小説にも力を注いだ。座談も得意で声も大きく、開高健や井上光晴とともに「文壇三大音声」の一人に上げられてもいた。
 俳諧をよくし、安東次男や大岡信と始めた「歌仙の会」を40年以上も続けていたのだが、亡くなる1か月ほど前に巻いた〈対岸の人なつかしき花の河〉が最後の一句となった。
 先に腎盂がんが見つかり、心臓手術などもあって、すでに死を覚悟、自ら礼状とともに形見分けを行い、後事の段取りまで整えていた。近代国家たる日本のありよう、来し方と向かうべき先を常に問い質してきた丸谷才一は、平成24年10月13日午前7時25分、東京都内の病院で心不全のため死去した。



 

 鎌倉七口のひとつ、朝比奈切通しに通ずる峠の手前に、大手資本が山々を切り崩して造った大霊園がある。川端康成や堀口大學、山本周五郎、里見弴などが眠るこの霊園に早くも訪れた晩秋の風はやるせなく吹き合い、明暗を描いた空に鳶が悠々と舞う。片方の削られたひな壇状の山肌に向かう坂道にすすきの穂が揺れている。
 黒い玉砂利に磨き出された方形の歩み石が三枚、その先に超然とした「玩亭墓」。かつて丸谷才一が〈清冽、泉のごとき美酒〉と評した石川県白山市の酒「萬歳楽」が一本影を置く。裏面墓誌に大岡信撰『折々のうた』に選ばれた一句〈ばさばさと股間につかう扇かな〉が彫られ、「丸谷才一 鶴岡の人 小説家 批評家 俳号は玩亭」、岡野弘彦の書とある。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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