本名=畔柳二美(くろやなぎ・ふみ)
明治45年1月14日—昭和40年1月13日
享年52歳(清節院文室妙華大姉)
東京都中野区上高田1丁目31―4 天徳院(曹洞宗)
小説家。北海道生。北海高等女学校(現・札幌大谷中学校・高等学校)卒。高女時代から文学に親しみ、昭和7年佐多稲子と文通を始めた。8年に上京し、12年に結婚。夫の戦死を23年知り、その悲しみから立ち直るため文学の世界に入る。24年佐多稲子の紹介で「女人文学」に『夫婦とは』を発表。29年『姉妹』で毎日出版文化賞受賞。ほかに『こぶし花の咲くころ』『風と雲と』などがある。

それから四カ月過ぎた或る日、れい子は市役所から、貞夫の遺骨を受けとって帰宅した。身を焼かれるような七年の歳月ではあったが、ついに到達した現実を、彼女は真摯な気持で直視しようと思った。彼女の如何なる愛情をもっても、ついに帰らなかった貞夫。 多くの人々と共に戦場に果てた貞夫。白布に覆われた五寸ほどの四角い箱は、まるで手応えのないほど軽いものだったが、彼女はその箱を前に端然と坐りなおした。今は亡き貞夫との悲しき再会なのである。
開けてみると、 底の方に二寸ほどの小さい位牌があって 楞田貞夫の靈』と毛筆で書いてあった。
「これが貴方」
れい子は、じっとその位牌をみつめた。すると、どうにも字づらが少々変なのだ。我を忘れた彼女は、とうとうそれを取り出して見なおすと、 靈という字が間違いなのだ。口が三つ並んでいる下に人もやはり三つ附いている。
「こんな所で人を殖やさなくとも…… 」云ってから、彼女は慌ててそれを箱に納めると、音のしな いように静かに蓋をした。
(限りなき困惑)
結婚生活数年で夫が出征、戦後3年目に一通の戦死通知書、さらに四か月を過ぎたころに遺骨が届いた。この頃から小説の習作をはじめるようになったが、文通で親しくなった佐多稲子の助言もあって上京。一年一作発表の心細い作家稼業であったが、戦争未亡人の悲哀な生活を描いた『限りなき困惑』などで次第に認められるようになり、昭和29年刊行の『姉妹』が毎日出版文化賞を受賞、さらに映画化もされ、執筆活動も繁忙を極めるようになったのだが、無理が無理を生んでやがて体を蝕んでいった。晩年は体調不良の日が続き、昭和39年9月に東京大学付属病院に入院手術を受けたもののすでに手遅れの状態で、53歳の誕生日前日、昭和40年1月13日午後4時28分、東京・野方の自宅でがん性腹膜炎のため死去。
もう14年前ほどにもなるだろうか一通のメールをいただいた。〈畔柳二美という作家をご存じでしょうか。東中野の天徳院という寺にお墓があります。もしお時間あるようでしたらご連絡いただければご案内いたします。〉差出人は新日本文学会中野武彦とありました。ちょうどその頃は『文学者掃苔録図書館』出版のお話があって校正作業に忙しく、刊行された後も2年弱の京都生活などでご連絡できないままうやむやになっていたのだが、中野氏が平成16年に77歳で原発性肝臓がんのため亡くなられていたのを後年になって知ることになった。今になってようやく訪ねることになった「畔柳二美」墓は本堂裏の隅っこにひっそりとあった。戦後20年間を通して15歳以上年上の女性畔柳二美の誠実な同伴者だった中野氏の建てた墓だ。
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